NERVの中央病院の特別棟。
レイは正面の白い壁を見つめ長椅子に座りながら、半ば自動的に耳から入るミサトの声を聞いていた。
左肩と腕に包帯が巻かれている。先の参号機との戦いでの傷だった。骨に異常は無いが、痛みはまだあった。
隣にいるアスカも、目を瞑ったまま背中を壁に預けて言葉を発していない。
アスカの頭にも包帯が、頬に絆創膏が張ってある。

二人は戦線離脱した後の経緯を知らされていなかった。


「……とても普段のシンジ君からは考えられない行動ね。エヴァがNERV本部へ回収され、ケイジに固定されたと同時にプラグを内部からエヴァにロック。電源をカットされた後もNERV側の指示は全く聞かずに、恐喝を掛けたらしいわ。シンジ君にとっては司令の判断を恨むのも、当然の事だとは言ってもね…。結局、強制的に排出したようだけど…。」


ミサトはそこで大きく息をついた。

呆然としたレイの様子は、まだ変わらなかった。
これは、最悪の結果ではないはずだった。
彼女が病院で意識を取り戻し、近くの医師に最初に尋ねた事も最悪の事態を恐れての事だった。
それは参号機の暴走の知らせを受けて以来、ずっと考えていた事だった。
絶対に考えまい、と意識していた事だったにもかかわらず。

彼女が最も恐れていた事は、シンジが、参号機によって殺されてしまう事。

シンジが参号機を倒してしまう、という事も恐れていた事の一つではあった。
しかし、これは想像の範囲でありえない事だろうと思っていた。
確かに、シンジは参号機にトウジが乗っている、という事を知らなかった。
が、そこに誰かが乗っているという事は知っていたのだ。
彼が参号機ごと、パイロットを殺せるはずはないだろう。


「でも、あの戦況で、司令がダミープラグの使用を強行したのは誤った判断ではないわ。シンジ君は戦う意思を見せていなかったようだし。」


ダミープラグ、パイロット代わりにエヴァを動かす物、といった所だろうか。
レイはミサトの話から、その程度の理解しかしていなかった。

参号機によって窮地に陥ったシンジに代わり、初号機をコントロールしたのはダミープラグだった。
結果的に、それによって最も恐れていた事は回避された。
シンジに代わったダミープラグは、完膚無きまでに参号機を殲滅した。
エヴァの素体がばらばらになり、LCLによって辺りの川が赤く染まるほど凄惨な物だったらしい。

しかしそのおかげで、彼が死ぬ事だけは避けられた。そして、誰も死ななかった。
レイは自分が気絶している時に起きた経緯を聞き、次第に自分がわからなくなるような感覚に陥っていった。


「わたしが、碇君に、鈴原君の事をちゃんと言っていれば」

「ンな事、アンタがいわなきゃならない事じゃないわよ。」


下を向きながらの小さな呟きに、アスカが即座に反応した。
言う内容が解かっていたかのような、そんな応じ方だった。


「何度だって言うチャンスはあったのに!わたしが碇君の嫌な顔を見たくなかったから、傷つけたくなかったから、自分がいいと思ってたから!!」


嫌気が差して、たまらなかった。
自分が言わなければならなかったわけではないが、また自分が何もしなかったのも確かだ。
シンジが、参号機に乗っていたのがトウジだと知った時、どれほどの怒りや悲しみが彼の中に迸ったか。
それを考えると、レイは胸の軋みを押さえきれなかった。


「鈴原の事をアンタがシンジに言えるなんて、誰も思っちゃいないわよ。」


アスカは半分取り乱したレイに対して、ぴしゃり、と言った。
取り乱している彼女に、冷静になれ、というようだった。
それを聞いても彼女の心のうちが治まる事は無かった。


「今回ばかりは、まいったわね…。私がシンジ君に何も言っていなかった方が、罪は重いわ。レイが気にやむ事じゃ、ないわよ。」


ミサトも溜息混じりに言った。どこか諦めかけたような口振りだった。
ミサトが松代での事故の後、意識を取り戻した後には全て事は終っていた後のようだった。
詳細は加持から聞いたらしい。


「それで、碇君は、」


下を向いて居たレイが僅かに頭を上げ、先程よりはやや落ち着いて言った。


「今は、またいつもの指定席。怪我も無いんだし、そのうち気付くわよ。」


シンジをエヴァから強制排出する際、LCLの圧縮濃度を無理に引き上げ、彼の意識を奪ったと聞いている。
その後遺症の為の入院だろう。
今回の事件を合わせると、彼がこのNERVの中央病院に入院したのは何度目の事になるだろうか。

でも、今回の事はいつもと同じようにはいかない、よね…。

レイはまた顔を伏せ、目を瞑った。
隣から、またしても冷めたようなアスカの声が聞こえてきた。


「今ごろ、夢でも見てるんじゃないの?」

「ゆ、め?」

「そうよ、夢。アンタ、まさか見た事無いわけじゃないでしょ?」


アスカは当たり前の事を確認するように顔を近づけて言った。

最近時々見る、あの夢。
まるで現実を映写機に撮って、それをスクリーンで見せ付けられているような、あの夢。

レイの中で、アスカの言葉とその夢が一瞬ダブった。
それと、今、見ているかもしれないというシンジの夢とは、何の関係も無いと思う。
しかし、とても良いとは言えない現状と、自分の夢を思い出し、先に光明の見出せない現実にレイは身を震わせた。





そんな彼女の可能性 〜Cross heart〜







レイ自身は、NERVの独房に入った事はない。
そんな場所があるんだ、程度の意識しかなかった。
冷静に考えれば、軍事施設でもあるNERV本部に犯罪者や敵対者を留めておく場所があるのは当たり前のことだ。

その中に、シンジが居る。

犯罪者と言われても仕方が無い。エヴァを恐喝の道具に使ったのだから。
しかし、レイはシンジがその為に独房にいるのを他人事には思えなかった。

わたしにだって、罪はあるはずよ。

レイは独房の前に立っていた。赤い光が彼女を包み、薄ら寒さを覚える。
隣に黒服のガードマンがいる。
本当は会えない所だったのだろうが、言い縋って少しだけシンジと会話ができる事になったのだ。
彼の姿を想像するのは容易で、それだけに会いたくはなかったが、会わずにはいられなかった。

たまたま碇君に厳しい決断を求められただけ。
わたしが同じ立場だったとしたら、碇君より上手く対処できた?
ううん、きっと、無理。


「少しだけだぞ。いいな。」

「ハイ。無理言って、ごめんなさい。」


黒服の男が扉にあるスロットに、IDカードのような物を通した。
さらに、鉄製の鍵を鍵穴に入れて時計回りにひねった。
男が扉の取っ手に手を掛け、引くと、高音と低音の入り混じった金属の悲鳴が、レイの耳に襲いかかってきた。

シンジは椅子に座り、両手の平を強く組んで顔をこばめていた。
扉が開いた時に微かに視線を投げかけたようだったが、それも一瞬の事だった。
感情を押さえようとしているのだろうか。
彼の姿を見て、レイは締め上げられるような圧迫が胸に走った。


「碇君。」

「……綾波?」

「えっと、元気?」

「僕はなんとも無いよ。」


レイは座って入るシンジの横顔を見ていた。
外から入る光は僅かで彼の表情までははっきりと取れないのだが、口調の重さがしっかりと彼の気持ちを代弁していた。
やがて後のドアが閉められた。先ほどの男が閉めたのだろう。
入ってくる光の量はさらに少なくなった。


「碇君、ゴメン。わたし、謝らなくちゃいけない。」


シンジは沈黙を守ったままだった。
レイは込み上げてくる自分に対する嫌悪感を、ぐっと踏みとどめながら声を張り出した。


「わたし、鈴原君が参号機のパイロットになる事、知ってたの。学校でも、下校帰りでも、葛城さんの家に泊まったときでも、碇君に言おうと思えば言えたはずだった。でも、言わなかった。ごめんなさい。」


レイは深く頭を下げた。心から後悔していた。
これで嫌われるかもしれない、と思ったが、それ以上にシンジへの罪悪感が彼女を突き動かしていた。
何より、自分で納得がいかなかった。
先を見越せなかった甘さを呪った。


「そんなの、綾波のせいじゃないよ。別に、いいよ、そんな事」

「でも、わたし何もできなかった。」

「いいんだ、悪いのは綾波じゃない、何も悪くない。悪いのは、悪いのは、父さんなんだ。」


彼の声には強く、はっきりとした憎悪の念がこめられていた。
息を長く吐き、さらにシンジは頭を垂れた。

他の人がしたんなら、碇君はこんなにも怒らなかったかもしれないな。
碇君、本当は司令と仲良くしたかったんだから…。

シンジが父親と仲良くしたがっているのを、レイは良く知っている。
それがお墓参りの時にも強く感じられた。
ゲンドウと仲が古い自分の事を、羨ましそうにしていたシンジも知っている。
だからこそ、シンジの行動は理解できる部分も多かった。

しかし。

レイは直接、シンジがなぜ恐喝のような行動をしたか、訊きたかった。
錯乱していたのもわかるし、許せないのも解かる。
友人を傷つけるような真似をさせようとした事は、耐え切れないだろう。
そして、よりによって仲を作りなおそう、としていた父親に。本当は仲良くしたい父親に。
でも、こんな事をして何もならないと、ほんの少しでも考えれば解かったはず。
どんなに我を忘れても、人を脅すような真似を彼がした事を、理解できなかった。


―――どうしよう、訊いてみようかな、それとも、やめるべきかな。


戸惑いが生まれ、視線は四方に飛んだ。
それでも自分の視界から外れないシンジは、自分の事をほとんど気にしていないように見える。
ゲンドウへの憎しみがそうさせているかもしれない。

問いを投げかけようかと迷ったのは、一瞬だった。


あの時エヴァの中で迷って何もしなかったから、わたしは今後悔してる。
嫌われるかもしれない、でも、でも訊かなければいけない気がする。
もうあんな思いは、したくない。
だから訊くんだ、碇君に。黙ってたって、解からないから。

レイは喉に詰まっている何かを吐き出すように、シンジに話し掛けた。


「ね、碇君………なんであんな事したの?」

「許せなかったんだ、父さんが。」


シンジの返事は早く、しかも鋭いものだった。
彼がどれほどの怒りをこらえているか、それはわからない。 が、言葉の険しさに、自分には計り知れない感情が含まれている事だけはわかった。


「僕を裏切ったんだ、父さんは。僕の事なんて、どうでもいいと思ったんだ」

「それは違うよ、だって、ああしないと碇君死んでたかもしれないもん。」

「じゃあ、僕が生きて、トウジは死んで、それで父さんは満足するって言うの!?」

「ち、違う、そうじゃない、そうじゃないけど、碇君はお父さんの事解かろうとしてないでしょ?」

「解かろうとしたよ!」

「ウソ、ホントに解かろうとしたなら、あんな事しないはずだよ!」

「解かろうとしたんだよ!!でも、解かる訳無いんだ。僕にトウジを殺させるつもりで、それができなかったから、自分で殺そうとしたんじゃないか!僕は何度もやめて、って言ったのに!!父さんが裏切った事に変わりはないんだ。中にいるのを知ってた綾波は、トウジを殺せたの!?それとも、トウジじゃなければ、知ってる人じゃなければ殺せたの!?」


広いとは言えない独房の部屋中に、シンジの悲痛な叫びが響き渡った。
彼の問いに、返答はできなかった。

あの時、参号機を目の前にして確かに自分の中で躊躇が生まれたのだ。
自分がシンジの代わりに参号機を止める事ができれば、とも思いながら、それができなかった。
できる可能性はあったにもかかわらず、だ。
もし、搭乗しているのが知らない人であっても、自分の行動は変わらなかっただろう。
つまり、シンジの代わりに罪を被る勇気は無かった。
だから、それ以上彼に何も言えなかった。
結局こうなるしかなかったのかな、という暗鬱たる思いが胸に広がっていった。

鉄の扉を叩く音がして、おい、と低い声が聞こえた。
もう時間だ、という事なのだろう。


碇君の気持ちは、結局解からなかった…。


「もう時間だから。また、来るね。」

「綾波」


降りかえってドアを開けようとした時、初めてシンジからそう問い掛けた。
心底驚いて彼を振り返った。聞き間違えたのか、と思ったくらいだった。
シンジにあれほど強く言い攻められた後で、他に何か言われるとは思わなかったからだ。
が、彼は俯きながらもこちらを見ているようだ。
前髪に隠れた彼の瞳を見る事はできなかったが、注がれる視線をはっきりと感じられた。


「な、なに?」

「腕、大丈夫なの」


言われて自分の腕を見ると、ドアにある採光窓からの光がちょうど包帯を巻いている部分に当っていた。
シンジがを自分を気遣ってくれている事が理解できると、慌ててそれに応えた。


「うん、わたしは大丈夫。ぜんっぜん、痛くなんか無いよ!」

「そう……良かった」







環状線を走る電車の上で、レイは流れゆく景色を瞳に映していた。
ドアのガラスの向こうには、ゆっくりと箱根の山が過ぎ去っていく。
僅かな揺れがレイの足から身体全体に伝わり、揺さぶられるような感触を覚えていた。
彼女は自分の中で自問自答を繰り返し、全く周りを気にしていなかった。

自分は、一体何がしたかったのだろうか。
シンジに話すことで、自分の罪を謝りたくて、彼の考えを知りたかったから。
前者は達成され、後者は達成されなかった。

でも、わたしはわたし、碇君は碇君。
碇君の考えている事が、わたしに全部解かる訳なんて無いよ。
解かろうとするしかなかったんだから、これで、これでいいんだっ…。

シンジにやり込められて苦しい想いもあるが、そう思うしかなかった。

制服のスカートのポケットに入れてある物を、ぐっと握った。
それは時計だった。彼がこの前、家に忘れていった時計。
切れていたベルトは、まだそのままだった。
本当は新しいベルトを買って、直して返してあげよう、と思っていた。
シンジに会うために、その彼の時計に頼るほどの勇気が必要だったのだ。
それくらい臆病だと、自分で思った。

だが、シンジは自分が憎くてキツイ言い方をしたのではない。
最後のシンジの思いやりが、それをはっきり表していた。

嫌われている訳じゃ、無いのよね。

だから、ほんの少しでも心が軽くなったのだった。

わたしに罪があるのは変わらない。
でも、済んじゃった事なんだから、今更しょうがないよ!
少しは立ち直らなきゃ。だれもわたしのせいだなんて言ってない。


「そうよ、わたしがこんな事言っててどうするのよっ!」


人同士の会話の少ない電車の車内に、ひときわ大きな声が響いた。
周りの人は驚き、意表を付かれた顔をして彼女に視線を集めた。
あちゃ、つい声に出しちゃった。

レイは赤らめた顔を隠すようにして、ゴメンなさい、と謝りつつ、さっと周りの人から顔をそむけた。

ちょうどその時、レイの携帯がピピッと鳴った。
さすがにこの電車の中で携帯を使って話すと、迷惑がかかる。
まして、今、騒ぎを起こしてしまった直後だ。手早くスカートのポケットから取り出した。

一応、誰が掛けて来たのかだけは確認する。
意外な名前とダイヤルが液晶の画面に映っていた。

相田ケンスケ。

彼が自分に電話を掛けてきた事など無い。
なんでだろ、と思いかけたが、すぐにその疑問は氷解した。
おそらく、ヒカリからトウジの状態を聞いたのだろう。
そして、今、シンジやトウジに直接連絡を取る術は無い。
なら他のチルドレンのどちらかに掛けてくるしかなかったのだが、アスカは少し苦手のようだ。
多分、そうなんだろうな、と思った。
アスカが男の子と話している姿というのは余り目にしない。
シンジが唯一、と言って良いのではないか。
だから、自分の所に電話が来るのは当然かもしれなかった。


相田君は、わたしが碇君をどう思ってるか、知ってるみたいだし、さ。







駅で降りたレイは目的地、つまり自分の家に向かっているわけだが、程近い公園につくとそこのベンチに座って改めて携帯を取り出した。
ボタンを押そうとした瞬間、呼び出しコールがなった。
タイミングの良さにびっくりしながらも、反射的に通話ボタンを押す。


「よぉ、綾波か?」

「あ、相田君?久しぶりだね〜。」

「おい、久しぶりって言っても、二日かそこらだぞ?それが、そんなに長かったのか?」

「えっ、う、うん、もしかしたらそうかもしれない…」

「それで、そんなに暗い顔をしてベンチに座ってるんだな。」


へ、と、自分の姿を自分で確認してしまった。
確かに、自分はベンチに座って、顔を落として電話をしている。
それが解かると言う事は。
顔を上げて辺りを見渡すと、公園の入り口に携帯を手にしたケンスケが手を振っていた。







「なるほど、そういう事なんだな…。」

「うん」

ケンスケは傍らにある缶ジュースの自動販売機の隣に立っていた。
手に350mlの清涼飲料水の缶が握られていた。
レイはベンチに座ったまま。
傾いた赤い日差しが、レイの水色の髪を橙色に変えていた。

レイは事のあらましをケンスケに話した。
トウジが参号機のパイロットに選ばれてから、今しがた、シンジのいる独房で彼と話したところまで。
変に包み隠さず、もう全て話した方がいい、と思った。
一応、秘密事項を洩らすような事は無いようにしたつもりだったが、果たしてそれも自信がなかった。
それくらい、もう全てを喋ってしまいたかったのだ。
自分がトウジの事を彼に告げなかった事も、しつこいくらいに謝った。


「そんなに謝るなよ。綾波がトウジの事を言いにくかったのは俺にもわかるからさ。気にするなって。」

「……ありがと。」


この事を話して何人目かもう忘れてしまったが、まだレイの中には罪の意識が残っている。
だが、それを無理に消そうとはしなかった。
シンジに比べれば、よほど楽な立場に違いないんだろうから。
この罪の意識が、少なくともシンジとの絆になっている、そう思って。


「それにしても、トウジでさえエヴァに乗れるっていうのに、俺はどうする事もできないか。」


ケンスケは苛立っている事を隠さぬ仕種で、清涼飲料水を向かいの缶入れに叩き入れた。
カラスとヒグラシの鳴き声しか聞こえない夕暮れの公園に、安っぽい金属音が高く響いた。

彼がエヴァに乗りたがっている、というのは前々から知っていた。
が、どうしてかは、よく解からなかった。SFものの主人公のような思いを馳せていたんだろうか。

エヴァになんて、誰も乗らなくていいのに…。

レイはそう思わずにいられなかった。


「ね、鈴原君があんなになっちゃっても、まだエヴァに乗りたいの?」

「……さすがに、考えなおすべきかもな。でも、アレにのって、使徒を倒すのは格好いいと思う。」

「格好良くても、死んじゃったらなんにもならないよ!そんなのっ、誰も喜んでくれないっ、よっっ」


レイは俯いて言った。声の終わりは、涙混じりに変わっていた。
足を失ったトウジ。それを見舞ったヒカリ。
独房に入れられたシンジ。


何がいい事なんてあるもんかっ!


「お、おい、泣くなよ、別に俺は死んでまでエヴァに乗りたいなんて言ってる訳じゃないさ。」


突然涙声になったレイに驚きながら、ケンスケは言った。

しばし、時間が流れた。
数えれば、数分だったのだろう。しかし一度傾きかけた太陽が落ちるのは早い。
彼と話し始めてから今に至るまで、太陽は徐々に力を失い、二人の影を引き伸ばしていった。

レイはまた、心を落ち着かせようとしていた。
これが何回目か、もう数えられないほどだった。

もう過ぎちゃった事を言ったって、仕方ないんだよね。
これが、エヴァのせいなのかどうかだって、わたしは解からないのに。
たまたま、鈴原君がああなっちゃっただけ。
わたしやアスカや、碇君がああならないとは、誰も言えないんだ、きっと。

そして落ちついた頃合を見計らってだろうか、ケンスケが諭すような声で話し始めた。


「俺とトウジが逆になっていても、結果は変わらなかったんだろうな。」

「うん。鈴原君が何かしようとした痕跡は無いって」

「なら、俺は幸運というべきかなのかな…。俺にも一応親父が居るしなぁ。ま、アイツにも妹が居るか。」

「誰かがあんな目に会えばいいなんて、そんな事無い。相田君が怪我をしたって、鈴原君は怒ってたよ。」

「そうだな、嬉しいがアイツは怒ってくれるんだろうな。それに、俺もNERVの人達は許せない。いくら親が勤めていても。」

「ゴメンね」

「綾波は、NERVの人間じゃない。友達だよ。」


涼しくケンスケがそう言った後、また、時の空白ができた。
間の多いこの会話には、何かの共通する空気が流れているようだった。
自分は何もできなかったことを悔やんでいたが、もしかしたらケンスケもそうだったのかもしれない。
友達、と、断言してもらった事は嬉しい事だった。
そして、ケンスケにとって友達の、レイにとって友達以上の、彼の事について話し始めた。


「シンジのヤツ、また、ここから帰ろうとするなんて事無いだろうな。」

「さっきの碇君が何を考えてるか、なんて解からなかった。鈴原君を怪我させられたって事より、司令、お父さんに裏切られたと思ってることのほうが、つらそうだったみたい。」

「そうさな、綾波、お前が暗くなったりしなければ、アイツはここから逃げ出したりしないよ。」

「え?」


突然話の向きを変えられたような気がして、レイは訊きなおした。

碇君がここに居る理由と、わたしが暗くならない事と、なんの関係があるの?
むしろ、碇司令の方じゃないのかな。
わたしが今の碇君にできる事なんて、何があるの?


「綾波は、綾波らしくしてたらどうだ?」

「でも、わたしはさっき碇君に何もできなかったんだよ?」

「いいから、お前は自然にしていれば良いんだよ。」

「え?」


無力感に襲われつつあったレイにとっては、なんとも意外な言葉だった。
確かに、ケンスケに言われた通り、無理に何かをしようとしていたような気がする。

でも、それはこんなに非常事態だから。
それと、わたしらしく、って事と関係があるの?

ケンスケは振りかえって、レイに背を向けた。
そこに、もう話す事が尽きたような気配を覚えた。

結局、相田君は何が言いたかったの?

背中越しに声をかけ、ケンスケは言う。


「んじゃ、な。少なくとも、シンジと後1回は会うつもりなんだろう?」

「う、うん、でも、わたし何をしたら言ったらいいのかな。でも、会わないといけないと思うの。」

「会ってみるだけ会ってみろよ。なるようにしかならないさ。綾波、おまえらしく、な。」


ケンスケはそう言うと、公園の出口へと向かっていった。
彼の言葉の意味が、どうにもわからなかった。

わたし、何をすれば良いんだろ?







シンジはこれほどまでに強い視線で、目の前の男を見つめた事が無かった。
暗い広大な司令室で、自分は何を言おうというのか。
腰の前で交差されている腕は、自らの意思に寄ってではなかった。
固い鉄の錠によって、十重二十重に腕の自由を奪っているためだ。
当然だ。自分は犯罪者なのだから。
しかし、正対している人間は父親だ。

こんな形で話していて、父さんは僕に何も感じないのか?

相も変わらず、サングラスと組んだ腕に阻まれたゲンドウの表情は読めない。


「お前は、自分のした事がわかっているのか。命令違反、エヴァの私的占有。稚拙な恫喝。全て、犯罪行為だ。」


聞きながら彼は唇をかみ締めた。すると、鉄っぽい血の味が舌の先に滲みおちた。

自分のした事は解かっている。
しかし、あの状況で、他に何ができたのだろうか。
何もしないわけにはいかなかった。
爆発してしまいそうな、身体を弾き飛ばしてしまうような怒りの抑え方など解からなかった。
なにより、抑える気も無かった。

父さんはトウジを殺す事ができて、僕は何もできないのか。
父さんは僕を裏切られて、僕は父さんを裏切れないのか!


「何か、言う事はあるか。」


その問いにすぐには返答をしなかった。
もう、二度とエヴァになんか乗りたくない。
そんな叫びが、喉まで出かかっていた。それでも、彼は返答に窮していた。

…エヴァに乗らない僕は、ここにいる事ができない。
僕がここ以外に行って、どこで何をするのか。先生の所に戻るのか。
戻って、どうするんだ。ここに居るよりマシになるのか。

多くの疑問が、シンジの口から言葉を奪った。
僕は、まだここにいたいと思ってるんだろうか。
父さんに裏切られて、ここにいても何も無いはずなのに。


違うのか?


「言う事が無いなら、用は無い。」

「なぜ、あんな事をしたんです」


会話をとぎろうとするゲンドウの言葉を遮るように、シンジは呟いた。
大きな声ではなかったが、赤い光に包まれている静寂の中では充分に響いた。
口に出してみたが、まるで自分の言葉ではないような声色だった。


「お前が戦おうとしなかったからだ。」


声を聞いた瞬間、シンジの眦の軋みが、激しさを増した。
歯の擦れる音が頭の奥に届いた。
そんなに、NERVが大切だというのっ!?
どうして、僕の事を少しでも気に留めてくれないんだ!?


「僕に人殺しになれって言うの!?」

「あれは、使徒だ。殲滅するべき敵だ。それが、NERVの任務だ。」

「だから、なんなんだよっ!!自分たちが生き残る事だけ考えて、それでっ…!!」


彼は、怒りでほとんどなにも考えていなかった。
ただ憎しみだけが口から声を震わせていた。
喉から搾り出された叫びは、広過ぎる闇に溶ける事はあっても目前の男の表情一つ変えることはできない。
次第に怒りは冷めていった。憎しみは冷める事は無かった。
たとえ自分がどれだけ泣いてもわめいても、この男は表情を変えないだろう。
諦めに似た感情が彼の胸のうちに湧き上がってきた。
叫びの残響が消えゆくと、また静寂が二人の間に覆い被さった。


「気が済んだなら、行け。」


それを合図にして、ぐい、と後ろに引っ張られた。
後ろに控えていた黒服の男がやったのだ。
目線の先から外れていくゲンドウを必死で睨む。
肩に男から力を加えられ、無理矢理にシンジは背中を向けさせられた。
しかしシンジが見つめていた最後の一瞬まで、ゲンドウは顔の前に組まれた腕をほどかなかった。


どうしてあんなのが、僕の父親なんだ。

それでもあの人しか、僕の父親じゃないのか。

あんなヤツが父親じゃなければっ!







レイの意識は闇の中にあった。
ただ、意識しかなかった。自分の姿は見えない。
視界という物も存在していない。
ただ意識というものが空間に捕らわれていて、それがあらゆる場所に広がっているかのようだった。

また、この感覚。
上も下も無い、不安定な場所。
でも、妙に落ちついている。昔からここにいたように。他のどこにいる時よりも。
そして、彼女はまた「誰か」の存在を感じた。




「わたしの中に居るのは誰?」




彼女は感じた「誰か」に向かって話し掛けた。
話し掛けたというより、そう、疑問に思っただけ。心の声を投げかけただけだ。
しかし、それだけでもそこにいる「誰か」には通じる気がした。






わたしはアナタよ





闇の中から声があった。
それは、形のないレイの意識に直接語り掛けた。
彼女はその声に向き合った。






「なに言ってるの、わたしはわたしじゃない。
 変な事、言わないでよね。」





アナタの中に居る、わたし



アナタの知らない、わたし






語りかけてきた声は明確に彼女の意識に伝わった。
知らない声ではない、と感じる。しかし、それが誰であるか、断定はできない。
自分にほど近い声に、レイは不可解な苛立ちを感じた。
まるで、自分よりも自分の事をよく解かっているような。
見透かされているような嫌悪感が湧きあがった。






「わたしはわたしでしょ!!
 これまでの時間と、他の人達との繋がりによってできた、わたし。
 他に、わたしはいないわ。」






でも、本当のアナタは他にもいるの

アナタは、それを見るのが怖いのよ

今のアナタと、違うかもしれないから





「……そんな事……」





ほら、また、見せてあげる


アナタの形を


魂に刻まれている、アナタの記憶を






その言葉が聞こえると、意識は小さく生まれた白い光へと進んでいった。







「じゃ、先に帰るわね、母さん。」

「お疲れ様、リッちゃん。」


発令所に、2人の女性の声が響いた。
その日は、彼女たちにとって記念すべき日だった。
基礎理論の構築から数えれば、MAGIの完成はおよそ10年の時間が掛かった。
ナオコの頭にあった状態から数えれば、さらに長い時間が費やされていたのだが。









な、なに?これ。








眼前につきつけられた見覚えの無い光景。
眼前という表現はおかしいかもしれない。
自分の目を感じる事はできず、自分の身体もわからないのだから。
しかし、確実にある場面が意識の中に描かれている。
二人のうち、一人よく知っている。
赤木リツコ。リツコ博士。
今とほとんど変わらない、白衣と金髪が対照的な姿。
もう片方の女性は知らない。白衣を着ている所から、科学者だとは判る。
次第に、自分とは全く関係の無いこの場面の予備知識が、意識の中に浮かび上がってきた。








そう、これはMAGIが完成した日。

こんなこと、知らないはずなのに。

あの人は、あの人はリツコ博士のお母さん…。









リツコが発令所から去った後、ナオコは眼下にある三体のMAGIを見つめた。
自分の人格を移植した、生体コンピュータ。
ようやく、との思いが彼女の心にあった。科学者として、これほど満足感のある時は始めてだった。

プシュッ……。

その時、傍らのドアが開き、一人の少女が姿を現した。
年齢は、4、5歳くらいであろうか。
水色の髪の少女は、表情を見せずにそこにつっ立っていた。








え?この子、もしかしてっ?



そう、アナタよ。








問い掛けに応じた先ほどの声。
この光景を眺めているのは、自分だけではないのか。
というよりも、この声の持ち主に見せられているんじゃないだろうか。
疑問は果てなかったが、作り事を見せられている気分ではなかった。
事実なのは間違いが無い。なぜかそう感じていた。








「あら、レイちゃん。何かご用?」


「道に迷ったの」


「じゃ、私と外に出ようか。」


「いい」


「でも、一人じゃ帰れないでしょう?」


「大きなお世話よ。ばあさん」



それを聞いて、ナオコは顔をしかめた。








ちょ、ちょっ!わたしこんなこと言わないよ!








レイは自分の過去の姿を見て焦った。
確かに、これほど小さな自分の姿を覚えていない。
覚えていないのだから、自分の叫びもどこか虚しい。
その叫びと意思に反して、場面は淀みなく進んでいく。








「ばあさん?人のことをばあさんなんて言うものじゃないわ。」


「だって、あなた、ばあさんでしょ」


「怒るわよ?碇所長に叱ってもらわなくちゃ。」


「所長が言っているのよ。ばあさんはしつこいとか、ばあさんは用済みとか」




少女の言葉で、ナオコの中に炎のような感情が渦巻いた。
目の前の少女は彼女にとって、もはや少女ではなかった。
少女の張りつけたような笑いに、強い侮辱を感じた。そして、既視感も。


消えたと思った、あの女。
邪魔な女。憎らしい女。
いつまでも、あの人の心から離れない、未練深いあの女。

そう思ったとき、既にナオコは立ちあがっていた。
細すぎる少女の白い首に、紅いマニキュアの入った指を絡めた。

その、薄ら笑いを消してやる。

姿を変えたって無駄ななのよ。死んだ人間は、生きかえらない。

何度私の前に現れたって、あなたは消えるしかないのよ。








あなたなんて、




―――あなたなんて、死んでも代わりは居るのよ―――








ナオコの憎悪がこの情景を外から眺めているレイを襲った。
どす黒い煌きが彼女の魂を貫いた。
激しい感情に意識を失いかけた。
これほど深い殺意を他人から受けた事はない。
目の前で行われている事は本当に事実なのか。
自分の本能は、事実だと言っている。しかし、考えて事実だとは飲みこめない。
他人からこんな感情を抱かれるなんて。
そして、自分がこの女性に……。








ナオコが我に返ったとき、手の中の少女は既に動きが無かった。
ぐったりとして、文字通り人形の様に。肌の色に相応しく。
次の瞬間、ナオコはこの世から、階下のマギへと身を躍らせていた。








「こ、これは、何?」








光が遠ざかっていった。
次に、当り前の疑問を闇に向かって問い掛けた。








言った通りよ。

アナタの形の一つ。

今のアナタだったかもしれない、アナタの形の可能性。

魂に刻まれた、記憶の欠片。








「じゃあ、わたしは誰?」








アナタはアナタなんでしょう?



ふふっ、おかしなアナタ…。






……私…は……何……?










ミサトは、シンジの前に立っていた。
独房の中は相変わらず薄暗く、赤い光だけが二人を照らしている。
シンジとここで向かい合う事は、初めてではなかった。
彼が家出をして、NERVによって引き戻された時に一度ここで会っている。
あの時と、どれほど二人の関係が違うのだろう。
全然違うかもしれない、それとも変わっていないのかもしれない。
この数ヶ月の間に、彼の中では何かが変わったのだろうか。
怒りを耐えている様にも見え、必死にもがいている様にも見えるこの少年の中で。

ミサトは、自分の知っている事実を彼に話した。
事が起こる前に、自分が彼に告げられなかった事を全て。

フォースチルドレンの事を告げたときには彼もさすがに少し驚いて見えた。
第四次選抜者は2-Aのクラスに集められていたという事。
最初からNERVに仕組まれていた事だった。
ミサト自身、それに気付いたのは加持に注意を即されてからだったのだ。
しかし、それに対するシンジの言葉は、あまり怒りが込められていない様にも聞こえた。


「仕方ないですよ、ミサトさんも知らなかったんでしょう?別に、ミサトさんのせいじゃありませんよ…。」


それは、確かにそうだ。フォースチルドレンがトウジということ以外、知らされていなかった。
この事を聞いたのも、リツコに聞いたのが最初だった。おそらく彼女は全て知っていたのだろう。
しかし、シンジの言葉はまるで掴み所がないかのようだった。

さっぱりわからないわね、何を考えているのか。

いかに自分が彼を把握していないか、思い知らされるようだった。
あれだけ一緒に暮らしていたというのに。
母親役失格、という事なのか。


「シンジ君、今私がここにいるのは、その事を告げる為だけじゃないわ。」

「まだ、何かあるんですか。」

「……もう、あなたに拘束命令は出ていないのよ。」

「犯罪者じゃ、なかったんですか。」

「ここにいるか、それとも他にどうするかは、あなたの自由。鉄格子の扉も開けておくわ。」


既に鍵のかかっていない鉄の扉を、後手に軽く叩きながらミサトは言った。

―――私はまだ期待しているのね、シンジ君に戦ってもらう事を。

ミサトは自分の言い草に自分で気付いて、そう思った。
やはり、私は彼に自分を重ねていたのだろうか。
自分の目的を、使徒を倒すという願望をこの子に託し、その結果がこのありさまでしかなかったのか。


「シンジ君、もう…エヴァに乗る気はないの?」


ミサトは言いたくなかった事を敢えて口に出してそう言った。
言いたくない事をわざわざ口に出す事で、自らを傷つけるかのように。
チルドレンの管理者として、言わなければならないという事を、言い訳にして口に出した。


「解からないです。」


想像していたような返答ではなかった。もっと激しく言われると思っていた。 ただ抑揚のない、小さく伏された声でシンジはそう言ったのだ。
ミサトにとっては、彼が既にここにいる、という事自体意外な事でもあった。
すぐにチルドレンの役目を放擲し、第3新東京市を去ると言われても、仕方のない状況だったからだ。
それは、いつか家出をして、彼が元いた先生の場所に帰ると言った時と、変化があったという事かもしれない。


「今の私は、あなたに任務を押し付ける事はできないわ。でも、私達はあなたに期待して、あなたに未来を託していた。今もそれを望んでいる事を、忘れないでね。」

「その結果が、これですか。」

「今更綺麗ごとを言うつもりはないわ。あなたに過酷な事を強いつづけて来た事は事実だから。」


ミサトはそう言って、踵を返した。
鉄の扉を開けながら、付け加えるようにして肩越しに振り返って言った。


「あなたに会いたがっている人がもう一人来てるわ。きっと、私よりあなたの気持ちがわかっていると思う。……会ってあげてね。」


言葉の後に残ったのは開け放たれたままの鉄格子。
そしてその奥に佇む、空色の髪と、紅い瞳を持った少女だった。







レイはミサトが部屋から出たのと入れ違うようにして暗い独房の中に入った。
数メートル離れて、椅子に腰掛けて視線をやや下に向けたシンジがいる。
前日とあまり変わらない、抜け殻のような彼の姿に心を痛めつつも、彼の前に立ったまま言葉を紡いだ。


「碇君、元気だった?」

「綾波、昨日あったばかりだよ。別に、僕は何でもない。」

「そっか。」


今の碇君に私がしてあげる事って、何があるのかな…。

レイはここに来るまで、ずっと考え続けていた。
トウジの事を謝る事か。つらい現実を突きつけられた事を、慰める事か。
シンジの心の中を何が渦巻いているのか、それは解からない。
でも、今まで自分は彼に助けられて来た。
苦しい作戦も、危険な状況も、彼と一緒だったからなんとかやって来れた。

…だから、今度はわたしが碇君を助けたい。
ここに来た一念はそれのみだった。


「碇君…エヴァに乗るの、もうやめるの?」

「綾波までそんな事を訊くんだね……。解からない。どうして良いか、僕には解からないんだ。」

「わたしは、」


レイはそこで言葉を切って、少し気持ちを落ちつかせた。
今更碇君に同情や慰めの言葉をかけても、仕方がない。
わたしは、わたしの想いを素直に伝えよう。
それが、今自分にできる唯一の事だと思った。
ふと、ケンスケの言葉を思い出す。「綾波、お前らしく、な。」
レイは両手の拳をぐっと握り締め、軽く息をついて、シンジに向かって言った。


「わたしは、碇君にここに残ってもらいたいって、思ってる。一緒に戦ってもらいたいって、思ってる。勝手な事言ってるかもしれないけど、それがわたしの気持ち。」

「じゃあ…綾波も、今までと同じように、僕は父さんに従って、エヴァに乗る事を望んでるの?」

「そういう事を言ってるんじゃない。エヴァに乗るか乗らないかは、碇君の意思だよ。そりゃ、司令の命令に従わなきゃいけないときもあるかもしれない。でも、エヴァに乗りつづける理由があれば、そんな事関係ないはずだよ。」

「なら、命令ならどんな事にも従わなければいけないの!?綾波は、もし僕を攻撃しろ、って命令を出されたら、僕を攻撃できるって事!?」

「そっ、それはっ…」


そんな事、できる訳ないじゃない!!

レイは反射的に歯を噛締め、視線を落とさざるをえなかった。
NERVは軍事組織だ。上官の命令は絶対だ。
今回の件に関しても、シンジはゲンドウの指示に従う義務があった。
さらに、造反行為を行ったとなれば、今回の措置はまだ甘いものだったのだろう。

とはいえ、勿論シンジの気持ちも無視できる訳がない。
これほど苛烈な事を彼が言うのだ、いかに迷っているか、戸惑っているかも解かる。


「ずるいよ、そんな事いうの。わたしが碇君を攻撃するなんて、できる訳ない。」

「でも、今回はたまたまトウジだっただけじゃないか。父さんが今後どんな命令を下したって、僕はもう驚かないよ!」


下を向きながら、彼は怒鳴って言った。
狭い独房に彼の悲痛な声が響き渡る。
しかし彼の言葉を聞きながら、どこか、言い訳めいたものを感じた。


「ね、碇君…」


シンジの逡巡は解かっても、その理由はわからない。
でも、レイは別にハッキリと解かった事があった。
彼は、逃げたがっている。

今の発言も、自分の父親の冷酷さを理由に避難場所を作っているだけじゃないかな。
決断を付けかねて、他の誰かに助けてもらいたいんじゃないかな。
このまま、碇君を逃げ腰なままにさせておけない。
嫌われてもいいから、碇君には前を向いて欲しい。
それは、わたしにとっては、ちょっと、つらい事だけど…。


「碇君、答えになってないよ。」

「っ……!!」

「碇君、今の現実に立ち向かう事は、勇気がいる事かもしれない。でも、」

「なんだよっ!!」

「逃げちゃ、だめなんだよ。きっと。逃げてもなんにも解決しないよ。」


わたし、凄くキツイ事言っている。
迷って、途方にくれて、どうしようか戸惑っている碇君に、酷い事言ってるんだと思う。
でも、わたしの願いは、碇君に立ち直ってもらう事だから。
わたしの好きな碇君に戻ってもらうためだから。
そうじゃないと、わたしもダメになっちゃいそうだから…。


「綾波だって…」

「わたしは…」

「綾波だって他人だろ!!僕の事が解かる訳ないじゃないか!!解かったような事言わないでよ!!」


言われて、心にズキリ、と響く物があった。響いた痛みはキリキリ締め上げて、胸を苦しめた。
確かに、わたしは碇君の事わかって上げられない。
碇君のこういう一面も、碇君の一つである事に変わりは無い。
碇君の痛みも、迷いも、苦しみも、全然わかって上げられない、そんな存在かもしれない。
でも。そうかもしれないけど。わたしは。わたしは…。わたしはっ…!


「そうだよ、わたしは碇君じゃない。だから、わたしは碇君の事全部は解かってあげられない!でも、碇君の事解かってあげたいと思ってるの!もっと、碇君の事解かってあげたいと思ってるんだからっ!だって、だって、わたしは、わたしはっ、碇君だからっ…!」


言葉を叫び切れずに、レイは背中を向けて、独房を出た。

悲しかった。
自分の無力さが。思いを伝えきれなかったことが。
少しでも、力になってあげたかったのに。

虚脱感に絡みつかれれないように、レイはNERVの廊下を駆けていった。
駆け抜けた廊下の後を、使徒接近を知らせる非常警報の音が追いかけていった。







弐号機に乗るアスカは、現在装備可能な武器全てをその傍らに置き、ジオフロント内部への使徒の侵入を待ち構えていた。
強力な使徒の攻撃はその接近を阻む事ができず、ジオフロントへの接近をすんなり許してしまった。
頭上からの振動が使徒の前進を知らせる。
どうやら、迫り来る使徒はこれまでで最強の相手となるようだった。


アスカはプラグ内で一人操縦桿を握る。ひやりとした感覚が手の中に踊った。
すぐ始まるであろう戦いを前にして、彼女は瞳を閉じていた。
焦燥感、不安、そして、戦闘に対する微妙な違和感。
それらが彼女の中で渦巻いていた。

彼女の思い。

使徒に対して、これ以上負ける訳にはいかない。
自分はエヴァを乗りこなし、使徒を倒し、存在価値を示さなければいけない。
でなければ、何のための厳しい訓練だったのか。
意地。矜持。責任。義務。何でもいい。負ける訳にはいけないのだ。
必要とされる自分でいるためには。

また、別の彼女の思い。

エヴァの単独戦闘は久しぶりの事だった。
いつもシンジとレイがいた。
作戦の理解力や、戦術の実行力は自分に及ばなかったが、二人が戦力になっていたのは事実だ。
いかにアスカが訓練されたパイロットであろうと、単独での戦いと複数のそれとでは違いがある。
今更使徒に対する恐れはなかったが、今までのように簡単にはいかないだろう、との予測も立った。

そして。

アタシ、どうして戦っているのだろう?
存在価値を示すために。

それは、戦いの中でしか示せなかった事だったのか?

特別な人間にしかできない事を、完璧にやってのける。それが一番だから。

そんな事をしなくても、存在価値を示す事はできたのではないだろうか?

誰にでもできる事をしても意味はない。アタシにしかできない事を、アタシがやる。

……なら、なぜアタシは、何を今こんなに戸惑っているのだろう?
レイやシンジを見ていると、今ここで必死になって戦う自分が解からなくなってくる。

どこか、羨望があった。それは、エヴァのパイロットとしての羨望ではなかった。
もっと、単純な事。ありふれている事。誰にでもできる事。

本当にアタシはエヴァに乗って存在価値を示す事を、心から望んでいるの?


「……ったく、らしくない事考えてるわね、アタシ……。」


愚痴が不意に口から滑り出た。
矛盾した思念を巡らせていると、耳をつんざく爆発音が上方から、響いた。
同時に、使徒のジオフロント侵入を知らせるオペレータの悲鳴じみた声が聞こえる。
弐号機のモニターにもその状況がはっきりと映し出され、彼女の思考は強制的に遮断される。
アスカは眼を見開くと、弐号機の手にあるパレットガンを握りなおした。


「シンジやレイが出てくるまでにケリをつけてやるわよ。」


自分に言い聞かせる様に小さくそう呟くと、モニターに映し出される使徒に向かって、ライフルの照準を合わせた。









―――『シンジ君、もう…エヴァに乗る気はないの?』―――




―――「今更綺麗ごとを言うつもりはないわ…。あなたに過酷な事を強いつづけて来た事は事実だから。」―――




ミサトさんの事は構わない。僕に言わなかったのだって、気持ちは解かる。
言えなくても仕方が無い。




―――「あれは、使徒だ。殲滅するべき敵だ。それが、NERVの任務だ。」―――




だから、なんだ。一度だって、僕の気持ちも考えないで。何が任務だよ。それだけじゃないか。
どうしてそんなにつらく当るんだ。僕は父さんに憎まれたいんじゃない…。




―――「碇君…エヴァに乗るの、もうやめるの?」―――




綾波は、どうしてエヴァに乗れるんだろう。
父さんからなら、どんな命令でも受け入れるつもりなのか。
いや、僕は攻撃できない、って言ってくれた。なら、なぜ綾波はエヴァに乗るんだよ。




―――「わたしは、碇君にここに残ってもらいたいって、思ってる。一緒に戦ってもらいたいって、思ってる。勝手な事言ってるかもしれないけど、それがわたしの気持ち。」―――




一緒に戦いたいから、エヴァに乗るの?命の危険を冒してまで。
死ぬのが怖いってことじゃない。
でも、戦う事で僕らは傷ついていくんじゃないのか?
今回のトウジみたいに。戦う事なんて、全然良いものじゃないのに。
なんで、使徒と戦わないといけないんだよ。




非常警報は鳴り続けている。本部施設は既に第一次戦闘態勢に移行していた。


「よう、シンジ君。こんな所で何してるんだい。君の居る場所じゃないだろう?」


頭を押さえ、身体を折って考えていた僕に、高い所から低い声が響いた。
鉄格子の向こうに、加持さんの顔が見える。こんな時に、どうしてこんな所で…。
加持さんはそのまま話をしようとしたが、扉が開いているのを知ると開けて中に入って来た。
重い鉄格子の音が軋んで唸り、再び僕を闇へ落とす。
しかし、そこにあるのは既に沈黙の闇ではない。僕の目の前には、加持さんがいる。


「加持さんこそ、こんな時になにやってるんです。」

「戦闘に入ると俺の居場所はなくてね。お払い箱さ。君とは違ってね。」


……皮肉を言いに来たのか。
僕はまた頭を落として、床の漆黒へと目を移す。
どうして大人達はそんなに僕を戦わせようとするんだ。
生き残りたいからか。よく解からない、正義感ってものからか。


「シンジ君、君が何を言われ、何を考えているのか知らない。が、もう答えはそう残されていないんじゃないか?」

「元々、僕に選択権なんてなかったじゃないですか。」

「エヴァに乗るか、乗らないかという時に君は乗ると言ったんだろう?」

「その時は…何がなんだかわからなかったし…綾波は怪我してたし…使徒も来てたから…」

「わかった、それはいい。しかし、君はその後も乗り続けた。NERVは多分君の代わりを全く用意してなかった訳じゃないだろう。でも君は自分の意思で乗り続けた。違うか?」

「……そうです……」

「なら、答えはもう出ているんじゃないか?使徒はおそらくここの地下にあるアダムを狙ってくる。接触すれば、サードインパクトが起きると言われている。そうすれば、人類は滅びるだろう。いや、その以前に俺達は使徒にやられて生きていないだろう。俺は、それに対して何もなす術は無い。君は、違うんじゃないのか?」

「………。」

「ここに残って使徒を待つか、エヴァに乗って使徒と戦うか、どっちかしかもうない。後は、シンジ君が決める事だ。その決定を、俺は恨まないよ。」


加持さんは優しい声で、僕に言った。




僕は…。




―――「碇君、答えになってないよ。」――――




僕は、僕は…。




―――「碇君、今の現実に立ち向かう事は、勇気がいる事かもしれない。でも、」―――




僕は、僕は、僕は…。




―――「逃げちゃ、だめなんだよ。きっと。逃げてもなんにも解決しないよ。」―――




…逃げる?何から逃げようとしてるんだろう。
父さん?エヴァ?戦い?…違う。
現実だ。現実なんだ。
ここから去って、今までの事は忘れて普通に生きるか、ここに残ってエヴァに乗って、
命の危険を冒して戦いを続けるか、その現実から逃げようとしてるのか。

もう、ここから去って今までの事を忘れて生きることはできない。




―――「もっと、もっと、碇君の事解かってあげたい!だって、わたしは…碇君だからっ!」―――




そう、僕は、ここに居場所を見つけてしまった。まだここを壊されたくない。
綾波は僕の事を知ってくれようとしていた。解からないのを知っていて、解かろうとしてくれたんだ。
なら、僕も綾波の事を解かりたい。きっと、わからない事ばかりなんだろうけど。
綾波といれば、僕は居場所を見つけられる。
綾波だけには死んで欲しくない。

いや、死んで欲しくない、死んじゃいけない人が他にもたくさんいる。
アスカ、ミサトさん、トウジ、ケンスケ、委員長、リツコさん、マヤさん、加持さん、日向さん、青葉さん、冬月さん。
………それに………。

守るだなんて、おこがましい事は言わない。僕ができる事が、何かに繋がってくれたらいい。


「行きます、加持さん…。戦って、来ます…。使徒を倒して、殺してきます…」

「そうか。シンジ君が決めたなら俺はそれでいいと思う。まだシンジ君に死んで欲しくなかったからな。…大人の都合と笑ってくれても構わない。」

「笑いませんよ。僕は僕の意思で戦うんですから。みんなのためになんて、僕は偉そうに言えません。」







「……くっ!!」

真紅の弐号機の残像を掠める様に、使徒の攻撃は空を裂いた。
寸での所で回避した弐号機は、かろうじて体制を整え、再び使徒に備える。

ジオフロント内で待ち構えた弐号機だったが、使徒に対し、防戦一方の戦いを強いられていた。
ATフィールドを中和した後に行ったはずの遠距離、中距離攻撃は全く通用しなかった。
パレットガン、バズーカ、こちらが用意されたあらゆる武器の残弾を打ち尽くした後、使徒の攻撃は始まった。
人ならば腕、と呼ばれる部位にあたるのだろうか。
それは肩に折り畳まれた垂れ幕の様にあって、一見武器になり得る物とは思えなかった。
しかし一瞬でそれは引き伸ばされ、対を成してアスカの操る弐号機へ真っ直ぐ襲いかかっていた。
アスカの行動は早かった。
遠距離、中距離攻撃が全く通用しない時点で、敵の戦闘力を本能で察知していた。
今までの使徒とは比べ物にならないほど強い。
近距離攻撃を無理強いしても、勝てる相手じゃない。
とっさに左半身になると、襲い掛かって来た使徒の両腕の胴体の幅の分だけの隙間に、辛うじて身体を滑り込ませて攻撃を回避した。

以後、アスカは相手の隙を窺いつつも、回避行動に専念させられていた。
戦意を示す事だけは怠れない。
相手の戦意が失われた事に気付けば、使徒は自分を無視してNERV本部に向かうだろう。
それを、アスカは今までの戦いの経験で何となくわかっていた。


「情けないったらないわよね、このアタシが、反撃の一つもできないなんてねっ…!」


自嘲気味にプラグ内でアスカは呟いた。自分の行動を、自分でも理解しかねていた。
勝つ見こみもなしに回避行動に専念するなど、以前の自分からは到底考えられない。
自分のために戦って来たのに、攻撃をせずに逃げてばかりいて何になるのか。

半壊と言っていい零号機を期待している訳ではない。
かと言って、レイが初号機で出てくるのを期待している訳でもない。
独房にいるであろう、シンジを期待している訳でもない。
……そんな物達を、期待している訳では無いはずだ。


「なら、アタシはどうしてこんな事をしてるのかしらね!!」


また、左から伸びて来た使徒の片腕を、斜め後に飛び退きながらかわす。そして身体を使徒に相対する。
右手に持っているプラグナイフは攻撃の役には立っていない。戦意を示す為に構えているに過ぎない。
なんとか使徒をNERV本部へ近付かせないようにしてはいるが、こんな事がいつまで続くだろうか。

まるで、別働隊が無い陽動作戦。時間稼ぎ。捨て駒…。

そんな事を考えた時、隠れていたアスカの矜持が一瞬激昂した。
長く培われていた彼女のプライドは、無くなった訳ではなかった。
悔しさに心を奪われた。そして、隙が生まれた。
アスカが我に返った時に見たものは、至近距離まで迫った使徒の腕だった。


「ひ…」


次の瞬間、息が止まる。
そして、左肘の辺りから燃えるような激痛。エヴァからの神経接続が、痛みを彼女の身体に伝える。
外部から聞こえてくる衝撃音は、ちぎれた弐号機の左腕がジオフロントの大地に落下した音だろう。
直撃を避けられた事が唯一の幸いだろうか。
悲鳴も上げられず、アスカは右手で左肘を押さえる、しかし、はっとしてすぐに離す。
片手だけやられてもまだ戦える、感覚の無くなった左腕をだらりと重力に任せ、右手で操縦桿を握りなおした。
痛みに激しく顔を歪めながらも、その鋭く蒼い瞳で前方の使徒を真っ直ぐ見据える。
自分が、ここまで必死になった事があっただろうか。 目的もわからずに。


「アタシは負けられないのよ!!…勝てなくてもね…!」


再び迫る使徒の腕を斜め前方にかわし、右手を目の前に、プラグナイフをかざす。
また、使徒は攻撃の気配を見せる。

……いよいよヤバくなってきたかしらね。
嫌な予感も頭によぎってくる。しかし、不意にそれとは別の言葉も頭によぎった。

『わたしは生きるためにエヴァに乗ってんのよ!!』

いつ言われた言葉だったろう。たしか、レイの言葉だったと思う。
こんな時、あの子ならどうするかしらね。

使徒の腕が、迫る。かわす。
いや、かわしたはずだったが、片腕を失ってバランスが狂ったのだろうか。
胸の装甲を霞めた。
なんとかバランスを取りなおした時、モニターからミサトの連絡が入った。


「アスカ!!初号機がでるから、もう、いいわよ!撤収しちゃって!」

「どうする気よ!距離取ったら、こっちに勝ち目は無いわよ、見ての通りにね!」

「本部まで引きつけて……最悪、基地内まで引きつけて近接戦闘をしかける。後は、初号機次第よ。」

「………」


結局、私は勝てなかったわけ。

プラグ内で微かに肩を震わせる。
自分で何とかできなかった事は、悔しい。

…しかし…。

弐号機は大きく右手を振りかぶって、プラグナイフを投げつけた。
胸のコアを目掛けて狙ったつもりではあったが、大きく外れて相手の肩の辺りに刺さる。
使徒は僅かに身じろぎした程度で、たいしたダメージもなさそうだった。

これで良かったのだろうか。自分は何がしたかったのだろうか。
また使徒に負けて、プライドも崩されて。
敗北感、屈辱感、挫折感。どれも小さくなかった。
が、自分を自分で許していいと、心のどこかで小さくささやくものがあった。


「………いいわ。シンクロ、切って。」


シートに深く身を埋め、頭を垂れてミサトに言った。
使徒に本部への道を譲るようにして、弐号機の腰をジオフロントの地へと落とす。
ジオフロントの大地が揺れるほどに大きな音を立て、弐号機が座りこんだ。人形の様に。
その姿に、戦意はもう映っていなかった。
ふっと、プラグ内のモニターが落ちて、アスカは闇に包まれる。
そして、目を閉じて、回線の向こうにいるはずのミサトにポツリ、と呟いた。


「ミサト、アタシ負けなかったわよね。」

「…ええ、負けなかったわ。アスカは、アスカの仕事をしっかりやってのけた。完璧よ。」







『弐号機活動停止!救護班は可及的すみやかに救護を開始してください!使徒の移動速度、20。3分後には、本部内への侵入を開始するものと思われます!』


NERVの本部内に急を告げる叫びは、シンジの耳にも入った。


「アスカ、大丈夫かな、大丈夫だよね、もう会えないなんて事ないよね!」


彼は、NERV本部を走っていた。

自分の居場所を守るために。
死んで欲しくない人を死なせないために。
後悔をしないために。


『初号機、準備完了。パイロットはエントリー準備して下さい。』


本部の状況は、流れ続ける彼の汗と混じって、耳に入り続ける。


「初号機に乗るのは綾波!?だめだよ、初号機だったら僕のほうが上手くできる、綾波が出る事なんてないのに!」


叫びながら、非常警戒体勢中のNERVの廊下を走る。
点滅するライトが、走る制服姿の彼の姿を血の色に染め上げる。
戦いに向かう彼をあざ笑うかのように。
事実、彼は勝機も何も考えていない。ただ、戦うためだけに走っていた。
そうする事が、自分が一番後悔しないと、やっと納得できたからだ。

足がもつれる。転がりそうになって、慌てて廊下の手すりにつかまり、また走る。
知っているような、知らないような廊下をただひたすら走る。
NERV内でもゲージは最重要施設の一つだから、どこにいてもある程度の場所はわかる。
ただ、自分がどこに連れてこられていたのかが、はっきりと覚えていなかった。
それでも走る。使徒よりも早くゲージにつくだけでいい。


「頼むよ、間に合ってよ、いままでみたいに上手くいってよ!!」


これまで戦って来て、ギリギリでいつも成功させて来た数々の作戦を脳裏に写しながら、彼はまだ走っていた。


『ファーストチルドレン、初号機での戦闘は不可能。初号機、ファーストチルドレンを受けつけません!』


オペレータの絶叫にも似た声を聞いて、彼は一瞬ほっとしたが、しかしまた別の焦りが彼を襲う。

僕は、綾波の事はたいして知らない。
なんで子供の頃からここにいるかも知らないし、父さんと仲がいい理由も解からない。
でも、綾波は頑張り過ぎるくらい頑張ってしまう子だと思う。
だから、初号機に乗れなかったからと言って、戦う事をあきらめるだろうか。いや、きっと…。

嫌な予感ほど的中する。
それは、彼がレイの一面を知っていたという事かもしれない。


『ぜ、零号機で、出ます…。準備してください。』







「零号機で出ますっ…。」


レイは口を押さえながら再びそう言った。
嘔吐感はまだ彼女を縛りつけたままだったが、彼女は黙っていなかった。

あの時は初号機とシンクロ、できたのに。
あの時、初号機の中で誰かにあった気がしたのに。すごく優しい人だと思ったのに。
どうして?この感じ、気持ち悪いよ。苦しい…。

初号機に拒絶された事が、彼女はまだ信じられなかった。

シンジが戦いに出る意思が無い事は、彼女にとって寂しい事だった。
彼がいてくれれば、責任が重いはずのこの任務も、重圧に思わずに済んだ。
一緒にいてくれる、それだけで嬉しかった。

でも今はいない。だから、わたしが初号機で出なきゃいけなかったのに、出れない。
なら、零号機で出るしかない。


「しかし、零号機は先の戦いでの損傷が回復していません!」


マヤの声がプラグに響く。嘔吐感に混じって上手く聞き取れない。


「構わん。零号機で出せ。初号機はダミープラグでシンクロ準備だ。」

「し、しかし、それでは…」

「構わん!」


ゲンドウとマヤの声が交錯する。そのほとんどは、レイの耳には届いていなかった。

レイはエントリープラグから出ると、治まらない不快感を払い飛ばすように頭を振った。
そして、初号機の隣にある半壊のままの零号機を見る。
もげたままの左腕。神経接続されたまま切断された痛みが左腕に甦る。
しかし、それでもこれにのって戦わなければならない。
ふぅ、と大きく息をついた。



フル装備のアスカが相手にならなかったんだから、マトモじゃ無理よね。

さすがに今回だけは、ちょっとヤバイって感じかなぁ…ってね…。

でも私がやらないと、碇君もやられちゃう。

大丈夫だよね、ちょっと痛いかもしれないけど、もう会えない訳じゃないんだもんね。

碇君だって、きっと助かるよ、うん。そう信じてなくっちゃ。

今までたくさん、たくさん助けてもらって来たんだから、今度はわたしが碇君を助ける。

…戦いなんて、絶対、怖くなんかないんだからねっ!


相手に近接攻撃しか効かない事はアスカの戦いで分かっている。
まして、左腕の欠けた零号機に取れる戦法は少ない。
いつかのように、ATフィールドをこじ開けてコアを撃破、などという事はできないのだ。
レイは戦闘準備されていく零号機の右腕に持たされた、N2爆弾を見る。
そしてすぐに目を逸らした。凝視している事はできなかった。
しかし、こうするしかないのだ。相手とて、接近戦が弱い訳ではない。
一撃のもとで決めてしまわないと、後は零号機では勝ち目が無い。


「零号機、エントリー準備整いました!」


レイはエントリープラグに向かう。まだ少し左腕をかばいながらも、小走りで。
できるだけ何も考えないよう、小走りで。平静をできる限り装って。


なぜかその時、心と身体が何かに囚われた感覚があった。
身体中の血が凍ってしまったかのような。


夢がよぎったのだ。
夢がよぎって、彼女を別の境地に追いこんだ。
あの、小さい自分を見る夢。首を締められるあの夢。
あれは本当の事なのだろうか。

心の中で渦巻く恐怖と疑念。
まさか、自分はこれから確かめる気でいるのだろうか?何を?どうやって?

否定する儚い理性。あれが本当のはずは無い。現実的じゃない。有り得ない事だ。
自分はここに生きているではないか。
しかし、あの夢が本当でないのならば、これから自分がしようとしている事は、つまりほぼ自殺行為だ。
なら、あの夢が本当であって欲しいのか。
あれが本当ならば、自分は、綾波レイは、他の人とは違う何かなのか。

レイは冷たい思考に溺れないようにしながら、プラグへ向かう。
そして、呟く。口からただ言葉を流しただけ、いつものレイにある生気はなかった。


「私が…」


いつもの零号機のプラグ内に入る。
そこは居慣なれた場所だけど、今はいつものような気持ちにはなれなかった。
まだ消えない夢。永遠とも思われる思考の時を、完全にそれは支配していた。
これは、彼女にとって選択なのか。それとも既に決まってしまっていることなのか。
言葉は後者を紡ぎ出す。彼女の意思とは違う部分で。彼女の意識より、もっと根元の部分で。


「死んでも…」


プラグ内にLCLが満たされる。そう言えば、自分はいつからこのLCLに浸かっていただろうか。
非常事態にそんな事を考えついた。
それは夢の答えの一つのような気がした。


「代わりは…」


ぐっと右腕を握り締める。
どろどろに捻じ曲げられた意識と、答えの無い問いから決別する為に。
そして、最後は自分の言葉を吐き出す。戦いの成功の為に。彼女の意思がそこにあるから。
シンジに生きてもらう事が、望みだから。
今必要な事は考える事じゃない。ただ、戦う意思が必要なだけ。それだけ。
だから、最後の言葉をレイは自らの意思で口を開いた。



























『待ってっ!!』
























声がした。






聞き慣れた声が。




最後の言葉を告げる前に。




レイにとってはその声に、最後の言葉を、そして全てを止められた気がした。




彼女の心は滑らかに緩んだ。

冷たい思考は暖かく受けとめられた。

捻じ曲がった意識は優しく撫でられた。

無限の問いが、遠い光に消されていった。


そして心地よい刹那の無意識の後、レイはぶらん、と両手を下げて操縦桿に頭を突っ伏した。



わたし、また助けてもらっちゃった。

ゴメンね、碇君。きっと心配してくれてるんだよね。

ありがとう、すごく嬉しい。ホントに。ほんとうに。本当に。ありがと…。






『僕は、僕はエヴァンゲリオン初号機のパイロット、碇シンジです!!』







隠していた、怖くて仕方が無かった心、他人と違うかしれないという疑念の心、でも想いだけは嘘じゃないだという心、全てが重なって、ようやく零れたのはただ一つの深いため息だけだった。








熱い吐息だった。







NERV本部まで引き入れての戦闘は初号機の先制攻撃から始まった。
そして、NERV本部での戦いはそれのみで終った。

ジオフロントへの射出経路という物も、外部へのそれほど多くは無いが存在している。
そして、使徒は必ずどれかその一つの経路に差し掛かるだろう。
なら、ジオフロントへの射出経路に使徒がかかった瞬間、その経路の真下からエヴァを射出し、そのままジオフロントへ。

案を出したのはミサトだった。
使徒の進入までの残り時間を使って用意できる事といえば、いつ経路を横切るか、時間を計算するくらいだった。


「1秒でもずれたら終りだからね。マヤちゃん、リツコ、期待してるわよ。」

「は、はいっ…。」

「私達に言っても仕方ないわよ。MAGIを信頼する事ね。それに、使徒の反応速度が遅い事を願いなさい。」

「解かってるわよ〜。でもここで景気付けとか無いと、9回逆転サヨナラホームランができないじゃない?」


若干心ここにあらずと言った風なマヤと、いつもの口調のリツコに、明るくミサトは言った。
もう、充分把握しているのだ。後何ができるかを。


「まったく、何を言ってるの。戦うのはあなたじゃなくて、シンジ君よ。」

「それも、わかってるわよ。」


今度も声は明るく、しかしはっきり言った。

アンビリカルケーブル無し。
使徒の情報もまだ混乱したまま。
初号機のみの単独戦闘。

これはいわば、決闘に不意打ちをかけるような作戦だ。
決闘と言えど、片やエネルギー無限、片やエネルギー僅か数分間。
対等な物とはとても言えないものだった。

しかし、元々対等に使徒と渡り歩くつもりは無い。今まで3対1だったのだから。
今回計らずもこうなってしまったが、既に戦略家としては敗北していた。
戦術家としても敗北に近い。実戦者に過剰の期待をする事は、やはり戦術家のする事ではない。

こんな敗北は、初めてではない。数え上げればキリが無い。
それでも、こんな方法しか取れないのだ。相手が使徒だから。それだけで。
統率者としての葛城ミサトは必要な物だったが、作戦家としては自らが疑問にも思っているくらいだ。






だから、彼女は祈った。




無事に帰って来て、と。




受けるべき罪は私が受けよう。業が深いのは私達、大人なのだから。




だからせめて、帰って来て。その顔を見せて。




彼女の祈りが続いている間に、既に初号機は使徒と共にジオフロントへと飛び出していた。







レイは見つめていた。

使徒を、初号機を。

ジオフロントで戦う初号機は拘束具を外し、使徒を完全に組み敷いていた。
聞こえてくる、粘着性の音。まるで蜘蛛の様に、使徒を組み敷いたまま肉を体内に取りこんでいる。
完全な暴走。しかも、今までの暴走とは訳が違う。

ジオフロントへ出た後の戦況は、よく判らなかった。

はっきりしている事は、シンジが生きている事。初号機の電源が切れた事。
そして、また再び暴走を始めた事。
しかし、その暴走は既に意思を持ったものである事。
暴走でありながら、暴走でない事…。


使徒と初号機を見つめていたのはレイだけではない。
ジオフロントへ出たミサト、リツコ。オペレータ陣。本部最上階のゲンドウ、冬月、加持。
時折咆哮を上げる初号機。その時、エヴァが人の手に余る物だと言う事を、誰もが知った。
それは、人が人を絶対には支配できない事と同じ。規模が大きくなっただけだった。


しかし、レイの想いはそんなものとは無関係で純粋な物だった。

彼女は信じていた。
どうなっても、自分は彼を信じる事ができる。
いくらでも彼を待つ事ができる。いくらでも彼と話す事ができる。


色々見た夢の事、碇君に話そう。なんて言われても、わたしはわたしだから。


碇君にだったら、全部話しちゃっていい。全部訊いてもらいたい。判ってもらいたいから。


あと、お礼言うんだ。


いつも助けてくれて、ありがとう、って。


ちゃんと、わたしの心が碇君に届く様に。






FIN









この作品を書くに当って、XXXsさんとA.S.A.Iさんに多大な御協力していただきました。
お二方とも、いつも私にとても親切にして下さっています、この場を借りて、心より感謝します。

他にも、たくさんの方が拙作、「そんな彼女の可能性」の続きを楽しみにして下さいました。
激励の言葉も頂きました。とてもありがたく思っています。
そして、間が開いてしまった事を待ちわびていた全ての方々にお詫びします。

前作との間に色々あったため、必ず続きを書けるという約束はできません。
ですが、できる限り書き上げようと決意を新たにする次第です。

from masa-yuki   




masa-yukiさんのリナレイ版エヴァの12話、来るべき時が来てしまいました。
今回は最初から全体的に緊迫した雰囲気ですね。
シンジの口調がいつにも増して無感情なのが心の内を感じさせます。
戦闘時のアスカ、本編よりもクールな感じですね。
最後のレイの安心したような口調は、次回への展開への布石なのでしょうか……

Written by masa-yuki thanx!
感想をmasa-yukiさん<HZD03036@nifty.ne.jp>へ……


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