11:50、第壱中学校、家庭科室。

そこは、2年A組の生徒達による素晴らしいまでの喧騒に満ち満ちていた。
思春期の少年少女にとって、学校で行う調理実習というのは、とても楽しいものに違いなかった。
退屈なノート型パソコンに向かう授業や、老教師のセカンドインパクトの思い出話に比べれば、よほど活動的で、生産的なものだったから。

九つくらいのグループに分かれているため、料理を作るスピードにも差が出ているのであろう、幾つかのテーブルからはもう良い匂いが漂ってくる所があった。
その周りにはつまみ食いを狙っている男子も数多く見られるのだが。お昼を前にした子供たちのお腹には、充分過ぎる刺激になっているのであろう。

アスカとレイのグループは、若干遅れ気味のようだ。
本来はヒカリも加わるはずなのだが、その日に限って風邪で学校を休んでしまった。二人とも戦力として、かなりヒカリを頼りにしていたため、予想外の事態に二人は手際を悪くしている所であった。
調理テーブルで、お互いが向き合うような格好である。

トントン、と規則正しい音を立てながら、レイの包丁がまな板の上で動いている。
が、それを動かしているレイは目から出る涙をこすりながらの作業だった。
タマネギを切るのはあまり慣れていないようだ。
ジャガイモを前にしているアスカは、それに包丁を入れるのに戸惑っているのであろうか?
手はあまり動いていないようだった。

「ねえ、アスカ、ちゃんとやってくれないと終わんないってば。」
「わ、わかってるわよ、うるさいわねえ…。」

アスカは思い切って、ジャガイモに包丁を縦に入れると、ずん、と体重を乗せて真っ二つに割った。
レイはその仰々しさに目を丸くしたが、我に返ると、ふたたび自分の目をこすりこすり、包丁を動かし始めた。

まいったな〜、このペースじゃ、絶対昼休みまでかかっちゃうな〜。
ヒカリったら、肝心な時に休んじゃうんだから。携帯で電話した時は、すごく残念がってたけど。
実は誰か食べてもらいたい人がいたりしてね…。怪しいな。
ま、いいや。ヒカリには放課後持っていってあげよ。
そうだ、ちょっと多めに作って、碇君に食べてもらおっと。
喜んでくれると良いなぁ…。

目をいつもより赤くしていたが、にこにこ顔のレイだった。

「何泣きながら笑ってんのよ。気持ち悪いわね。」
「へ?き、気にしないで良いのよ。それより、早く作っちゃお。お腹、ペコペコなんだから!」
「…食欲だけは旺盛なのね。」

12時も回り、そろそろ4時間目の授業も終わってしまいそうだ。
アスカは自分達が遅れている事が気に食わないらしく、急に包丁のスピードを早め始めた。
皮をむいたジャガイモがどんどん小さくなっていた。

そうして手際良くやっているはずなのだが、
アスカは何処となくレイの方を見ている。ちらりちらりと視線をやっている。
気にしている、というより、何かを言い出せないでいる、と言った様子だった。
時々、自分がレイを見ている事に腹を立てて、荒っぽく包丁を振り下ろす。

レイは今、切ったタマネギを手近なボールに入れ、隣においてあるニンジンを手にし、包丁で皮をむいている。
快調に進んでいるようで、鼻歌なども出始めていた。
膝まであるエプロンが、制服の青いスカートまで隠している。
白いブラウスとピンクのエプロンに、清潔感が漂っている。
水色の髪の上に、ちょこんと乗っている白い三角巾も、なぜか違和感が無い。
笑みが溢れたその表情は、いかにも楽しげである。
その姿は、まるで…

「ねえ、レイ」
「な〜に〜?」

アスカは、ジャガイモを切った包丁を両手でそのまま、まな板に押し付けながら、口を開いた。
下を向きながら、盗み見るような彼女を見る。
それに答えるレイの声は、五線譜に乗っているようだったが。

「アンタさ………ママがいなくて寂しくなかった…?」

何、アタシこんな事聞いているんだろう。
人にママの事を聞くなんて、アタシらしくない。
少し境遇が似てるからって、レイはレイなのに。
でも、この姿を見ていると………。

言葉を受けてレイは包丁の動きを止めると、アスカの方を見た。
アスカは、じっと手元のジャガイモを見つめ、口は真一文字にきっと閉じられている。

ママ…?
親、じゃなくて、ママって聞いたの?アスカ。

「………。…寂しくないわけないの。でも、リツコ博士が、昔からいたから。」
「リツコ?」
「うん。ああ見えて、実は結構良い人なんだよ?わたしの親代わりみたいなものだったし。でも、昔はやっぱり本当の親に会いたくて、駄々をこねた、なんて事もあったんだ。」
「そう。」
「アスカには、いるんでしょ。お母さん…。」
「……血は繋がってないのよ。ドイツにいた時も、そんなに一緒にいたわけじゃないし。嫌いって訳じゃないんだけどね……。」
「そうなの…。でもさ、いないよりは良いじゃない!ドイツから一人で日本に来てるんだもの、きっと心配してるよ、お母さん。」
「関係ないのよ、あんな親は。………アタシは一人でやってきてるんだから、それで良いのよ。」

やっぱ、アタシ、どうかしてるわ。
そんなの、当たり前なのに。今までこうしてやってきたんじゃない。
レイがどうであれ、アタシには関係ないわ。

「アスカぁ。」
「な、なによ、変な声出さないでよね…。」

レイは、包丁とニンジンを置いて、テーブルの向かい側にいるアスカの所へ歩いた。
アスカは真剣な顔をして目の前に立っているレイに対し、後ろへ一歩引いてしまう。

他の生徒は調理も終わって、食事の準備が整い始めたようだ。ざわめきが勢いを増してきた。
食器が重なり合う音が、けたたましく響いてくる。
グループごとに食事になるので、早い所からは声の揃った「頂きます!!」の声もあった。

レイは何も言わずにアスカと向き合っていた。

「アスカ」
「だから、なによ……、……!?」

レイは真正面からアスカの頭を両手で挟んだ。
何をするのか、と思っていたアスカは、意表を衝かれてどぎまぎしてしまう。
まだレイの真剣な視線は変わっていない。
アスカはその視線を避けられなかった。射抜くような視線でも、決して嫌なものではなかったから。

「な、なにす」

その時、言葉は途中で途切れた。
10cmと離れていない場所で、赤い目と青い目がお互いを捕らえている。
表情を崩していないレイ。少し頬を赤く染めているアスカ。
体温がアスカからレイに伝わる。

自分の額とアスカの額を合わせたレイは、やさしく口を開く。

「ねえ、アスカ、一人で頑張っても疲れるだけだからさ。少しは頼ってよ。友達じゃないの。大変だよ?一人でなんでもやるのって。」
「な、何言ってんのよ、離しなさいよねっ。」
「だめ。分かってくれるまで、離さないもん。」
「分かった、分かったわよ!だから離しなさい!」
「だめっ。分かってない。アスカ、いつもそうやって一人でなんでもやろうとしてさ、全然周りの人を見てない。」
「そ、それは…。」

それまで握られていた両拳が、力無く開かれた。
青い目が脇へと逸らさる。
レイは額を離して、アスカを開放した。
アスカは自らの手で、栗色の前髪がかかった額を軽くなでる。少し体温が下がっている。

「偉そうな事言う気無いけどさ。 相談の一つはして欲しいな〜。もしかして遠慮しちゃってるの?」
「っ、、、」

軽く唇をかむ。
見透かされた気がして不安になった。

何で、あんたにそんな事わかんのよ…。

レイは、少し気まずそうな顔をしているアスカを後にして、また作業に戻った。
程なく、高い音程の鼻歌が聞こえてくる。
アスカはそんなレイを見ながら、しばらく立ち尽くしていた。


「あの、アスカ?」

後ろから聞き慣れた少年の声がした。
毎朝見慣れた緑色のエプロンを身につけたシンジが、アスカの真後ろに立っている。

「な、なによ!!急に人の真後ろに立たないでくれる!?」
「ご、ごめん。」

アスカは憂さを晴らすように大きな声でシンジに言った。周りにいる生徒達が一斉に二人の方を見る。
びっくりしたシンジは、一歩引いてしまった。

「んで、何の用よ。何も無いんだったら、あっちに行ってなさいよね、まだ終わってないんだから。」
「アスカの班って、肉じゃがを作るんだよね?」
「そうよ、なんか文句あんの?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど…」
「じゃあ、何なのよ!!はっきり言いなさい!!じれったいわね!!」

アスカは包丁をまな板に振り下ろす。
そのアスカの勢いに押されながらも、シンジはアスカの手元に置かれた包丁とジャガイモを見る。
別に何の変哲も無い、普通のメイクイーンだった。
しかし、肉じゃがを作るにしては…

「その…肉じゃが作るのに、ジャガイモをそんな小さく切っちゃって良いのかな?……なんて……はは……」
「………。」

そのジャガイモは、やや不格好な短冊切りにされて、まな板の上に乗っていたのだった。













そんな彼女の可能性〜ENTWINED RELATION〜













NERV本部、作戦室。
床に大きく埋め込まれたディスプレイには、25ものモニターが映し出されていた。
望遠の差はあれど、そのどれもが本部内の重要個所を映し出している。
四方5m以上もあるディスプレイの周りには、たった三人の人影しかなかった。
部屋は薄暗く、ディスプレイの光だけがその三人を照らしている。

「破損個所の修復は終わったのかね。」
「80%といった所です。シグマユニットだけはしばらく使用不能。オートパイロットの実験は、先送りですね。」
「そうだな。」
「初号機が無事ならそれで良い。老人達には何もできん。アダムへの接触は避けられた…。」

リツコは手元の資料をめくりながら、ゲンドウと冬月の二人に報告を行っていた。

先日、エヴァの模擬体を用いて行ったオートパイロットの実験の際、本部内に使徒が進入した。
細菌タイプの第11使徒、イロウルは、生命体のままコンピューターとなり、マギ本体にハッキングを行った。三つに分かれているマギのうち、メルキオール、バルタザールの二つまでが乗っ取られ、エヴァを使えないという状況に苦戦を強いられたものの、リツコとマヤが残りの一つ、カスパーから逆ハックを行い、進化促進プログラムを流し込んで使徒を撃滅する事ができた。

「ダミーシステムの進み具合はどうだ。」
「まだ簡単な行動ができる程度です。とても実戦には耐えません。………問題点はまだまだ山のように残っています。」
「そうか。」
「計画の内、機体相互交換テストは実行に移せます。零号機と初号機なら、コアのデータを書き換えるだけで充分です。ファーストとサードの脳波も類似点が見られます。」
「……速やかに実行に移せ。時間が多いに越した事はない…。」
「……はい。」

明解な言葉と技術用語を巧みに繋ぎあわせながら、リツコは報告を淡々と行う。
ゲンドウはそれに短く返す。時折冬月の質問が入り、リツコはそれに答える。
数年間も続けられてきた作業だった。 誰の意志でもなく、いつのまにか決まった形になってしまっていた。
そして、どれほど淡々と報告を行っていても、一度として目の前の男にリツコがある思いをはせない事はなかった。

「…報告はそれで終わりか。」
「ええ。以上です。」
「ならいい…。退出しろ。」
「………はい。」

私はまだこの人に何かを期待している…。
一度だって、この人は私に何かを期待しなかったのにね…。
母さんも同じ事を考えたのかしら。それを分かっていて母さんは、この人を…。
本当、…救えない親子ね。

ガチャン、とディスプレイの電源が落とされ、真っ暗になった部屋の中で、リツコは一人立っていた。
ゲンドウと冬月の姿はもう無い。
資料を脇に挟み、右手を白衣のポケットに突っ込んでいる。 それは、大学当時からの彼女の癖だった。
優秀だったゆえに、他人には分からない実験が多かった彼女は、そうやって思考を巡らせる事が多かったのだ。その孤独に、彼女は昔から慣れていた。あえて、その孤独に身を任せる事も多かった。

私は見なくても、私が育てたレイは見る、か…。
皮肉なものね。
どんな事をしても、私ではあの人に見てもらえないのに。
彼女を育てよう、と思ったのも私だったのにね。
そう言うのはおこがましいか。私がレイにした事なんて、ほんの些細な事に過ぎない。
偽善なのね、所詮…。

………ユイさんはどう思うかしらね………。

数瞬の後、金髪と白衣が、漆黒の闇に翻った。








今日も今日とて、NERVへ向かう…っと。  

わたし達はいつものNERVへ向かう坂道を歩いていた。
照り付ける日差しが少し眩しい。
いつまで立っても夏ばっかり。セカンドインパクト以前は、四季があったって話だけど、本当かな。
こんな暑さじゃ、全然信じられないよ。
それにしても、さ…。

「アスカが、ジャガイモあんなに小さく切っちゃうから。」
「もう〜、謝ったじゃない!!過ぎた事をくどくど言わないでよ!」

家庭科の肉じゃが、本当は上手く行くはずだったのに。 わたしはあんまりお肉食べないけどさ。
結局、ジャガイモが型くずれしちゃった。あんなに小さくしちゃったら、当たり前か。
せっかくだから、碇君には、綺麗に盛り付けしてるのを食べて欲しかったのにな〜。

「気にしないでよ、綾波。味付けは良かったんだし。その……おいしかったと、思うよ?」
「でもさぁ………。ヒカリだって呆れてたし…。」

ヒカリ、お料理はお手の物だから。
肉じゃがなんて家庭料理は、得意中の得意なんだろうな。
思いっきり苦笑いしてたわよ。ついでに一言二言、アドバイスなんて貰っちゃった。
はあ、経験者の言う事は違うわ。それにしても、ほ〜んとうに残念そうにしてたなぁ…ちょっと気の毒かな。

「やっぱ、ヒカリには食べさせたい男がいたのよ。前の日はあんなに気合い入ってたんだから。」

ん?
アスカもそう思ったの?考えてる事はおんなじって訳ね。
まったく、ヒカリってば♪

「やっぱりアスカもそう思う?」
「そりゃあ、ね。得意料理でいちころ、なんて考えてたんじゃないの?意っ外とあの子、ちゃっかりしてるから。」
「ねえ、ねえ、誰だかな?その幸せな男の子って!」
「そうね〜。ヒカリの趣味から言って…」
「ふん、ふん。」
「男っぽい奴じゃない?こう、守ってもらいたいとかさ。ヒカリって、結構少女趣味してるから。」
「そっかな〜、優しい男の子のような気がするけど。そうね、いつも隣で笑っている……って感じかな?」
「……それって、アンタの趣味じゃない?」

アスカは疑うような細い目をしながら、背中越しに後ろを見る。
な、なんで碇君を見るのよ。

「べ、別に良いじゃない、そんな事!わたしの話はどうでもいいの、この際。ね、碇君はそんな子、知らない?」
「え?」

聞いていたのかいないのか、碇君はきょとんとしてる。
う〜、碇君はこういう事、鈍そうだな〜。
そりゃ、そうか。もし鈍くなかったら、わたしにも、その……もう少し……さぁ…ねぇ…。

「シンジなんかに分かるわけないでしょ!!こいつが鈍いのはアンタが一番分かってるくせに。」
「………言わないでよね。腹立つから。」
「な、何の事?」
「何でもないの!誰か友達でいない?こう…男っぽくて、優しくて…」
「男っぽくて優しい?…う〜ん…良く分からないけど………トウジなんて………どうかな。」
「鈴原君?」
「うん。」

鈴原君かぁ。まあ、男っぽいといえばそうかもしれないし…。
顔が悪いわけじゃないし。
優しい、といえば………?
案外良い線行ってるかもね?あのジャージさえ何とかすれば。

お似合いな気もするけど…。

「あの筋肉馬鹿が相手じゃ、ヒカリが可哀相よ!もう少し知的な奴を選んでやったら?」
「でも、ヒカリってそういう事、気にしないんじゃない?いいお嫁さんになりそうだし。」
「そりゃ、そうだけど。でもあの馬鹿が優しいなんて話、聞かないわよ。」
「そういうのは、普段そう見えないのが良いんじゃない。二人っきりの時には優しくしちゃうゾ、みたいなっ♪」
「……アンタも結構少女趣味入ってんのね……」
「べ、別にそんな事、ないわよ。お似合いなんじゃないかな〜って思って。でも、もしヒカリがそうだとしても、鈴原君って…」
「ま、筋金入りの鈍感ね。なんたって、3馬鹿トリオのリーダーなんだから。ヒカリがどう思ってるのかは知らないけど。苦労するわね。」

わたしは少し後ろの碇君を振り返る………だめだ、こりゃ。全然関心ありそうにないわ。

む〜っ、そういう罪のない笑顔を、周りに振り撒かないでよねっ、もうっ!!














NERV本部、エヴァ専用のテストルーム。
先輩の指示を受けたマヤは、いつにも増したスピードでその華奢な指をキーボード上に躍らせていた。
モニターに映し出されたプログラムが次々と画面を下り、彼女の命令の形を成していく。
マヤはひとしきり指を動かした後、一つ深く息をつき、最後にパチン、とキーボード上に指を落とす。

どうやら一連の作業には、区切りがついたらしい。愛用の座布団が置かれた椅子に座ったまま、ふわあ、と大きく背伸びをした。

「あら、マヤ。終わったの?」

簡易エレベーターに乗って、リツコがテストルームにやってきた。
手にはネコの絵柄がついた、黒いコーヒーカップを持っている。そのコーヒーカップを手近なデスクの上に置いた。
背伸びの途中で後ろを振り返るマヤ。

「あ、センパイ!えっと、ブロック1030までは終わりました。後はシンジ君とレイちゃんのデータを変換するだけですけど。」
「そう。ありがと。さすがはマヤ、早いのね。」
「いえ、センパイのお陰です。裏技っぽい事も大分教わりましたし。」

顔にはやや疲れが見え隠れしていたが、一仕事を終えた達成感からだろうか。
マヤの表情は明るかった。
しかし、リツコがプログラムの確認のためモニターに向かうと、マヤはその表情を暗くした。

「センパイ………やっぱり使うんですか?ダミーシステム………。」
「………わたし達が生き残るためには、どんな手段でも使わなくてはならないのよ。たとえ、それが神を冒涜する行為であろうとも………、正しい事と限らなくても………。」
「……センパイは良いんですか。レイはセンパイが育てたんだって聞きましたけど……。」

リツコはモニターがスクロールしていく様を見ていて、マヤの方には顔を向けなかった。
しかし、彼女の言葉の後、リツコのキーボードを打つ音が若干大きくなったのを、マヤは聞き逃さなかった。

「…私の気持ちがどうであるかは、関係ないわよ。」
「でも………。」
「元々、私達のやっている事は救われた物ではないわ。今更やめようと言っても、使徒と時間は許してくれないでしょうね。」

リツコはプログラムのチェックを終えると、先程置いたコーヒーを手にとって、軽く飲んだ。
それはもはや冷めていて、あまりおいしくはなかった。不快感を早く取り除くため、一気に飲み干した。

「先輩を尊敬してますし、与えられた仕事はします。ですが、納得はできません…。」

マヤの言葉の直後、ガタン、と、大きな音を立てて、リツコがコーヒーカップをデスクの上に置いた。
その音に驚いてマヤはリツコの方を見る。 机の上の鉛筆が、カランと転がって床に落ちた。
コーヒーカップを押さえつけているリツコの手が、僅かに震えていた。

「それなら、貴方も私も納得できるような方法を、考えてくれないかしら!?」

「す、すいません…」

怒気を帯びたリツコの声に、反射的にマヤは謝った。
テストルームに沈黙が流れ、作動している機器の音だけが無機質に響く。
リツコはしばらくそのまま黙っていたが、やがて近くのコーヒーメーカーにカップを置いて、新しいコーヒーを作り始めた。
じきにカップには黒い液体が注ぎ込まれ、白い湯気が上がり始める。
床に落ちた鉛筆を拾って、机に乗せた。

「………私が悪かったわ。マヤに怒っても、どうにもならないのにね。……少し疲れているのかもしれないわね……。」

リツコはマヤにそのカップを差し出した。
ありがとうございます、と小さな声で言ったマヤはそれを受け取り、両手でしっかり持って飲み始めた。

そのコーヒーがブラックだったからだろうか。彼女は少し苦そうな顔を覗かせていた。













「碇司令!!」

ケージブロックからの、下りのエスカレーター。
NERV本部へと着き、これから更衣室へ向かおうとしていたレイは、そのエスカレーターに乗り始めていたゲンドウを見つけると、小走りに彼の所へ近づいた。 エスカレーターの機械音に、レイの軽い足音が混じる。
ゲンドウは上に見えてきたレイをサングラス越しに見ると、ポケットに突っ込んでいた右手を出した。

「レイ、か。」

そのレイはエスカレーターに走り乗り、手すりを掴んでバランスを取るようにしながらゲンドウの横を通り過ぎると、その一つ下の段板に降り立ち、クルリと彼の方をを向いた。

「はい!お元気でしたか?」
「ああ………。学校の方はどうだ?上手くやっているか。」
「もちろん!授業はちょっと退屈ですけど、みんなといると楽しいし。」
「そうか……。」

レイは笑顔でゲンドウを見ている。
相手をするゲンドウの目元が緩んでいるのは、サングラス越しにもはっきり見て取れる。
そのゲンドウを見て、またレイはよりいっそう破顔する。
反対側の、上りエスカレーターを行くNERV職員たちは、意外な顔でその二人を見ながら通り過ぎていく。

「お仕事……忙しいんですか?」
「………そうだな。楽ではないかもしれん。」

ゲンドウは再びポケットに右手を入れ、斜め上を見てレイから視線を外した。
レイは、少し気の毒そうな目でゲンドウを見る。
使徒が来るようになったからだろうなぁ。特務機関なんて、周りから見ると、うさんくさいのかもしれないし…。
もう、NERVにばっかり仕事が来てるんじゃないの!?

「そう…ですか……。お仕事なら仕方ないですけど、今度またお食事でもご一緒できれば…。あ、いつもおごってもらっちゃってるのに、こんな事言っちゃいけないか。てへへ…」
「いや、かまわん。時間があればな。」
「それと…」
「なんだ。」

少し戸惑った表情を見せるレイ。
下を向いて伏目がちに、切り揃えられた後ろ髪を右手で触っていた。
そんなレイの仕種に、ゲンドウはまた僅かに笑みが漏れる。
それは、自分でもまったく気付いてはいないのだが。

「できれば、その……碇君も一緒にお願いしたいんですけど……だめですか?」
「シンジ、か…。」

ゲンドウはサングラスを右手で直す。
その声が低くなったのは、レイにも良く分かった。
司令、碇君の事どう思ってるのかな、嫌ってなんてないよね。
……と、わたしは思うんだけど……。

「……シンジが私を嫌っているからな……。」
「そんなことない!」

もう、碇君も司令も、どっちも一人よがりで考えちゃうんだから!
どうこう言っても血は繋がっているのね。親子だったら、もう少しお互い話をするべきよ。
レイは語調を強くして上を見上げながらゲンドウに言う。
ゲンドウの視線は先程よりやや強かったが、レイはそれをあえて避けなかった。

「きっと、碇君も、ホントは司令と接したいと思ってるんです。でも、碇君もそういうのって言い出しにくくて…。だから、ご飯くらいは一緒に食べません?誤解も解けるかもしれないですし!」
「…そうだな…時間があればな…」
「じゃ、いいんですね!きっと碇君も喜んでくれると思います。」

はあ、良かった〜、断られたらどうしようかと思っちゃった。強引に押し切っちゃったけど…。
ちょっとお節介かもしれないけど、この親子にはこれくらい必要なのよ、きっと。

「レイ、シンクロテストがあるのではないのか………?」

あれ、と周りを見渡すレイ。 いつのまにか傾斜が無くなっている。
結局、レイはエスカレーターに乗ったまま階下に降りてきてしまったのだ。
苦笑いをしながら、レイはまた上りのエスカレーターに乗り移る。

「あらら、つい話し込んじゃって……。でも、忘れないでくださいね、司令!」
「ああ………。」

慌てながらエスカレーターを走り上っていくレイを、ゲンドウは眩しげに見上げる。
終始、その口元は緩んだままだった。
ゲンドウはレイが見えなくなるまで見つめていたが、彼女が視界から去ると、ポケットに手を入れていつものように表情を消し、長い廊下を歩き始めた。

(俺は……何をやっているんだろうな……。) 













「んで、結局なんでこんなテストをするかは、知らないって事?」
「うん………。リツコさんの考える事なんて分からないよ。」

テストルームに向かって歩く、シンジとアスカ。
お互い、既にプラグスーツに着替えていて、テストの説明を受けに行く所だ。
二人とも、レイの零号機とシンジの初号機を取り替えてシンクロテストを行うという事しか、あらかじめ聞いていなかった。

「まったく、取り替えたって何にもなりゃしないじゃない。どっちかが怪我をするとか、修復が終わらないとか、そんなとこよね、考えられるのは。」
「まあ、そうだけど…。」
「この間のオートパイロットの実験も訳わかんないまま終わったし、意外とリツコの趣味なんじゃないの?」
「まさか…。」

アスカは呆れた調子で言う。
弐号機に関しては今回のテストに何も関係はないのだが、シンジとレイの二人だけで行う、という事がどうも気に食わないらしい。
シンジは簡単に言葉を返しながらも、何故機体交換試験などやるのか、考えていた。
もちろん、答えが出る事はなかったのだが…。

「それでも、あんな科学者がレイを育てたって言うんだから。わっかんないものよね〜、人間って。」
「え、リツコさんが?綾波を?」
「ああ、どうもそうらしいわよ。ミサトはドイツ勤務だったし、ここに昔っからいた人なんて、そんなにいないわよ。」
「へえ…。」 

「やっほ〜、いっかりく〜ん、アスカ〜!!」

二人の後方から、レイの高い声が響いた。
NERVの廊下であれだけの声を出すのは彼女しかいない。
すぐに分かる。 タンタンタンと、後ろの曲がっている廊下から足音が近づいてきた。

「ほらほら、おいでなすったわよ、騒がしいのが。」
「はは……わかりやすいね…。」

走ってきたレイは、シンジの肩をポンと叩いて隣に並ぶ。
二人は歩みの速度を少し落とした。

「綾波、どこいってたの?テストも始まるって言うのに。」
「ふう……。まあ、まあ、いいじゃない。それより、何の話をしてたの?」
「リツコの趣味が、おかしいんじゃないかって事よ。」
「なにそれ。」
「そのまんまの、意味よ。」

プラグスーツ姿の三人はいつものように廊下を歩く。
すれ違う人の数が多いのは、いつもとは違う試験が行われるためだろう。 
作戦部や技術部以外の、普段現場に駆り出されないような所轄の人間もいる。
万一に備えての救護班も、数が多いようだった。 

テストルームのドアが見えてきた。 

「しつれいしま〜す!!」 

アスカはその透明度の高い声を一つ上げてから、ドアを開けるスイッチを押す。 
厳密なデータを扱うため、その部屋の中には聞こえるはずもないのだが、このNERV本部に来てからの彼女の習慣になっているようだった。 
後に続くレイはいつものマイペース、シンジはいつもと違う実験とその雰囲気のために、若干緊張しながらドアをくぐった。 














第一回機体相互互換試験。
紫色のボディを持つ初号機に乗り込むのは、ファーストチルドレン、綾波レイ。
テストルームのディスプレイには、目をつむっているレイの姿があった。

『初号機のパーソナルデータ、書き換え終了しました』
『第一次接続に入ります』
『データ、再確認。パターン、グリーン。各部、異常無し。』














“博士……。”

“どうしたの、レイ。何をそんなに泣いているの?良かったら、話して頂戴。”

“お母さんに……会いたいの……。”

“……。どうしたの、急に。何かあったの?”

“小猫にだってお母さんがいるのに……なんでわたしにはお母さんがいないの?お母さんに会わせて…。”

“それは……。”

“ヒック……お願い……。”

“それは……無理よ……。”

“な、何で……。会いたいよぅ…。”

“あなたは……。”





 




わたしは何を昔のことなんて思い出してるんだろ…。

シンクロテスト中だっていうのにな……。
もう!!こんな事考えたって仕方ないんだから!!

でも……ここにいると何か……懐かしい感じがするな……。







『レイ、初めて乗った初号機はどう?』




















“…ック…ヒック……。”

“そんなに泣かないで…。”

“だって、だって…。”

“私はあなたのお母さんにはなれないかもしれない…。でも、真似事だけでもさせてほしいのよ…。”

“……。”

“私の母さんは…。科学者としてはこの上なく優秀だったわ。でも、母親としては、決してそうとは言えなかった。”

“……ヒック……”

“……女としては、憎んでさえいたわ。それでも、母さんは母さんだった…。”

“………。”

“私はあなたに過酷な運命を強いている…。その私に甘えるなんて、無理かもしれない…。でも、私も一人の寂しさは良く知っているから…。一人で悩むのはやめてほしいのよ…。”

“ううっ……。”

“もう一人、私の尊敬した科学者も、子供を残して消えてしまった。あなたには、そんな思いをさせたくないから…。”

“……うん……。”

“ごめんなさいね……レイ…。本当に……。”























『レイ?』

「は、はい!」
『?…初号機はどう、と聞いているのよ。』
「は、はい、異常ありませんっ。」
『そう、それなら良いわ。困るのよ、実験中にぼうっとされると。』
「ご、ごめんなさいっ。」 

「レイ、少し反応がおかしいかしら?」
「しかし、データ上では何の変化も見られません。シンクロ率も零号機の時と、さほど変わりません。」
「そう………問題がないなら続けるわよ。」

リツコとマヤはテストルームの中心で、ディスプレイを食い入るように見つめていた。
手元のモニターには数十にも重なった光のグラフが、二人の目の前を水平方向に移動している。
部屋の中には、他に十数人の技術スタッフ。監督者のミサト。オペレーターの日向と青葉。
それだけのスタッフの中で、エヴァから返るデータを正確に理解しているのはマヤとリツコだけだった。
他の人間は与えられた仕事をこなすのみ。従って、エヴァのテストというのは、どの人も常に不安を抱えての作業だった。
それがいつもとは違う実験、となれば、なおさらの事かもしれない。

「初号機、第二次接続に入ります。」

冷静なマヤの声がテストルームに響き渡った。







やっぱり、そうだ。

この感じ、碇君の感じ。

ふわふわしてて、落ち着いてない。
宙に浮いているような……。足が地に付かない感じ……。

でも、とても暖かい。とても、とても………。

ふふ、なんだか碇君らしいな。
こんな事言ったら碇君、怒るかもしれないけど、さ。












『誤差、±0.03。ハーモニクスは全て正常。』
『心理グラフに若干の変動が見られます』






これは?
心の揺るぎを感じる。
波立っていく。

わたし?
それとも、碇君?

…寂しさ…?

何故?

何に寂しさを感じているの?
求めているものは、何?

温もり?
安らぎ?

それとも…。







『シンクロ率、安定しました』
『第三次、接続を開始』





そっか。
この場所では、碇君って心を開いてるんだ。

誰?この先にいるのは。
いつも碇君を包んでいるのは。

アスカ?
葛城さん?
違うの…?

え?

わたし?
そのような…違うような…。
そうだったら、嬉しいかな、な〜んて…。

あ、なんか、このまま行くと、溶けてしまいそう………
ちょ、ちょっと待ってよ………。

でも、良い気分………まるで誰かに抱かれているみたいだな…。
……私の形が消えていくような……

……はぁ……。




“自分の事、どう思っているの?”

え…あ…。

“きちんと事実を受け止めれば、
必ず幸せになれるわ。”

………。

“……だって……生きているんですもの……。”

………………。

“……貴方なら……分かるでしょ?”

………ん………。

“……見せ掛けじゃないの。貴方の心持ち次第…。”
“……どうにでも……なる事よ。”

………………。

“……あなたならきっと大丈夫よ……”

…う…ん…。

“……じゃあ、今はもう……良いの…?”

うん…。

“……そう……良い子ね……。”







『レイ!!』
「ひ、ひゃあっ!?」

び、びっくりしたぁ…。
何だったんだろ、今の感じ。変なの…。
嫌じゃ、なかったんだけど…。

『どうしたの?実験は成功だったけど…何か感じたの?何でもいいから、言って頂戴。』
「えっと、あのぅ……」
『何?はっきり言って。』

「碇君の、匂いがする…。」
『はあ?』

モニターを見つめるリツコの目は、点になっていた。











機体連動試験、及び、機体相互互換試験。
セカンドチルドレン、サードチルドレンは、それぞれ弐号機と零号機に乗り込んでいた。
レイの実験がほぼ成功に終わった事で、コツが分かったため、二つの試験が同時に行われる事になった。
と、いっても、弐号機のプラグに乗り込んでいるアスカは、いつも通りのシンクロテスト。
自分は弐号機以外には乗らない、と公言しつつも、やはり不平そうな顔を覗かせていた。
大画面のディスプレイは半分に分けられ、シンジとアスカの姿が映っている。
退屈さをうかがわせる表情のアスカに対して、シンジの顔は強張っているようにも見える。
実際、マヤの目前のグラフには、シンジの緊張を表す心理グラフがありありと描かれていた。

「被験者には何の問題もありませんが、若干の緊張が見られるようです。」
「しょうがないわよ、他のエヴァですもの。ここに入った時からずっと緊張してるみたいだったけどね。」

ミサトはシンジの映るモニターを見る。彼は普段より若干下を向いているようだ。
簡単に、別の環境に適応できるような子じゃないわね、シンジ君は。
実はレイが乗っていた、って事で、別の意味の緊張だったりしてね…。
ふふ、と、ミサトは軽く唇に指をやった。

その隣にいるレイも、少し心配げに零号機を見つめている。強化ガラスに手をぴったりくっ付けていた。
碇君、どう思って乗ってるんだろ。何だか、わたしの方が緊張しちゃうな…。

『ばっかね〜アイツも!レイの乗ってるエヴァなんだったら、別に遠慮する事ないじゃない!!』
「シンジ君にそれができると思う?」
『……できるわけないわね。だから馬鹿なのよ!』
「二人とも、試験中に私語はやめてくれない?ミサト、あんたが付き合ってどうするのよ。」
「へえ、へえ。」
「その言い方、加持君に似てきたわね。」
「るっさいわね!!あんただって余計な事言ってんじゃないわよ!!」

リツコは自分で振っておきながら、ミサトにはわき目も触れなかった。
モニターのシンジと、目の前に映るグラフとをしきりに比べているようだ。
時折、マヤの肩越しにキーボードに何かを打ち込む。

「……シンジ君、どう?普段と比べて。」





プラグ内のシンジはいろいろな意味で緊張していた。
レイがいつも座っている場所だから、というのもある。
もちろん、そこに普段とは別の感触が残っているわけではないのだが。
なんとなく意識してしまうのだった。








普段、綾波が座っているからって、別に何かあるわけじゃないんだ……と思う。
でも、何か違うような気がするんだ。
初号機に乗った時より、こう……。

……匂い……。

そう、匂いが違う。
このプラグには、血の匂いがしないんだ。
いつも感じる、あの匂いが…。

もっと、柔らかい感じがするんだけど……。
…よく…わからないな……。

……綾波……?










『どう、シンジ君。普段と比べて。』
「何だか……変な気分です。」
『違和感があるのかしら?』

「いえ、そうじゃないんですけど……ただ……綾波の匂いがする……。」

『シンジ君まで?』
『レイの匂いだ〜?はん、変態な事言ってんじゃないわよ!!ほ〜ら、レイちゃん、ご感想は?』
『い、碇君がそう思ったんだったら仕方ないじゃない!わたしは何にも知らないんだから!』
『ふ〜ん、ホントにそうなのかしらね、まったくっ。』








何を怒ってんだよ、アスカは……。
でも、この感じは、確かに綾波のような気がするんだけど……。
…………。












『データ受信、再確認。パターン、グリーン。』
『各拘束、問題無し。』
『了解。それでは相互換テスト、セカンドステージへ以降。』
『零号機、第二次コンタクトに入ります』
『セルフ心理グラフ、安定』
『ハーモニクスレベル、全て正常値。』





「どうなの?」

腕を抱えながら、ディスプレイに映るシンジを見ているミサトは聞く。
実は、彼女自身それほど詳しい実験の意義を聞いていない。
ただ、オートパイロットの実験の続きのようなもの、とだけ言われたのだ。
それゆえ、彼女はリツコとマヤの挙動をどことなく伺っていた。
リツコはリツコで、ミサトが訝っているのを知っているようだったが。

「やはり、初号機ほどのシンクロ率は出ないようね、でも良い数値だわ。」
「そう……ですか……。」

リツコを見る、マヤの声は暗い。
あまり考えないように、指を動かし、仕事に集中しているつもりではあったが。
リツコもそれを悟ってか、彼女に必要以上の声を掛けなかった。目線は彼女に合わせない。

「考え過ぎない方が良いわよ。マヤ。」
「はい……。」

能力は認めるけど、向いていないのかもしれないわね、この子…。
潔癖症にできる任務ではないしね。
……それを認識できるくらい、私が汚れた、ということかしら……。

リツコはいらだたしげに手元のマイクを引き寄せた。

「A10神経接続、開始準備は良いかしら?」






『A10神経接続開始。』
『ハーモニクスレベル、+20』








何だ、これ。

頭の中に入って…来る…。
直接……僕の頭の中に…。

誰?

……。

…アヤナミ…。

綾波、レイ。

そう、いつもの綾波だ。

明るい綾波。
笑っている綾波。
本当は、少し寂しがりやの綾波。

……なんで僕に優しいの……?

……分からない……。

でも……嫌じゃないよね……。

…今の僕にやさしいのは…綾波だけかもしれないんだから…




………綾波………













じゃ、ないの?














テストルームにEmergencyを知らせるブザーが、けたたましく鳴った。
一瞬の内に、スタッフの間に衝撃が走る。互いにその顔を見合わせる。初めての零号機起動実験の事が頭をよぎった。
また、暴走するのか。中のパイロットは無事に済むのか。ここにいる自分達まで、危険ではないのか。
その決められた配置を動き出す者はいなかったが、ほとんどパニックになりかけていた。

「ちょっと、どういう事!?」
「そんな………このレベルのプラグ深度では、ありえないはず!」
「違います、これはエヴァからです!!」
「シンジ君の心理グラフはそれまで安定していた……なぜ!?」

リツコはやや強引にマヤの肩を退け、手元のディスプレイに映る、ずれ始めたグラフを見る。
先程のマヤの指使いよりも、さらに素早く、正確に、キーボードを打つ。
強化ガラスの向こうのエヴァ零号機は、その頭を抱え、悶え苦しみ始めていた。

レイはくっ付いていたガラスから、一歩後ろにくい下がる。呆然とその様を見つめる。

零号機は、碇君を受け入れないの!?
わたしが初号機に乗った時は何ともなかったのに!!

リツコは、目を見開いてグラフを調べていたが、突然何かを悟ったようにキーボードに電子文字を打ち込むと、隣で見ているマヤの方を向いた。

「マヤ!!12番から23番までの神経接続を切って!!早く!!」
「は、はい!」

今度は、マヤがその指を走らせた。
ディスプレイに接続の切断を示すグラフィックが映し出される。命令がマギを経由して零号機へと伝わる。

すると、零号機の活動は沈静化していった。
頭を抱えた状態のまま、その動きが固まっていく。
同時に、安堵感がテストルームに流れる。
リツコはほっとして、額に浮かび始めていた汗をぬぐった。

「いったい、どういう事!?暴走までは行かなかったみたいだけど…」

ミサトは強い口調でリツコに詰め寄った。
ここにいる、といっても、彼女には何もする事ができない。
別の現場からの責任者と言った立場だ。現状をまったく認識できない事が歯がゆさをもたらしている。
それは、おそらく、他のスタッフの大半もそうであろう。

「エヴァからイレギュラーなパルスが確認されたわ…。シンジ君の脳がそれに耐え切れずに、強いフィードバックを起こした。それが、エヴァにとってイレギュラーなパルスになり、再びそのフィードバックがシンジ君の脳に……の、繰り返しでああなったのよ。暴走とは質が違うわ。」
「じゃあ、なんでエヴァからそのパルスが出たわけ!?」
「今はそこまで分からないわ…。でも、これは零号機の反射運動のようなものよ。パイロットが制御できなくなった末の結果ではないわ。」
「い、碇君は!?」

そう叫んだレイの形相は、いつもと違っていた。焦燥に色がありありと顔に出ている。
自分は最初の起動実験の時に失敗して、大怪我を負った。
彼女にとって見れば、零号機の運動が止まった後に何故すぐにパイロットの状態を確認しないのか、疑問に思うくらいだ。

「あ、ああ…。サードチルドレンの命に別状はありません。精神汚染の心配もなし。意識は失っている模様ですが…。」
「そう………よかった……。」

日向の言葉を受けて、レイはほっと息を付く。

「早く、救護班は出動して!!それ以外は安全を確認した後に、原因の究明に当たって。」

ミサトの言葉を受け、周りのスタッフがいっせいに行動を開始する。その部屋を再び無機質な電子音が包んだ。
強化ガラスの外の零号機には、早くも救護班が対処に向かっている。エントリープラグだけは既に外に搬出されていた。

リツコの右手は、白衣のポケットの中に入っていた。
強化ガラスの外では、プラグスーツ姿のシンジが、救護班の手によってプラグから運び出されようとしていた。













「……わかった。では、そのように頼む。……。」

ジオフロント最上部、司令室。
冬月はリツコからの電話を受け、それを切って置いた所だった。
左手には香車の駒が握られていた。青年時代から続けられてきたその趣味は、ここの所はなおざりになりがちだった。それも、時間を費やすためだけのもので、たいした慰めにもなっていなかった。
ゲンドウはいつものように顔の前で手を組んで、動かない。その視線がどこに向けられているのかも分からなかった。

「ファーストチルドレンの方に問題はなかったようだ。サードには若干の問題あり、さらに改善の余地あり、だそうだ。」
「そうか。」
「どうするのだ?計画が遅れるばかりだぞ。」
「札はこちらが握っている。全て我々のシナリオ通りだ。問題はない。」
「だからといって焦らす必要もあるまい。今ゼーレに介入されると厄介だぞ?」
「老人達は文句を言う事ぐらいしかできん。何の支障もない。」

ゲンドウと冬月の会話はいつもこのようであった。
単純な事実の羅列と確認。その二人にしか意味は通じないであろう。
そこに、人間的な情が介在する余地はない。また、それを相手に見出した事もなかった。
無味乾燥したその部屋に、冬月の駒を置く音が響く。

「アダム計画はどうだ?」
「予定通りだ。2%も遅れていない。」
「なら、ロンギヌスの槍は?」
「下だ。あれは眠りに入った…。」

ゲンドウの口元がゆらりと歪んだ。











「…はっ。」
「わっ!!」
「わあっ!?」

何が起こったかと言うと、病院のベッドで意識を取り戻したシンジを、レイが驚かせ、シンジが素直にそれに驚いてしまった、と言うだけの話だった。
ぼおっとしているシンジの視界に、レイの顔が広がっている。
そこが、いつも連れて行かれる病室だと気付いたのは、その後の事だった。

「あ、綾波…。」
「どう?びっくりした?」
「え?う、うん…。」
「実験中に意識を失っちゃったんだよ、碇君。」

シンジは上体を起こし、改めて周りを見渡した。
だいぶ眠っていたのだろうか。辺りが暗い。月の光がうっすらと入ってきている。シンジの隣に、パイプ椅子に座ったレイ。ポットを置いてある台。部屋の隅にはハンガーに掛けられた制服。自分はいつのまにか入院服を着ている。
実験開始が1600だったから…。それから気を失ったとなると…。9時は過ぎてるんじゃないかな…。
綾波、そんなに待っててくれたのかな。明かりを点けてないのも、気を使ってくれてるんだろうな…。

「体には問題無いって。調子が良いようだったら、そのまま退院しても良いって言ってたよ。どう?」
「うん……。いいみたい。あの……。」
「何?」
「ありがとう……待っててくれて。」

レイは、ぱちくり、と目を瞬きして顔を横に向けた。

「……いいの。どうせする事ないんだし。」
「そっか……する事ないから……ね…。」

むっとして、レイはシンジの背中を叩く。
いた、と少し前につんのめるシンジ。

「そういう事は、額面通り受け取らないの!!」
「え?」
「……わたしは、外に出てるから、さっさと着替えてねっ。」

レイはそれだけ言うと立ち上がり、パイプ椅子をたたんで壁に掛けた。
鞄を片手で持ち、ドアのスイッチを押す。
思い出したようにその隣にある明かりのスイッチを押した。点滅もせずに、部屋の明かりが点いた。

「待ってるんだから、早くしてね。」
「あ……うん。」

空気を抜いたような音を立ててドアが閉まった。
上半身を起こしたままベッドに入っていたシンジだったが、思い出すように起き上がると、壁の隅のハンガーに向かった。脱いだときにはやや埃っぽかったはずのその制服は、綺麗に洗われ、しっかりアイロンまで掛けられているようだった。

レイはドアの横で、かばんを両手にシンジを待つ。壁を背にもたらせていた。
白い光で溢れた廊下には、何の物音もしない。
目線を水平より少し下げ、思いつめた表情。

しかし、病室のドアが開くと、それは笑顔に変わった。
ドアに立つ人影と向かい合う。

「じゃ、帰ろ。碇君。」
「うん。」









碇君が何ともなかったのは良かったけど…。

初号機の中で感じたのは、誰だったんだろう。
わたしの知らない人なのかな。

懐かしい感じがしたんだけどなぁ…。








FIN







masa-yukiさんのリナレイ版エヴァ第7弾です。
機体相互互換試験ですが、オリジナルのエピソードを織り交ぜてうまく仕上げてありますね(^_^)
今回のメインは、「会話」でしょうか。レイとアスカ、ゲンドウとリツコ、リツコとマヤ、ゲンドウとレイ、リツコとチビレイ、レイと謎の声……どれも何かを感じさせるものがあります。
それにしても、シンジ、相変わらずの鈍感ボケボケ……情けないぞ(^_^;)

Written by masa-yuki thanx!
感想をmasa-yukiさん<HZD03036@nifty.ne.jp>へ……


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