ネコ耳マヤさん



『シンジ君、私と一つになりたい? それはとてもとても気持ちのいいことなのよ』
『碇くん……私と一つになりたい? それはとてもとても気持ちのいいことなのよ』
『シンジ君、私と一つになりたい? それはとてもとても気持ちのいいことなのよ』
『碇くん……私と一つになりたい? それはとてもとても気持ちのいいことなのよ』
『シンジ君、私と一つになりたい? それはとてもとても……』

(うう……何だかとってもいい気持ちだ……ちょっと苦しいけど……)

 夜は明け切っていたが、シンジはまだ微睡みの中にいた。
 前夜(と言うかさっきまで)、マヤさんやレイの寝顔を見ながら『食べちゃダメだ』を2の14乗回ほど繰り返し、やっと眠ったところだったのだ。
 そんな時に突然襲ってきた心地よい感じと息苦しさ。
 二つの相反する感覚が、シンジを眠りの淵から無理矢理引きずり戻す。
 だが、やっとの思いで目を開けたシンジの前には、何もなかった。

「…………」

 真っ暗。とにかく、何も見えない。
 ただそこにあるのは程良い温かさ。ほのかな甘い香り。顔を包み込む柔らかな感触。
 そして頭を後ろから押さえ付けられてる感じ。
 それに、背中の方にも柔らかくて温かい感触がぴったりと張り付いている。
 たとえ上質の羽毛布団でもこういう感覚は出せはしないだろうというくらい気持ちいい。
 自分は今いったいどこにいるのだろう?
 その疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。

「…………」

 シンジは落ち着いて考えようとしたが、頭の中は目の前同様、真っ暗だった。
 起きたばかりで頭が働かないのか。もしかしたら寝不足もあるかも知れない。
 しかしとにかくシンジは考えた。
 前夜の状況などを思い出しつつ。
 考えた。
 考えた。
 考えた。
 考えた。
 考えに考えた……

 ドクン……ドクン……

 音がする。
 何だろう、この音。
 エヴァの中で聞いたような気もする。
 聞いていると何だか安心するような……

 そうだ、これは鼓動の音だ。
 そして血液の流れる音。
 赤ん坊はこの音を聞くと安心するんだって。
 でも、僕くらいになってもまだそうなのかな。

 そうすると、僕は誰かのお腹の中にいるんだろうか。
 まさか。そんなことはあり得ない。
 じゃ、またエヴァに取り込まれたとか?
 違う。そうでもない。
 きっと、誰かの心臓の音を聞いてるんだ。
 そう、誰かの胸に抱きかかえられて。
 え、胸に……

 ま、まさか……

 布団の中でシンジの左手がピクッと動いた。

 じゃ、じゃあ、僕は誰かの胸の中にいるんだ。
 で、でも、この大きさは……綾波じゃないよな。(なぜそんなことがわかる? by 作者)
 と、いうことは、マ、マヤさんの……はうっ!

 ぶしゅー……

 シンジ、完全に沈黙。



 午前7時。
 まもなくマヤさんが目覚める頃である。
 健康優良児のマヤさんは、毎日7時間半たっぷり寝ているのだ。
 前夜はいつもより早く寝たから、今日は少し寝過ぎかも知れない。
 しかし、ミリタリースクールでは毎日この時間に起きていたので、自然に目が覚めてしまう。
 よっぽど遅く寝ない限り。

「う……んんっ……」

 ほら起きた。
 寝起きの瞬間に可愛らしい声を出すのがマヤさんの癖である。
 だてに作者もマヤさんの取材をしているわけではない。いろいろと知ってるのだ。
 その寝顔が天使のように愛らしいことも。
 寝相が少々悪くて寝てる間にパジャマが乱れることも。
 そして枕や毛布を抱く癖があることも。

 頭がピクリと動き、チョコレート色の髪が揺れた。
 睫毛が震え、薄く目が開かれる。
 次第に大きく開けられていくが、時折眠そうに瞬きする。
 また悩ましげにため息を一つついた。
 しかし、いつもはぱっちりと開かれているつぶらな瞳も、今はまだ半分ほど閉じられたままだ。
 そしてそのトロンとした(ちょっと色っぽい)目で周りの状況をぼんやりと見つめる。

(ここ、どこ……)

 窓がない部屋の中は真っ暗だった。
 しかし、寝ていたのだから目は闇に慣れている。
 そこには知らないベッドと知らない壁があった。
 自分のベッド、自分の部屋の壁でないことが朧気にもわかる。
 マヤさんの部屋は残念ながらこの部屋ほど豪華ではないのだ。もう少し質素な感じ……

(ここは……私、どこか旅行に来たんだっけ……)

 普段、旅行に行きたくても行けないマヤさんは、そんな願望が入り交じった妄想をしてしまう。
 以前、浅間山に使徒を捕獲しに行ったときも結構はしゃいでいたと聞いている。
 だが、次第に頭がはっきりしてくるにつれて、現実に引き戻されるのだった。

(違うわ……そう、私は病気になって……赤木先輩にここに泊まるように言われて……)

 そしてネコ耳のことを思い出し、シュンとなってしまうマヤさんだった。
 ちょっと可哀想である。
 しかし、常々前向きに生きるように心に決めているマヤさんは、気を取り直そうと努力する。
 健気だなぁ……

(そろそろ起きようかな……今きっと7時くらいよね。いくら病人だからって、遅くまで寝ているわけには……)

 そう思いながらマヤさんは、枕元にあるであろう時計を見ようとした。
 しかしその時、自分がやけに硬い枕を抱いていることに気付く。
 高校の修学旅行で枕を抱く癖があることをクラスのみんなに知られて、それから直そうとしたのに一向に直らないのをマヤさん本人も気にしているのだが。
 でも、ここの枕って、もっと柔らかくて抱き心地良さそうだったのに……
 そんなことを考えながら、マヤさんは自分の腕の中にあるその物体を見た。
 そしてすぐにそれが枕ではないこと知った。

(なっ……そんな、まさか、私……)

 マヤさんは自分の胸の谷間に埋まっているその硬い枕を慌てて引き剥がした。
 そして暗闇の中で、それが枕ではなくて、人の頭……シンジの顔だったことを確認した。
 シンジはラミエルにやられたときのように、鼻から血を流している。
 もちろん、その血はマヤさんのパジャマの胸元にべったりと付いていた。

(ひっ! まさか、私ったら……寝てる間に、ネコになって、シンジ君を襲ったとか!? ああ、そうだったらどうしようっ……)

 そう思いつつマヤさんは布団の中にがばっと両手を突っ込むと、何やらもぞもぞと身体を動かし始めた。
 その顔は夜目にも真っ青で、今にも泣き出しそうだ。
 しかし、そのもぞもぞが止まったかと思うと、マヤさんは目を閉じてハアーッと大きくため息をついた。
 見る見るうちに安堵の表情が広がる。

(良かった……襲ったんじゃなくて……もしそんなことになっていたら、私……)

 ……どうやって襲ったんじゃないことを確かめたんだろう?
 それはさておき、マヤさんとしては、年下の男の子との不倫な関係を心配していたのではなく、チルドレンに暴行を働いた罪で、軍規により処罰されることを気にしていたようだ。

(幸い、間違いはなかったけど、こんなこと先輩に知られたら怒られちゃう……)

 しかし、この部屋で起こったことは全てリツコにチェックされているとは露知らないマヤさんだった。
 とにかく、一安心したマヤさんは、後でシンジにどんな顔をして謝ろうかと考えながら、血で汚れたパジャマを洗いにバスルームへ行こうとしてベッドから起き上がった。

「えっ!」

 ベッドの上に座った瞬間、マヤさんは思わず声を出してしまった。
 何だか、お尻の辺りに違和感が……
 ま、まさか、私ったら……
 マヤさんは恐る恐る、パジャマのズボンに背中の方から右手を入れた。

 ふにっ

(えっ!?)

 ん? 期待してたものと違ったのか?
 それはともかく、マヤさんはパジャマのズボンの中をまさぐると、何やらながーいものを取り出してきた。
 そしてそれを自分の目の前まで持ってきてまじまじと見つめた。

「…………」

 暗くてわかりにくいが、何というか、紐状の物体である。
 全体がシルクのように柔らかーい毛で覆われている。
 思わずなでなでして触感を楽しみたくなりそうだ。
 事実、マヤさんはなでなでしてしまった。
 途端に、今までに感じたことのない感覚に襲われた。

「ふうっ……」

 思わず声が出てしまう。
 まるで身体の一部を触られたような……でも、こんなの初めて……
 じゃ、じゃあ、これって、もしかして……
 マヤさんは納得できないものを感じながら、お尻の辺りに力を入れてみた。

 ふるりん

 紐が動いた。
 マヤさんが『動かそう』と思った瞬間に動いたのである。
 即ち、神経が接続しているということである。
 そ、そんな、偶然じゃないの? 試しにもう一度……
 マヤさんはまたお尻に神経を集中した。

 ふるりん、ふるりん

 また動いた。
 要するに、この紐はマヤさんの身体の一部なのだろう。
 ということは……
 マヤさんは紐を左手に持ち替えると、その根元をたどるべく、パジャマのズボンにまた右手を入れた。
 そしてゴソゴソと手を動かす。
 おそらく、下着の中にも手を入れちゃってるだろう。(惜しいことに見えないんだよなー)
 そしてマヤさんの手は遂に紐の根元を探り当てた。

「……う……」

 マヤさんはそう言ったっきり、動かなくなってしまった。
 表情も固まっている。
 左手から紐がベッドの上にぱさっと落ちる。
 そしてぱっちり開かれた目の中の瞳孔がきゅうーっと縮まっていった。

「……きゅうっ……」

 マヤさんは少々変な擬音を口走りながら、ぱったりとペッドの上に倒れてしまったのだった……



 そしてマヤさんが呑気に気絶している間に、シンジの頭はレイの抱き枕になっていた。
 (シンジめ、つくづく幸せな奴……)



「……ヤ……」

(……誰?)

「……マヤ……」

(……誰? 私を呼ぶのは……)

「……マヤ……起きなさい、マヤ」

(……はっ!)

 ぐゎばっ!という擬音を放ちながら、マヤさんは跳ね起きた。
 自分を呼ぶ声のその周波数が、マヤさんの心の琴線に触れたのだ。
 早い話が、リツコの声に条件反射したのである。

「起きなさい、マヤ。病気だからって、遅くまで寝ていてもいいってものじゃないでしょう」

 いつの間にか部屋の電気が煌々と点いている。
 マヤさんは眩しそうに顔をしかめた。
 そして声のした方を見上げると、リツコが腰に手を当てて立っていた。
 だが、きつい言葉の割には、リツコは怒っている風でもない。
 むしろ、嬉しさをこらえているとでもいった表情だ。

「先輩……」
「そろそろ朝食にしなさい。持ってきてあげたから。それが済んだら、また検査よ。いいわね」

 リツコはそう言いながら押してきたワゴンをベッドの横に付けた。
 ワゴンの上には4人分の朝食が乗っている。自分もここで食べる気なのだろう。
 クロワッサンと目玉焼きとコーヒー。
 焼きたてのクロワッサンからシナモンの香りがして美味しそうだ。
 卵は産みたてだろうか、黄身がぷりぷりとしている。
 そしてリツコ御用達のスペシャルブレンドコーヒーが、眠気も醒めるような香ばしいアロマを漂わせている。
 しかし、今のマヤさんにはリツコの顔しか目に入っていなかった。

「せ、先輩……先輩、私……」
「どうしたの、マヤ」

 リツコはコーヒーメーカーからコーヒーをカップに注ぎながら言った。
 マヤさんは潤んだ目でリツコを見つめている。
 リツコはいつになくらぶりぃな微笑みを浮かべてマヤさんの方を見つめ返した。

「私……私……ぐすっ……」

 マヤさんの瞳にじわっと涙が滲んできた。
 そしてそれは見る見るうちに大粒の銀の水玉になって溢れ出す。
 とうとうマヤさんは泣き出してしまった。

「何かあったの? その血のこと?」

 リツコはマヤさんの胸の辺りにこびりついている血の跡を見ながら言った。
 もちろん、その血がどうして付いたのかは先刻御承知ではあるのだが。

「い、いえ、これは……そうじゃなくて、私、とうとう……」

 パジャマに『血』が付いてて、泣きながら『私、とうとう』と来れば、いろいろと別のことを想像してしまいそうだが、今は忘れていただきたい。
 当然だがリツコもわざと変な誤解をしたりしない。
 ベッドの上にぺたっと座り込んでいるマヤさんのお尻の辺りを見て、目ざとく『紐』を見つけると、静かな声で言った。

「そう、しっぽが生えたのね」
「うっ、ううっ、うわあぁ〜ん!……」

 遂に声をあげて泣き出してしまうマヤさん。
 まるで子供みたいな泣き方だ。
 その心の中を表すかのように、ネコ耳もシュンとしている。
 リツコはしばらくマヤさんの泣く様子を見ていたが、おもむろにベッドの上に腰掛けると、マヤさんの肩にそっと手を置いて言った。

「仕方ないわ。そういう病気なんですもの」
「ううっ、ぐすん、でも、でも……」

 目をこすりながらマヤさんは泣きじゃくっている。
 リツコの慰めの言葉が余計に涙を誘うのだろうか。
 しかし、リツコの方はマヤさんが見てないと思って表情が緩みっぱなしである。
 そしてことさら優しそうな声を出す。

「気をしっかり持ちなさい、マヤ。でないと、直るものも直らないわよ」

 直してやるつもりが本当にあるのかどうか知らないが、リツコはそんなことを言ってマヤさんを慰めた。
 マヤさんもようやく泣きが一段落したところだ。
 目を真っ赤に泣き腫らしながら、マヤさんはぐずった声で言う。

「でも……でも、こんなのじゃ、私……制服、着られない……」

 ……何だよ、おい、そんなこと気にしてたのか?
 全く、読者がどんなにマヤさんを心配してるのか、わかってるのだろうか?
 (え? あなた、心配してないんですか?)
 リツコもマヤさんの言葉はちょっと意外だったらしいが(顔に縦線入ってたし)、またマヤさんに優しい言葉をかける。

「心配ないわよ。少し改造すればいいんだから。何なら、長めのスカートにすればいいわ。特別に許可してもらえるように頼んでみましょう」
「えっ、ほ、ほんとですか?」

 マヤさんの表情がちょっと明るくなった。(うーん、涙目がいい感じだ)
 しかし、今回のリツコは異常に優しいなぁ。
 やっぱり、全てが計画通りに進んでいて問題ないからだろうか。

 ところで、皆さんはマヤさんの服装、タイツを改造するか、長めのスカートにするか、どっちがいいと思います?
 作者は……タイツの方がいいかなぁ。だって、しっぽの穴を開けることになるんでしょ?
 もちろん、膝丈くらいのスカートにしてマヤさんの綺麗なおみ足を拝むのもいいんだけど……
 え? 何? いつもの制服でタイツなしにすればいいって?
 でも、あの短すぎるスカートだけってのはさすがに……
 いやあ、あなたも好きですねぇ。このこのっ!(絶対いやです! by マヤ)

「さあ、もう泣いてないで、食事にしなさい」
「はい……」
「それにそろそろシンジ君たちも起こさないと」

 リツコはそう言いながらベッドの上に手をついて身体を伸ばすと、シンジが潜り込んている毛布をパッとめくりあげた。
 途端に目が点になる。
 先程もちょっと言ったとおり、レイがシンジの頭を抱き枕にしていたからである。
 (ただ、シンジの顔はマヤさんの時ほど苦しそうではなかった。理由は……わかりますよね)

 それを見ているうちに、リツコの目がマジになってきた。
 と言っても、本編後半で時折見せたこわぁ〜い目ではない。
 ちょうど、ミサトカレーを食べて『レトルトを原料に、よくここまで……』と絶句していたときの表情に似ていた。
 ちなみに、全てを知っているはずのリツコがどうして驚いたのかというと、マヤさんが起きてしっぽを確認している間に朝食の準備を頼みに食堂に行っていたから、レイがシンジの頭をゲットしたのを知らなかった、というわけだ。

「……シンジ君、レイ、起きなさい」

 リツコは呆れたような声で二人に声をかけた。
 その声に、マヤさんも振り返って二人の方を見る。
 そして同じように目を点にした。
 しかし、例の言葉は言わなかった。だって、自分もやったんだから。

 さて、声をかけられてもまだ完黙中のシンジの方はピクリとも反応しなかったが、レイがむくっと身体を起こした。
 昔はリツコに育てられてたらしいから、声をかけられると起きるように躾けられたのかもしれない。(厳しかったのかな?)
 それとも、狸寝入りをしていたのか、どちらかだ。
 ともかく起きてきたレイだったが、その寝癖が残る頭には、白いネコ耳がぴょこんと生えていた。

「レ、レイちゃん!? まさか、あなたまで……」

 思わず口に手を当て、マヤさんは絶句した。
 レイが返事をするようにネコ耳をピクピクと動かす。
 しかしリツコはまじまじとレイのネコ耳を見つめると、目を閉じて静かに言い放った。

「レイ」
「はい……」
「紛らわしいことしないでちょうだい」
「はい……」

 レイはそう答えると、ネコ耳を両手で引っ張ってしゅぱっと外した。
 何のことはない、カチューシャだったのである。
 そんなものを着けていた理由は……お察しの通り、マヤさんに対抗するためである。
 ネコ耳を生やしたマヤさんがシンジにいろいろとちょっかいを出すので、ならば自分も……と思っているらしい。

 ともかく、マヤさんは自分の病気が伝染ったのではないことを知って、ホッと胸をなで下ろした。
 途端に胸に付いた血の跡にまた気が付き、慌ててバスルームに駆け込んで洗濯を始めたのだった。



 4人はテーブルを囲んで朝食を摂っていた。
 シンジも既に意識不明から復帰している。
 少々、貧血気味でふらついているような様子はあるけれども。
 ちなみに、シンジとレイはまだパジャマのまま(レイは血付き)、マヤさんはピンクのTシャツに黒のスパッツを着ていた。
 スパッツにはちょうど尾てい骨の辺りに小さな穴が開けてあり、そこからしっぽが伸びている。
 ちなみに、下着にも穴が開けてあるのかどうかは残念ながら教えてもらえなかった。

「えっ、もう帰ってもいいんですか?」

 シンジは目玉焼きを食べる手を止め、リツコにそう聞き返した。
 確か、2〜3日はこの部屋から出てはいけないと言われたはずだったのに。
 しかし、どうしてそんな残念そうな顔をするのだ?
 まさか、今朝のことに味を占めたんじゃないだろうな。

「そうよ」
「でも、どうしてです? もし病気に感染していたら……」
「感染していたら、今朝までに発病しているはずだからよ。でも、あなたたちは発病していない。だから感染していない。もうここにいる理由はないわ」

 シンジは暫し呆然としていた。
 『僕はここにいちゃいけないんだ』と思ったのかどうかは知らないが。
 一方、レイは黙々とクロワッサンを食べていた。
 その顔は無表情に見えるが、ほのかに嬉しそうなのが漂っているのが見て取れる。
 もしかしたら、温泉に行けそうだと思ってるからかも知れない。

「そうですか、わかりました……でも、学校は……」

 時計の針はまもなく8時になろうとしていた。
 NERV本部から学校までは結構遠いのである。
 今から行っても、遅刻は間違いなしだ。
 リツコはコーヒーの香りを楽しみながら答える。

「今日休むことは、昨日学校に連絡してしまったから、もう行かなくてもいいわ。今日の実験も中止。どこかで適当に時間を潰してから家に帰りなさい。いいわね」
「は、はい」
「レイもね」
「はい……」
「それと、マヤ」
「は、はい?」

 マヤさんは急に名前を呼ばれてキョトンとしてしまっていた。
 朝食を全部食べ終わって、フルーツはないのかしら、とか考えていたところだったから。

「あなたも、次の検査が終わったら通常の仕事に戻ってもらうわよ」
「あ、はい、でも……」
「接触による感染率が低いのがわかったから、隔離の必要はなくなったわ。でも、監視は続けます。寝泊まりはここでしなさい。いいわね」
「あ、はあ……」

 ちょっち煮え切らない返事のマヤさん。
 と言うのも、仕事に戻りたいのはやまやまだったが、こんな姿では……と思っていたのだった。
 きっとみんなに奇異な目で見られるわ。
 仲間外れにされたらどうしよう……
 小学校の時、あまりの可愛さに(?)いじめられっ子だったマヤさんが悩む気持ちもわからないではない。

「今日の予定はメルキオールの87ユニットのロジック変更。予定より48時間遅れで始めるわ」

 リツコはそう言うと、美味しそうにコーヒーをすすった。
 イロウルを撃退した後のような、満足げな笑顔で。



 それからしばらくして、マヤさんは通常どおり職場復帰した。

『やあ、マヤちゃん、おはよう』
『あ、おはようございます……』
『どうしたの? ネコ耳なんて着けて』
『こ、これはその、病気で……』
『おはよう、マヤちゃん』
『あ、おはようございます……』
『そのしっぽ、どうしたの?』
『こ、これはその、病気で……』

 検査が終わって部屋で着替えているとき、居室に行く間にすれ違う人々の質問にどう答えたらいいかをマヤさんはあれこれと考えていた。
 しかし、考えても考えても『病気で……』以外の理由が思いつかない。
 だいたい、こんなおかしな病気が現実に存在するなんて、みんな信じてくれるだろうか?
 私なら絶対に信じられない……私自身ががそうなってしまったから、やむなく信じているけど……
 ともかく、マヤさんは他にも理由を考えようとしていたのだが、いつの間にやら行かなければならない時間になってしまった。
 なるべく人に会いませんように……マヤさんはそう願いながら部屋を出たのだったが。

「やあ、マヤちゃん、おはよう」
「あ、おはようございます……」
「いやー、そのネコ耳、よく似合ってるよ」
「は? いえ、これは、その……」
「おはよう、マヤちゃん」
「あ、おはようございます……」
「あれ、しっぽだね。うんうん、可愛いねぇ」
「は? いえ、これは、その……」

 どういうわけか、会う人がみんな、マヤさんの姿を見て納得しているのだった。
 満足げに頷く人もあれば、握手を求めてくる人もいる。
 誰一人としてマヤさんを奇異な目で見る者はいなかった。
 それどころか、ネコ耳やしっぽを生やしている理由を聞く者さえいないのである。
 マヤさんはまたしても狐につままれた気分だった。

(ど、どうしてみんな疑問に思わないの……私がこんな変な格好をしているのに)

 マヤさんは真剣に不思議がっていた。
 もしかしたら、自分の常識は他の人とは違うのかしら、などと悩みながら。
 しかし、これには理由が二つばかりある。
 一つは、マヤさんにネコ耳としっぽがあまりにも似合っていること。
 NERV随一の常識派のシンジが昨晩そう思ったのだから間違いない。
 そのはまり具合はキャバレーにいるバニーガールをも超えている。
 もう一つの理由は……次のシーンの後で説明しよう。

「お、おはようございます……」

 マヤさんは2日ぶりに居室に顔を出した。
 そして心の中で考える。
 ここに来る途中で出逢った人は、みんなネコ耳コンテストで私が優勝したのを知ってるから、私が単にふざけてネコ耳を着けたまま出社してるんだと思ってたんだわ。
 だから誰もそれほど気に留めなかったのよ。
 でも、ここならみんなの反応は違うはず。
 ネコ耳を着けて仕事をするなんてって、怒る人がいるわ、きっと……
 マヤさんはそう思いながらみんなの声を待った。

「やあ、おはよう、マヤちゃん、優勝おめでとう」
「え?」
「うーん、マヤちゃんって、ネコ耳がほんとに似合うねぇ」
「え?」
「おまけにしっぽかぁ、本格的だなぁ」
「え?」
「いいよなぁ、当分その格好のままいてくれない?」
「え?」
「きゃーっ! 伊吹先輩、可愛いですぅ!(はぁと)」
「え?」

 ……というわけで、ここでも誰もマヤさんの姿を咎める者はいなかったのだった。

(おかしいわ……こんなはずはないのに……)

 心の奥底では、密かに悲劇の主人公になりたがっていたマヤさんだった。



 そうそう、もう一つの理由というのは……

『マヤはネコ耳コンテストで優勝したから、しばらくネコの格好でいることになったの。みんな、いじめないであげてね』

 というリツコのお達しが全職員に対してあったからだった。
 もちろん、そんなお達しがなくても、誰もマヤさんをいじめたりしなかっただろうけど。



 さて、この辺りでまた忘れかけられた二人を出しておこう。
 といっても、女性二人組ではない。
 むさ苦しいオヤジコンビである。
 あ、こら、あと少しだから読み飛ばさないでってば。

 ゲンドウと冬月は例の部屋にいた。
 相変わらず薄暗くてだだっ広い部屋である。
 ゲンドウは机のところに座り、冬月はその横に立っていた。
 そしてゲンドウに向かい合うようにして、10メートルばかり先にレイが立っていた。
 ちょうど帰るときに呼び出されたのだった。
 もちろん、いつもの学校の制服姿である。

「レイ」

 ゲンドウは重々しく呼びかけた。
 当然の如く、顔の前で手を組み合わせたまま。

「はい……」

 レイも例によって抑揚のない声で返事をする。
 だが、それっきりゲンドウは何も言わなかった。
 冬月もピクリとも動かない。
 もちろん、レイも。
 そしておよそ1分ばかり経ってから、ゲンドウがやおら口を開いた。
 (その間、画像はずっと止まっていた)

「コンテストは残念だったな」
「…………」

 しかし、レイは何も答えなかった。
 たぶん、シンジと温泉に行けそうだから残念だと思ってないのだろう。
 だが、ゲンドウはそんなこととは知らずレイに語りかける。

「だが、ここでネコ耳を着けて見せてくれたら、私がもっといい賞品をやろう」

 ……はっきり言えよ、レイのネコ耳が見たいって。
 しかし、そういうことを軽々しく口にできないのがゲンドウの見栄だろうか。
 あるいは、冬月が止めたのかも知れない。
 横に立って苦い表情をしているから、多分そうなのだろう。
 しかし、レイの返事は冷たかった。

「私は、あなたの人形じゃない……」
「なぜだ!?」
「私は、あなたじゃないもの……」
「レイ!?」

 驚愕のあまり立ち上がるゲンドウ。
 しかし、ゲンドウの言葉が聞こえないかのようにレイはくるりと振り返った。

「頼む、待ってくれ、レイ!」
「ダメ、碇君が呼んでる……」

 レイは凍るような口調でそう言うと、スタスタと歩き出し、部屋を出ていった。
 哀れゲンドウは、映画よりもずっと前にレイに捨てられていたのだった……



さて、マヤさんの病状も一段落。これから楽しい日々が始まるのかな?
それと、シンジとレイの温泉旅行はどうなるのか、乞うご期待!


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions