ネコ耳マヤさん



 その日、シンジが起きたのは9時を少し回ったところだった。
 いつもなら7時頃には起きて、朝食や弁当の用意などするのだが、週末だけは免除してもらっている。
 まあ、そのために前日にちゃんと食パンや菓子パンを買ってきてあるのだけれども。
 しかし、こんなに遅かったのは珍しいことだ。いつもは8時くらい。遅くでも8時半までには起きている。
 もしかしたら、今日に備えて昨夜遅くまで秘密の作業でもしていたのかもしれない(笑)

 ダイニングに行ってみると、当然のことながら起きたのはシンジが一番最後であった。
 と言っても、どうやらわずかな差だったようだ。
 ミサトはシャワーから出たばかりの濡れ髪のまま、アスカはパジャマ代わりのTシャツとジョギパンのまま朝食を摂っていた。
 コーヒーはインスタント。シンジが起きていればコーヒーメーカーで淹れるのだが……この2人はそれすらしないのだ。

「おはようございます……」
「あら、シンちゃん、おはよ〜ん」

 シンジが挨拶すると、ミサトは自分で作った朝食をパクつきながら挨拶を返した。
 ちなみに、ミサトが食べているのは……焼いた食パンの上にバター、ジャム、マーマレード、蜂蜜、マヨネーズ、マスタード、トンカツソース、醤油、タバスコ、ラー油、わさび、山椒、塩、胡椒、七味唐辛子などをどっぶゎあーっとかけ、その上からスライスチーズをかぶせてレンジでチンした、通称『ミサトスペシャルピザ』なる物だった。
 そう、ここまで来ると料理ではなく『物』としか言いようがない。
 匂いを嗅いだだけで、寝惚けた頭もすっきりするくらいだった。
 しかも、傍らには当然のようにビールが。
 350mlの缶が既に2本も空いている。これから車で出勤するはずだが……まあ、いつものことだから驚くには当たらないのかもしれない。

「アスカ、おはよう」
「おはよ」

 シンジはテーブルに着き、トースターを手元に引き寄せながらアスカにも挨拶した。
 昨日の晩は不機嫌そうだったから、一応ご機嫌を取っておかないとまずい。
 そう思ってシンジは声をかけたのだが……
 返ってきた返事は短かったが、アスカはそれほど機嫌が悪そうには見えなかった。
 何かあったんだろうか?
 そう言えば、朝電話が鳴ったような気がするけど、もしかしたら委員長か誰かと遊びに行くのかも。
 直接訊いてみればいいようなものを、シンジは頭の中で悶々と考えているだけだった。小心者である。

「ミサトさん、今日は遅出の日なんですか?」
「んー? ああ、ちょっちね。そうそう、アスカ、今日は遅くなるから、夜は何か適当に出張っといてね」
「まったぁー? まさか、加持さんとデートなんじゃないでしょうね?」
「な、何であんな奴と! それにあいつ、今日は出張よ!」
「ふーんだ、それにしては朝から電話で何か喋ってたじゃない」
「あ、あれは……ちゃ、ちゃんとすぐにアスカに代わったでしょっ」
「ほんとに何も言ってない?」
「言ってないったら! 聞きたくもないわよ」
「怪しいわね。今日も仕事だなんて言ってるけど、ほんとは違うんじゃないの?」
「しつっこいわねー、違うって言ってるでしょ!」

 やれやれ、いつもながらシンジは会話の輪にうまく加わることができないようだ。話したのは最初の一言だけじゃないか。
 まあ、口の立つこの二人の会話に入っていくのは並の人間でも難しいのだが。
 シンジがハアッとため息をついていると、カシャッと音がして焼き上がったパンが跳ね上がってきた。
 と同時に、玄関のチャイムが鳴った。

「あらー、誰かしら、こんな朝っぱらから」

 少々立場の悪くなっていたミサトが、これ幸いとばかりに席を立った。
 しかし、朝っぱらはないだろう。もう9時15分だ。
 ちなみに作者が小学生の時なんかは、夏休みに友だちの家に遊びに行くときは朝は9時以降にしましょうという余計なお節介をされたが……あれは一体何だったんだろう。
 それはさておき、玄関に行ったミサトが、開いたドアの向こうに見たのは……

「あら、レイじゃない。どうしたの?」

 ミサトは少々驚いたようだ。
 何しろ、レイが理由もなしに他人の家に来るわけがないのだから。
 ……あたし、ここに来いなんて命令したっけ?
 少々酔いの回った頭でミサトは考えていた。
 するとレイが、呟くような声で言った。

「温泉……」
「は?」
「碇くんと行くから、来ました……」
「???」

 ミサトの頭の中はみるみるうちにクエスチョンマークで埋め尽くされていった。
 まるで、そう、第弐話でシンジが窮地に陥ったときに発令所のモニターを『WARNING』の文字が埋め尽くしたのと似たようなものと考えればいいだろう。
 『どういうこと!?』『状況は!?』などの、ミサトお得意のセリフも頭に渦巻いている。
 酔いのせいもあるが、ミサトは現状に対する判断力を全く失っていた。

 まあ、ミサトがパニックに陥るのもわからないではない。
 レイの発言とその風体があまりにもかけ離れていたからだ。
 何と、いつも学校に行くときに着ている制服姿である。
 加えて、学生鞄を手に持っている。まさか、荷物はここに全部入ってるのだろうか。
 ともかく、およそこれから温泉に行くという雰囲気ではない。

「シンちゃん?」
「……あ、はい」

 困ったミサトはダイニングにいるシンジを呼んだ。
 何だ、いつもの戦闘の時と一緒じゃないか。
 結局はシンジに頼るしかないのである。それでもNERVの作戦部長かね。

「どうしたんです、ミサトさ……あれ、綾波……」

 玄関に現れたシンジは、そこにレイの姿を見つけてびっくりした。
 確か、駅で待ち合わせる約束になっていたはずだが……
 レイはシンジを見ると、ほんの僅かに表情を緩ませて、静かに言った。

「……来たから」
「あ、うん……」

 それはわかるけど……どうして今頃?
 シンジがそう思ったのは、何もまだパンを一枚しか食べていないからではない。
 待ち合わせは昼の1時のはずだ。(NERV式に言えば一三〇〇)
 遅いような気がするのは行き先が近場だからなのだが、それはまあいいとして。
 まだ9時半にもなっていない。いくら何でも早すぎる……
 (もしかしたらレイったら待ちきれなくて来ちゃったのかもしれない。乙女心ね(笑))

「シンちゃん、ちょっと……」

 ミサトはそう言いながら、シンジをダイニングに連れ戻した。

「シ〜ンちゃ〜ん……レイも温泉に行くの?」

 そう訊くミサトの目は、いつの間にやら興味津々の光が宿っている。
 きっと酔っぱらっているからだ。
 しかし、これではただのゴシップ好きなおばさんである。(失礼ね!まだ30前よ! by ミサト)

「えっ……それは……」
「ちょっと、バカシンジ!」

 だが、シンジが答える前に、それを耳ざとく聞きつけたアスカがずいっと割り込んできた。

(まずい!)

 ついにアスカにばれた……シンジ、大ピンチ!
 ヤシマ作戦の直前や、レリエルに飲み込まれているときの比ではない。
 このまま温泉行きがご破算になるかもしれないのである。
 読者の大きな期待を背負っているのに……
 主人公として、どうやってこの場を切り抜けるつもりなんだ? 今度は初号機の暴走はきかないんだぞ。

「いったいどういうことよ!? ファーストと温泉?」
「い、いや、その……」
「リツコと行くんじゃなかったの? あたしには行けないなんて言っておいて!」
「そ、それは……」
「ああ、そう、ファーストならよくて、あたしじゃダメなの? ふーん、そういうつもり?」
「だ、だから……」

 一方のアスカの口撃も、バルディエルに優るとも劣らずねちっこい。
 いや、シンジに反撃の暇を与えないのはマトリエルの溶解液並か。
 嫌味で精神防壁をずたずたにするところなど、アラエルの……あ、それはまだ来てないか。
 ともかく、シンジは申し開きさえさせてもらえない。
 これまでか……

「はんっ! もういいわよ! アンタみたいな男と温泉になんて行きたくもないわっ!」

 あれ? それだけ?
 いったいどうしたことか、アスカは言いたいだけ言うと、勝手に土俵を割ってしまった。
 これにはシンジやミサトだけでなく、作者も驚いた。
 そんなに簡単にアスカが諦めるわけがないのだが……

「アンタたちだけ、勝手に行ってなさいよ! アタシは明日加持さんに遊びに連れてってもらうもんっ!」

 アスカはそう言ってプイッと振り向くと、スタスタと自分の部屋に戻っていった。
 ははあ、なるほど、そういうことだったのか。
 先程、加持から電話があったとかいう会話があったが……
 もしかしたら、これも加持の助け船かもしれない。いろいろと先回りするのが得意な男だし。
 しかしこれでまあ、めでたく温泉……と思ったらアスカが戻ってきて一言。

「おみやげ買ってこないとひどいからね!」

 ……ちゃっかりしてるなぁ。
 ミサトは去っていくアスカを見ていたが、頭をポリポリと掻きながら、苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「加持のバカ……子供に手ぇ出すんじゃないって、あれほど言ってあるのに……もっかい釘刺しとかなきゃ」

 そしてミサトも自分の部屋へと戻っていく。
 何だかよくわからないが、どうやらレイと温泉に行くことの追及はうやむやになってしまったらしい。
 まさかこれも加持の仕組んだことなのか……
 ともかく、温泉行きは間違いないので、読者の皆さん安心して下さい。

 つんつん

「わっ!」

 いつの間にかレイがダイニングに入ってきて腕をつついたので、シンジはびっくりしてしまった。
 相変わらず油断しすぎだよ、シンちゃん。

「碇くん……」
「な、何?」
「混浴……」
「そ、それは、向こうに行ってから……」

 まあ、はやる気持ちはわからないでもないが……
 シンジも慌てて手を振りながら答えた。
 しかし、レイの次の一言はシンジの予想の範囲を軽く超えていた。

「先、する?」
「へ?」

 言いながらすっと手を挙げるレイ。
 シンジはレイが指差した先を見た。そこは……
 葛城家のバスルームであった。
 目を点にしているシンジをしり目に、レイはポッと頬を染めながら言った。

「混浴の、練習……」
「…………」

 まさか……そのために早く来たの? レイ(笑)



 マヤさんは先程から戸惑っていた。

 今は昼の12時を30分ほど回り、そろそろ短針と長針が一直線になろうかとしている頃だった。
 マヤさんは駅近くの喫茶店にいた。リツコと一緒に。
 朝、出掛けにリツコとマンションの前で落ち合い(同じマンションに住んでいるのだ)、バスに乗って駅まで来たのだった。
 昼食を摂るために待ち合わせより早めに来て、食べ終わってから時間を潰しているところだった。
 ちなみに昼食はスパゲティとアイスコーヒー。
 窓際の席に二人、向かい合って座っている。目の前のリツコは本に目を落としていた。

 で、マヤさんが何に戸惑っているのかというと、この喫茶店のことだ。
 リツコがよく利用するというこの店の名前は『黒猫』という。
 なぜそういう名前になったかは、一度この店に入ってみればあなたにもすぐにわかるだろう。
 何しろ、4人ばかりいるウェイトレスが、みんな黒いネコ耳を付けているのだから。
 しかも、ご丁寧にみんなお揃いの、黒を基調としたメイドさん風の制服に身を包んでいる。(当然、しっぽ付き)
 どうやらオーナーの趣味なのだが、ウェイトレスのアルバイトの申し込みが殺到しているというのは知る人ぞ知る有名な噂だ。

 駅まで来るときに帽子でネコ耳を隠してきたマヤさんだったが、このような事情のため、店に入ってからリツコに帽子を脱ぐように言われても、異議を申し立てることができなかった。
 そりゃそうだ。ここではネコ耳を付けていても不自然に見えないのだから。
 そういうわけで、またもやマヤさんは、他人の好奇の目にさらされるという悲劇を味わうことができなかった。(味わいたいんかい)

 帽子の話が出たついでに、今日のマヤさんの出で立ちを一応説明しておこう。
 麻の白い半袖ブラウスの下に、黒いタンクトップのニットシャツを着込んでいる。
 ブラウスの袖は普通の半袖ではなく、斜めに切ったようになっていた。
 第弐ボタンまで外しているところが、いつもよりちょっぴりセクシーかも。

 下は少し丈が長めのブルーのキュロット。
 足元はいつもどおり、黒い靴下に白いスニーカー。
 もちろん、ストッキングなど穿いていない。もしかしたら読者サービスかも。
 ネコ手になって手提げ鞄が持てなくなったので、黒いデイパックを背負ってきていた。
 今は椅子の背に掛けてあるのだが。

 しかし、どうもあまりリゾートしていないようだが、これにはやはり訳がある。
 それはリツコの服装を見てみればわかる。
 前回の終わり頃に書いたのだけれども、多分皆さん忘れているでしょうからもう一度説明しよう。
 でも、言葉でいちいち説明するより、テレビの第伍話でミサトの家にお呼ばれされたときの服装と言った方が早いだろう。
 あるいはNEWTYPE100%コレクション『新世紀エヴァンゲリオン』129ページ左上で設定されている私服とでも言おうか。

 そう、マヤさんと同じ様な服を着ている。
 実際には、マヤさんの方がリツコとなるべく同じになるようにしたのである。
 昨晩さんざん悩んだ結果、リツコとお揃いの服で行くことにしたのだった。
 できれば同じ本の44ページに出てくるような露出度の高い服にして欲しかったのだが……惜しいことだ。

 ん? 何?
 しっぽはどうしたって?
 作者もよくわからないが、もしかしたらうまく丸めてキュロットの中に隠しているのかもしれない。
 キュロットがゆったりしているのでパッと見はわからないが、座ったときに後ろが少しこんもりしているので、どうもそのようだ。
 そんなことしなくても、堂々と見せていたって、誰も不審に思わないのにねぇ。

 話がだいぶ逸れたが……確かマヤさんが戸惑っている、というところだったように思う。
 で、その続きだが、マヤさんはどうやらさっきから他の人の視線を気にしているようだ。
 かと言って、みんながジロジロ見ているのが恥ずかしいとかいうのではない。
 逆に、誰もあまり気に留めていないからなのである。つまり、集まるはずの視線が集まっていない。
 おかげでマヤさんは、自分にネコ耳がついているのがそんなに自然なのかと思い始めてしまったほどだ。
 いくらネコ耳付けた店員がいる店でも、お客までネコ耳付けてるのは、変なはず……と。

 だが、そんなマヤさんの期待に応える(?)者が現れた。
 マヤさんの斜め前方から、ちらちらとこちらを窺っている。
 子供だ。小さいときのシンジにそっくりな、可愛らしい男の子である。
 盗み見するようにちょっとだけ見ては、隣にいる母親らしき女性に何か言っている。
 マヤさんは、その子が何と言っているのか、すごく気になったのだった。

 ……『ママ、あのおねーちゃん、へんだよ』『しーっ! 目を合わせちゃダメよ』
 そんなこと言われてたらどうしよう?
 違うのよ、これは病気なんだから……
 でも、そんなこと言ったって、あの子はきっと解ってくれないわ。
 きっと、コミケなんかで平気でコスプレしてる危ない女、とか思ってるんだわ。
 違う! そんなの、私じゃない!

 ……どうも妄想が暴走しっぱなしである。
 (だいたい、子供がコミケなんてどうして知っているのだ?)
 もしかしたらこのネコ耳病は、躁鬱を極端にするという副作用があるのかもしれない。
 だって、ネコモードの時は思いっきり躁状態だしね。
 ともかく、マヤさんは男の子の視線を気にしながら(半分うれしがりながら)、既に飲み干してしまったコップの中の氷をストローでカラカラとつついていた。

 と、その時。
 伏し目がちになっていた視野の端で、何かが動いた。
 ハッとして顔を上げると……先程の男の子が、マヤさんの方を見ながら手を振っているのだった。

(え? え? 何? どうしたの、あの子……)

 その子は、満面に笑顔をたたえながら、一生懸命にマヤさんに手を振っていた。
 自分の後ろの方の人に向かって手を振ったのかと思い、マヤさんは振り向いてみたが、女の人が一人、マヤさんと背中合わせに座っているだけだ。その先は壁。
 窓の外にいる人かとも思ったが、それらしい人はいない。
 ……つまり、あの子は私を見て手を振ってるわけで……
 これってどういうこと?

 マヤさんは少々悩み始めたのだが、子供が手を振っているのを無碍に無視することもできず、試しに手を挙げてちょこっと振り返してみた。
 すると男の子は母親の方を向いて何か一言二言喋ったかと思うと、一層元気よく手を振ってきた。
 しかも両手である。
 マヤさんは戸惑いながらも一生懸命笑顔を作り、その子に手を振り返した。

 ……まさか、ネコ耳を見て喜んでるのかしら? それなら……
 マヤさんはそんなことを考え、頭に意識を集中した。ネコ耳がピクピクと揺れる。
 それを見たときの、その子の驚いた顔と言ったら!
 そしてマヤさんの方を指差しながら、これ以上ないくらいうれしそうな顔で母親に何か言っている。
 何となくいいことをしたような気分になってしまうマヤさんだった。

 それから暫しの間、マヤさんはネコ耳でできる限りの『芸』をその子に披露し続けたのだった。
 やっぱりマヤさんって、サービス精神旺盛なのだろうか……
 そして5分後、母親に連れられて帰っていく男の子に手を振って見送っていたマヤさんだったが、突然後ろからネコ耳を掴まれた。

「きゃっ!」

 あまりにも唐突だったので、思わず悲鳴をあげてしまう。(そんなに敏感なのだろうか?)
 慌てて振り返ると、そこにはマヤさんのネコ耳に手を伸ばしている赤ん坊の姿があった。
 さっき振り返ったときには赤ん坊などいなかったのだが、もしかしたら座っていて見えなかっただけかもしれない。

「あら、どうもすいません……ダメよ、シンちゃん、お姉ちゃんのお耳触っちゃ」
「だあー」

 シンちゃんと呼ばれたその赤ん坊は、椅子の上に立ってよろよろしながら、マヤさんの方に手を伸ばしている。
 隣に座っている母親がその子を抱くようにしてマヤさんから引き離そうとするのだが、赤ん坊の方はさっきまで触っていた『おもちゃ』を取られて、いささか不満そうな顔つきだ。

「ぶうー、にゃんにゃん、にゃんにゃん……」
「これ、ダメよ、シンちゃん……すいません、この子ったら、ネコが好きなものですから……」
「はあ、そうですか……」
「ほら、シンちゃん、やめなさい。お姉ちゃんが嫌がってるわよ」
「ぶうー、ぶうー……」

 母親は赤ん坊を座らせようとするのだが、赤ん坊の方は必死になって手を伸ばし、マヤさんのネコ耳を触りたがっている。
 だんだん機嫌が悪い顔になってきて、今にも泣き出しそうだ。

「ぶうー、にゃんにゃん、にゃんにゃん、ぶうー……」
「もう、シンちゃんったら……」
「あ、あの……」

 心優しいマヤさんは、泣きそうになっている赤ん坊の顔を見て、居ても立ってもいられなくなってきた。
 そうよ、今の私にできることは、ただ一つ……
 マヤさんは決心していた。

「あの……私なら、構いませんけど……」

 マヤさんはそう言いながらひょいと頭を下げ、赤ん坊の方に差し出すようにした。
 赤ん坊は喜んでマヤさんのネコ耳に飛び付くと、その小さな手でネコ耳を撫で始めた。
 不満そうだった顔が、いっぺんにうれしそうになる。

「きゃっきゃっ、にゃんにゃん、にゃんにゃん……」
「あらあら、どうもありがとうございます……」
「あ、いえ……」

 ……こんなことでお礼言われるのって、何だか変な気持ち。
 ネコ耳を触られながら、マヤさんはそんなことを考えていた。
 赤ん坊の方はそんなマヤさんの気持ちにお構いなしに、ネコ耳を触りたおす。
 紅葉のような小さい手で先端の柔らかい部分を掴んだり、ふわふわした毛を撫でたりするのだが……どういう訳かマヤさんはそれが案外気持ちよかった。
 何となく、ネコが背中や喉の下を撫でられている気持ちがわかる気がする……マヤさんは思わず目を閉じて、撫でられる感触を楽しんでいた。

 不意に視線を感じ、慌てて窓の方を見遣る。
 そこには子供が2〜3人立っていて、じっとマヤさんの方を見ていた。
 そしてマヤさんが自分たちを見たのに気付くと、うれしそうに手を振ってきた。
 ……みんな、何がうれしいの?
 釈然としないながらも、手を振り返すマヤさんだった。

 それにしても……と、マヤさんはまた考え込む。
 子供って、ネコ耳が好きなのかしら? さっきの子といい……
 ネコ耳が生えたときにマヤさんが考えたのは、みんながマヤさんを白い目で見たり、ネコ耳を見た子供が泣き出したりする、というものだった。
 だが、今のところ、そういうことはない……子供にだって、異常なまでに好評だし。
 もしかして私、ネコ耳を付けるために生まれてきたのかもしれない……

 マヤさんはそんな危ない考えに至りかけていたが、リツコがこの店に入ることを選択した時点から、今のような状況になることをあらかじめ想定していたとは露も気付かないのだった。
 (と言うか、リツコの仕組んだことのような気もするのだが……)

「あら、シンジ君たちが来たようね」

 リツコのその声が聞こえたときには、ネコ耳で遊び疲れて満足げな表情で眠ってしまった赤ん坊を、マヤさんは楽しそうに見ていたのだった。



 さてさて、最初の2シーンだけでだいぶ紙幅を取ってしまった。
 読者の中には、今回いきなり温泉に到着したところから始まると思っておられた方もおられるかもしれない。
 何? 温泉に浸かっているところから始まると思ったって? あんたも好きねぇ……
 だが、もうちょっと我慢していただいて、温泉に向かう一行の様子を書きたいと思う。
 しかし、今回の終わりまでに温泉に着けるかどうか心配になってきたな(笑)。

(ちらっ)

 土曜の昼とは言え、リニアは混んでいた。
 マヤさんとシンジとレイは、吊革に掴まって立っていた。
 どうしてリツコだけが座っているのかって?
 それは……え? いや、別に、彼女が年寄りだからではない。
 馬鹿なこと言っちゃ困りますよ、あなた。
 そんなこと言ったら、取材許可を取り消されてしまうではないか。
 で、本当のところの理由は……ま、それはさておき(汗)。

(ちらっ)

 マヤさんは吊革に掴まりながら、窓の外の流れる景色を眺めていた。
 正確には流れているのは近くの物体で、遠くの風景は止まったままだったが。
 マヤさんは電車に乗ると景色を眺めるのが好きで、小さい頃は靴を脱いで座席に膝立ちになって、外を見ていたものだ。
 その頃は、『おやまはどうしてマヤについてくるの?』などと父親に訊いて、困らせたこともあった。
 もちろん、今ではその理由もちゃんと解っている。
 『お山はマヤちゃんのことが好きだからだよ』という父親の言葉を、今だにマヤさんは信じて……るわけないだろ!(笑)

(ちらっ)

 ……さっきから出てるこの『ちらっ』は何かって?
 これはマヤさんが何かを気にして視線を走らせる様子を表す擬音語である。
 いや、別に近くに座ってる子供がゴムまりを持っていたわけではない(苦笑)。
 マヤさんが気になっているのは……網棚だった。

 デイパックは背中に背負ったままだから、降りるときに忘れ物をするのを気にしているわけではない。
 リツコは鞄を膝に置いているし、シンジは床に置いているし、レイは手に持ったままだ。
 では、何を気にしているのかというと……不思議なことに、何も置かれていない網棚を気にしているのだ。

(網棚……気持ちよさそう……)

 マヤさんはそんなことを考えていた。
 いったい、何のことだろうか。
 さっぱり訳がわからないが、手掛かりが全くないわけではない。
 それは、現在マヤさんがネコモードに入りかけているということだ。
 お昼を食べた後で電車に揺られて、ちょっと眠いのである。

 ズバリ、マヤさんが想像しているのは……網棚の上で丸くなって寝ている自分の姿だった。
 列車の程良い振動で、網棚がまるでハンモックのように揺れて……
 マヤさんはさっきから網棚に上がりたくてうずうずしていたのだった。
 ……私、網棚の上で寝ているの。
 降りる駅に着いたら先輩が起こしてくれて……

『マヤ、もう降りる駅よ』
『ふみゅう……』
『いつまで寝ているの? 置いて行くわよ』
『ふみゃあ……』
『もう、仕方ない子ね、マヤったら』

 そういいながら先輩は、私を網棚から下ろしてくれるの……

(ああ、一度でいいから網棚の上で寝たい……でも、そんなことしたら今度こそ本当にみんなから変に思われちゃう……)

 僅かに残った理性で自制を利かせるマヤさん。
 だが、うっとりと網棚を見つめる目にリツコは気付いており、密かにほくそ笑んでいた。

 で、シンジとレイはというと……

 つんつん

「碇くん……」
「な、何?」
「温泉……」
「う、うん……」
「まだ?」
「も、もう少しだと思うよ……」

 という一連の会話を、さっきから数え切れないくらい繰り返していた。
 おそらく、読者の皆さんもレイと同じ心境だろう(笑)
 では、そろそろ温泉に行くとしましょうか。



 塔ノ沢の駅から、昔懐かしいボンネットバスに揺られること十数分。
 『秘境 猫又温泉へようこそ』と書かれたアーチをくぐり抜け、ついにシンジたちは温泉に到着した。
 バス停に書いてあった案内に従って林の中の小径を抜け、長い石段を昇っていくと、そこに今夜の宿は建っていた。
 その名も『猫又温泉旅館』。まんまである。
 木造二階建ての瓦葺きの建物は落ち着いた感じで、どこか懐かしいものを感じさせる造りだった。

「ずいぶん古い建物ですね……」

 シンジがぽつりとそう呟いたが、がっかりしたわけではない。
 思っていたよりも立派な建物に驚いたのだ。
 長年の風雪に耐えた外観は多少古びてはいたものの、柱はどれも力強さを感じさせる。
 一目で伝統と格式を見て取ることができるが、派手さはなく、昔風の温泉宿の佇まいを今に残していた。

「ええ、創業は江戸時代。母屋は明治の終わりに建て直したもので、この辺りでは最も古い建物よ」
「へえ……」
「横に見えるのが新館、裏手を降りたところの渓流沿いには別館があるわ。周りの林の中に温泉が点在していて、好きなところに入りに行けるのよ」
「広いんですね……」

 昔ここに来たことがあるリツコが、得々と解説を始めた。
 その言葉に、シンジとマヤさんが代わる代わる感嘆の声を上げる。
 ナウいギャル(死語)であるマヤさんはもっとおしゃれなリゾートホテルがお好みかと思っていたのだが、案外気に入ったようだ。
 読者の皆さんもマヤさんを誘うときは落ち着いた装いを心懸けた方がよいだろう。

「さ、行くわよ」

 あれあれ、いつの間にかリツコが主導権を握っている。
 シンジの獲得した旅行券なのにねぇ。
 それが証拠に、旅館の前に掛かっている『歓迎』の札にはちゃんと碇シンジ御一行様と……ありゃ、ない。
 それらしいのは……『NERV猫研究会』?
 どういうことだろう。リツコが予約を入れ直したときに変えてしまったのだろうか。

「いらっしゃいませ」

 玄関を入ると、旅館の女将さんと仲居さんが勢揃いして迎えてくれている。
 この辺が老舗旅館のいいところか。
 マヤさんも帽子を取ってご挨拶……しかし誰もネコ耳を見て驚かなかった。
 やはり躾が行き届いているのか、それとも……これもリツコの計画のうちか?(猫研にしたのはそのせいかも……)

「NERVの方ですね。お待ち申し上げておりました」
「本日はよろしくお願いします」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」

 どうやら女将さんはリツコの顔を覚えていたらしい。
 笑顔で会話を交わすと、仲居さんの一人が先に立って部屋へと案内してくれた。
 シンジとマヤさんはこういう建物は見たことがないのか、物珍しそうにあちこち眺め回している。
 レイは……目の焦点が合っていない。
 おそらく、温泉に着いたことで、妄想が頂点に達しているのだろう。

「こちらでございます」

 長い廊下をあちこち曲がって案内された部屋は……12畳の和室だった。
 しかも角部屋。東側と南側が障子に囲まれていて、その向こうには板の間があり、椅子と小さな机が置かれていた。
 明るくて広々として見えるのは、天井が高いせいもあるだろう。
 壁にはちゃんと床の間もあって、何やら高そうな花瓶と掛け軸が飾られている。
 全体的に質素な造りだが、入った途端にほっとするようなくつろいだ印象がした。

「窓からは何が見えるんですか?」

 マヤさんは部屋を一目見て気に入ったらしい。
 うれしそうな顔で仲居さんに訊きながら部屋の奥に進むと、障子をさっと開ける。

「下の渓流がご覧になれるようになっておりまして……」
「わあっ、いい感じですねー! 風がとっても気持ちいいわ。……あれが温泉ですか?」

 マヤさんは窓を開け、そよ風にネコ耳をなびかせながら言った。
 見渡す先には箱根の雄大な展望が、眼下には緑の木々の絨毯が広がり、なだらかな山肌を少し降りたところに小さな川が流れている。
 その側にもしゃれた和風建築があり、上の建物との間を屋根付きの階段で結んでいた。

「ええ、下の別館には大浴場がございまして、近くに露天風呂もございます。今の時間ならきっと空いておりますよ」
「そうなんですか? 先輩、早く行きましょうよ!」

 仲居さんの言葉に、マヤさんはくるりと振り返ってリツコを見ながら言った。
 いつの間にかマヤさんが一番はしゃいでしまっている。
 うきうきした心を表すかのように、ネコ耳がふりふりと揺れていた。

「そうね、あまり疲れているわけでもないし、先に一風呂浴びるのも悪くないわね」

 リツコが鞄を置いてそう言うと、仲居さんがそれを受けるように言った。

「お夕食まではまだまだお時間もございますし、林の中も散策なさってみて下さい。途中にいろいろと珍しいお風呂もございますので」
「じゃあ、決まりですね! シンジ君もレイちゃんも、早く準備しましょ!」

 仲居さんがお茶を入れてくれている横で、マヤさんはデイパックを下ろしながら言った。
 そして早速中をゴソゴソやって、着替えやらタオルやらを取り出している。
 シンジはそんなマヤさんを見ながら呆気にとられていた。
 マヤさん……温泉の話が出たときは、あんなに渋々だったのに……
 女の人ってやっぱり、本質的に温泉が好きなのかな。
 リツコさんも好きみたいだし、綾波も……
 とか考えながら、シンジがぼーっと突っ立っていると……

 つんつん

 ほら来た。

「碇くん……」

 シンジに声をかけるレイは、それはそれはうれしそうな表情だった。
 ただし、それはいつものレイと比べたものであり、一般人にはそれは普通の控えめな笑顔にしか見えなかっただろうが……

「な、何?」
「温泉……」
「う、うん……」
「早く、混浴……」
「…………」

 だが、そう言うレイも、何一つ用意をしていない。
 いや、もしかしたら、準備する必要もないのかな。
 持っている鞄の中には下着が入っていて、後は浴衣を持って行くだけか……

 そう。

 ついに来たのだ、この瞬間が。
 読者の皆さん、お待たせしました!
 では、早速、温泉に向かって、レッツゴー!



 ……と思ったら、時間無くなっちゃった。
 さて、シンジとレイの混浴はいったいどうなることだろうか。
 そして、マヤさんとリツコの読者サービスは?
 次回、『レイ、湯煙の向こうに』。
 この次も、サービス、サービスゥ!(笑)



すいません、今回は温泉宿に着いたところまでになっちゃいました(^_^;)
次回は冒頭から入浴シーン満載……になるかなぁ? と、とにかく、お楽しみに……(^_^;;)


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Back to Home



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions