「だ、だからって、わざわざそんな事してくれなくたって、いいじゃないか!!」
「こうしないと二人とも、いつまでたっても進展しないじゃない!!」

二年A組の教室に二つの大声が轟き、水色の窓を揺らした。
それはいつもの昼休みに違いなかったのだが、いつもの昼休みには仲良く話しているはずの二人が、今日は大声で言い争っていた。
二人の近くにいるのは、その二人と仲の良い、いつもの面々。
アスカとヒカリは呆れ顔で椅子に座りながら。トウジとケンスケは机に腰をかけながら。単なる好奇心からか、ケンスケのビデオのスイッチは、オンになっているようであったが。

「父さんと食事だなんて、今更どんな顔したらいいのか、分からないよ!!」
「だ〜か〜ら〜!!いちいちそんなに外面作って会おうとするから、上手く行かないんじゃない!!二人しかいない家族なんでしょ!?」
「別にいいよ!!あんな父さんなんて!!」
「ウソ!!ホントは仲良くしたいくせに!!」

シンジの机の前で、二人は立ち上がって口論を続けている。
レイはともかく、シンジが大声を出す、というのは珍しいことなので、周りの面々も驚きを隠せない様子だった。
また、その原因を正確に把握しているものは少なかったが、普段仲の良い者たちが言い争いをしているので、野次馬根性を働かせている連中も多かった。

椅子に座っているアスカとヒカリに、トウジとケンスケが近づく。
二人は初めから現場にいなかったので、原因をよく知らなかった。
シンジとレイに聞こえないように、声を小さめにして二人に話し掛ける。

「おい……あいつらどないしてん?珍しやないか。」
「シンジの親父さんの関係か?」
「ま、そういう事ね。普段会ってない親に会うのが怖いんじゃないの、アイツ。んで、レイが二人が会えるようなシチュエーションをセッティングしてやったんだけど、逆に躊躇してるって訳よ、馬鹿シンジは。」
「何でそんなこと綾波がするんや?」
「……レイの方が長く一緒にいたからよ。シンジがここでお父さんに会ったのは最近らしいしね。」
「そうなんだ。」
「レイも意外と頑固だから…。」
「シンジもおんなじよ、そういうとこだけはね。」

アスカはあきれた口調で言う。どうせ喧嘩なんかしたって、長く続かないくせに。
それは普段の二人を見ていれば分かる。長続きしそうな要因の方が、思いつかない。
アスカにとっては分かりきったことなのだが、その分、別に思うところもあった。フン、と、軽く鼻であしらう。
そんな相手がいるだけマシって事に気づいているのかしらね、アイツら。

「ええんか?止めなくて。」
「……いいのよ。たまにはやらせてたほうが、良い薬になるわよ。」
「………。」

何の薬になるのよ、と隣にいるヒカリは思ったが、口には出さなかった。
目を細めながら、苦々しげに二人を見ているアスカは、どう見ても機嫌が良くなさそうだったから。
……アスカも素直じゃないのね……。

「もうっ、碇くんなんて知らないっ!!」

レイは机を大きく一叩きすると、そっぽを向いて自分の席へと帰ってしまった。
途中の机と椅子を蹴散らしながら。
それまでひそひそ話をしながら二人を見ていた野次馬連中は、二人の口論が終わったの境に、次第に数を減らしていった。再び、教室は喧騒に包まれる。本人達以外は、いつもの昼休みへと早変わりする。

シンジは、むすっとした顔をしながら、そのまま席につく。
そのうち、一つ大きなため息をつくと、顔を机に突っ伏してしまった。腕で顔を隠すようにして。

綾波は昔から父さんと会っていたかもしれないけど…僕には無理だよ。
一度は僕を捨てた人なんだよ?
ここに来た時だって、ただエヴァのパイロットが必要だっただけで……僕のことはどうでもよかったのに……。

レイは頬を膨らませながら、荒っぽく5時間目の授業の用意に入った。
と、いってもパソコンのセットをするだけ、すぐに終わってしまう。
昼休みもまだ残っている。
結局、シンジと同じように、パソコンの上に顔を突っ伏してしまった。顔は、シンジの方に向けられていたが。

せっかく近くにいるのに、いつまでもお互い嫌いだなんて、寂しいじゃない!
素直じゃないのよ、二人とも。
ちょっと、どっちかが行動すれば変わると思うのに。
それだから、こうして気を利かせたのに、さ。

碇君の意地っ張り!!















そんな彼女の可能性〜COMFORT&BEHAVIOR〜
















午後4:00、外界ではそろそろ日が傾いてきた時間帯。
第3新東京市の地下、ジオフロントのテストルームではその日もシンクロテストが行われていた。
明日が休日ということもあるのだろうか、NERVスタッフ達の間には最後の追い込み、といった空気が流れていた。上がる掛け声も、今日はひときわ大きい。
もちろん、使徒が来たりなどすれば、休暇は完全に水の泡と化してしまうのだが、普段から激務が多いNERVの仕事ゆえ、休暇に期待しているものは多かった。
テストルームのモニターを見つめる3人の女性は、普段とあまり変わった様子ではなかったが。

「明日、前々から言ってた結婚式でしょ?何着てく?」
「あ〜、そういや、そうだったわね〜。ったく、三十前だからって躍起になってんじゃないわよ!」
「仕方ないわよ、そういう年になってしまったんだから…。お互い最後の一人にはなりたくないわね。」
「リツコは子育てやったことあるから、苦労はしないわよね〜、いざとなっても。」
「……嫌味な言い方ね。」

リツコは腰をかがめて計器を二つ三ついじると、モニターを見つめるマヤに反応をうかがった。
無言でうなずくマヤ。お互い、結果はそれだけでわかるようだった。
リツコもそれにうなずき返すと、再びモニターの3人を見る。
ミサトもいつものように腕を抱えながら、マヤの手元のテスト結果と、チルドレンの映るモニターとを見比べている。シンジの映るモニターを若干気にしている。リツコもそれに気づいていた。

「そう言えば、シンジ君も明日は…。」
「そ。お母さんの命日だって。それで、司令と会わなくちゃならないそうよ。」
「それであんなに暗いのね。でも、そういう時に限ってレイと喧嘩することないような気もするけどね…。」
「あの二人だったら、ほっといたってだ〜いじょうぶよ。それとも、リツコさんは愛娘が信じられないの?」

にやにやしながら、肘で軽く小突くミサト。
呆れたようにリツコはミサトを見返す。
…愛娘ね…。そう簡単に割り切れるなら、どんなに楽かしら。
良い子に育ってしまったものね…。
リツコはモニターで目を瞑っているレイを見て、僅かにその口元を緩ませたが、すぐにそれはため息へと変わった。隣のミサトはそんなリツコの仕種には気付かなかった。

「……レイなら大丈夫よ。シンジ君が変な意地張ってるんじゃないかしら?」
「なあっ!シンちゃんに限って、そんな事ないわよ!レイの方が気は強そうじゃない!!」
「あら、レイは活発なだけで気が強いって訳じゃないのよ。シンジ君だって男の子なんだから、意地の一つや二つあるんじゃない?」
「シンちゃんはアンタと違って素直なのよ!一緒にされちゃ、困るわね!」

小競り合いを続けている二人を尻目に、マヤは記録を次々と採っていく。
肩をすくめて、なるべく二人に巻き込まれないようにしながら、指を動かす。
シンジとレイのどっちが悪いと思う、なんて問われたら、とんでもない事だ。答えられる訳がない。
やっぱり、お二人とも母親願望みたいなものがあるのかしら…。
私は、早く相手見つけたほうが良いかなぁ…。

「マヤ?」
「は、はい!!」

マヤの声は、しっかり裏返っている。
まさか、話を私に振ったりしないですよね、先輩…。
リツコの声が厳しく聞こえるのは、彼女の気のせいであろう。冷や汗が背中をつたう。

「……テストの結果、出たかしら?」
「も、もう少しです。後3分ほどで…。」
「そう。ならいいのよ。」







どうせ、明日は父さんに会わなければならないんだ。
それなら、勢いで綾波と喧嘩なんかするんじゃなかったのかな…。
でも……何を話して良いのか分からない。共通の話題なんて、あるはずがない。
綾波は、普段どんなこと話してるんだろう。あの父さんと…。

エントリープラグで目を瞑りながらも、僕は取り止めのない思考の迷路に陥っていた。
母さんの墓参りに行く、という事はずいぶん前から決めていたことだし、父さんがそれだけは毎年欠かしていないことも聞いていた。
いわば、明日、父さんと会うことになるのは必然だった。
会わないように、わざわざ時間をずらすのも嫌だった。
以前、僕がその墓場で父さんから逃げ出したことも、まだ刻銘に覚えている。いくら記憶に薄い母さんでも、親不孝なことをしている、という気になってしまう。僕は逃げたのに、父さんが墓参りだけはしっかり行っている、ということも嫌だった。まるで、負けているように思ってしまうから。

今度は逃げずに父さんと会う。
しかし、改めて父さんと会うことに、僕はえも言えぬ恐怖心を抱いていることも、また事実だった。

綾波は知ってるんだろうか、父さんがどんな人か…。
そりゃそうだよね、ずっと一緒にいたんだもの…。

少しでも父さんを知っていれば……。

いや……知っていたところで……どうなるのかな……。
変わらないような気がする……。

目を開いて、右に映る綾波のモニターを見る。
綾波も目を瞑っていたが、僕の視線に気づくと一瞬こちらを向いてから、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
僕の頭は、がくっと崩れた…。

う、まだ怒ってるみたいだ…。
父さんの事を聞くなんて、無理そうだなぁ…。
やっぱり喧嘩なんかするんじゃなかったなぁ…。

『3人とも、ご苦労様。上がって良いわよ。』

いつも変わらないリツコさんの声が、モニターに乗ってプラグ内に響いた。

『あ〜あ、毎日テストばっかでつまんな〜い。』

アスカの声をモニターが伝えた後、プラグのシステムがダウンした。
僕は体の力を抜いて、LCLが抜けるのを待った。










地下のジオフロントから、地上へと向かうエレベーター。
その鉄の箱に入って、わたしはただドアに向かって立っていた。
後ろに碇君がいるのは分かってる。でも、今日は自分から話す気にはなれない。
そりゃぁ、ちょっとお節介だったかもしれないけどさ。
碇君も司令も、自分から会おうとしないんだもの。廊下とかですれ違っても、気付いてない振りをしてる。
側にいれば、それくらい分かっちゃうんだからね。

「あの……綾波?……まだ……怒ってる?」
「知らない。」
「はは…そう…。」

本当は、すごく怒ってるわけじゃない。
碇君の気持ちだって分かるもの。
でも、碇君ももう少し司令を解かろうとしてあげれば良いのに。

「あの……父さんって……どんな人?」

碇君は、気をつけなければ聞き逃してしまう程の小さな声で、わたしに言った。
途切れ途切れで、自信がなさそうな声だった。
確かに、わたしは司令を昔から知ってるけど。
でも、それは多分、碇君の参考にはならないと思うな…。

「それは……碇君が自分で見つけなきゃ…。わたしも、よく知らないよ…。」
「そう……だよね……。」

なんで、そんな事聞くの?
会ってみて、話してみて、それからだよ。司令の事が解かるのは。
先に解かろうだなんて、無理じゃないかな…。

「あの……綾波……。」
「……なに……?」
「……明日、母さんのお墓参りで……父さんと会わないと行けないんだ……。」
「……それで……?」
「綾波にも……その……良かったら一緒についてきて欲しいんだ……けど……」

わたしは息を一つついて、後ろを振り返った。
碇君は、少し伏せ目がちにわたしを見ている。

だめだよ、碇君、それじゃ。
わたしが間に入っても、それは仲直りにはならない。
二人が話し合おうとしないと、きっとだめなんだよ。

「やだ。」
「そう……。用事でも……あるの?」
「違うのっ!!」

わたしは声を張り上げて言った。そんな事で、碇君の頼みを断ったりしない。
碇君をじっと見つめる。
碇君はわたしを見ているけど、その目は戸惑って、行き場を失っていた。

「このままわたしが行ったら、碇君と司令は、多分ぜんぜん話さないもん。それじゃ、何の解決にもならないじゃない!!」
「それは…。」
「何のために会うのか、しっかり決めないとだめだよ!そうでなくっちゃ、意味ないもん。一緒に行ってあげない。」
「………。」

わたしはスカートの裾をぎゅっと握り締めた。
そうしないと、怖かったから。碇君を見て、決意が鈍ってしまいそうで。
本当は、碇君にこんな事、言いたくない。でも、碇君はまだ躊躇してるみたいだから。
どっちかが歩み寄らないとだめなんだ、と思う。やっぱり、碇くんと司令には仲良くして欲しい。
二人とも、わたしに優しい。それが同じ優しさか、はわからないけど。
いつもの二人なら、仲直りくらい簡単にできると思うのに。
碇君と司令の間に、昔何があったかは、わたしは知らない。長い事会ってなかった事くらい。
どっちに原因があるのかは知らないけど……親子なんだから。
…わたしが二人にできる事って、何だろうな…。

背中で、地上への到着を知らせるベルが鳴った。
鉄のドアが真ん中から開いて、外から違う空気が流れ込んできた。
わたしは振り返ってエレベーターから出ようとしたけど、まだ言いたい事があったから、「開」のボタンを押した。
握り締めたスカートの裾が、皺になっている。

「でも…。」
「…え…?」
「もし、なんのために会うのか、しっかり決まったら…それで、わたしに来て欲しいなら…。」
「……。」

一緒に行ってあげるから、さ。
















シンジは、リビングでS−DATを聞きながら、ふすまに背をもたれさせていた。
先ほど、自分で作った夕食のビーフシチューの味も覚えていない。食器を片付けながらも、頭は別の場所に飛んでいた。
しかし、いくら目を閉じて考えてみても、何の答えも見つかりそうになかった。
アスカはクリーム色のタンクトップに、短パンというラフな格好で、寝っ転がりながらテレビを見ている。
クッションを頭の下において、ポテトをつまんでいた。
誇張された恋愛ドラマの男性と女性の声が部屋に響いている。

「シンジ」
「……何。」

シンジが、音楽など耳に入っていないのは明らかだった。
彼はその機械をよく使用していたが、本当に音楽が聴きたくてイヤホンを耳につけているのかどうかは、分からない。傍から見ても、その様子は明らかに何かに悩んでいるように見える。

「お父さんに会うのが嫌なの?嫌なら嫌って言っちゃえば?」
「……いつまでもそう言ってても仕方がないだろ……。」
「なら、何でそんな嫌そうな顔してんのよ。そんな顔してたって、誰も喜ばないわよ。」

シンジはイヤホンを耳から外し、絡まらないようにそれをたたんだ。
テレビの音が耳につく。
アスカはそのドラマを見ているのか、シンジのほうを向いてはいなかった。

「それとこれとは、話が別だよ…。」
「ふ〜ん。……それなら、レイにでもついていってもらったら?アイツ、司令と仲良いんでしょ?」
「綾波には……一度断られたよ……」
「は?」

アイツがシンジの申し出を断った?
いくら喧嘩してるって言っても、コイツから誘ったっていうのに?
おかしいわね。
……いや……これは……違うわね。

アスカはテレビに向いていた顔をシンジのほうに向け、ゆっくり立ち上がった。
座っているシンジを上から見下ろす。シンジは顔を上げて、アスカのほうを見る。しかし、影になっていて、よくは見えなかった。

「アンタ、レイに期待してたんでしょ。」
「え?」
「間をつないでもらおう、なんて思ってたんでしょっ!」
「………。」

シンジは立ち上がったが、向き合ったアスカに何も言い返せなかった。
所在のない右手が宙に浮く。
彼の湿りがちな視線は、アスカの瞳を捉えずに、見つめきれないでいた。
彼女の青い視線は、的確にシンジの瞳に走り、彼に圧迫感を与えている。

「それじゃ、あの子だって怒るわよ。アンタと司令の事なんでしょ。レイはきっかけを作れても、それ以上の事はできないわよ。」
「……分かってるよ……。」
「分かってないから、あの子は断ったのよ!!それくらいなら、会わないほうがまだマシじゃない!!」
「………。」
「そんなんで会ったって無駄よ。そんなアンタになんて、司令だって会いたくないんじゃないかしらね。」

アスカは自分の言葉を言い切った後、再び寝っ転がってドラマを見出した。
シンジは言われたまま、その場に立ち尽くす。
彼の右手はまだ宙をさまよっていた。

「考え直したほうが良いんじゃない?」

彼のほうを向きもせずに、アスカは一言付け加えた。
シンジは自分の部屋に入ると、パタンとふすまを閉める。
アスカは、閉められた後のふすまに一瞬だけ顔を向けたが、次の瞬間にはテレビのほうを見ていた。

シンジはベッドに仰向けになって、最近になってやっと見慣れてきた天井を見つめている。
部屋の明かりは、つけられていなかった。

……僕と父さんは、話をしなきゃいけない、というのは分かっているんだ。
……傍から見ているだけじゃ、何も変わらない事だって分かっているんだ。

確かに、父さんに誉められたときは嬉しかった。
……嬉しかったんだと思う……

……でも……。


怖いんだ。


また、父さんに、「いらない」って言われるかもしれないんだ。
「帰れ」って、言われるかもしれないんだ。
………子供のときみたく、また捨てられるかもしれないんだ………。


……捨てられるのは……もう嫌だ……。


でも……このままなのも嫌なんだ。
エヴァパイロットの僕だけじゃ、きっとまた見捨てられてしまう。
なら、僕はどうすれば良いんだ…。

ドラマの音しか聞こえてこなかったふすまの外から、別の女性の声が聞こえてきた。
ミサトが帰ってきたのだ。がさごそと、紙袋の音を立てているのは、洋服でも買ってきたからだろう。
アスカとミサトの話す声が聞こえてくる。明日の結婚式のことだろうか。
アスカも明日はデートがある、と言っていた。何か、準備でもしてるのかもしれないな…。

「シンジ君?入るわよ。」

ミサトが部屋のふすまを開けた。
NERVの制服から、簡単なTシャツへと着替えていた。
シンジは壁の方を向いたまま、目を閉じている。
外からの光は、シンジの寝ているベッドまでは届いてこなかった。

「怖いの?お父さんと会うのが。」

シンジからの返答はない。

「逃げてばかりじゃだめよ。自分から一歩を踏み出さないと、何も変わらないわ。」
「……分かってるよ……。」
「これから分かるのよ。最初の一歩だけじゃなくて、その後が大事だって事が。」
「……。」
「あなた自身の問題よ、何も反対はしないわ。でも、後悔しないようにね。お父さんにも、お母さんにも、胸を張って会いなさい。私が言いたいのは、それだけよ。」

静かにふすまが閉められた。
再び闇が部屋に訪れる。シンジの目は、閉じられたまま。

そう……分かっているんだ。
でも僕は、父さんに、母さんに、どんな自分を見せればいいんだ。
胸を張って会えるほどのことを、僕はしていない…。

暗い部屋に、赤い光が点滅していることに、シンジは、今、気がついた。
机の上には、いつも身につけている携帯電話。
しかし、それを使って、自分から誰かに電話をかけたことはなかった。

…やっぱり…
僕は綾波に助けてもらおうとしてたのかな…。
…期待してたのかな…。

自分の意思で、父さんに会わないといけないんだ。
それは分かってる。

でも、その勇気がない。
それも分かってるんだ。

……僕は……どうすればいいんだろう……。

…………。

僕は、父さんを解かりたいから会うんじゃないの?
父さんに解かって欲しいから会うんじゃないの?

…………。

後は……僕の勇気が足りないだけなの……?


……それなら……エヴァに乗っているときと、同じなのかな……。

………綾波は、僕に力を貸してくれるかな………。

………頼りにするんじゃなくて……。

シンジは、すっと起き上がって机の前に向かった。
暫しの躊躇。暗闇の中に立ちすくむ。
その後、思い立ったように携帯電話を手に取った。

















レイはベッドにうつ伏せになっていた。目は開いている。
制服姿のまま、何をするでもなかった。
途切れたカーテンから入る月の光が、レイの水色の髪の毛を照らしていた。
微かな虫の音が、ガラス窓の向こうから聞こえてくる。

わたしのした事は正しかったのかな…。
碇君に冷たい言い方をしちゃったかもしれないな…。
でも、わたしにとっては二人とも大事な人だから……。
できる限りの事はしてあげたいけど…。

レイは部屋の隅にある黒いテレビに目を走らせた。
テレビの上には少し古くなった眼鏡ケースが置かれている。
クリーム色の皮で作ってあるそのケースは、普通の女子中学生には、縁のなさそうなものだった。


……司令……。


あの時、司令はわたしを助けてくれた。
手が火傷するにもかまわずに、プラグの中からわたしを助けてくれた。
嬉しかった。
でも、司令がわたしの事をどう見てるか、最近はよくわかんないな…。
昔は、数少ない、わたしに優しくしてくれる人だった。
訓練の合間に司令に会うのは嬉しかったっけ。

……碇君と会ってからは、どうなのかな……。

突然、レイはゴロンと転がって仰向けになると、少し足を上げる。

「よっ」

と、声を出して、勢いをつけて跳ね起きた。
そのままベッドの上に立ち上がると、床に下りてスリッパを履き、部屋の明かりをつける。
2、3回点滅した後、部屋が光に包まれた。

「大丈夫よ、碇君は。それに、わたしだって、元気付けるくらいのことはできるんだから!」

自分に言い聞かせるように声を出して言う。気分が軽くなった気がした。
お風呂に入ろうかな、と椅子にかけられたバスタオルを手にしようとしたその時に、ポケットに入れてあった携帯電話が鳴った。
はたと気付いて、ポケットから取り出し、通話ボタンを押す。
時刻は9:30を少し過ぎた程度。

「もしもし?綾波ですけど……。……碇君?」
















「じゃあ」
「行って」
「来ます…」

3人は玄関のペンペンに向かい合い、出発を告げると、それぞれの目的地へと向かった。

ミサトは、友人の結婚式。赤いジャケットに黒のドレス。首にパールのネックレス。
アスカは、ヒカリの姉の友人とデート。ライトグリーンのワンピース。
シンジは、墓地へ。もちろん、いつもの制服のままだった。

3人とも、駅へ向かうという事だけは共通していた。

「じゃあ、シンちゃん、お母さんによろしくね。しっかりお参りしてくるのよ。」
「はい…。」
「いくら御墓参りでも、そんな辛気くさい顔しないの。お母さんに嫌われちゃわよん?」
「はい…。すいません…。」
「とにかく、頑張ってきてね。」

出かけに、ミサトはシンジにそう言って励ました。
あまり気が乗らないような彼の様子は、それほど前日からと変わってはいなかったが、嫌な顔だけは見せなくなったために、ミサトもやや安心していた。

「ま、問題ないんじゃないの〜?昨日誰かさんに電話してた見たいだし、さっ!」
「え?それは……その……」
「はっ、なおさら格好悪いとこ見せられないってとこじゃない?」
「………。」

アスカの口調はからかい調子だった。
彼女なりの言い方だろうか。やっぱり喧嘩なんて長く続かなかったじゃない、と思いながら。
駅の入り口に立っている、制服姿の水色の髪をした少女を見て、そう言った。















「あの…綾波?」
「なあに?」

第3新東京市の都心環状線は、その日は余り混んでいなかった。
シンジにとっては、あまり良い思い出の無いその電車。
彼がこの街に来たのも、逃げ出そうとしたのも、NERVへ通うのも、この電車を介してだった。
電車の中には子供連れの親、制服姿の学生、NERVの勤務者などの姿。
シンジとレイは、ドアの隣の椅子に隣り合わせで座っている。

「ごめん、結局ついてきてもらっちゃって…。情けないよね、自分の母親の御墓参りなのに…。」
「……良いの。碇君はわたしについてきてもらいたかったんでしょ?」
「……うん……。」
「碇君が、自分で司令と話したいんでしょ?」
「………うん………。」
「じゃ、良いのよ。」

碇君が、自分でそうしようって決めたんだから。
わたしは励ましてあげることくらいしかできないけど。
励ましになると、良いんだけど。
二人で話さないと、きっと、いつまでも変わらないし。
……今日は、あんまりお喋りしないようにしないといけないかな。

「それに…。」
「?」
「碇君のお母さんにもご挨拶したいし、ね。」
「そ、そう。」

碇君のお母さん、どんな人だったんだろう。
司令を見ていると……碇君はお母さん似なんだろな。
やっぱりわたしにも似てるのかな…。
う〜ん…。
偶然の一致、ってことにしかならないのかな。
碇君見てると、お母さんもやさしそうな人だったんじゃないかな、なんて思えるし。
その碇君のお母さんと似てるんだったら、悪い気もしないしね。
ホントは、お母さんってだけじゃちょっと不満なんだけど…。そんな事、碇君は気付いてないよねぇ。

「ど、どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。碇君のお母さんって、どんな人だったのかな、って。」
「さあ……。僕は、写真とかでも見たこと無いんだ。だから……」
「そっか…。ごめんね、変なこと聞いちゃって。何て、これで2回目かな。」
「いいよ。僕も憶えてないんだし。もしかしたら、父さんから何か聞けるかもしれないんだから。」
「そだね。そのためには、しっかり司令と話さないと!!」
「うん……がんばってみるよ。」
「その意気、その意気!何とかなるって!」

そ、何とかなるわよ。
気持ちだけでも伝われば、無駄じゃないんだから。
















荒涼とした大地に、規則正しく、細長い長方形の石が並べられている。
他には何も無い。
埃を含んだ風が辺りを巻き込んでいた。風の音だけが耳につく。
空は曇って、日差しはあまり強くない。
シンジは数え切れないほどある石の中で、自分と同じ苗字が書きこんである墓の前でしゃがみ込んでいた。
碇ユイ。
シンジの中で、母親の印象はあまり強く残ってはいない。漠然とした、やさしい女性のイメージが残るのみ。
墓石の前には数輪の花が添えられている。
ゲンドウはその後ろに立って、自分の妻の墓石を見つめていた。
レイは二人の邪魔にならないように気を配ってか、2メートルほど墓から外れた位置にいた。

「ここで会うのは3年ぶりか。」
「僕は……あの時逃げ出してからここへは一度も来てない。ここに母さんが眠っているって、ピンとこないんだ。顔も覚えてないのに…。」
「人は、思い出を忘れることで生きていける。だが、決して忘れてはならないこともある。ユイはそのかけがえの無いものを教えてくれた。私はその確認をするためにここに来ている。」

父さんにとって…母さんはどんな人だったの…?僕と違って、父さんには母さんが必要だったの?
父さんが必要とした母さんを、僕は知りたかった……。

「写真とか残ってないの?」
「残ってはいない。この墓もただの飾りだ。遺体は無い。」
「……先生の言ってた通り……全部捨てちゃったんだね。」

ゲンドウは前にいるシンジの左手首に目をやり、何かに気付いた風だったが、すぐにいつもの表情を取り戻して、シンジの言葉に答えた。シンジは立ちあがり、墓標に視線を注いでいた。

「………全ては心の中にある。今は、それでいい。」
「そう……なんだ…。」

父さんは、何か母さんに思い残したことは無かったんだろうか。
全てを捨てられるほど、吹っ切れた、ってことなの?
父さんの心の中に、どういう母さんが残っているかは、僕には分からない…。
なぜ心に残っているのかも分からない…。

……大切だったから……?
……母さんが……。

NERVの輸送機が、派手な音を立てて上から降りてきた。
乾いた砂を風が舞いあげる。
僕は手をかざして砂埃から目を守った。

「時間だ。先に帰る。」

そっけないその声を聞いて、僕は父さんの方を振り返った。
サングラスを透して、父さんの目が見える。しっかりと僕を見ている。
僕をまっすぐに見ていたその目は、父さんが振り返ったためにそらされた。
父さんは待っている輸送機に向かって歩く。

綾波が僕の方を見ているのが分かる。
僕は今日ここに来ても、結局父さんのことはよく解らなかった。
綾波は、呆れてるのかもね。
話をする、なんて言ったのに、ろくに話もしていない。
綾波がいてくれれば、話す勇気も出るかと思ったのに。
だめだよね、僕は…。
……でも……。

「父さん!!」

去りかけていた父さんは、僕の声を聞いてゆっくり振り返った。

「あの……今日は…嬉しかった。少しでも……父さんと話せて……。」
「そうか。」

低い声で父さんが答える。
それだけでも、前とは違う気がした。
だから、自然と口から言葉が出た。

「できれば……また……。……また、会って欲しいんだけど…。」
「……時間があれば、な。」
「……ありがとう。」








僕は、空へ飛び去ったNERVの輸送機を見ている。供えた菊の花びらが、風で少し散ってしまっていた。他の墓にはなんの供えも置かれていないため、周りから見ても母さんのお墓は少し目立つかもしれない。
綾波は僕の前で、しゃがんで母さんのお墓に向かって手を合わせていた。
さっきから、綾波とは何も話していない。
やっぱり……呆れてるのかな……。

「ね、碇君。」
「な、何?」

しゃがんだまま、綾波が言った。あまり怒った調子じゃないみたいだ。
もしかして、怒る気にもなれないのかな…。わざわざついてきてもらったんだから、当然かな…。
僕は、たったあれだけの会話でも嬉しかったんだけど…。

「司令って、碇君のお母さんのこと本当に好きだったんだね。」
「ど、どうしてそう思うの?」
「だって、遺体も何も残ってなくても、ここに来ているんでしょ?しっかり思い出すために…。忘れないように。」

……うん……それがわかっただけでも、今日、父さんと会えて良かったかもしれない…。

「………そうだね………。」

綾波は、ぱんぱん、と、スカートの埃を払って立ちあがった。

「あの、綾波。」
「な〜に?」
「その……怒ってない?」
「どうして?」

振り返った綾波は、いつもの笑顔で僕の方を見ている。
とても怒っているようには見えない。むしろ、機嫌が良い様にも見える。
綾波は、どんなつもりで僕達を見ていたんだろう…。

「だって……せっかく綾波に来てもらったのに、たったあれだけしか父さんと話せなかったんだから……」
「……別に、良いと思うよ?碇君だって、司令と話せて嬉しかったんでしょ?」
「……うん……。」
「じゃ、いいじゃない!碇君はよくやってたと思うもの。」
「そうかな。」
「そうよ。何事も、焦らない焦らない!また会えるんだから。」
「……うん……。」

いつか、父さんと解かり合える日が来るかもしれないんだ。
今は父さんのこと、よく解からないけど、そのうち解かるようになるかもしれない。
父さんも、僕を解かってくれるかもしれない。
少なくとも、僕の敵になろうとしているわけじゃ、ないんだよね……。

「綾波、帰ろうか。」
「うん。」













「は〜あ。結婚、ねえ……。」

ミサトはテーブルに出された赤ワインをちびりと飲み、一言つぶやいた。
右隣には、緑色のドレスを着たリツコ。
左隣の席は空席だった。
式場は新婚夫婦のために華やかに彩られていた。また、そこに参加している人達の服も綺麗に着飾っている。
式中、大学時代の友人だった新婦は、ミサトにとって初めて見せるような表情をして彼女を驚かせた。
そんな思いも込めた、一言だったが。

「なに?改めてしたくなったのかしら。」
「べっつに〜。でも、ああ幸せそうな顔されると、ちょっちね〜。」
「こういう仕事をしてると、結婚に憧れるのも無理ないわね。」
「は〜あ、今更どうこう言っても何にもならないんだけどさ〜。」

ミサトはチラッと隣の空席を見る。
どうせ時間通りには来ないんじゃないか、と思っていた昔の恋人は、彼女の予想通り式の開始には間に合っていない。

「遅いわね、加持君。」
「あんのバカ、時間通りに来た事なんて一度も無いわよ!!」
「そう?仕事のときは、真面目だったみたいだけど。」
「だから腹立つのよ!!」

その時、二人の席に近い式場の扉がゆっくり開いて、タキシード姿の男性が入ってきた。
相変わらずの笑顔と、後ろで縛った髪の毛。
乱れたネクタイと不精髭は、その服装に似つかわしくなかったが。

「や。お二人とも、今日は一段とお美しい。仕事が忙しくてね。時間までに抜けられなかったんだ。」
「よく言うわよ、元々、時間通りに来る気なんて無かったくせに。どうでも良いけど、その格好なんとかなんないの?」
「ひどいな、わざわざ新調してきたんだぜ?この服。」
「その髭とネクタイのことを言ってんのよ!ほら、もっとしっかりなさい!」

そう言ってネクタイを締めるミサトに、こりゃ、どうも、と答える加持。
リツコはそんな様子を横目に、料理をつついていた。

「ミサト、結婚するのも悪くないんじゃないの?お相手もいるようだし。」
「お?葛城、結婚願望があったのか?いいぞ、俺はいつでも受け入れる準備があるんだからな。」
「……誰がアンタなんかと。」















4時を20分ほど過ぎた、コンフォートマンションの午後。
その一室には、柔らかく、低い弦の音が流れていた。
椅子に座って、自分の体半分ほどもある楽器を弾く少年と、前でちょこんと座りながらそれを耳にしている少女。
その少女のひざの上で、眠っているペンギン。
少年の弓からつむぎ出される音は、午後のオレンジ色の日差しとあいまって、程よい眠気を少女に提供している。こくり、こくりと少女の水色の頭が上下している。
一連の音は流れにのり、余韻を残してその音を止めた。
目を瞑りながら弾いていたシンジは、満足してその目を開ける。

「綾波?」
「………。」
「………寝ちゃっ……たの?」
「……えっ!?な、何、碇君。」
「あ、起こしちゃったかな。」
「ゴメンね、あんまり気持ち良かったものだから。つい、うとうとしちゃって。」

えへへ、と照れ笑いしながらシンジに言う。
ひざの上のペンペンは、すでにぐっすりの様だった。シンジは笑いながら弓を椅子に掛ける。
レイの耳には、まだチェロの音が残っていた。眠たげな目をこすっている。

「碇君、すごいんだね。チェロができるなんて、知らなかった。」
「5歳のころから始めてこの程度だから。……才能なんて別に無いよ。」
「そう?わたしにはとっても上手に聞こえたけど。」
「え?あ、ありがとう…。」
「まぁ、わたしは音楽のことなんて分からないから、わたしに言われても、だめかな。」
「ううん、うれしいよ。そうだ、綾波、喉、かわかない?昼ご飯から何も飲んでないよね。」
「あ、わたしが用意する。ユニゾンの時に食器の場所とか覚えちゃったんだ。碇君は、チェロ弾いててよ。わたし、もう少し聞きたいな。」

レイはペンペンを起こさないように優しく側に寝かせると、立ちあがってキッチンの方に向かった。
シンジはその様子を椅子に座りながらぼうっと眺めていたが、時々自分のほうを見るレイに気がつくと、置いた弓を再び手に取った。
やがて彼の手元から、再びゆっくりとした低音が流れでる。


あ、碇君、チェロ弾いてくれてるんだ。
何て曲か知らないけど、良い曲よね。
こう、ゆっくりしててのどかな感じが好きだなぁ…。

……ん……。

……っと、こんなこと考えてちゃ、また眠くなっちゃうわ。
早く碇君にも飲み物持っていって上げよっと。
まだ暑いから…冷たいものが良いかな。
確か、冷蔵庫に麦茶が入ってたはず………ほら、あった。
んで、葛城さんはお酒を沢山飲むから、冷凍庫に氷は欠かさないっと……。
二つも入れれば十分かな……うん、冷たくて良いじゃない。これなら、碇君も喜んでくれそうね。

その時、レイの後ろのほうでぷしゅうと、ドアの開く音がした。
見ると、意外そうな顔をしたアスカがそこに立っている。

「あ、アスカ、お帰り〜。」
「ああ、レイ、来てたのね。……これ弾いてるの、誰よ。」
「碇君。チェロ、弾けるんだって。上手いと思わない?」

少し耳を澄まして、楽器の音色を堪能する。
リビングのほうから聞こえる、低音弦の滑らかな調べが耳に心地良い。
生で聞いたことってあまり無いけど、なかなか良い感じじゃない。

「……そうね。」
「でしょ?」

アスカは、普段履かないお気に入りの靴を靴箱の中に入れると、リビングへと歩く。
そこには目を瞑りながらチェロを弾いているシンジがいる。
ふ〜ん、ずいぶん機嫌がよさそうみたいね。
司令と上手くいったのかしらね。

「結構いけるじゃない。」
「え?ああ、アスカ帰ってたんだ。おかえり。」
「ただいま。そんなの弾けたんだ。意外ね。」
「いや……昔からやってるだけで、特に上手いって訳じゃないんだ。」
「ふ〜ん。ま、継続は力なりって事かしらね。ちょっと見直したわよ。」

アスカはシンジの前を横切りながら、自分の部屋に入る。
シンジは弓を置くと、部屋に入ったアスカのほうを見た。
寝っ転がっているのだろうか、ソックスをはいた足しか見えない。

「早かったんだね。夕食、食べてくるのかと思ってた。」
「あの子、つまんないんだもん。だからさ、ジェットコースター待ってる間に帰ってきちゃった。」
「それは…ないと思うな……。」
「あれ?アスカって、デートか何かだったの?」

グラスに入った麦茶をお盆に乗せて持ちながら、キッチンからレイが帰ってきた。
はい、とシンジにそれを渡すレイ。ありがと、と受け取るシンジ。
レイは先ほどと同じように、シンジの前に座る。
ごくっと麦茶を一飲み。冷たい液体が渇いた喉を潤し、レイの眠気を覚ました。

「べっつに〜。ヒカリに頼まれていっただけだけどさ、大して面白くも無い子だったわ。」
「まあ、アスカを満足させるのは難しそうね。」
「何よ、それ!」
「何でも無いわよ。加持さんは偉大だって事かな。」
「まったく、いろいろ言ってくれちゃってるわね。あ、レイ、わたしにも飲み物頂戴。」
「もう、人使い荒いんだから!」

そう言ってレイは口にしていた麦茶をテーブルの上に置くと、またキッチンへ向かう。
食器棚から新しいコップを出し、冷蔵庫に冷やしてある麦茶を注ぐ。
冷凍庫から二つほど氷を取り出す。指で冷たそうにして持ちながら、コップの中に入れる。
シンジは、そうしていそいそと動いているレイの背中を、なんとなく眺めていた。

綾波って、こういうの似合うよね。
やっぱり、綾波を見てると、お母さんって感じがしちゃうんだ。
ほら、ああやって食器を片付けたりしているのなんて、きっとそのままじゃないかな。

「なに見てんのよ、シンジ。」
「え、あ、いや、なんでもないんだ。」

レイを見ていたシンジは、アスカが隣に来たのに気がつかなかった。
いつのまにか、Tシャツにスパッツといういでたちに着替えている。
レイに見とれている事に感づかれたシンジは、少し顔を赤らめる。

「は〜ん、ずいぶんとご熱心な目でレイのことを見てるのね〜。」
「べ、別にそんなんじゃないよ。ただ、さ…。」
「ただ、何よ。」
「綾波って、お母さんって感じがしない?ほら、今もああやってるけど…。」

シンジが視線を送った先にはお盆にコップを載せているレイ。
アスカの分だけではなく、シンジの分の麦茶まで注ぎ足しているようだ。

「…まあ、確かにね…。」

アスカもシンジの視線の先にあるレイを見る。
先日、家庭科の時間に見た彼女と、同じような様子。
アスカにとって、どことなく懐かしさを感じさせるものだった。なぜかはアスカ自身にもわからない。しかし、彼女はそれを認めたくないようだった。

「どうしたの?二人とも。ほら、麦茶入れてきたよ。」
「あ?ああ、ありがと。悪いわね。」
「何を二人して話してたの?」
「な、何でもないのよ!」

アスカはお盆の上から麦茶をもらい、それをぐいっとあおる。
照れ隠しにレイのほうから顔を背けていたが。

「あ、綾波ってさ、案外主婦とか似合いそうだよね。」
「え、え?」

驚いてシンジのほうを見るレイ。ぱっちりと目を開いていた。
シンジの突然の言葉に、アスカは麦茶を噴き出してしまった。喉が詰まって、2度3度咳き込んでいる。
言ったシンジは平然とした顔をしている。彼としては、純粋な感想を述べただけに過ぎなかったのだが。

「アンタ、淡白そうな顔して、意外と大胆な事言うのね……。プロポーズでもする気?」
「ええ!?い、いや、僕の、とかそういう事じゃなくって、ただ似合ってそうだな、ってことを言っただけで…」
「わ、わたしが、い、碇君の、奥さん?」
「ち、ち、違うよ、そんな意味で言ったんじゃなくって、なんか良いなって、それだけで…その…」

わたしが碇君の奥さん?
そりゃ、主婦っていうのにも少しは憧れがあるし、いつかはなってみたいな、なんて思うけどさぁ……。
わたし、結構がさつだし…。
洗濯物も結構溜め込んじゃうし…。
碇君より、お料理できないし…。
ちょっとまだ早いって言うか……そ、その……う、うれしい……けど……。

「………な、何を……言うのよ……」

うう、わたしってば、何考えてんだろ!












結婚式で飲み足りなかった3人は加持の案内に従って、お洒落なバーに来ていた。
ホテルの最上階にあるそのバーからは、第3新東京市が一望できた。
弱い赤と緑の蛍光色が、大人の雰囲気を醸し出している。
流れてくるピアノの音は、程よく客の会話の隙間を埋めていた。決して耳につくことはない。
3人は夜景の見える窓際のテーブルについている。

「そうなの……。レイとシンジ君が、ね……。」
「そ。結局仲直りして、シンちゃんのお母さんのお墓参りに行ったってわけ。」
「まあ、仲が良いに越した事は無いじゃないか。普段はパイロットとしても大変なんだから、さ。」

先ほど、ミサトがシンジに電話をかけた時は、シンジの機嫌が良いような気がした。
レイとも仲直りして、司令と会うのも上手く入ったんじゃない、という事が三人の間で出された結論だった。
リツコは目の前においてあるピンク色のカクテルを飲み干した。
彼女はこの後も仕事へ行く予定だったので、この一杯しか飲んでいない。

レイとシンジ君があそこへ行ったのね…。
皮肉な事、と言うべきかしら。それとも、当然の事、と言うべきかしらね。
ミサトとシンジ君のところと同じね。
結局、私はレイの事を何も解かっていない…。

「こんなご時世でなければ、デートの一つにでも行かせてあげたい所だけど。」
「そうだな…。しかし…。」
「しかし、何よ。」
「あの二人って、もっと強いものを感じないか?結びつき、と言うか、絆、と言おうか…。」

加持はウイスキーを飲みながらミサトに言う。カランと、グラスと氷が高い音を立てた。
ミサトは不思議そうに加持を見る。ペースよく飲んでいるため、少し酔いが回りがちな様子だった。

「な〜にそれ。」
「いや……単なる思い付きさ。お互い、相手をどう思っているかさえ気付いていないようだが。」
「……私、そろそろ帰るわ。まだ仕事も残っているしね…。」

リツコが席を立って言う。
甘いはずのカクテルの味も、既に口には残っていなかった。

「そう?」
「残念だな。久しぶりだ、って言うのに。」
「また機会もあるわよ。そうだ、加持君……」

リツコは振り返って加持を見た。
加持はいつのまにか煙草を右手に持っている。
彼女は後ろ髪を払って、わざと軽い調子で話し出す。

「あんまり下手な事しないほうが良いわよ。今日もどこかへ行ったみたいだったけど。これは、友人としての忠告。」
「……真摯に聞いておくよ。」

クスリ、と笑ってリツコは出口へ向かった。
対照的に、苦笑いをする加持。
リッちゃんは何でもお見通しか……。
これは、なおの事退けないな。葛城にはあまり知らされていないようだが……。

「リツコ、何の事言ってんの?」
「……さあな。送り狼にはなるな、と言う事じゃないのか?」
「当たり前でしょ!」















「ねえシンジ、キスしよっか。」

テレビを見ていたアスカが、シンジに突然そう呟いた。10時も過ぎようという時間。
レイは夕食をご馳走になった後、ひとしきりお喋りをして帰った。 帰りがけに、シンジとアスカが二人きりなのを見て、 「碇君、浮気しちゃ、だめだよ。」 などと言って、シンジを慌てさせていたが。
キッチンのテーブルに顔を横たえながら、アスカは随分つまらなさそうにしている。彼女の好きな番組などやっていなかったのか、テレビを見ていると言っても興味はなさそうだった。先ほどのミサトの電話以来、ずっとその調子だ。
シンジはイヤホンを耳にしていたので、その声がよく聞こえなかった。
それを耳から外して、アスカに聞き直す。

「え?何?」
「キスよ、キス。アンタ、した事無いでしょ?」
「え、あ、……うん。」

シンジの頭には、ユニゾンの時の、レイの寝顔が甦っていた。
あの時の綾波は、綺麗だったな……。
考えてみれば、寝ているところを……だなんて、ちょっと卑怯だったかもしれないなぁ…。
……でも、そんな事アスカに言うわけにもいかないか……。

「じゃあ、しよう。」
「な、なんで!?」
「退屈だからよ。文句あるの?」
「退屈だからって、そんな…。」

アスカは少しいたずらっぽい笑みを浮かべながら、躊躇しているシンジを見る。
シンジはそんなアスカを直視できなかった。
そりゃ、アスカは向こうでいろいろ経験して来たのかもしれないけどさ。
僕はずっと日本にいて、そんな習慣ないし。……恋人……なんて、とてもいなかったしさ……。

「ふ〜ん。もしかして、レイに遠慮でもしてるのかしらねっ?」
「な、何で綾波が出てくるのさ!」
「な〜んか、意識してんのかなってねっ。」
「………」

綾波を意識してない、って言ったらきっと嘘になるんだと思う。
綾波がいると、元気になれる気がする。だから、今日綾波についてきてもらったんだ。
でも、その……そういう相手としては、まだよく分からない…。
アスカの事をどう思っているかさえも分かっていないのに、いいのかな、キス、だなんて…。

「あながち、間違いでもないんじゃない?」
「別に、そう言うわけじゃ…。」
「それとも、怖い?」
「こ、怖くなんてないよ!キスくらい!」

反発するようにして、勢いよく立ちあがる。
それに答えるようにアスカはシンジの前に向かい合った。

「行くわよ。いいわね。」
「い、いいさ!」

さすがにまっすぐ向きあうと意識してしまって、シンジは顔が紅潮してしまう。
つい、目を閉じてしまった。

アスカは平気なのかな、僕とキスだなんて……。慣れてる…って事なのかな…。
でも、何で急にこんな事しようなんて言い出したんだろう…。
からかってるのかな…そんなことだけでキスしようだなんて言わないよね、普通…。

そろそろか、と思っていたシンジだったが、予想されるような感触が無いので、目を開ける。
目の前には、10センチと離れていない場所にアスカの顔が迫っている。
うっ、ち、近いなぁ…。
アスカの息が、顔にあたる…。

「…鼻息がこそばゆいから、息しないで。」
「え?……んっ。」
















翌日。
NERV本部、深度地下2008メートル。
ターミナルドグマ。
何の飾りも無い、侵入者を防ぐシャッターのみがあるその場所に、二人の男女がいた。
女は男の首に銃を突きつけながら、目の前に広がる光景に絶句していた。
男は首の銃をまったく気にせず、平然と立っている。

ミサトの前にあるもの。

普段見なれたLCL。
記憶の淵に埋もれていたはずの、白い巨人。光の巨人。
その胸に突き刺さっている、二又の赤い槍。

それは、ミサトの二日酔いを覚ますには度が過ぎた。
15年前のあれが、何で今ここにあるのか。
やはり、セカンドインパクトとNERVは無関係ではないのか。
これで、司令やリツコは何をしようとしているのか。
明確な答えは、一つとして出なかった。しかし、備えるべきサードインパクトと無関係ではないのだろう、との予想はついた。NERVは、それを防ぐための組織ではないのか。

「アダム…。これが、NERVの秘密……かしら?」

目の前の男、加持に問う。
加持はここに何があるか知っていたのか、動揺を見せない。
数ヶ月前に、自分がドイツから持ってきたものを思い出していた。

「NERVにいくつ秘密が在るかは分からない。だが、これもその一つだろう。司令やリッちゃんが何をたくらんでいるか、なんていうのは見当もつかない。ただ……そのためには、これが必要なんだろうさ。」

目の前の巨人を見上げる。
全く身動きをしていなかったが、彼はそれが生きているのを知っていた。

「あなたが、NERVと日本政府の二束の草鞋をはいていたのは、こんな事を調べるためかしら?」
「ま、当らずと言えども遠からず、と言ったところかな。使える権利は多いほうが有利なものでね。」
「……昨日の借りに、今回の事はチャラにしてあげるわ…。」
「…すまないな。」

ミサトは久々に再開した巨人を、きっと睨んだ。
南極での父親の最後の顔が脳裏に甦る。
それから2年間、外の世界から心を閉ざした自分の姿も。

「…NERVは私が思っているほど甘くはないわね…。」















「じゃ、なんでそっけない態度を取るのよ!!」
「そ、そ、そんな事してないじゃないか!!綾波の気のせいだよ!」

休み明けの昼休みに、再び二つの大きな声が響いた。
休みに入る前と、ほとんど同じような光景が繰り返されている。
二人の言い争いを遠巻きに見ている人達は多く、外が晴れている、と言うのにグランドへ出て遊びに行こうとする人は少ないようだった。またしても、見ている人達は喧嘩の原因がわかっていないのだが、ただ見る分には興味深いものなのだろう。

そもそも、シンジの態度がいつもと違うような気がしたレイが、ちょっと問い詰めたところ、シンジが過剰な反応を示して否定したのが、始まりだったのだが。

「む〜っ。アスカとなんかしたんでしょ。なんか気にしてるみたいだしさぁ…。」
「し、してないよ!する事なんて、何も無いじゃないか!」

アスカとヒカリも先日と同じように、席についてその様子をうかがっている。
喧嘩の原因を知っているのは、アスカだけのようだった。
やはり同じようにケンスケとトウジがやってくる。

「あいつら、まだ仲直りしてないんかいな。意外と続きよるなぁ。」
「一回は仲直りしたんだけどね。」
「じゃあ、何でまた喧嘩してるんだ?」
「……さ〜てね。」

今日のは馬鹿シンジが悪いんだけどね。
キスの事隠すって事は、なんだかんだ言って、やっぱりレイの事気にしてんじゃない。
普段ちやほやされてるんだから、たまには痛い目にもあってもらわないとね〜。
断る勇気を持ってないのがいけないのよ!

「アスカ、何かしたの?」
「べつに〜。シンジの優柔不断のせいじゃないかしらね。」
「?」

ヒカリは、なぜかにやついているアスカを見る。
何かしたのね、とは気付いたものの、何をしたかまではさすがに分からない。
トウジには見当もつかないようだったが、ケンスケにはピンと来るものがあったのかもしれない。ふふん、と納得しているようだった。もちろん、ビデオを片手にして。

「じゃあ、ちゃんと目を見て話してよ!やましい事が無いんなら!」
「み、見てるじゃないか。やましい事なんて、何も無いってば!」

「なんや分からんけど、あいつらも大変やな〜。ま、触らぬ神にたたりなしっちゅうことやな。」
「そう言う事だね。」

妙な納得をして、トウジとケンスケは観客になる事に決めたらしい。
ヒカリもお弁当をつつきながら、様子をうかがっているようだ。
アスカは先ほどから薄ら笑いが消えていない。

「だから、別に対したことじゃなくって…。」
「……目が泳いでる気がする。」
「そんな事ないって…」

だからやだったのよ、碇君がアスカと一緒に暮らすなんて!
もっと反対しておけば良かった!
仮にも、男と女なんだからさ。
年の離れてる葛城さんの時とは、わけが違うのよ。
アスカって……積極的見たいだしさ…。
もうっ、昨日は…

「主婦が似合うだなんて、言ったくせに。」

ポツリと呟いた一言は、周りの人達にはっきり聞こえてしまった。
さらにあたふたするシンジ。
ひそひそ話をしだす女子。歓声を上げ始める男子。
目の前のレイは、ぶすっとしてじっとシンジを見ている。

「なんや。シンジはそんな事言ったんかいな。か〜っ、隅におけんやっちゃな〜。」
「い、碇君、それはちょっと気が早いんじゃ…。」
「意外と先を見るやつだったんだな、シンジって。」
「バ〜カ。」

「ち、違うよ、そんな風に言ったんじゃなくて…。」
「あ〜、じゃあ、あれも嘘だったんだ!」
「いや、あれは本当だけど、だから、その……。」






も〜っ、油断も隙も無いんだから!!
多分、アスカが誘ったのよ。
ううん、そうに決まってる。


……そうじゃなかったら、どうしよう……。
……そんなの、やだな……。


うううっ、碇君、今度はそう簡単に許してあげないんだから!!






FIN







masa-yukiさんのリナレイ版エヴァ第8弾です。エヴァの出てこない『嘘と沈黙』の回。
冒頭のケンカのシーン、何を言い合っているのかと思ったら……そういうことでしたか。
シンジ、いかんね。せっかくレイが心配してくれているのに。
そしてこの回のメインイベントその一、「何を言うのよ」は意外なところに表れましたね。
しかし、レイの誤解が将来誤解でなくなることを願いましょう(^_^;)
そして、メインイベントその二……レイとするのかと思ってちょっち期待してたのに(^_^;)

Written by masa-yuki thanx!
感想をmasa-yukiさん<HZD03036@nifty.ne.jp>へ……


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