『じゃ、レイ、始めるわよ。』

「は〜い。」

午前10時。

今日も、いつものようにわたしだけ学校を休んでNERVに来なくてはいけなかった。

モニターの向こうには、リツコ博士とマヤさんがコンピュータに向かっていろいろ打ちこんでいるみたい。
今日は葛城さんいないのね。
毎日のように座っているプラグのシートで、わたしは一人目を瞑っている。

それにしても、どうしてかわたしだけシンクロテストが多いのよ。
全く、リツコ博士、わたしの事信用していないのかしら。
そりゃ、碇君やアスカに比べれば、テストの結果は良くないのかもしれないけどさぁ?
……もしかして、別のデータでも取ってるのかな?
まぁ、博士のする事なんてわたしはわかんないけど……。

ま、昔はNERVにいるのがほとんどだったんだから、NERVにいる事自体は違和感ない。

ホントは、学校に行く事の方が違和感あったりして。
でもやっぱり、シンクロテストしてるよりは学校に行ってる方がいいわね。

学校と言えば……本当は今週、週番だっけ。
うちの週番って、結構仕事有るのよね〜。

それがサボれちゃうのはラッキー、かな?
って、いけない、いけない。二人組だから相手の人に悪いわ。
相手って誰だっけなぁ……。
本当は碇君なんだけど、あんまり学校に行けないから組み合わせ変わっちゃったのよねぇ……。

そう、確か鈴原くんだったかな。 本当はNERVに行ってるんだから、週番くらい勘弁して欲しいとこなんだけどな〜。

……ま、特別扱いなんてされたくないけど。
碇くんやアスカもそうだと思うし。

そういえば……今更だけど、アスカって大学出てるのに、何で学校来てるんだろ?

日本語の勉強、かな?
ふふっ、アスカ、喋るのは上手いけど書くのは全然だからね〜。
成績も片寄りがあるみたいだったし。
でも、理科とかはすごいから、碇くんに教えてあげてるのかも。

………勉強、ちょっとはしようかなぁ……?


『ちょっと、レイ。脳波が乱れているわよ。どうしたの。』


モニターから、リツコ博士が低い声でわたしに声をかけた。
あら、もしかして、またやっちゃったかしら。


「え?あ、ちょっと考え事をしてしまって…。」

『…まったく…。頼むわよ。こっちはする事が多いんだから…。』

「テヘヘ、ごめんなさ〜い。」


そう、シンクロテストよ、シンクロテスト。
何も考えないって、簡単そうで結構難しいんだから。
すぐ別のところに頭行っちゃうんだよね〜。
いつものようにやんないと。

何も考えない、何も考えない、何も考えない、何も考えないっ……。



………でも、家庭教師してあげるって言うのは、ちょっといい感じよね。

……やっぱり司令か葛城さんにでも言って、もっと近くの家に変えてもらおうかしら……。
でも、碇君の家庭教師してあげるから、なんて理由通る訳無いのよね。

それに、まずわたしが勉強しないといけないし。
休んでるの多いから、あんまり成績には自信無い……。

んもう、それならアスカも別の家にしてくれればいいのに。
別にわたしは、碇君とアスカが何かするとは思っちゃ……。

………。

……何もしないわよね……。

やっぱり、アスカって美人だから……ね。
そこだけちょっと不安だったりして……。
他の事ならいい友達なんだけどさ。意固地なとこもあるけど。


う〜ん、どうせなんだから、葛城さんちにもう一人くらい一緒に住め……るわけないか。
碇君の部屋だってアスカに追い出されたくらいなのに。
碇君、家じゃ肩身狭いみたいだし。

それなら、いっそ碇君がわたしの家に……。

……………。

…………。

………。

……。 

…。


な、な、な、何バカな事考えてんのよ、わたしってば!!


『レイ…。』

「へ?…あ、あはは…」

『真面目にやりなさい。』

「は、はぃ……」


リツコ博士の目が座ってきてるような…これ以上怒らせたら、まずいわね。


『ま、まぁ、レイちゃんも思春期の女の子なんですから、いろいろ悩みがあるんじゃないですか?』

マヤさんがフォローを入れてくれた。

そうそう、こう見えたってわたしにも悩み事の一つくらいあるの。
好きな人の近くにどうすればいられるかって、永遠の課題なんだから。

……好きな人、かぁ……。

やっぱり、好きって事なのかな?
碇君をそう思ってるって事かしら?
恋愛の話って、友達とかとよくするんだけど、こういう事、みんな思ってるのかな?

でも、きっとそういう事なんだろな。
それでなきゃ、碇君がいなくなってあんなに不安になんて、ならないもん。

この間は、それでつい抱きついちゃった……。
ううっ、あれは少し大胆だったかも?
し、仕方ないのよ、碇君が無事に戻ってきて、安心したんだから!
他になんて言っていいか、解からなかったし……。

……碇君……嫌がってなかった……よね……。


『レイちゃん、レイちゃん。』


声を潜めて、マヤさんがわたしに声をかけた。


「は、はい?」

『ちゃんと真面目にやらないと、センパイ、爆発しちゃうから。そろそろ…。』

「わ、分かりました、ごめんなさいぃ。」

『まったく、いつものシンクロテストのつもりでやられると、データが取れないのよね……。』


ふと、そんなリツコ博士の声が聞こえてきた。
え?いつものつもりって?これ、いつものシンクロテストじゃないの?
普段別のテストを受けるときには、何のテストかくらい言ってくれるのに。


「リツコ博士、これってシンクロテストじゃないんですか?」


わたしがモニターに向かって博士に問い掛けると、一瞬戸惑ったような顔を見せた。
あれ、ホントに別のデータ取ってるの?
まぁ、ここじゃいろんな検査受けてるから、わたし達の事なんて筒抜けだと思うんだけど。


「たいしたものじゃないわ。それより、早く集中してくれないかしら。いつまでたっても始められないわよ。」

「は、は〜い……。」


なんか腑に落ちないけど……。
わたしが首をかしげながらもシンクロテストに集中しようとした瞬間、テストルームに、わたしのエントリープラグに、大きな音でブザーが鳴り響いた。

あまりにも突然で、体がびくっと震えてしまったくらい。


『どうしたの!?』


リツコ博士が手元のマイクに向かって大声で叫んだ。。
テストルームに設置されていたあらゆる機械が、持てるべき計算能力を一斉に発揮し始める。
NERVで非常事態を宣告される事がある、と言えば、考えられるのはただ一つ……。

使徒、なの?この間来たばかりだっていうのに!


「また来るの!?」

『レーダーの反応はどうなっていたの!?』

『違います、これは…』


マヤさんが焦りながらも、正確でハッキリとした声を出す。
戸惑うわたしのモニターには、「Vanishing」の赤い光が点滅していた。














そんな彼女の可能性 〜innocent teens〜














灰色をした一群の施設、アメリカのNERV第二支部が、上空から映し出されていた。
10秒のカウント後、衝撃波と赤い光がそこから広がり、ゆっくりと画面に満ちる。
赤い色が画面中に飽和したと思った瞬間、映像はサウンドノイズへと変わった。


「……ひどいわね。」


静止衛星からの映像を見てミサトが一言漏らした。
暗闇に包まれている分析室は、床に埋めこまれている中央のディスプレイのみがぼんやりと青白い光を放ち、重々しい雰囲気を作り出していた。
そしてそれを囲む5人、オペレータの三人とミサト、それにリツコ達も渋い表情を隠せない様子だ。


「エヴァンゲリオン四号機、ならびに、半径89km以内の研究関連施設は全て消滅しました。」

「……数千の人間を道づれにね。」


マヤとリツコが続けて言った。
現地の事故の報告を受け、彼女達は事故の分析と原因の解明にあたっていた。
が、手掛かりになりそうなものは、今見た静止衛星から事故を映した撮影のみ。
独立性の強いNERVの基地が、この場合は裏目に出てしまっていた。


「タイムスケジュールから推測して、ドイツで修復したS2機関の搭載実験中の事故と思われます。」

「予想される原因は材質の強度不足から、設計初期段階のミスまで、32768通りです。」

「妨害工作の線もありうるわね。」

「でも、爆発ではなく消滅なのでしょう?つまり、消えた…と。」

「多分、ディラックの海に飲みこまれたのでしょうね。先の初号機と同じように。」

「じゃあ、せっかく直したS2機関は!?」

「パーよ。夢はついえたわ。」


S2機関。

エヴァンゲリオンの弱点の一つ、稼働時間の限界を解消できると目されていた永久機関。
リツコの言う夢、とはその事を指していた。
エヴァは電力供給が最大のネックになっているのだから、彼女の考えも当然の事だろう。
ただ、その機関は全てが明確なり、安全を保証された上に採用された物ではなかった。

そして、ミサトの父、葛城博士が提唱した理論。
自分の嫌いな忘れられない父が、自分を、母を犠牲にしてまで行っていた仕事の一つ。


「……よく解からないものを無理して使うからよ。」



低い声で、ミサトが呟いた。
俯いたリツコは、その言葉には答えなかった。
自分達が使っている物で、よく解かっていないのはS2機関のみ、という訳ではなかったから。
彼女の発言を無視し、リツコは問題を先に進める。


「……参号機はアメリカから引き取る事になったわ。あっちも弱気になったようね。」

「何それ。あれは、あっちが建造権主張して、強引に作っていたんでしょ?どうせ、ここにエヴァが三機あるのを見て不安になったか、そんな所でしょうけど……。」


ミサトは不平をあらわにして言った。NERV内でも、全ての関係が上手くいっているという訳ではない。
各国の思惑が絡み合い、より多く利益を受けようとしている、というのがその現状だった。実際、今ほとんどの権力は日本のNERV本部に集中している。その事を快く思わない人達も多かったのだ。


「では、用意が整えば実戦投入もありうる、という事ですか。」

「そうね、使徒が相手ではいくら数があっても多すぎる、という事はないわ。その分の維持費は委員会にでも出させる事になるかもしれないけどね。」

「起動実験、どうするつもり?」

「もしもの事を考えて、松代で行う事になるわ。私達だって、ここを壊される訳には行かないから。」

「パイロットは?例のダミーを使うのかしら……。」

「……これから決めるわ。」













赤暗い光が空気を染める。固い空気が場を支配していた。
隔離された場に、無機質なガラスの匂いがざわめき、匂いの漂う部屋には重低音のうなりが轟いていた。 部屋全体を取り巻いているのは液体の冷気だろうか、肌をつんざく刺激がある。
およそ人類が生息するはずのない、地下2000m。
NERV地中大深度の施設、生気を感じさせない人間の声がした。


「ダミーの経過はどうだ。」

「レイのパーソナルは移植済みです。ダミーのコアに情報を転移し、そのうちの1つは試作されました。……ですが情報をサンプリングし、デジタル化して送りこんでもそれは擬似的な物です。人の心、魂をコピーする事はできません。あくまでフェイク。見せかけを作り上げているに過ぎません。魂を持つエヴァに、見せかけのデータを完全に契合させることはできないでしょう。」


ゲンドウに向けて発せられるリツコの言葉は、あたかもそれが人の手によって意思的に作り出された物、という事を強調しているかのようだった。

二人の目の前に、巨大なシリンダー状のガラス管が鎮座している。天井を網の目のように巡っているパイプがそこに接続され、中はLCLに満ちていた。
その中には何も無い。LCLが、かすかに流動をしているだけ。


「……パイロットの思考の真似をする……ただの機械です。それ以上の代わりたり得ません。」

「信号パターンをエヴァに送りこむ。エヴァがそこにパイロットがいる、と思いこみ、シンクロさえすればいい。初号機と弐号機には入れておけ。」

「まだ、量産段階には入っていません。試作されたものも、正常に動く保証はありませんが…。」

「ならば、初号機優先だ。パイロットの代わりがいればいい。それ以上は望まん……。」

「……はい。」


ゲンドウは小さくサングラスの中の目を動かし、周りを見渡す。
光の届かない先にある闇の壁は、どこまでも続いているかのように広がっている。
微かに存在する空気の流れと彼らの小さな声の響きが、空間の広さを表していた。


「……参号機の運搬はUNに一任している。週末には届くだろう。テストパイロットは。」

「ダミープラグを実戦に使用するのはまだ危険です。現候補者の中から……。」

「四人目を選ぶ事になるか…。」


感情を表さずにゲンドウはそう言った。真っ直ぐ、空のシリンダーを見つめたままで。
続くリツコの言葉にも、感情は見受けられない。


「速やかにコアの変換が可能な子供がいます。参号機の到着までに準備可能なはずです。」

「任せる……。」

「はい。」


そしてゲンドウは話の区切りを見たのか、後ろを振り返って闇の先へと向かう。
斜め後ろに居て表情を見せていなかったリツコは、彼のサングラスに自分の視線を走らせた。

しかし、それは彼に何の反応も生みはしなかった。

すれ違ったリツコの耳に、彼女をあざ笑うかのようなゲンドウの足音が響く。
彼女の胸にやけつくような不快感が渦巻き、それが今まで変わらなかった彼女の表情を苦しげに変えた。

ゲンドウの足音が聞こえなくなった後、リツコも後ろを振りかえった。
立ち去ろうとする部屋には、一律の機械音が重々しく鳴り続けている。
彼女のハイヒールは、ゲンドウの後に続くかのようにカツン、カツンと木霊を作った。
部屋を出るかと思われた一瞬前、足音の共鳴は止んだ。
誰もいない部屋をリツコは一人振りかえる。

あの子には……ここに来て欲しくないわね……。












日本の三時すぎではまだ日差しが強く、セミもけたたましく鳴いている。
真っ白な入道雲が山の途切れから見え隠れしていた。
アスファルトが熱を持っていて、道行く人の額に汗を浮かばせる。
二人の少年が街はずれのアパートに向かって、陽炎惑う坂道をゆっくりと歩んでいた。

週番のトウジがレイの家にプリントを届ける事になったので、シンジが付いていく事になった。
案内するために彼のほうが2、3m先を歩いていたが、トウジは退屈そうにその後ろに着いて来ている。

やがて退屈に飽いたのか、トウジが声をかけた。

「綾波、一人暮しなんやて?」

「うん。郊外のアパートに一人で住んでるんだ。」

「……親御さんとか、おれへんのか。」

「見たこと無いけど……。リツコさんが親代わりだったんだって。」

「あの、金髪のネエちゃんか……。」


確か、ミサトさんの昇進祝賀会にちらっと見たけども、母親っちゅう感じやなかったなぁ。
人は見かけに寄らん、いう事なんかもしれんけど。
どちらにしろ、あの綾波が一人暮ししてるんやな。
トウジはふとそんな事を考えた。
2-Aに限らず、親無しの子供が多い彼らの学校だったが、全くの一人暮しをしている、という人は多くない。
学校でのレイが、一人暮らしである事を感じさせなかったので、彼は意外だったのだ。


「家まで行った事、あるんか?」

「少しだけだけど…。」

「はぁ〜、そうなんやぁ。」

「な、なんだよ。」


冷やかすような言い方をしたトウジに、シンジは思わず声をどもらせながら振りかえった。
トウジはにやついた顔をしてシンジを見ている。肩からは鞄を下げ、手を頭の後ろで組んで歩いていた。


「家に通うような仲なんやなぁ…。」

「そ、そうじゃ無いよ!ただ、用事が少しあったのと、雨宿りに寄らせてもらったのと……。」

「そうかぁ?学校でも仲、良いみたいやで?」

「た、たまたまだよ……。」


言い訳する、いう事は、少なくともその気があるっちゅう事なんか?
単に照れてるだけかもしれんな。
それにしても、よく解からんヤツやなぁ、シンジも。
エヴァパイロットだから仲いい、いう事はないと思うんやけど。

シンジの顔が赤いのは、夏の日差しのせいではなかったのだろう。
自分でそれを意識したからだろうか、彼はトウジから顔をそむけた。


「ま、惣流を怒らせん程度にしてくれよ。」

「ど、どうしてアスカがそこに出てくるのさ!」

「一緒に住んでるんは、事実やろ?」

「それは……そうだけど……。別に、綾波の事とは関係無いじゃないか…。」


まさか、全く興味が無い訳やないんやろうけど。
両手に花、みたいに思っとるんは、周りだけっちゅう事か?


「アスカはアスカだし、綾波は……綾波だよ。」


顔をそむけたシンジが、ポツリと呟いた。
余りに普通な言い方をしたので、トウジはその意味を把握しそこねた。

……当たり前の事を、何を言うとるんや……?
ホンマの話、シンジはどう思っとるんやろなぁ。
NERVにいる時の事は、わしやケンスケに話そう、いう気は無いみたいやし。
どうせわしの妹の事を気にしとるやろか、当然かもしれんけど。

それなら、綾波と話しとるんは、NERVの話か?
それだけなはずはないと思うんやけどなぁ……。


トウジはちらっとシンジの後姿を見る。
腰の後ろで手を組んで、胸を逸らして背伸びをしているシンジが、トウジにはどことなく明るい表情に見えた。

ま……。
エエ傾向なのかもしれんな。昔はこんな顔するヤツやなかったし。 
ここに来た時かは、よっぽどマシやな。


シンジの組まれている左腕には、黒のベルトに金色の縁取りの小さめの腕時計が巻かれている
なんや、随分古めかしい腕時計をしてるんやな、などと思いながら、トウジは淡々と歩くシンジの足のペースに合わせて歩いていた。


「あそこだよ。」

「……ああ。」









「これが綾波の家かいな…。」


トウジが、アパートの402号室の前で呟いた。
ここに至るまでにも、彼は呆れた声を再三口にしていた。

飾り気のないコンクリートの壁。
切れかかっている階段の電気。
周期的に耳を刺激する、建設工事の音。

どれも、「中学生の女の子」 の住まいには似つかわしくない物ばかりだった。
トウジのぼやきも当然の事だろう。
目の前にいるシンジは、音符の飾りのついたくすんだクリーム色のインターフォンを指で押している。
カチリ、カチリと抜けた音がするだけで、期待した反応はなかった。


「……やっぱり、壊れてるな……。」

「どないするんや、シンジ。家ん中にも、おれへんみたいやし…。」

「どうしよう…かな…。」


ドアに郵便受けはつけられているのだが、ここにプリントを入れてレイが気付くだろうか。
そこには二つ三つのダイレクトメールが詰めこまれていた。
毎日チェックしている、という訳ではなさそうだ。


「ここに入れても良いけど…。」


綾波がきちんと見る、っていう保証はないよね。
なら、中に置いてあげた方が良いかな…。

シンジは思い立って、ノブに手をかけた。
何の抵抗も無く、カチリとそれは円運動する。

開いてる……。


「綾波、入るよ?」


小さく開けた隙間から部屋の中を覗き込み、確認するように言った。
後ろでトウジが怪訝な顔をして彼の様子をうかがっている。


「女の部屋に勝手に入るんは、よくないんちゃうか?」

「……大丈夫だよ、多分。」


そう言って彼はドアを開き、中に入って行く。

何が大丈夫なんや。
こいつ、そんな事するヤツやったか?
綾波だから、別にかまへんっちゅうことかいな…。

トウジは、なおいぶかしみながらもシンジの後に続いた。
埃の上りそうな床を抜き足で歩きながら。

キッチンを抜けて、周りが開けた先にある部屋の中は相変わらずの様子だった。
何の飾り気もない。
染みの付いたコンクリート、カーテンの隙間から漏れてくる夏の日差し。
二人の腰ほどもない小さな白い冷蔵庫、飾りのように置かれている黒いTV、ベッドの脇にある緑色のパイプ椅子。

人が来る事は想定されていなかったのであろう、ゴミがそこら中に散乱していた。


「……随分、無愛想な部屋やなぁ。ホンマに綾波の家か?ここ。」

「うん。」


彼の返事を受けても、トウジはまだ信じられなかった。
ドアの上に表札がなければ、到底及びもつかなかったであろう。

よう、こんな所で住めるもんやな、あの綾波が…。
また、えらい女の子っぽい部屋かと思ったで。

呆気に取られているトウジを置いて、シンジは鞄から預かったプリントを出しベッドにある枕の上に置いた。
これなら、気付かないと言う事はないだろう。

役割を果たし、シンジはチラッと部屋を見渡す。
ちり紙を丸めただけのゴミくずが目についた。

少し、散らかってるな…。


「トウジ……ゴミ袋持ってない?」

「は?んなもん」


持っていない、と言いかけて思いとどまった。
そういえば、週番を告げられた時にそのためのゴミ袋を何枚か渡された気がする。
肩掛け鞄をさぐり、黒いゴミ袋を取り出した。


「どないするんや、こんなもん。」


言いながらそれをシンジに渡す。
シンジは問いに答えず、肩にかけていた鞄をその場において、散らかったゴミを袋に入れ始めた。
彼の突然の行動に驚いた表情を見せるトウジ。


「お前そんな事勝手にやったら、怒られるんとちゃうか?」

「片付けてるだけだよ。」


そう言って手際よくちり紙を取り去っていった。
トウジはむすっとして腕を組み、せっせと働くシンジから顔を背ける。


「わしは手伝わんからな!男のする事やない!」

「うん…。でも、ミサトさんに嫌われるよ、そう言うの。」

「うっ!か…かまへん!わしの信念やからな!」


ふふっ、とシンジは軽く笑った。
トウジらしいと思いながらも、自分の手を動かしつづける。
一応、レイもゴミを1箇所にまとめておいてあったため、手早く作業は進んで行った。

そんなシンジの様子を、トウジはぼんやりと見つめる。
近くに合った椅子を引き寄せ、逆向きに座った。


「変わったなぁ。」


パイプ椅子の背もたれに腕を預けてながら、そうポツリと呟いた。
手を止めずに聞き返すシンジ。


「何が?」

「シンジや。」

「………?」


彼は初めて動かしていた手を止めた。
意外な言葉。
シンジにとって、それは思いもよらなかった言葉だった。


「……僕が?」

「ああ。初めて会うた時は、正直いけすかんヤツやと思っとったけど。人の為に何かするヤツやとも思えんかったし。」

「……。」


トウジは天井を見上げながら続けた。
少なくとも彼にとって、今日、ここまでのシンジの行動は始めて見るものだった。
自分やケンスケといる時と、どこか違うシンジの顔。
余り行動をしたがらないシンジが、進んでゴミ掃除をしている事。

それは、彼にこのような事を言わせるために充分な動機だった。


「ま、余裕なんやろな、そないな事は。」

「………。」


トウジの言葉に、シンジは答えようとしなかった。
ただ俯いて聞いているのみ。
どこかくたびれた今の顔は、彼が初めて見せる表情ではなかった。


「……解からないよ、そんな事。」


張りのない声を喉から吐き出して、彼は掃除を続けるだけだった。











わたしが自分のアパートに着いたのは、日差しがほんの少しだけ弱まったかな、と思える頃だった。


「もう、リツコ博士ったら、何も言ってくれないんだから。」


アメリカであったらしい事故について、リツコ博士からは何も聞かされていなかった。
慌しそうに働いているスタッフの人からの話が漏れてきたから、それくらいだけ。

やっぱりエヴァの実験のせいかな。
ここにはエヴァが三機もある以上、少しだけ不安。


「ここは、大丈夫だよね…。」


わたしは独り言を呟いて、部屋のノブに手をかけた。
軽く力を入れて扉を動かすと、郵便受けの中身ががさっと揺れた。
またダイレクトメールが来てたみたいだけど、どうせたいした物は無いでしょ。

金属の軋みが激しいドアを開け、誰もいないはずの部屋に入る。
誰もいないはずなんだけど。
玄関から見える部屋の中に、黒い服を着た後姿が見える。
あのジャージって、たしか……。
キッチンを横切って部屋の入り口に立つと、わたしに気付いたのか、黒いジャージが振りかえった。


「おう、お邪魔しとるで。」


やっぱり、鈴原君ね。
隅の方に碇君もいる。座って何してるのかな。
出てった時より、部屋がちょっと綺麗になっている気もするけど……気のせい?


「ふ〜ん、女の子の部屋に入るなんて、結構無神経だよね〜鈴原君って。」


別に取られる物なんて無いし、見られて恥ずかしい物なんて無いけど。
一応ちょっと言ってみた。
アスカなら激怒してるところだよ、きっと。


「仕方ないやないか。プリントわざわざ届けてやったんやで?それに、先に入ろう、言うたのはシンジの方で…」

「お帰り、綾波。」


碇君は、しゃがんだままわたしを振りかえって、言った。
碇君ったら、そんなところで何してるの?


「ただいま、碇君。」

「NERVだったの?」

「うん……いつもの通り。本当は学校、休みたくないんだけどな〜。」


わたしがちょっと不平気味に言うと、碇君は立ちあがって笑顔を向けた。
いつものような優しい笑顔。
つい、こっちも頬が零れちゃうのよね。


「あ……。勝手に入って、悪かったかな。」


思い出したように、碇君が言う。
言葉では謝っていたけれど、余り悪びれた様子じゃないみたい。


「そんな事、別にいいってば。碇君だもん。」

「……ありがとう。」

「ふふっ、変なの。お礼を言われるほどの事じゃないよ?」

「そうかな?あ、そうだ…。」


碇君は手にしたゴミ袋のような物を、目の前に持ってわたしに見せた。

???


「ちょっと散らかってたみたいだから…。ゴミ以外は触ってないよ。」


あ!!

わたしはそれで始めて気がついた。
道理で部屋が片付いていると思った。
わたしったら、部屋汚したままにしてNERVに行っちゃったんだ!
って事は、全部碇君が掃除してくれたって事?


「えっ?あっ、あ……。そ、そんな事までしてくれなくっても…。」


わたしは思わずそっぽを向いて、碇君から顔を背けた。


「あ、やっぱり余計な事だった?」

「そうじゃなくって……」


碇君にそんな事させちゃったって事が恥ずかしかったの!
そりゃ、気遣ってくれたのは嬉しいんだけど……。
がさつなの、知られちゃったかも……。もう知られてたかもしれないけどさ。
男の子にさせる事じゃないよね、やっぱり。

……でも、わたしだって碇君の部屋が散らかってたら、掃除しちゃうかもしれないかな?


「ふふっ!」

「どうしたの?」


やっぱり同じ事考えるんだな、と思ってわたしはちょっと笑ってしまった。
まっ、こう思えば、あんまり恥ずかしくないかな、なんてね。


「な〜んでもないよ。ありがとっ、碇君。」

「え?あぁ…うん。」

「ほな、そろそろおいとまさせてもらおかなぁ。」


タイミングを測っていたのか、会話が途切れた時に鈴原君が椅子から立ち上がった。
もしかして、ちょっと放ったらかしにしちゃったかしら。
……まぁ、碇君と喋ってたんだから、しょうがないって事で……。


「そうだね、もうあらかた片付いたし…。」

「あ、もう帰っちゃうの?もっとゆっくりして行ってもいいのに…。」


ありゃ…。お茶もご馳走しないで返しちゃうなんて。
碇君がうちに来てくれるって、あんまり無い機会なんだけどな…。
でも、やっぱり、理由も無いのに家に呼ぶって言うのは、ちょっと勇気がいるし……。

鈴原君は、ぱっぱと荷物を持つと玄関に向かった。
碇君も自分の鞄を肩に掛けて、その後に続く。
わたしも見送るために碇君の後に……。


「それじゃ、綾波。明日は、学校来れるの?」


碇君は玄関で靴に履きかえる前、わたしに向かって言った。
鈴原君はもう先に外に出ている。


「う〜ん、それが明日もちょっと…。」

「そう……。でも、シンクロテストの時に会えるよね。」

「うん。そうよね。」

「じゃぁ…。」

「……うん……。」


そう言って碇君は靴を履くためにわたしに背を向ける。


靴を履き終えると、ノブに手を掛けて……。


ドアを開けて……。


外へ足を踏み出す……。


あ〜あ、碇君、もう行っちゃうんだな……。


「あ、あのっ!」


そう思った時に、わたしは思わず呼びとめていた。
ドアから身体を半身だけ出していた碇君がわたしの方を向く。


「どうしたの?」

「え?えっと、あ、あ……あの……その〜……。」


ど、どうしてわたし呼びとめちゃってるんだろ!?
何も考えないで呼びとめたから。
言葉なんて浮かんでくるはず無い。どうしよう、碇君不思議がってるじゃない!
でも……。


「ま、また……来て、よね。」


そんな事が、わたしの頭にふっと浮かんだ。
これって、もしかして、理由も無いのに家に呼んじゃってるっていうのかしら!?


「えっ?」

「あ、あは、あはは、何でも無いよ、忘れて?ご、ゴメンね。わたしってば、変な事言っちゃって……。ホント、何考えてんだろうね〜。」


照れ笑いと誤魔化しでなんか、あやふやな事言っているかもしれない。
そ、そりゃ、理由も無いのに家なんて来る必要無いよね。
恋人同士でもあるまいし……ね……。


「別に……いいけど……。」


え……?


「また……お邪魔させてもらうね。」


笑顔でそう言ってくれた碇君を、わたしは思わず見つめてしまった……。


「あっ……ありがと……。」










「はぁ〜〜〜。」


パタン、とドアが閉められると、わたしは思わず息をついた。
最後に、思わぬことを自分でも言っちゃったから……。
でも、なんとなく顔がにやけてしまう……。


「うふふっ、碇君、また来てくれるって!」


わたしは一人で呟いた。ちょっと、確認してみたかったのかも。
なんか、はしゃいじゃってるな〜。
しょうがないじゃない、嬉しかったんだから!
何日、とか、何時頃、とかは決めてなかったけど。でも、いいの。
これで、ちょっとは一緒にいられる時間が増えるかもしれないんだし。

顔をにやけさせたまま、軽い足取りで部屋に入る。
碇君がゴミをまとめてくれたから、すっかり綺麗になっていた。

う〜ん、今度からは部屋を綺麗にしよう……と、反省。
いくら碇君が気にしないって言っても、さすがに二回も掃除させる訳にはいかないよね。


あれ?


そう思って部屋を見渡した時に、不自然な光がわたしの目に入ってきた。
床から発せられているような。ほんの僅かな光だったけれど。
気になって光があった方向を見る…。


「時計?」


簡単な作りの時計が床に落ちていた。
わたしは普段、あまり時計って使わないんだけど。携帯についてるし…。
その時計を手にとって確かめてみる。
金色のふちどりの時計。きっと、そこが光に反射してたんだと思う。
あと、黒の皮ベルト。
かなり使いこまれていたんだろう、よれよれになっている部分もあって、途中でベルトは切れていた。


「あ、これ碇君のだ。」



そういえば、碇君とお墓参りに行った時もおんなじのしてた。
ちょうど碇君が座ってた場所だし、多分碇君のね。
ベルトが切れてるのに気がつかないで、そのままにしちゃったんだ。

でも、あんまり男の子っぽくない腕時計のような気がするけど……。
文字盤の中央にかすれたローマ字が書かれている。

……I……。

それに……。

…V、かな?Y、かな?

よく読めないけど。ま、いいや。
碇君を家に呼ぶ口実にしちゃおっと。

わたしは時計を持つと、ドサッ、と、ベッドに身体を投げ出してうつ伏せになった。
枕の上に時計を置いて、じっと眺める。
なんでだろ、碇君の身につけているものを持っていると思うと、なんとなく幸せな気分……。

頬を緩ませたまま時計を見つめていると、だんだんぼ〜っとなってきて。

シンクロテストとかで疲れてたせいもあったのかもしれない。
制服姿のまんま、わたしは眠りに落ちて行ってしまった。













リニアトレインの車両の一室。

中央に二人の男が座り、他に客は乗っていない。
二人は窓の向こうにある、建築物の陳列を眺めていた。
不気味なほど巨大な夕日がそれらを赤く染め上げ、互いに光と影とを作り出していた。
茜雲が空の炎を取り巻いて靡き、トレインは夕刻の街に耳慣れた音を響かせている。

「……四号機の事故……どうするのだ?」


鬢髪の男が口を開いた。
対面にいる男は黙したまま。ややあって、低い声をガラスに向かって発する。


「……どうもする気はない。単なる事故だ。問題はない……。」

「しかし……ここへ来て、大きな痛手だな。」

外へ向かって放たれていた騒音が大きさを増し、二人の間を埋めた。
しかし、男達の発する声は変わらない。
トンネルに入ったリニアトレインは、地上から地下へと向かっていた。


「ここと初号機があれば構わん。S2機関も、ドイツにサンプルが残っている。」

「補完計画の遅れはどうする気だ?」

「……槍が邪魔か……。しかし、今は地下だ。初号機も眠りについている……。」

「眠り、か……。ならば、夢でも見ている、と言ったところか?」

「………。」


共鳴する音をトンネルに残しながら、トレインは再び開け放たれた空間に飛び込む。
一見そこは外界と全く変わらない。地下にもかかわらず、紅い光が降り注いでいる。
しかし、地上では地面から生えていたビル群は、ツララのように天井にぶら下がっていた。


「初号機が目覚めてからだ。覚醒は進化への始まりを示す。……もう少しだ。」

「進化か……。彼女は始めから知っていたのだろうな。」

「………。」


男のサングラスに、太陽光が映し出される。
その眼差しは、真下に見えて来たピラミッド型のNERV本部へと注目されていた。


「臆病者の人間が恐怖を払拭できる唯一の道……。我々が生き続けるには、それしかない……。」

「……臆病者の方が長生きできる……それもよかろう。私はヒトとして生きる事を望むよ」。

「ヒトは先に進まねばならない時を迎えている。唯一開かれた、神への道……。それが補完計画だ。」


地底湖と原生林に囲まれ、異形をなしているNERV本部が、主を待ち続ける勤勉な従者のように、彼らの眼下に構えていた。














暗い。



何も見えない。



ここは何処?



目が…開かない…。



手も、動かない……。



足は……?



感じない……。



わたし、どうしちゃったの?



これは、夢?



それとも現実?



よく解からない。



でも、こんな感じ、始めてじゃ無い気がする。



何故、こんな事思うの?








……ォォォ……。


ウオオォォォォォォ…

オオオォォォォォ……






上の方から何かの叫び声が聞こえる……。


この上に、何があるの?


誰か……いるの……?





「………信号の拒絶を確認!」




「干渉中止!タンジェントグラフを逆転!」



女の人の声。

誰の声?





「旧エリアにデストルド反応。パルスにも変化が見られます」






オペレータの人の声…。

わたしの起動実験失敗の時の事?



ううん、違う。



だって、みんなわたしの知らない声。

マヤさんや、日向さんや、青葉さんの声じゃない…。






「現状維持を最優先。逆流、防げる!?」



この声……。

好きじゃない。

嫌な感じがする。


どうして?


ほんの少しだけ、リツコ博士に似ている気がするのに。






「これは……駄目ね……。発信信号がクライン空間に捕らわれています。」


「失敗……。自らの意思で、エヴァに居続ける、という事か。打つ手は無いのかね、赤木君。」





今のは…副司令?




「……打つ手は全て打ちました。」




「どういうつもりだ……ユイ……。」





これは…司令…。

ユイって、碇君の……。






「せき止められません!!」


「何故だ……。お前は、何を望んでいるのだ……。」


「デストルド、増加します!!」


「プラグ内、圧力上昇!」


「……………。」

「…………。」


「………。」


「……。」

「…。」








もう……聞こえない……。












……ほら、あなたも消えるの。



わたしと一緒に、あなたは消えるの。





嬉しいでしょ?




それがあの人の願いだから。





そして、私の願いだから。






そうでしょ?





あなたも私も、みんなとはちがうもの…。



逃げられないの……。







そんな事……。




そんな事……。




そんな事……解かってるよっ……!













………。



……。



…。





「っ!!!」


彼女が眠っていたのは、ほんの数10分だったのか。
目覚めた時にも、外から降り注ぐ赤い光は変わらなかった。


「……今の………何……」


まだ頭が少しぼやけている。
その感覚は宙に浮いているようで、彼女にとって不快な物ではなかった。

うつ伏せになったままだった彼女の目の前に、小さな腕時計が置かれている。
彼女は思わずそれを胸に握り締めた。
何故かは解からない。
しかし、シンジの残した時計があることで、彼女は安堵感を覚えた。

視線を落とし唇をかみ締めると、また彼女は枕に顔を押し付けた。
強く噛んだはずの唇は、まったく痛みがしなかった。













「スイカ…?」

「ああ。趣味の一つって所さ。単なる家庭農園に過ぎないがな。だが、皆には内緒だぞ?」


地底に存在するジオフロントに、斜め45°からミカン色の光が差し込んでいる。
ジオフロントの一角に作られた小さな畑に、大人と子供の姿があった。
シンジはしゃがみ込んで、ようやく膨らみかけてきたスイカの実を見つめている。
加持は小さなじょうろを手に、それらに水を与えていた。
そそぎ出される水は、夕日の光を受けて輝いていた。

シンジはシンクロテストを受けるためにNERV本部へ来ていたのだが、肝心のテストはミサト達の都合で開始が遅れていた。
休憩室で加持に誘われたので、彼の導くままについていき、今こうしてジオフロントの小さな畑を前にしている。


「何かを作る、というのはいいぞ?いろんな物が見えてくる。手を掛ければ掛けるほどな。シンジ君もどうだい?」

「僕は……いいです…。」

「そうか。だが、いつもと変わった事をする、という事も大事だぞ。それでしか解からない、楽しい事も見つかるかもしれないしな。」

「……つらい事も……じゃないですか。」


シンジは、目の前にある、雫を受けて輝くスイカから目を逸らして言った。
それは、まるで別の事から目を逸らしているかのような仕種だった。


「つらい事は、嫌いかい?」

「……好きじゃないです。」


どうしてつらい事を望んでしなければならないんだろう…。
そんな事をしても、傷つくだけじゃないか。


「楽しい事、見つけたかい?」

「………。」


シンジは黙して答えなかった。


「それもいいさ。でも、つらい事を知っている人間の方が、人に優しくできる。それは、弱さとは違うからな。嫌な事から逃げているだけじゃ、得られない事もあるって事さ。」


シンジはその言葉にも黙して答えなかった。

そんな事、加持さんはどうして言えるんだ……。
僕が父さんに捨てられて……よかった事なんてあったのか?
エヴァに乗って、いい事が見つかったの?

解からない。
ここに来た事は、よかった事なのかな……。

始めは自分で決めた事じゃないんだ。
エヴァに乗る事も。ここに居る事も。

言われただけだから?。
そう、思いたくないけど……。

……ただ、一人でいたくないだけなのか?

だから僕はここにいるの?
綾波に……居場所を求めているだけなの?
そうかもしれない……。
優しくしてくれる人がいれば、それでいいのか……。
嫌なことが無ければ……。


「シンジ君、葛城から。今からシンクロテストをやるそうだ。」

加持はいつのまにか携帯電話を片手にしていた。
しゃがんでいるシンジに向かって告げたが、シンジはそれでも答えなかった。













ディスプレイを見るリツコとミサトは、やや渋い顔を覗かしていた。
チルドレンの三人がプラグスーツ姿で画面に映っている。
シンクロに入っているシンジの顔が、ミサトには妙に苦しげに見えた。


「やはり……シンジ君のシンクロ率、落ちてきているわね……。」

「どういう事?」

「なんとも言えないわ。ただ、先の事件がシンジ君の深層意識に何らかの影響を与えた、という事じゃないかしら……。」

「ますます、参号機のパイロットの事、伝えにくいわね……。」


ミサトは腕を組みながら、疲れたような声を出した。

この事を、シンジ君にどう伝えるべきかしら……。
まさか、同意してくれる訳はない。エヴァパイロットのつらさを一番知っているのは、シンジ君だから…。
シンジ君を傷つけてしまうのかもしれない。
でも………私達には綺麗ごとを言っている暇はない……。


「でも、本人には明日、正式に通達されるわ。シンジ君にはあなたから言うしかないじゃないかしら。いずれは解かってしまう事よ。」

「ええ……。そうね……。あなた、レイには言ったの?」

「明日、本人に通達をしたら言うわ。」










翌日。

今日も毎日の日課通りに進む第壱中学校では、昼休みを迎えていた。
退屈な授業を終えた生徒達が急に元気を取り戻し、いくつかのグループに分かれていく。


「さ〜て!メシやメシ!!このために学校に来ているようなもんやからなぁ!」


腕を伸ばして大きく背伸びをした隣には、まるで決まりごとのようにケンスケがいる。
二人とも弁当の作り手が家にいないため、学校の購買部で調達してくるのだ。
彼らが首尾良く食事を手に入れた後、シンジも一緒に弁当を食べるのが常だった。
購買部での食料調達の成果が良くないと、彼のお弁当箱からも数品頂く事になるのだが。


「2−Aの鈴原トウジ、鈴原トウジ、至急校長室まで……。」


二人が購買部へ向かおうとしていた時、突然の校内放送が彼らの行動を妨げた。
呼ばれる覚えのないトウジは、不思議がるばかりだった。


「何かやったの?」

「いやぁ……。心当たりないわ。」


ケンスケもトウジが何かした、という噂を聞かなかったため、不思議に思った。
当然トウジも校長室へなど行きたくはなかったが、いやいや席を立つ。
すると、後ろから呆れたような女の子の声がした。


「鈴原、あなたまた何か悪さしたんでしょ!」


そう言ったのは、腰に左手を当てている2−Aの委員長こと、洞木ヒカリ。
先程の放送をしっかりと聞いていたようだった。
普段、彼女はアスカやレイと食事を一緒に食べている。一言言うつもりで来たようだ。


「何もしてへんて。わしが言われる事いうたら、委員長の小言くらいなもんや。」

「もう……解かってるんだったら、もっとしっかりしてよね!」


しょうがないわね、という調子の彼女だったが、顔はそれほど嫌がっていない。
声にも、嫌味は含まれていないようだ。
もちろん、委員長としての義務も頭に入れてはいるのだが。


「呼ばれたんだから、素直に行きなさいよね。悪い事したんなら、ちゃんと謝っておくのよ。」

「それくらい、解かってるて。でも、ホンマに何もしてないんやけどなぁ……。」


頭を掻きながら、しぶしぶ彼は教室を出て一階にある校長室へと向かった。
ヒカリはトウジが教室を出るまで、彼の背中を見つめ続けていた。
すると、アスカの高い声がぼうっとした彼女を呼ぶ。


「ヒっカリ〜!お弁当、食べよ〜!」

「う、うん!!すぐ行くよ!」


その日、トウジが教室に戻ったのは、5時間目も半ば過ぎた頃だった。












「ふ〜ん、ヒカリが鈴原君を、ね〜。」

「そうなのよね〜。アタシには、あの鈴原のどこがいいのかわかんないけど!」

「まぁまぁ…。ヒカリらしいじゃない。鈴原君だってあれでいいとこあるんじゃないの?」

「鈴原に〜?アイツにヒカリは、勿体無いわよっ!」


まるで、学校の昼休みのような会話をしているレイとアスカだったが、決してそんな事はない。
二人とも、しっかりとプラグスーツに身を包んで、エントリープラグの中にいるのだった。
エントリーされているのはこの二人だけでなく、もちろん中央にシンジもいる。
ただ、レイとアスカの回線とは、音声がカットされているために会話は聞こえていなかった。

「アンタみたいなのが聞いたって、わかんないわよっ!!」
「女の子同士の話なんだから、いくら碇君でも聞いちゃだ〜め。ゴメンネ!」
と言われて、シンジは不承不承回線を切らざるを得なかった。
よって、プラグ内の彼は少しふてくさったような表情を見せているのだが……。
たとえLCLの中であっても、会話はよく弾んでいるようだった。


「そのくせ、ヒカリも積極的じゃないのよ。ったく、日本人っていうのは、どうしてこうまどろっこしいのかしらね〜。」
「あら奥ゆかしいって言ってくれない?ヒカリは昔ながらの日本女性なのよ!」
「ヒカリが家庭的だって事は認めるけどさ。鈴原になんて、はっきり言わなきゃ解かるわけないじゃない!」
「そ、それはそうかもしれないけどね……。それなら、何かアドバイスでもしてあげたら?欧米流の。」
「そんな事教えたって、ヒカリがやるわけないでしょ!ヒカリがするって言ったら……。」
「やっぱり、食べ物で釣ることが一番じゃない?鈴原君、家庭の味には弱そうだし。」
「ま、手堅いところね。でも、あのヒカリが自分の家に呼んだり、鈴原んとこに作りに行くわけないから……。 」
「お弁当作戦とか……。」
「ありきたりだけど、そんなとこよね〜。」
「でも、効果あるんじゃない?ヒカリの腕は疑うとこなしだしさ。」
「おいしそうにご飯食べてるところは思い浮かぶんだけど。それであの鈍感バカがヒカリの想いに気がつくなんて思
えないのよね〜。」
「う〜ん……。長い事続けて行けば、少しは恩に着てくれるんじゃない?いくら鈴原くんだって、ヒカリが嫌いな人にお弁当作ってあげるなんて思わないだろうし。」
「ま、そりゃそうね。んで、今日もヒカリは残ってんのよね、放課後まで。」
「え?もしかして、鈴原くんだから?」
「そういう事。アンタが学校休んでるもんだから、ヒカリも口実ができたんじゃないの?」
「あはは、変なとこでヒカリの手助けしちゃってるのね。でも、それなら二人っきりなんじゃない?もしかしたら、進展あるかもよ?」
「そうねぇ……。」

『ちょっと二人とも?お喋りはその辺にして。シンクロテスト、始めるわよ?』

「「は〜い…。」」












そんなこんなで、何の問題もなくシンクロテストが終った後、わたしはリツコ博士に、私室に呼ばれていた。

う〜ん、リツコ博士、何か言う事でもあるのかな。
おかしいなぁ、テストは真面目に受けてるし……。お喋りのし過ぎって事じゃ、ないわよねぇ。
学校の成績?だったら……まずいかも……。


「レイですけど、入りますよ〜?」


プシュ、と音を立ててドアが開いた先の部屋には、誰もいなかった。
な〜んだ、リツコ博士、先に着ていた訳じゃなかったんだ。
急いでプラグスーツを着替えてきたから、早過ぎちゃったのかな。

わたしは昔からここにいる事が多くて……もちろん、リツコ博士が研究している時以外だけど……この部屋はちょっとだけ気に入っていた。確かに、飾り気があるわけではなく、実務的な物しか置いてないんだけどね。

あ、博士はコーヒーが好きだから、コーヒーメーカーは欠かせない。わたしは苦いのが嫌いだから、砂糖とかクリームとかいっぱい入れちゃうんだけど、リツコ博士はほとんど入れないのよね。

カップは博士がネコ好きだから、ロゴにネコが入ったものが多いんだ。
昔は家に飼っていてらしくて、そのネコを何回か見せてもらった事、あったっけ。

机の上に、何かを殴り書きした紙が置いてあった。
いまどき、紙に何か書くなんて、あんまり無いことだけど……。でも、リツコ博士は効率を考えて、文書としてデータを残す事はよくやるみたい。わたしたちのデータもちょっとだけ見た事がある。ディスプレイで物を見るより、紙面で見た方が見やすいもんね。

どうせわかんないだろうけど……。

チラッとその紙を覗いて見た。

うっ、英語……。

本当はすぐに諦めちゃおうかとも思ったんだけど、Rei、の文字が見えたから少しじっくり見ることにした。

しかも、見たことのない単語ばっかり……。
専門用語ってヤツかしら?う〜ん……。


……replace……。

……Chirdren……。

……command……?

……plug……。
これは、エントリープラグの事かな?

……Eva……。
これはそのまんまよね。

control system……ぺ、ぺす……pestilent……?

……あ、assume………えっと、emotive……chip……?

ううっ…。
これって……。



………。



全っ然、わかんないわ……。


ま、当たり前か。
べ、別に、これが英語の成績に繋がるって訳じゃないもんね。
そりゃ、成績がいいのかって言われたら……自信ないけどさ……。


「何をしているの?」

「ひゃっ!?」


突然誰かに、肩に手を置かれてビックリしてしまった。
もちろん、リツコ博士。
真剣に読んでいて、気付かなかったのかな。
まずいわ、わたしが研究の事を聞いたりすると、博士っていい顔しないんだよね……。


「い、いいええ、何でもないですよっ。話って、なんですか?」

「そうね、今するわ。コーヒー、飲みたければ飲んでもいいわよ。」


博士はそう言ってわたしにネコのマグカップを渡して、ゆっくりと机の椅子に座る。
パソコンの電源を立ち上げる。なにか、わたしに見せるつもりなの?
わたしはコーヒーメーカーからコーヒーを注いで、近くのかごに入れてある砂糖とクリームを順に入れた。


「レイ、あなた、先の四号機の事故、知ってる?」

「う〜ん……アメリカの第二支部が消滅した、って言うのを、周りの人が言ってましたけど?」


博士はディスプレイに顔を向けたままわたしに話している。
わたしはコーヒーを飲みかけた手を止めて、リツコさんを見た。


「詳しい事は言っても仕方がないけれど……。その事故に関係して、アメリカから参号機がうちに来るのよ。」

「え、そうなんですか?」


初耳だわ、そんな事。
エヴァが幾つか作られてるって事は聞いたことあったんだけど……。
でも、実際に動いてるのはここだけよね。
じゃぁ……。


「もしかして、これからは参号機も一緒に?」

「起動実験が上手くいけばね。」


起動実験が上手く行けば……。
そういえば、エヴァって最初から上手く起動した事って無かったような?
碇君の時だけよね。

あれ?
そう言えば、一番肝心な事が……。


「あの、誰が乗るんです、参号機。エヴァって、誰でも使えるわけじゃないって……。」


わたしがそう質問すると、博士は初めてわたしの方を見た。
手はキーボードを打ちつづけている。真剣な目つきだったので、わたしはドキリとしてしまった。

フォースチルドレンの噂なんて、わたし、聞いたことない。
アスカが来る前にも、セカンドチルドレンの事はちょっとだけ聞いてた。
碇君の事は聞いてなかったけど……。


「この子よ。」


ピッ、と軽い電子音を立ててディスプレイに現れた顔は、わたしの知らない顔ではなかった。













夕日が山の向こうに沈みかけている時刻、レイは暗い顔を道端に落としながら一人歩いていた。
彼女らしくない、どこか力が抜けたような表情。


「はぁ……。」


溜息が小さな口から漏れるのも、一度や二度ではなかった。
それは、彼女がリツコの部屋を出てからずっとの事だ。

……本当は、仲間ができて喜ぶべきなの?
ううん、エヴァなんかで戦うのは、わたし達だけで充分。碇君だって、戦いたくてやってるんじゃないんだもの。

それなのに。

よりによって、何故………参号機のパイロットが、彼なの………。

もちろん、レイはその事をリツコに対して問い詰めた。

こんな事になれば、一番傷つくのは碇君に決まってるから。
エヴァに乗って、一番傷ついているのが碇君なのに、何でこの上碇君を傷つけるような事を…。


「……もうっ!!リツコの馬鹿ぁっ!!」


口に出してなじってみても、無駄な事は解かっている。
先ほど自分で言ったように、エヴァのパイロットは誰にでもなれるわけではない。

しかし。

他のたくさんの人達のために、シンジが傷ついていくのが、彼女には納得できなかった。

どうして、碇君でなければならないのよ……。


「はぁ……。」


彼女の溜息は、止まらなかった。


「レイっ!!」

「へ??」


聞き覚えのある声が背中からした、と思うと、肩をぽん、と叩かれた。
後ろからきた声の主は、呆気に取られたレイを尻目に軽やかな歩調でその隣に位置取った。


「ヒカリ……。どうしたの?って……ああ、お買い物ね。」

「うん。ちょっと、そこのスーパーまで。」


どうやら、この近くに彼女の行き付けのスーパーがあったのだろう。
青いジーパンに白のTシャツという、ごく簡単な格好をしている。
手には、華奢な身体に似合わない大きな袋を手に下げていた。
学校で真面目な彼女は、普段着姿にもどことなく楚々とした雰囲気が漂っている。


「大変ね、いつもNERVのお仕事。」

「ううん、たいした事ないのよ、わたしは。それより、いつもご飯作んなきゃいけないヒカリの方が大変だと思うけどな、わたし。」

「そうでもないわよ?ご飯作るのって、わたし好きだし。上手くできると楽しいじゃない。それに……結構できると役に立つ事もあるのよ、実は。」

「ふ〜ん、そうなんだ。」

「うん!」


すがすがしい笑顔をレイに向けるヒカリ。普段はレイがするような顔を、今日はヒカリがしているようだった。

どうしたんだろ、ヒカリ。
なんか、いい事でもあったのかな?


「ねえヒカリ、いい事でもあったの?顔がにやけてるよ〜?」

「……え……?」


レイが言った瞬間、ヒカリは顔を赤く染めて俯いた。
夕日の光の中でさえ、彼女の変化が見て取れた。

ふふ〜ん、やっぱり、何かいい事あったのね。
これは、聞き出しとかないとね〜。


「何があったのかしら〜、ヒカリちゃん!ほらほらぁ、はいちゃいなよ!」

「そ、そんな……たいした事じゃ……なくって……。」

「ふ〜ん、こんなに顔を赤くしちゃってるのに、たいした事ないの〜?」


ぐいぐいと肘で彼女を軽く小突きながら、からかうレイ。
ヒカリはますます反応が大きくなる。
ホント、ヒカリもすぐに顔に出ちゃうんだから、隠したってばれるのよね!

ヒカリはまだ顔を真っ赤に染めたままだったが、一瞬と惑った後レイに耳打ちするように顔を近づけた。


「実はね……。」

「なになに?」


恥ずかしさで上手く話せないのか、ぼそぼそとした声だったが、嬉しさに満ちているらしい、という事はレイにもわかった。

「鈴原にね……お弁当作ってあげるの……。」

「?!」


ヒカリの声を聞いたとき、ぎくりとレイは身を震わせてしまった。
そうだ、ヒカリって、鈴原君の事……。

レイは最大限の努力をして動揺を抑えると、逆に明るい声を出した。


「い、いつからそんな事になったの?もう、隅に置けないんだから、ヒカリったら!」

「さ、さっき学校の教室でね……。」

「よかったじゃない!取っておきの作って、鈴原においしいって言わせちゃいなよね!」

「……うん……」


頬を染めながらも嬉しそうに答え、笑顔を見せるヒカリ。
その表情はとても眩しかったが、レイにとっては直視するのがつらい物となってしまった。
これだけレイが苦労して笑顔を作ったのは、いつ以来の事だったろうか。
素直な笑顔を見せるヒカリの隣で、下手な作り笑いを浮かべながらレイは歩きつづけていた。


あの事を知ったら、ヒカリはどう思うんだろう。
喜ぶはず……ないよね。
ヒカリだって、戦いが危険な事くらい解かってるんだから。
鈴原君に、そんなところに行って欲しいなんて思うわけない。





それに……。


碇君は……どうするんだろ……。


大丈夫、なのかな……。







fin







masa-yukiさんのリナレイ版エヴァ、ついに10話目ですね!
ついにフォース・チルドレン編が始まってしまいました。
レイの明るさが、逆に話の陰鬱さを際立たせることにならなければいいのですが……
しかし、例のシーンはやっぱりありましたね。シンジがレイの部屋を掃除して……
うーん、これだけが今回の話の中の救いなのでしょうか。
最後のヒカリとレイの会話のシーンも、何となく哀れを誘うし……
そして、レイの寝ている間の心象風景は何だったのか……今後の展開を待ちましょう!

Written by masa-yuki thanx!
感想をmasa-yukiさん<HZD03036@nifty.ne.jp>へ……


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