―― 第一日 ――


ミサトは、モニター越しに異形の物体を見ていた。
拘束具を解き放った初号機。
そのまま、使徒の持つS2機関を取り入れた初号機。
シンジが飲みこまれていると思われる、初号機。
使徒に対しても、エヴァに対しても、ロクにわかっていない事ばかり。


「どうするつもりなのよ、リツコ?」


斜め後で、同じようにモニターを見ていた白衣の女性に、振り返って訊く。
彼女は何か知っているはずだ。
少なくとも、自分よりは知識がある。使徒についても、エヴァについても。
この状況を予測していたようではなかったが、冷静極まりない彼女に、ミサトは苛立ってもいた。


「見ての通りよ。初号機はS2機関を取り入れ、シンジ君は初号機の中に取りこまれた。理由は不明のまま。」


モニターの画面が変わり違う映像を映し出す。
次にエントリープラグを映したモニターの中には、シンジの姿は無い。
オレンジ色のLCLの中に、ただプラグスーツだけが主を探すように漂っていた。


「理由が判らないで、人を殺さないでくれる!?アナタは知っているんでしょう、エヴァを!」

「人の造り出した、人に近いもの、としか私は言えないわ。人の意思が込められた、人に近いもの…。それに、シンジ君はまだ死んだわけではないわ。」

「そんな事言ってんじゃないわよ!アナタは知ってんでしょう?エヴァには、誰の意思が込められているの?何の意思が込められているの?ただ使徒を倒す、それだけの意味じゃないんでしょ!?シンジ君を取りこむ理由が無いわ。何を隠しているの!?」

「隠してなんかいないわ。ただ、これもエヴァの意思ならば、私達ができる事は」


そこで、彼女の言葉は消えた。
代わりに、発令所中に響く、空気を打ったような冷たい炸裂音が木霊した。

ミサトは感情のままに、抑えようともせずにリツコを打った。打った自分の手の方が痛むほどに。
リツコは確かに何かを知っているだろう。しかし、現状で彼女が何も出来ない、という事もわかっていた。
それでも、彼女を打った。自分の心にも似たような痛みを覚えるのを知りながら。

結局、シンジをエヴァに乗せたのは、大人である自分達なのだ。
こんな結果は予測できなくとも、別の結果なら予測はできた。
現に、レイやアスカは大怪我を負っている。シンジにそれ以上の事が起きない保証など無かったのだ。

許せなかった。自分も、リツコも、NERVも。
子供一人をこれほどまで軽く扱ってしまう事。安全な場所に自分たちがいる事。
自分が彼らを親の敵討ちの道具にしていた事。
何もかも、許せなかった。

だから、冷たく当った。自分にも、リツコにも、NERVにも。


「シンジ君がこんな事になって、一番悲しむのは誰だか、リツコはわかっているんでしょう!?」

「わかってるわよ!…だからこうして、どうすればいいか、冷静になろうとしてるのよ。私だって、あなたと同じように、そんなに割り切れているわけじゃないのよ!」


この場にいない少女の事を思い、ミサトはあまりにも申し訳無く感じた。
きっと、それはリツコも同じなのだろう、と思いながら。
それでもなにも出来ない自分を呪いながら。







そんな彼女の可能性 〜LOST MIND〜









―― 第二日 ――


月の出ていない夜だった。
いつもは開けっ放しにしてある窓から入る月明かりが床に影を十字に切るのだが、今は真っ暗のまま。
漆黒の闇の中で、レイはただ横になって呆然と天井を見上げていた。

事の詳細は聴いていた。
レイもNERVの人間、しかも、あの初号機の暴走を目にしているのだ。シンジがただじゃ済まないという事はわかっていた。
シンジがLCLに溶けた、と言われても、それほどショックは無かった。
死んでいるわけじゃない。
これだけはリツコからしっかりと言い聞かされていた。
だから、希望を持って、と。
しかし、レイはリツコに言われるまでも無く、希望を捨てたりはしていなかった。

あの時、再び自分の代わりにエヴァ初号機に乗って、戦いの場に出てくれた。
自惚れかも知れないが、少しは自分の心が届いた、と思いたかった。
だから、必ず彼は帰って来る。また、わたしと一緒にいてくれる。

そう思った。思う事ができた。心が届いたおかげで。
以前、使徒に飲み込まれた時のようなショックは無かった。
必ず、必ずシンジは帰って来る。また自分と今までのように話してくれる。
彼の事だから、きっと、


「ゴメン、心配かけちゃって…」


なんて、平然とした顔で言うに違いないのだ。
その時、自分も笑っていたかった。おかえり、と明るく言えるだろうか。
言えるようにしたい。きっと、彼もそれを望んでいるのだろうから。


「碇君、すぐにどっかいっちゃうけど、絶対帰って来るんだもんね。ちゃんとわたしが迎えてあげなきゃね。」


レイは闇の向こうにある天井に向かって一人こぼした。
自分を励ますように。

絶対、絶対碇君は帰って来てくれるんだ。
わたしが暗くなってたって、仕方ないんだ。
だから、わたしは碇君の帰って来る場所になってあげたいんだ。
帰って来て、くれるんだから、ここに。







―― 第四日 ――


夕暮れ時、カーテン越しに斜陽の光が入る。
部屋で横になっているアスカの顔を、オレンジ色に染めていた。
ヒグラシの鳴き声が遠くから聞こえる。
それは本当に遠くの出来事のようで、自分の心の中をさまよっているアスカには届いていなかった。

アスカは自分の感情の乱れを、整理しきれないでいた。
また、使徒に負けた。シンジにいい所をもっていかれた。
自分の存在価値を表現できなかった。自分がやらなければならない事を、達成する事が出来なかった。

しかし、また違う感情がそれも否定する。
エヴァで存在価値を表現するのは、本当に正しい事なのだろうか。
確かに、自分はシンジに負けた。それは悔しい。
だが、暴走するエヴァを見て、本当にアレを使って自分を表現する事が正しいのか、それは疑わしかった。

エヴァには選ばれたものしか乗る事ができない。
自分の母は、エヴァの開発実験中に精神汚染にかかった、と誰かから聞いた。
だから自分はエヴァにこだわるのかもしれない。いや、そうなのだろう。
自分を残して死んでしまった母に、自分を見せたいと思っていたのかもしれない。
自分はここにいるんだという証を、母が残した物を使って示す事で母に認めてもらえるような気になっていたのかもしれない。
だが、その代わりに自分は何かを亡くしてしまったのではないか。
正確に言うと、手にする事ができなかったのではないだろうか。

エヴァのパイロットになるために、小さい頃から英才教育を受けていた。
自分の周りには、年上の人しかいなかった。
同年代の子と接する機会など、ほとんど無かった。
別に、全く遊ばなかったというわけではない。楽しみが一つも無い生活ではなかった。
それでも、やはり自分には何かが足りないのではないか、と思うのだ。

レイやシンジを見て。
自分と同じエヴァのパイロットで、自分と同じ年。
それなのに、どうしてこうも違うのか。
自分から見て、彼らは充分自己表現している。時に、羨ましくなるほど。
それは自分にはできない。到底できない事に思えてしまった。
きっと、それは得るべき物を得る事が出来なかったから。
みんなもっているはずの物を、自分だけ得る事が出来なかったから。
自分は自分、他人は他人。そう言い聞かせてみても、やはり羨望は消せなかった。

あんな風に生きられたら、アタシも違う風に考えるようになったのかもしれない…。

納得のいかない心を吐き捨てるようにして、ゴロリと横になる。
ヒグラシの鳴き声は更に遠くなる。
このまま寝てしまおうか。ミサトの帰りは最近いつも遅い。
何より、顔を合わせても話す事など無かった。

が、彼女が一歩夢の中に入りかけた時。

ピンポーン。

軽い調子の呼び出し音が鳴った。ちっ、と、いまいましげに、アスカは体を起こす。
誰だろうか。元々、葛城家に来訪者は少ない。

ピンポーン。

再び、ベルの音。
仕方なくアスカは部屋を出て、ドアに向かう。

ピンポーン。


「はいはい、今行くって言ってんでしょ!」


夢に入れなかった事に苛立ちながら、ドアの鍵を開ける。
すると、そこには見なれた顔があった。
両手で、ビニール袋を持って、背中にリュックをしょっていた。
それは、あたかも普段と同じように立っていた。


「アスカ、元気?」


まるで昨日までの調子のように、その子は言った。
意外だった。こんな明るさを、今この子が保っていられるとは思わなかった。
好きだった人が、いなくなってしまったのではなかったのか。
以前、シンジが使徒に飲みこまれた時には、アレほど取り乱したと言うのに。


「…レイ、何しに来たのよ?今、ここにはアタシ以外誰もいないわよ。」

「うん。ちょっと、ね。アスカに会いに来たんだよ、せっかくだし。」

「ま、いいわよ…。上がったら。立ち話しても仕方ないでしょ。」

「そうするね。ありがと。」


レイはそのまま家に上がると、リビングの方へと向かったが、すぐにキッチンへと移動した。
手馴れた手つきで、カップを用意し、コーヒーを入れようとしていた。
アスカはそれを呆然と眺めていたが、レイがこれほど活発な事は彼女にとって嫌な事ではなかった。
手持ち無沙汰になり、リビングのソファーに腰を下ろすと、キッチンから彼女の声が聞こえて来た。


「アスカとミサトさんじゃ、不摂生な食事生活してるんでしょ。」

「コンビニの弁当ばっかね。確かに、不摂生といえなくもないかしらね。」

「だめだよ、そんなんじゃ。ね、碇君が戻ってくるまで、わたしこの家にいていいかな?」

「えっ?そ、そりゃ、アタシは構わないけど。ミサトがなんて言うかはわからないわよ。」

「うーん、じゃ、ミサトさんが帰ってくるまでは今日はここにいるね。碇君の部屋、使っていいかなぁ。」

「ま、文句は言わないと思うわよ、アイツなら。」

「そう?じゃ、碇君の部屋、借りちゃおっと。」


コーヒーを入れ、リビングに二つのカップを置くと、レイはシンジの部屋に入っていった。
アスカは驚くばかりだった。今回の事に、レイはショックを感じていないのだろうか。
まさか、なんとも思っていないと言うわけじゃないだろう。
それなのに、今日のレイはいつものレイだ。暗さの微塵も感じられない。
どういう事なのだろうか。

レイはシンジの部屋に入っていったが、すぐに出てきてリビングに座った。
アスカも同じようにリビングに座り、コーヒーをすする。


「アンタ、大丈夫なわけ?シンジがどうなってるのかわかんないのよ?」

「もちろん知ってるよ。でも、わたしが暗くなったって、碇君喜ばないと思うんだ。」

「へぇ、強くなったわね」

「そんなんじゃないよー。ただ、絶対碇君、帰って来てくれるもん。わたし、信じてるから。」

「そ…。」


レイの応えに、またアスカは驚かされた。
今まで、レイのシンジに対する感情など、恋に恋をしているような思春期にありがちな恋だと思っていた。
もしくは、戦いの中で仲間ができてそれがたまたま男の子で、同じような感情を共有している。
ただ、その程度の想いだと思っていた。

ところが、そうではなかった。自分の知らない感情に、レイは今いるのだ。
おそらく、本気でシンジの事が好きなんだろう。
シンジのどこが、そこまでレイを好きにさせるかはわからない。
だが、どんな感情であれ、自分はここまで人を信じる事ができない。
愛している、なんて言葉の意味は知っていても、感情は知らない。
これは、親子の愛ではないのだ。

それを知ったアスカは小さく呟いた。


「アタシがシンジに負けたのは、エヴァのパイロットって事だけじゃなかったわけね…。」

「ん?アスカ、なんか言った?」

「何でもないわよ。それより、ミサトにはアタシから連絡いれとくわ。多分、OKだと思うから、シンジが戻ってくるまではここにいなさいよね。」

「あ、ホント?ありがと、アスカ。ご飯くらいはわたしも作れるから。」


その後、アスカはミサトに連絡をして、レイはシンジが戻るまでこの家にいることになった。




そして、その日の夜。
シンジの部屋を使う、といいながら、結局レイはアスカとリビングで寝た。
いつかユニゾンの特訓を行った時のように。
別に、どちらかが一緒に寝よう、と言い出したわけではなかったのだが。
いや、アスカの方が、話したい事があったからかもしれない。

アスカは天井を見つめたまま、暗い部屋の中で、隣で横になっているレイに聞こえる程度の小さい声で話しかけた。


「ね、レイ。アンタ、シンジのどこがいいの?アタシには全然理解できないんだけど。」

「え?き、急にそんな事言われても困っちゃうな…。ほら、碇君って、なんか放って置けないって感じだし。」

「それはわかるけどね。あんな頼りないんじゃ。」

「そんな事無いよ、碇君、いつもわたしを助けてくれるもん。わたしの方が助けてあげなくちゃ、って思ってるのに。」

「どっちなのよ。それだけじゃないでしょ?アイツを好きな理由って。」

「う、うーん…。暖かいの、碇君。」

「は?暖かい?」

「うん、暖かい。話してると、心が和んでくるの。一緒にいても、すごく安心できるんだよ。」

「それ、アンタがあいつに惚れてるからでしょ?その理由が知りたいのよ、アタシは。」

「理由なんて無いよ、ただ、わたしは碇君が好き。それだけでいいじゃない。」

「……ま、別にいいわよ、それで。」

「てへへ、やっぱり上手く言えないよぉ、こんな事。」


アスカにとっては、それだけで充分だった。
少なくとも、レイを惹き付けるだけのものがシンジにはあるんだろう。
話していて、やっぱり自分は人を好きになった事が無いんだな、と思った。
シンジがいなくなって、一番つらいのはレイのはずだ。
それなのに、彼の帰りを疑わずに待って、笑みを絶やさないようにしている。

アタシにはできないわね、こんな事。
結局、レイにだってアタシは負けたのかもしれないわね。
アタシがしてきた事って、なんだったんだろ…。







―― 第七日 ――










………




……………




僕はここで何をしているんだろう。




君が望んだんじゃないのか?ここに来る事を。





そうなのかな?そうかもしれない。




父さんが憎い?






憎い。憎んでも憎みきれない。トウジにあんな事をした。
僕に人殺しをさせようとした。






殺したいくらい、憎い?






もちろん、そうさ!






仕方が無かったんじゃないか?ああしなければ、死んでいたのは君の方だ。






……そうだ。確かに、あのままだったら僕は死んでいたと思う。
でも、人殺しをするよりはいいと思った。





自ら死を選ぶ事と、人殺しをする事と、どっちが罪深い事?






関係無い。でも、僕は人を殺すのは絶対に嫌だった。





自分を殺す事は、人殺しとは言わないのか?






わからない。言うかもしれない。





今なら、父さんを殺せるかい?






……わからない。できないと思う。父さんは、やっぱり父さんだから。
父さんを変える事は、できないから。





なら、碇ゲンドウ、個人ならどうかい?






そんな考え方、僕には出来ない。碇ゲンドウは僕の父さんで、それ意外の何者でもないから…。





自分が傷つきたくなかった?






……。





人殺し、と言われる事が嫌だった?
ただ敵だ、と言われれば君はやっていたのかい?





そんな事、わからないよ!
結局、乗っていたのはトウジだったんだ!
父さんはそれを知ってた。でも、僕に殺させようとしたんだっ!!





しかし、そうしないと人類は滅びていた。






そんな事……。





関係無いだろうね、君が死んでしまえば、君にとっては人類はどうなろうと同じだから。






そうだ!人殺しと言われて生きているのと、人類が滅びるのと、どう違うんだよ!





今なら、君は違う選択をしてたかい?






……同じ事しかできないと思う。人殺しなんてしたくない。





なら、使徒を殺す事は構わない、という事かい?
彼らと僕達、姿形以外何が違うんだい?





そんなの、僕は知らないよ!





君は、居場所を得たんじゃなかったのかい?






………得た、と思う。だから、それは失いたくなかった。だから、またエヴァに乗った。





それなら、君は違う選択が出来るんじゃないか?






人殺しになれば、居場所を失ってしまうかもしれないじゃないか。





そうだね、そうかもしれない。でも、彼女は、綾波レイは生きていてくれる。






………。





それで充分じゃなかったのかい?だから、君は再びエヴァに乗ったんじゃないのかい。






……そう、だと思う。死んで欲しくない人がいるんだ。





………なら、あなたはもうここに来なくても良いわね………。





……えっ?





………あなたの居場所を、しっかり見つめていてね。





……しっかり守ってね……。





えっ、ちょっと、待ってっ……




……………



………













―― 第十日 ――


「シンジ君のサルベージ計画、ね…。」


発令所は、一見静かさを保っていた。
なんの作戦も出ていない。戦闘態勢でもない。
エヴァのシンクロテストさえも行われていない。

ミサトは、不気味に静けさを湛えた発令所の中で、先ほどリツコに言われた言葉を繰り返した。
サルベージ計画。
つまり、シンジの肉体を再構成し、精神を定着させる作業。
科学信奉主義とも言えるべきリツコの言葉から、魂、という言葉が出たときは、苦笑せざるを得なかった。

魂ってなに?人の心?それとも、それ以上の何か?

対象がよくわかっていないものに対して、再構成をほどこす、という。
リツコは、マギがサポートしてくれればできる、と言った。
しかし、コンピュータが人の魂を人の形に定着させる、という事自体ミサトは嘘の様に思えて仕方が無かった。

床を見つめていた視線を上げ、眼前のモニターを見る。
拘束具を外したエヴァ初号機。
プラグスーツだけが残った、オレンジ色のエントリープラグ内。
それは、シンジの存在のスープとも言うべきか。

シンジが出撃した時、プラグスーツは身につけていなかった。
リツコに寄れば、アレはシンジの魂が擬似的に他人の視覚に見せているものだという。
その理由など、もちろん推測するしか出来ない。

彼は帰ってきたがっているのだろうか。

結局また戦場に送り出してしまった私達の世界へ。
ミサトは自信が無かった。
彼自身にとって、このまま存在を無くしていた方が安全なのかもしれないのだ。

しかし、彼の帰りのを待つ者がいる。
少なくとも、自分は待っている。帰って来て欲しいと願っている。
帰って来ても、今後またエヴァに乗せる事になってしまうだろう。
それを自分は今まで指揮して来たのだ。今後もおそらく変わらない。
彼にとってそれは幸せな事では無いかもしれない。

それでも、帰って来て欲しかった。彼の存在を消したままなど、自分が許せない。
自分は利用してきただけかもしれない。自分の復讐の為に。
しかし、ミサトにとってシンジはそれだけの存在ではなかった。
人一人を、道具とだけ見るなどという事は、自分にはできなかった。


「シンジ君…。帰ってきなさいよ。待ってるんだからね。みんな、待ってるんだから…。」







―― 第十五日 ――



エヴァ…。




選ばれたものしか乗る事の出来ない戦闘機。




チルドレンと呼ばれた、僕達にしか扱えない人造人間。




僕は知っていた。




知っていたんだ。




ここに来る前に。




母さんが僕の目の前から消えてしまうのを、僕は見ていたんだ。




そしてその時、僕は母さんと父さんから逃げ出した。




現実を否定して、母さんも否定して、父さんも否定して、僕は生きてきた。




それはなんだったんだろう?




何も無い普通の生活をただ過ごしていれば良かった。




戦いなんて、したくなかった。そういうの、嫌いだったから。




でも、結局、エヴァにのって戦うしか、僕が現実に向かう手段は無かった。



つらかった。



エヴァに乗って、何もいい事なんて無かった。



それでも、僕はエヴァに乗るしかなかった。現実に向かうために。
僕の居場所を見付けるために。




心のありかを見付けるために。




自惚れかも知れないけど、僕はエヴァに乗って、居場所を見付けた気がしたんだ。




だから、またあそこへと帰りたい…。




僕はどこから来たのか判らないけど、行く場所は知っていたい…。




そうだよね…。母さん…。









―― 第二十一日 ――



「アスカ、なんかリクエストある?夕飯の献立考えるのって、結構大変なの。」

「な〜んでもいいわ。」

「その、なんでもいい、ってのが困るのよね〜。」


レイは、アスカと共に葛城家にほど近いスーパーマーケットに来ていた。
近くの車通りは少なく、駐車場にも駐車車両は多くない。
平日の真昼間なのだから、当り前かもしれない。

普段、自分でご飯を作って食べるという事はしないレイだが、料理は人並みに出きる。
全部リツコに教わったものだったので、正直不安な所もあったが。
葛城家にやって来てはや2週間以上経ち、生活も少しずつ落ち着いてきた。
何か平然と葛城家でレイは暮らしていた。自分の居場所を探しているようではあったが、暗さは見せなかった。

その間、シンクロテストがなかったので、ただアスカと日がな一日過ごしている日も少なくなかった。
もちろん、事の経緯はミサトから聞いていた。
リツコ達技術部が、彼を助ける準備をしていると言う事。
詳細までは聞かなかったが、彼を助ける事が出来る可能性はあるらしい。

ただ、なぜだろう。
安心していた。シンジが、あれだけ心配していた彼がこれほどの異常事態に陥っているのに。
必ず戻って来てくれる、という事は、レイの中でほぼ確信に変わっていた。
また二人話せる日が来る事を、それも遠くない未来だという事を、信じて疑わなかった。


「じゃ、碇君が得意だったハンバーグ作っちゃおうかなー。」

「ま、何でもいいわよ。アイツよりうまいかどうかは、疑問だけどね。」

「うっ。鋭い所を突くわね、アスカ。じゃ、アスカはハンバーグ食べないんだ。」

「そんな事言ってないでしょ!誰の得意料理でも構わないって事よ。」


アスカとこうして買い物をするというのも、ここ1週間ですっかりお馴染みの事になっていた。
献立を決めて、買う材料を確認して、一緒に買い物をする。
ただこれだけの事が、レイにとっては楽しかった。

…碇君がいれば、もっと、楽しかっただろうけど。

そう考えもしたが、今の現状を悲しむ事はしなかった。
そんな事は、シンジが望んでいないだろうから。


「ね、アスカ、ひき肉買って来て。わたし、サラダ作る野菜見てくるから。」

「ひき肉って、どんなのかって来ればいいかわかんないわよ。」

「そうねぇ、牛と豚が1:1で良いわ。人数分は、わかるわよね。」

「それくらいわかるわよ。アンタも、ちゃんとした野菜選んでくるのよ。意外と抜けてんだからね、レイって。」

「大丈夫ー、料理の事はアスカに負けないから。」

「ったく、言ってくれるわね、これだけはいい返せないのが悔しいけどね。」


くす、と笑ってレイは野菜売り場へと向かった。
第3新東京市の人口の減少により少なくなっているが、それでもこの時間のこの場所、というのは主婦達でにぎわっていた。
とりあえず、必要なものはと、キャベツ、レタス、などと品を見ながら吟味していく。
レイも慣れたものでにとって調べれば大体品物の質が判った。
まずはキャベツを、と、あれでもない、これでもない、と詰まれているキャベツの山から取り出して行く。
少しして、ようやくこれはいいかも、と一つのキャベツに手を伸ばしたところ、横から他の手が伸び、レイの白い柔肌に触れた。


「あ、すいませ…」


謝ろうとしてレイは上を向くと、笑顔が待っていた。
ここ1週間見なかった顔だった。
今まではこんなに間を開けて会う事など無かったから、何故かほっとした。
NERV以外で彼女を見る事は、久しぶりの事だった。


「リツコ博士。」

「レイ。お買い物?」

「はい。お夕食にサラダ作るんです。博士も?」

「ええ。ここ数日、食事抜きか携帯食かのどっちかしかなくてね。たまには、有機的なもの食べたいのよ。」

「そうですよねー。あ、良かったら一緒にどうですか、お夕食。」

「遠慮しておくわ。自分のいない間に食事を子供達と食べてたとあっては、ミサトに怒られそうだし。」

「そうですかぁ、残念…。」

「その代わり、ちょっと話がしたいわね。帰り道にちょっといいかしら?」

「え、多分大丈夫ですよ。アスカがお腹を空かせない程度ですけど。」


レイは笑ってリツコにそう言った。







アスカには先に帰ってもらって、レイは帰り道をリツコと歩いていた。
夕日が紅く眩しくて、リツコの顔を見ようとすると少し目が眩んだ。
彼女は笑っている様にも、沈んでいる様にも見えた。
不意に思い立ち、並んで歩いているリツコの手をとって握ってみた。
すると、少し驚いてリツコがこちらを見る。


「こうしていると、仲のいい親子みたいですよねー。」

「そうね…。できれば、仲のいい姉妹くらいにしておいてもらいたいけど。」

「あ、そっか。こんな大きな子供がいたら、ちょっと変に思われちゃいますよね。」

「ま、私は構わないけれどね…。」

「そうですよね、わたしも構わないし。リツコ博士は、母親って言ってもいいくらいだもの。」


ゆっくり、そんな事を話しながら歩いていると、近くに公園が見えて来た。
どちらともなく公園に入る。
レイはその片隅にある、ブランコの上に座った。隣にリツコも座った。
買い物の袋を側に寝かせて、レイはブランコをこぎ始めた。
キィ、キィ、とブランコの鎖が音を鳴らす。
そしてこの時間、ヒグラシの鳴き声は絶える事がない。
入り交ざった二つの音が、何気なく物悲しかった。
真正面には、地平線を紅く色付けている大きな夕日が視界の中で上下する。
レイはその真正面の太陽に向かって言うように、声を出した。


「リツコ博士、話って何ですかぁ?」

「そうね、それを言わないとね。シンジ君のサルベージ計画、つまり、救助計画がようやく実行できそうなのよ。」

「碇君の」


レイはこいでいたブランコを止めた。
慣性でまだ揺れている中、リツコを見る。
リツコは膝に手を合わせて、動かないブランコの上で夕日を見ていた。


「碇君、戻ってくるんですね。」

「ええ。計画さえうまく行けば。絶対に成功させてみせるわよ。」

「大丈夫、碇君、帰って来てくれる。うん、大丈夫。」


自分に納得させる様に、レイは呟いた。
小さな呟きはヒグラシとブランコの音の中に融けた。
心の中で反芻していると、隣からリツコの声がした。
見ると、横顔を紅く染め上げられたリツコが見つめていた。


「……強くなったわね、レイ。」

「そんな事ないです。本当は、すっごく怖いんです。でも、二度ともう碇君に会えないなんて事は、無いような気がして。」

「そう思えるのは、強くなった証拠だと思うわ。」

「そっかな?う〜ん、わたしは変わってないと思いますけど。碇君、いつもどっか行っちゃっても絶対帰って来てくれたから。」

「そう…。」


リツコはそれだけ言って、再び顔を真正面の太陽に向けた。
レイは彼女のその仕種に、なにか言いたげな雰囲気を感じた。
しかし、それを問う気にもなれなかったから、黙って視界に夕日を映していた。

会話に一息の間があく。

しばらく夕日に焦がされていると、視線を感じた。
リツコが複雑な表情で自分を見ていた。憐憫とも、同情とも取れないような。


「苦しい恋をしているのね、あなたも…。」

「えっ?」

「何でもないわ。レイだって、辛いんだものね…。」


リツコにそう言われた時、レイの心の何処かで何かが崩れた。
すとん、と穴にでも落っこちたようだった。今まではなんとか避けられていた、大きな心の穴に。

いや、シンジが帰ってくる、という事は疑っていない。
必ず、またいつもみたいに会える日が来る事は間違いない事のように思っている。

だが、それだけでは足りなかった。満たされる訳は無かった。
彼の声を聞く事はできない。彼の心を確かめる事はできない。
彼の体温を肌で感じる事もできない。

一度経験した事だった。だから、今回は大丈夫、と思っていた。
しかし、現実でのコミュニケーションが取れない事がこんなにもつらいものだと、改めて気付かされた。
想っているだけじゃ、足りない。求めても、求めることができない。

心が曇る様に沈んでいくのがわかった。
苦しい恋、って、こういう事?

自分は、思っているよりもずっと欲張りだったのかもしれない。
触れて始めてわかる、肌の暖かさ。
自分の声に、いつでも応じてくれた優しい声。
何気ない、彼の思いやり。柔らかな笑顔。

しかし、それは今、どれも手の届かない物だったのだ。

悲しみは不安と共にやって来て、あっという間にレイの心を蝕んでいった。
その自分の悲しみに気付くより先に、頬を涙が流れた。
流れる涙が風にふかれる。冷たさを覚えて、初めてレイは自分が泣いているんだ、と気付いた。


「あ、あれ……?わ、わたし……?」

「ごめんなさいね。アナタが、一番苦しいってわかっていたのに。レイ、私は、いつもアナタに苦しい思いばかりさせて」

「あ、あはは、リツコ博士のせいじゃ、ないですよ、グスッ……も、もう、やだなぁ、なんか泣き止めないなぁ……ヒック……ううっ……み、みっともないなぁ、わたしったら…」

「全然みっともなくないわ。みっともないのは私達のほうよ、レイ。ごめんなさい、ごめんなさい…」

「ううっ……う、うわあぁぁぁぁぁんっ!!」


気付いた時、既にリツコの胸の中で大泣きしている自分がいた。
我慢していた訳ではなかった。今まではつらいなどと思わなかったのだから。
ただ、自分の心に気付いただけだった。
満たされない思いに気付いたら、そこに悲しみがあった。それだけだった。


「今すぐ、会いたいよっ…!声が聴きたいのっ…!ねえ、碇君、今どこにいるのよぉっ…教えてよ…会いたいよぉ…。」


ただ、心からの叫びだった。
声にしてもし尽くせない想いが、心をほとばしっていった。
はっきりと胸をえぐられるような痛みを感じながら、レイはただ、泣くしか術を持たなかった。






―― 第三十日 午前――


レイは、葛城家を自ら辞していた。
アスカとミサトは、シンジが戻ってくるまでは家にいてもいい、と言ってくれたのだが、レイはそんな気になれなかった。
一人になりたかった、という事だ。
いつもは静寂より喧騒の方が好きだったし、夜よりも昼のほうが好きだったレイなのだが、この時ばかりは違った。

朝。登って来た太陽が白い光を窓へと斜めに差しこむ。
しかし、唯一の窓にはカーテンが閉められ、外からの光を遮っていた。
ベッドの上で寝転んだレイは、飾り気のない壁に視線を向けながら動かずにいた。
こんな風に、暗くなっていたって誰も喜ばないのはわかっている。
今どこに居るのかも分からないようなシンジでさえ、自分のこんな姿は見たくないだろう、とレイは思った。
それでもレイは昨日までの元気を取り戻せずにいた。
悲しみに気付いたせいもある。自分の弱さを知ってしまったせいでもある。

しかし、それ以上に自分の心の奥から語りかけてくる何かがあった。
あの、「夢」を見ているわけではない。横になってはいてもはっきりと目覚め、意識はきちんとしている。
だが、ずっと自分の中から湧き起こる声と問答を繰り返していた。
彼女の意思とは関係なく。









わたし、何してるの。




悲しんでるのよ。





それだけ?




それだけよ。





こんなに晴れてるのに、寒い。




悲しんでいるからよ。





のどが、おかしいくらい乾いてる。





それも、悲しいから。





手の先、しびれてる。




それもよ。





悲しいだけなの?




そうよ。あなたが本当の悲しさを知らなかっただけ。






そっか。わたしが知らなかっただけか。




心が痛い?





心が痛いのか、体が痛いのか、どっちかわからない。




心と体なんて、綺麗に分けられないわよ。
体が痛めば、心も痛くなる。
逆も同じ。




知らなかった。………知りたくなかったな。




憎いんじゃない、碇君のこと。
自分をこんなにしてしまって。





………憎い。許せない。どうして傷つけるの、どうして苦しめるの。




あなたが勝手に悲しんでるだけじゃない。





うん、わかってる。
えへへ、わかってるんだけどね。




理屈でわかっただけじゃ、ダメ?





ダメだよね、やっぱ。
すごい、醜いよね。
人の事勝手に好きになって、
人の事勝手に想って、
いなくなったら、その人のこと憎いだなんて。





でも、どこかでほっとしている。
憎悪なんて、愛情の裏返し。
自分の愛情が嘘じゃなかった、ってことだものね。





もしかしたら、ほっとしてるのかもしれない。
わたし、自分の想いを確かめる方法なんて知らないから。
本当は碇君に全部ぶつけたい。わたしの想いがどれくらいか、思い知らせてやりたい。
でも、碇君がいなくって、それが出来ないなら、恨むくらいしか他に無いじゃない…。

ひどい奴よね、わたし。




諦めたら?
伝わらない想いなんて、忘れてしまえば?





そんな事出来るなら、とっくにしてるわよ。




しようとしていないだけじゃない?





忘れようとすることさえも、出来ないんだ。
理屈でわかってたって、ダメなのよ。




そう…。

アナタは、自分がどういう存在かわかってきている。
どうして生まれたか、
何の目的で生まれたか。
自分の役目は何なのか。




そ、だね。
きっとわたしは「普通」に産まれた子じゃないし、
「普通」の人間でもない。
全部が全部分かってる訳じゃないけど、
多分、碇君とは違う存在。




その違う存在のアナタが、
「普通」の碇君を好きになって。
その想いは叶うと想う?





絶望することもある。
圧倒的に自分の存在の違和感を感じてしまうことがあって。
それはもう定められたことで、誰かに助けてもらえることでも、
自分でどうにか出来るものでもなくって、
わたしは無に還るのをだだ待ってるだけ。
それは今まで自分が感じたことがないくらい怖いことで、
時々震えて何もできなくなっちゃうくらい。
碇君のこと好きじゃなかったら、こんなに怖い想いをしなくていいのかもしれなかったね。

存在は普通じゃないくせに、心だけ普通だって。
おかしいよね、こんなの。あはは…。




心が普通?
こうやって私がアナタに問いかけてること、
普通って言えるのかしら。




あ、そっか、こんなの変かな。
だけど、変でもわたしはわたし。
わたしが感じたように、わたしが思ったままに、
わたしが望むとおりに生きるしかないと思うんだ。

碇君への想いも、恋とか、愛とかって言えるかどうかわかんない。
他のみんなは、こんな風に、悶え苦しむほどに人を思う事なんて、無いのかもしれない。
わたしはわたしのやり方でしか自分を表現できないから。
憎んだり、恨んだり、叫んだりしか出来なくても、自分が感じたままに。





それが、決して報われなくとも?






うん。
報われないってわかってるなら、
報われるように変えてみせる。

幸せになれないってわかってるなら、
幸せになれるように頑張る。

どんな方法使っても、どんなに見苦しくっても、
周りから嫌われちゃっても。

そうすることが本来のわたしの存在から、どんなに遠く、不自然なことでも。

自分の想いを遂げてあげることが、じぶんにとって嬉しいことなんだって、思わない?
スマートなやり方じゃなくても、そういうことを積み重ねていくことが、
「生きていく」ってことだと思わないかな?

だから、わたしが碇君のこと好きなのは、自分のため。

わたし、弱くて、いつも碇君に助けられてばっかりで、
へこたれちゃう事も多いかも、だけど、

諦めたらオシマイだって、思わないかな…。


ふふ、こう思えるのだって、碇君のおかげなんだけどね。








レイは勢いよくベッドから頭を起こし、床に立った。
カーテンの閉めてあった窓に向かい両手でカーテンを開けた。
強い日差しが直接レイの目に入る。

決意をしたレイは、それでもまだ怯えていた。涙もまだ止まらない。唇も震えている。
自分の決意は、シンジがもどってきて初めて決意となるのだ、と知っていたから。
彼が帰ってこなければ、こんな決意は無意味だ。
たった一人だけで、見えない運命に向かえるだけの勇気はまだ無かった。
身体は無に還る事を切望している。ある種の帰巣本能、また、望郷にも似ていた。
しかし、心はこの世界で生きたい、と願っている。ただ、シンジとこの世界で生きる事を望んでいた。

だから、心の震えを押し殺して。溢れる涙も誤魔化して。
嫌な予感を締め出して。

彼女はポケットにNERVのIDカードと、シンジの時計が入っている事を確認すると、その二つを握り締めて部屋を出た。


こんな怖くて、寂しくて、苦しくて、醜い思いはもうしたくないから、今度帰ってきたら絶対離さないんだから、ね。






―― 第三十日 午後――


「先輩、サルベージ計画、もう少しで開始できそうですね。」

「そうね。十年前に実験済みのデータがあったのよ。私は知らないけど、母さんが立ち会ったらしいわ。」

「そうなんですか?結果は、どうだったんです?」

「失敗、だったようね。」

「そうですか…。」


リツコは、マヤにいいながら、自分の手元にある資料を確認する。
そこには、ただ、結果とデータのみが残っている。
誰がこれを実験したかは見当がつく。
エヴァに関する事で、自分や母を除けば、該当するものは少ない。司令のゲンドウだろう。

サルベージ計画の準備が勧められる発令所には、個々が所定の位置に着いていた。
ただ、自分の後ろにミサトがいるくらい。
青葉、日向、マヤもオペレータ席についている。

この間の公園以来、レイに会わなかった。どうしていただろうか。また、泣いているのだろうか。
一番苦しいのが誰かなど、聞かなくてもわかっていた。
だから、自分は出来ることをしている。レイが苦しいという事は、自分も苦しいという事だから。
レイの想いが、どれほど届かないものだと知っていても。
想いが届かない事が、どんなに切ないかは身をもって理解している。
その自分がレイのために出来ることは、シンジを助ける事くらいだ、と思っていた。

そう決心を固め、リツコが準備を進めるマヤのモニターに視線を移した時。
突然、サイレンが鳴った。
警報が鳴り響き、ディスプレイ上のモニターの数が泡のように一斉に増える。
緊急時における赤いランプが部屋にいる自分たちを赤く染める。
全く予期せずあまりに突然の事で、何が起こったのか、一瞬呆然と立ちすくんでしまった。
ようやく、事態の深刻さに気付き、リツコは叫んだ。


「何事!?」

「プラグ内の内部気圧が上がっています!」

「どういう事?こちらはまだ何もしていないわ?」


エヴァの方から変化を起こして来るとは思ってもみなかった。
確かにS2機関を自らに取りこんだとはいえ、使徒の襲来もなく、外敵と思われるものは何もないのだ。
これまでに内部エネルギーは0に等しく変化を起こす前触れも全く無かった。
救出作戦を開始させるまでは、初号機にはなんの処置もしていない。
ただ、エントリープラグと回線を繋いだ事と、素体のエヴァに外観を隠すため、コーティングを施しただけだ。

こちらの状況は全く無視しているように、エヴァの変化を示す信号は、次々に送りこまれてくる。


「このままでは…!」

「旧エリアにデストルド反応!パターン、セピア!」

「コアパルスにも変化が見られます、プラス0.3を確認!」

「どう言うことよ、リツコ!これも計画の範囲内の事なんでしょうね!」

「私は全能の神じゃ無いわ、範囲外の事が起こる事まで予想できないわよ!タンジェントグラフを逆転させて!」

「はい、現状維持を最優先させて………ダメです、コアパルスの増加を抑えられません!」

「どうして…。これはエヴァの意思?それともシンジ君の意思?こっちに帰ってきたくないの…?」

「ダメです、プラグ内、圧力上昇!」

「電源を落として!安定状態復帰を最重要としてエヴァに信号を送って!」

「エヴァ、信号を拒絶しました!」

「プラグが排出されます!」


オペレータ達の悲鳴を聞きながら、まだリツコはなぜこうなったかを把握できずにいた。
サルベージ計画は実際に行われる段階まで来ていた事は事実だ。
しかし、現実には何もなされていないエヴァが、安定状態を変化させ内部を排出しようとした。
それはまさしくエヴァの意思そのもののような…。
把握できない現状は、全てを把握できていないエヴァそのものが起こしているようだった。


「シンジ君!!」


ミサトの悲鳴の直後にリツコが目にした物は、排出されたエントリープラグと更にそこから溢れ出たLCLのみ、だった。







―― 第三十一日 ――

何が起こったのだろうか…。
それさえも解からなかった。

自分の意識が戻ったのは、いつだったろうか。日の出ていない時刻である事は間違いない。
暗い部屋で少し見慣れ始めてしまった白い天井を見た時、再びここにいる事がなぜだかひどく久しぶりに思えた。
少し視線を横にずらし、自分の脇を見てみる。誰もいない。
点滴や酸素吸入器なども無いという事は、身体の方はもうほとんど問題ないのだろう。
しかし、ただ一人この部屋でいる事がそら恐ろしく感じた。
無音、無臭の部屋には温かみが全く無かった。

だから、シンジはもう一度目を瞑った。

自分は、何か変わっただろうか。

どうして、エヴァにまた乗ったのだろうか。
その答えは、半分は出ているような気がした。
これから、自分はまたエヴァに乗るだろう。
どうなっていくかなんて、わからない。もしかしたら、命の危機に瀕する事もあるかもしれない。
それなのに、とても落ち付いていた。

考える事はたくさんあった。トウジの事。エヴァの事。父の事。母の事。
考えれば結論が出る事もあるだろう。しかし、今は真実を知りたいとは思わなかった。
いつかは、明らかになる事もあるだろう。

閉じた目蓋の下で、シンジはゆっくりと眠りに落ちていった。







再び、この部屋で目覚める。日差しが眩しい。朝なのだろうか。
人がいる。すぐに気付いた。
逆光の中で、それが目では誰かわからなかったが、誰がいるかは、すぐにわかった。
なぜか、わかった。それは予想ではなく、確信だった。
そして、ようやく自分がこの世界に帰って来たのだと理解した。
結局、彼女のいない世界などは考えられなかった。つくづく、シンジはそう思った。

いつもと同じように、シンジの目覚めを、隣でレイが待っていた。
膝に置いた小説に目がいっていたのだろうか。
レイは、シンジが目覚めた事に気付いていないようだった。


「綾波…。」


小さく呼びかけるように、彼女を見ながら名前を呼んだ。
レイは応えず、視線も変えなかった。
聞こえなかったのかな。
そう思って、もう一度、彼女の名を呼ぶ。

 

「綾波…?」


光が溢れる中、表情を読めなかったが、どうやら、眠っていたようだった。
耳をすますと、ゆっくりとしていて心地良さげな呼吸の音が聞こえて来た。
空調の効いた部屋だったので、快適だったのだろう。
いつからいてくれたのかな。
嫌いな病室だったが、起きた時に彼女がいてくれると例え様の無いほどの安心感を覚える。


「ありがとう、綾波…。」


色々な意味を込めて、言ったつもりだった。
この病室で待っていてくれる事。
独房で自分に思いをぶつけてくれた事。
自分を頼りにしてくれる事。
いつも隣で、笑っていてくれる事…。



「どういたしまして、碇君。」

「……え?あれ?寝てたんじゃ、ないの?」

「起きてた。嘘寝入り。ゴメンね。」

「もう…。綾波ってば…。」


謝ってはいるけど、今度は逆光の中でもわかるレイの飛び切りの笑顔。
やっと、戻って来れた。今初めて、そう感じた。
安堵感が胸一杯に広がり、心のたががゆるんだ。



「あれ…どうしたんだろ、僕…。」


零れてくる涙を止められなかった。
不思議がっている自分とは裏腹に、大粒の涙が、一つ、二つ…。
目をこすっても止まらない。
後から後から涙が止めど無く出て、白い彼の服を濡らした。


「碇君、変なのっ。せっかく戻って来れたんだから、喜んで…」


彼女の声も、涙混じりになっていた。その声でシンジは初めて、レイも泣いている事に気付いた。
制服のスカートが涙に濡れて、色が変わっていた。
もしかしたら、自分より早くから泣いていたのかもしれない。
多分、嘘寝入り、と言っていた時から。
嬉しかった。自分をこんなに思ってくれている人がいる。


「喜んでるよ、綾波。…また戻ってこれて、良かった。こんなに嬉しい事はないよ。」

「ありがと、戻って来てくれて…。本当に…。」

「ゴメン、心配掛けて…。」

「ううん、いいよ、戻って来てくれたんだから。それだけで、わたしは満足だよ。…ホントはね、碇君起きたら、一発殴っちゃおうかなって思った。それくらい心配したし、我慢できなかったんだから。でも、なんか碇君が起きたの見たら、どうでもよくなっちゃった。うん。もう満足しちゃった。」

「あはは、綾波に殴られるのはやだな。痛そうだからなぁ。」

「あ、それひどーい。女の子に対して言う言葉?やっぱり本当に殴っちゃおうかしらっ!」

「あはは、ゴメン、ゴメン。あはは、あはははは…。」

「あは、変な碇君っ。泣いたり笑ったり、どうしちゃったの?あははははっ…」



病院の一室では、涙で途切れ途切れになりながらの笑い声が続いていた。
お互いの笑顔と涙を確かめるような、存在を確かめるような笑い泣き。
表現なんてどうでも良かった。ただ、お互いが一緒にがいることが嬉しいんだ、という事が伝われば。
ただ顔を見詰め合ってるだけでもこんなに嬉しいんだ、という事を覚えると、また涙と笑いがこみ上げて来た。

二人とも、一緒にいる事が自然なんだと、心の底から思った。















理屈じゃないんだよ、



碇君を好きな事は。



たとえわたしが、



理屈で作られた子であっても。




fin








masa-yukiさんのリナレイ版エヴァの13話です。
自分が悲しむことをシンジが望んではいないと考え、気丈に振る舞うレイ。
それを傍観者のように見守り、レイと自分を比較しながら我が身を振り返るアスカ。
何もできず、ただ心配することしかできない自分を歯がゆく思っているであろうミサト。
複雑な思いを心に秘めながら、サルベージ作業を淡々と進めていくリツコ。
4人の女性の内面がきっちりと描き分けられていました。
鬱々とした雰囲気の中で、最後の病室のシーンの明るさが際だっていて、それがシンジの帰還を本当に良かったと感じさせるエピソードでした。
そして、レイの「決意」とは? 次回にも期待しましょう!

Written by masa-yuki thanx!
感想をmasa-yukiさん<HZD03036@nifty.ne.jp>へ……


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