綾波レイ、十四歳。
特務機関NERV所属。マルドゥック機関の報告書によって選ばれた最初の被験者。エヴァンゲリオン試作零号機専属パイロット。過去の経歴は白紙。全て抹消済み。
一方。
第3新東京市、第壱中学校2年A組、出席番号一番。
4ヶ月前に転校してきた女の子。明朗快活にしてクラス一のおしゃべり。髪の色は空色、瞳の色は赤。肌の色は透き通るほど白い。第壱中一番の美女としての呼び声高し。噂では最近気になる人ができたらしい。同じく転校生の碇シンジと一緒にいることが多い、との報告あり。関係は不明。
これは、そんな彼女の物語である。
そんな彼女の可能性 〜the night operation〜
「信じらんないっ!!もう!!」
日差しの良い、真っ白な病院の廊下に高い声が響いた。開けていた窓のさんにとまっていた鳥はそれを聞いて驚いて逃げてしまった。その声は先が見えないほど長い廊下に、かすかな余韻を残して消えた。
ファーストチルドレンこと、綾波レイは大股で歩いていた。憤慨して、片手に持ったファイルを振り回しながら。青い制服のスカートが揺れる。いかにも腹の虫が収まらない、といったところだ。普段は彼女も病院で大声を出すような性格ではないのだが、今日に限っては少し事情が違っていた。
ここはNERVの総合病院。彼女らチルドレンは戦いで負傷すると決まってここに収容される。レイは今日使徒との戦闘で負傷したサードチルドレン、碇シンジのもとへ行くところだった。第3新東京市にむかって現れた第五使徒、ラミエルとの戦いのために初号機に乗り込んで出撃したシンジだったが、地上に出てきたところをラミエルの加粒子砲に狙い撃ちされ、重傷を負ってしまったのだ。一時は心臓停止の事態にまで陥ったのだが、何とか取り留めて今に至る。
「結局碇君が攻撃を受けたのもNERVが敵の情報を全然把握してないからじゃない!!なのに碇君を矢面に立たせるような真似してさ、しかも明日の0時から作戦開始ぃ!?まったく、碇君をなんだと思ってんのよっ!!」
さらに捲くし立てて、彼女は歩く。憤慨の理由は正当なものだ。彼女の目からは、仕方ないとは言え14歳の子供を戦場に立たせ、戦闘を強いて、怪我をさせた、と写っても仕方ないのだ。それに、まあ、好き、とまでは行かないまでも、ちょっと気になる存在の男の子が怪我をさせられたというのでは、怒りたくもなる。
「何よ、大人面しちゃってさ!!きっとこっちの事なんかぜーんぜん気にしてないんだわ!!な〜にが、『これができれば作戦成功間違い無しだわ、いい?マヤ。』『はいっ、センパイ!!』よ!!二人でにゃんにゃんやってればいいのよ!!あのばーさんは!!ふんっ!!」
…少々感情的になり過ぎているようだ…。
しかし、階段を上ってシンジのいる階につくと愚痴を止めた。さすがにシンジにあの愚痴は聞かれたくない。少々不謹慎ではあるがシンジと二人きりで話せるチャンスでもある。なんとなく意識して背筋を伸ばしながら歩く。何も無い廊下に足音が響く。シンジのいる部屋の前まで来ると、ふうっ、息をついて肩の力を抜き、両手で作戦用のファイルを胸に抱えて直して、ドアの外からおもむろに話し掛けた。
「いっかりくーん、入るよ!!」
ぷしゅうと、気の抜けた音をしてドアが開く。その部屋の仮の主はベットの上で既に目を覚ましていて、布団をかけたまま上半身だけを起こしている。無表情で力が抜けているように見える。レイはそのベットの側に歩み寄って、近くにあった椅子に腰掛けた。
「あ、もう意識戻ったんだ。良かった〜。心配してたんだから、どうなっちゃうかと思って。」
「綾波…。僕は…どうしたの?」
「そっか、わかるわけないよね。碇君は使徒に撃たれた後、ここに運び込まれたのよ。ほんとに心配したんだから。」
「そっか…。ごめん、心配かけちゃって。もう大丈夫だから。」
「ほんと?大丈夫にしてはなんか元気ないわよ?今回のは碇君のミスでも何でもないのよ?」
「うん………。でも、またあれに乗らなきゃ行けないんでしょ?」
少し気落ちした調子でシンジは言う。レイは、シンジが本当は戦いなどしたくない、と思っていたのを知っていたので、今後の作戦のために来た彼女は少しつらくなった。彼女自身も好戦的な性格ではないので、その気持ちは良く分かる。
「………嫌なの?エヴァに乗るの。」
「そりゃあ…嫌だよ。危険な思いまでして戦わなきゃ行けないんだから…。」
シンジがそう言うと、レイは少し怒った表情をして、シンジのおでこを中指でぱちんと軽くはじいた。でこピンという奴だ。
「いた。綾波、何を…」
「碇君、冷たい。」
「えっ…?」
「だって、碇君が乗ってくれないと、わたし一人で戦わなくちゃいけないのよ。」
「………でも………怖いものはやっぱり怖いよ。」
当然よね、あんな目にあっちゃ…。エヴァに乗ったって何もいい事なんか無いんだから。でも、わたしだって怖いのよ、碇君。初めて会ったときのように、かばって欲しいな…。
彼女の心には、初めてシンジとケージであったときに、自分の身代わりの様にして初号機に乗ったシンジの印象が残っている。薄らいでいく意識の中で聞いた、「僕が乗ります。」という言葉は、彼女の心に強く焼き付いている。その後話してみて、あまり強い性格の人ではないと分かってはいたが、頼りにしてしまうのもまた事実だった。
「それはわかるけどさ。次の作戦は私も一緒だから。一人でやるより安心できると思う。」
「もう…次の作戦があるの?」
「うん……。さっきの使徒がまだ生きてるからね……。」
「そう……。」
部屋に沈黙が流れる。
レイはふう、と息をついた。このままじゃだめね、と思って、彼女は少し勢いをつけて言った。
「考えたって始まらないからさ!!私、戦いに出るのは初めてなの。だから碇君、ちゃんと私を守ってよ?実戦は碇君の方が先輩なんだから!!」
「えっ!?う、うん。」
「うん、っていったね?じゃあ、もう悩まないでね。頼りにしてるんだから。」
「う、うん」
「あ、そうだ、食事が出てるんだったわ。ちょっと待っててね。貰ってくるから。」
そういってレイは部屋から出ていくと、程なくして食事を小さな配膳台に乗せて帰ってきた。シンジはあっけに取られてボーッとそれを見ていたが、看護婦と言うよりはお母さんと言った感じのその姿がレイに妙に似合っていて、ついシンジはくすりと笑ってしまった。
「なに笑ってんの、碇君。」
「え!?う、ううん、何でもないんだ。」
「むー。言ってくれないとご飯あげない。」
レイは怒った振りをしてそう言うと、シンジに渡しかけていた食事をお盆ごと取り上げてしまった。
「いや、なんか似合っててさ。ご飯持ってくるのが。なんか優しいお母さんのような感じがして。ごめん、変な事言っちゃったかな。」
「べ、別にいいけど…。誉めてくれたの?」
「う、うん。そのつもりだったけど。」
「そっか。ありがと。碇君。」
そう言って食事を返すと、レイは小さく、しかし優しく笑った。水色の髪を日の光が照らし、端正な顔の輪郭がその光に溶ける。それは屈託の無い綺麗な笑顔だったので、シンジは思わず見とれてしまった。
「あ…。」
「じゃあ、今後のスケジュールここに置いておくね。私は用事があるから行くけど、碇君は今日は時間までゆっくりしててよ。」
「わ、わかった。ありがとう、綾波。」
「いいの。それと…。」
「何?」
レイはそういって席を立ちドアの側までよって、手を後ろに組みシンジの方に振り返ると、今度はいたずらっ子のようにくすっと笑った。
「寝ぼけて、そのままの格好でこないでよ。」
「え!?わあっ!!」
シンジは慌てて布団をたぐりよせた。集中治療室で治療をして、すぐにこの病室に移されたので…下に何も着ていなかったのだ。
「そ、そういう事は先に言ってくれよ〜。」
「ふふっ。バイバイ、碇君。」
レイはそう言って部屋を出た。シンジが気を取り直してくれたせいだろうか、足取りもずいぶん軽く、鼻歌などを歌いながら廊下を歩いていった。
「もう。綾波のえっち。」
部屋には静寂が残されたが、それはまったく居心地の悪いものではなかった。むしろ心が落ち着いてくるものだった。頭にはさっきのレイの笑顔がまだ残っている。
「もう少しだけ…やってみようかな…。」
「…と言うわけでこれはNERVが徴発します。よろしいですね?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ…。」
「いいわ、レイ。運んでって。精密機械だから大切に取り扱うのよ。」
「おっけ〜い。まっかせといて。」
「ちょっと、そんな勝手に…うわっ!?」
戦略自衛隊の御殿場基地にエヴァンゲリオン零号機が降り立った…。武器運用のために。起動実験には成功していたとはいえ、実際に動かしていないレイのための訓練もかねてはいたのだが。作戦部長こと葛城ミサト一尉は少々強引な説得で戦略自衛隊からポジトロンスナイパーライフルを徴発すると、レイの乗る零号機は器用にそれをとりあげ、しっかと両手で抱えた。
「上手いわ、レイ。後は誘導するから、その通りやって。」
「ハイッ、りょうかいしましたっ。」
零号機はそのまま運搬用の飛行機に乗る。
かくしてレイのエヴァ初任務はつつがなく終了したのだが、それが武器運用では少々不満もあったようだ。NERV本部に帰る途中に、零号機のエントリープラグ内からレイはミサトに少し愚痴った。
「かっつらぎさ〜ん、これが初任務ですかぁ〜。」
「そうよ。シンちゃんみたいにいきなり戦闘よりはよっぽどましでしょ。」
「でも、もうちょっとかっこいい仕事だったら良かったのに…。」
「な〜に〜?もしかしてシンちゃんにいいとこ見せたかったとか?」
「う。別に、わたしはそんな訳じゃなくて、ただもっといい仕事が、ないのかな―って言うか…。」
「そうかしら?わたしにはそうは聞こえなかったけどね〜。」
「そ、それは葛城さんの気のせいですよ、気・の・せ・い。」
普段、レイのマイペースぶりを見ているミサトは、彼女が少し焦っているのを見ておかしくなった。
「ふーん。あやしいわね〜。あ、さてはさっきの病室でシンちゃんとなんかあったな?」
「い、碇君とはほんとに何も無いですよ、やだなあ、葛城さん。」
「ほんとかな〜。シンちゃんが怪我したって聞いたときのレイの顔、まともじゃなかったわよん?」
「ま、まともじゃなかったなんて、そんなことないですよぉ。ただ、ちょっと心配だったっていうか…。」
「否定する事無いじゃな〜い。病室でシンちゃんの裸ずっと見てたくせに〜。」
「な、な、なんで知ってるんですかぁ〜!!」
「もちろん知ってるわよ〜。パイロットの状態は逐一把握しておかないとねん。」
「ひ、ひど〜い。」
「あら。いい雰囲気だったじゃな〜い。若いっていいわね〜。」
「べっ、別にいいじゃないですかっ、私が碇君と何してたって!!」
「あ、開き直ったわねっ、レイったら!!良かったわね〜、シンちゃんがやる気になってくれて!」
「も、もうっ!葛城さんなんて知らない!」
レイのエヴァ初任務はそんな感じだった。
本部内の暗い一室に5人の人影があった。部屋の床の中央にセットされている大きなディスプレイには二子山の地形図と、幾つかの時刻が記されている。集まっているのは、作戦課のミサト。技術部の赤木リツコと伊吹マヤ。それにシンジとレイ。その順にディスプレイを囲んでいる。彼女らは、ラミエル攻略のための作戦、ヤシマ作戦の説明のためにここにいた。簡単に言えば、長距離用のポジトロンスナイパーライフルを使ってATフィールドごと使徒を貫いてせん滅する、と言うものだ。チルドレン二人はここで初めて作戦の詳細を聞かされた。成功確率が10%に満たないのは、ミサトによって隠されてはいたが。
「………以上で作戦の説明を終わります。」
マヤが一連の作戦の説明を終わると、ミサトが作戦の役割を言い渡した。
「この作戦にはより高いシンクロ率が必要とされます。よって、シンジ君は初号機で砲手を担当して。レイは零号機で盾でのディフェンス役を頼むわ。」
「盾?」
エヴァの戦闘訓練を受けているレイだったが、盾があるとは聞いていないのでそう聞き返した。
「ええ。SSTOの底部を利用したものよ。使徒の加粒子砲にも17秒間耐えられるわ。電磁コーティングもしてあるしね。現在考えられる最も優れた防御手段よ。理論上だけどね。」
リツコがレイに答えた。技術部にとって使徒の本部進入までの時間にできることは、ポジトロンスナイパーライフルを実戦用に作り替える事と、このSSTOのシールドを完成させる事だった。両方とも時間内に作り上げる事ができたので、リツコはおおむね満足していた。あとは作戦次第だ。リツコはシンジの方に向き直った。
「後は射撃次第ね。細かい修正はコンピューターがやってくれるわ。シンジ君は照準が合ったらスイッチを押せばいいだけ。あまり深く考えないで。」
「もし一発目をはずしたら、どうするんですか?」
シンジは最も恐れていた事態の事を口にした。聞きたくないはないが、聞いとかなければならない事だった。もちろんリツコやミサトにとってもそれは同様だが…。
「充電や冷却のため、二発目を打つには20秒かかるわ。そうなったら、敵の攻撃のタイミングと、レイの盾次第ね…。」
「二発目は考えるなってことですか…。」
その場を一瞬の沈黙が支配する。レイの心の中にも不安の波紋が広がっていく。
…碇君はほんの一瞬使徒に撃たれただけであんなにダメージを受けたのに…。もしわたしがそれ以上使徒の攻撃を受けたら…。二発目の充電が少しでも遅れたら…。わたしは…。
心が不安で渦巻いているレイだったが、隣で同じく顔を強張らせているシンジに対して見せたのは、彼女の不安ではなくいつもの笑顔だった。シンジの不安そうな顔を、彼女は見たくなかったから。
「大丈夫、碇君。上手く行くわ。なんたってこっちは日本中の電気引っ張ってくるんだから。的だってあんなに大きいし。必ず当たるって。」
「うん…。」
「ほらほらあ、元気出して。そんなんじゃ上手くいくものも上手くいかなくなっちゃうよ?」
「うん…。綾波は強いんだね。」
「テヘへ、そっかな。」
シンジは心の中で、レイに感謝した。ともすれば心配し過ぎて物事に失敗しがちなシンジだったが、このパートナーの存在がシンジにとってはとてもうれしかった。そして、作戦に失敗したときもっとも危険になるのがレイだという事はすぐに分かったので…シンジにしては珍しく、強く覚悟を決めた。
(僕がやらなきゃ…綾波が危ないんだ…。僕がやらなきゃ…。)
「大丈夫だよ。」
そう言ってシンジはディスプレイの方を見た。決意に満ちたその横顔は、レイにとっては意外なものだったが、とても頼もしいものに見えた。そう、ちょうど初めて会ったときのように。
…わたし、強くなんかない。ホント、頼りにしてるんだからね、碇君。
11:30。作戦開始30分前。ヤシマ作戦の準備も最終段階に入った。零号機と初号機も所定の位置にセッティングされ、作戦開始時刻がくるのを待つばかりになっていた。
レイはプラグスーツ姿でセッティングされた零号機の横にひざを抱えて座っていた。腕で自分を抱え込んでいるように見える。シンジは最後の射撃の説明を受けていてまだ来ていない。さっきは気丈にシンジを励ましたものの、彼女もやはり不安だった。いざというときは自らを盾にしてまで初号機を守らなければならない。
大丈夫かな…。でも…良かったかもしれない。もし反対に、碇君を盾にして、使徒を倒すなんて私にはできそうも無い。だめね、わたし。さっきは碇君に元気を出せ、なんて言ったくせに今はこんなに不安なんだから…。
「ここにいたんだ、綾波。」
シンジが背後から声をかけた。レイと同じようにプラグスーツを着ている。そして、レイと少し距離を開けて、レイの真横に座った。
「射撃の説明、終わったの?」
「うん。説明、というほどのものでもなかったんだけど。僕はただ発射ボタンのスイッチを押すだけだから。」
「そっか。」
「ねえ、綾波…。」
「なあに?」
シンジがレイに聞きたい事はもう決まっていたのだが、重要な事を聞こうとしているんじゃないかと思って、少し間を空けた。月が明るく照らしていて、それほど暗くはない。シンジはレイが微笑みながら自分を見ているのを見て、少し赤面した。昼間見た笑顔とはまた違うが、月の下での微笑みもとても綺麗だったから。
「綾波は………なんでこれに乗るの?」
「わたし?」
「うん…。」
………わたし…なんでエヴァに乗るんだろ。地球を守るなんて柄じゃない。まして戦う事が好きな訳でもない。
じゃあ、どうして?
小さい頃からここにいたから?
みんなに誉められたいから?
自分にしかできないから?
どれも違うよね…。
「そうねぇ。強いて言えば…。」
そう言うとレイはすっと立ち上がって月を見た。柔らかい月の光がレイを照らす。
「し、強いて言えば?」
月光に照らされたレイに見とれながらも、シンジは問い掛けた。
「絆だから、かな?」
「絆?」
「うん。わたしと関係してくれる人たちみんなとの。きっとエヴァが繋ぎ止めていてくれているものだから。」
「………。」
「エヴァに乗ってないとわたしが私でなくなっちゃうような気がしてさ。それに…。」
「そんなこと…。」
「え?」
「そんなことないよ!綾波は…その…綾波だから…。上手く言えないけど…。エヴァとかそういうのは関係なくてさ…。別に…。」
どもりながらもシンジは強く否定した。彼にとっては意外で、また悲しかった。あの明るいレイが、そんな風に考えていたなんて…。確かにエヴァのパイロットとして彼女の事を見た事はあったが、シンジがレイを気にかけているのはそんな理由からではなかった。
「碇君…。…………ありがと。そう言ってくれると、わたしうれしい。」
「そう…?それなら…。」
「ねえ、碇君は何でエヴァに乗ってるの?」
「え?僕が?」
「うん。知りたいの。」
「んっと…。」
シンジはそう言われて考え込んでしまった。元々エヴァに乗る事になったのも、なし崩し的だった。今、エヴァに乗る事が自分と周りを繋ぎ止めている、というレイの言葉をシンジは否定したが、自分もそうではないか、という思いにかられてしまった。エヴァに乗るためにここに来たが、それまで生きてきた自分には何も無かった様に思えてしまった。
その時、レイのプラグスーツにセットされていたタイマーがピピッとなった。
「あ…もう時間ね。」
「うん…。」
「答えは帰ってきたら聞かせてよ。忘れないでね。」
「わかった。」
「よし!!そうとなれば頑張っていこうっ!!」
レイは両こぶしを胸の前でぐっと握り締めて、気合いを入れた。しかしシンジの頭の中には、先ほどのレイの問いかけがまだ頭の中を駆け巡っていた。
「第1次接続、開始」「第1から第803区まで送電開始」
作戦が開始した。レイとシンジの二人は既にエントリープラグに乗り込んでいる。緊急に作られた仮発令所には、既にするどい緊張が走っていた。
レイはシンジの映っているモニターを見たが、シンジはすでに長距離用のスコープを頭にかぶっていて顔の半分が隠れているため、その表情は読めない。
碇君、緊張してないといいんだけどな。無理よね、こんな状況じゃ。誰だって緊張しちゃうもん。でも、碇君ならきっとやれるよ。
「第2次接続、開始」「全冷却システム出力最大へ」
だめだめ、わたしが悩んだってしょうがないんだから。わたしと違って碇君は実戦経験あるんだし。ばしっ!決めてくれるよ。うん。
「第3次接続、問題なし」「最終安全装置解除!!」
今わたしができる事はただ一つ、碇君を守る事…。そう。それだけやればいいの。深く考える事なんか無い。自分のために、碇君を守ればいい。そう、わたしの存在を認めてくれる人のために。
「地球自転誤差修正」「全エネルギーをポジトロンライフルへ」
「碇君、あなたは死なないわ。
わたしが、
わたしが守るもの。」
聞こえているかどうかわからないモニターのシンジに向かって、
レイはそう言った。
「発射10秒前」
「9」
「8」
シンジもレイも生唾を飲んだ。明らかに自分が緊張しているのが、破裂しそうな心臓の音で分かる。周辺一帯が異様な雰囲気に包まれている。
「7」
「6」
「5秒前」「目標内部に高エネルギーの反応を確認!!」
仮発令所にマヤの声が響き渡る。ミサトは予想範囲内の出来事とはいえ、決して良くない状況に唇をかんだ。
「まだよ!!敵より早く発射できれば勝機はあるわ!!」
「4」
「3」
「2」
シンジはモニターのセンサーと、遠くに見える使徒の姿が一致したのを見た。
「1」
「打てえ!!」「くっ!!」
ミサトが声を発し、シンジが思い切りレバーを引いてスイッチを入れたのが同時だった。
そして、使徒が加粒子砲を放ったのもまた、同時だった。
「!!はずした!?」
誰からともなく言葉が出た。
使徒の加粒子砲とエヴァの陽電子砲が激しく干渉しあって大きくぶれた。二つの光線は波を打って大きくうねり、轟音を上げて地上に落ちる。第3新東京市と双子山に、それぞれ火柱が立った。
「再び目標内部に高エネルギー反応!!」
マヤが絶叫して言う。仮発令所は先ほどの余波を受けて既にめちゃくちゃになっていた。
「第二射、急いで!!」
「まずい、早すぎるわ!!」
ミサトとリツコが叫ぶ。シンジは既に第二射の準備に取りかかっている。
「来る!!」
レイの声とほぼ同時に、使徒から加粒子砲が発射される。
「ぐうっ…」
熱い。あまりに熱くて声が出ない。凄まじい強さの光が初号機を襲った。
零号機は動けない初号機の文字どおり盾になって使徒からの加粒子砲を防いでいる。
レイは必死にその熱と衝撃に耐えていた。苦痛に顔が歪む。レイは無意識のうちに助けを求めてシンジの映っているモニターの方を見たが、自分も相手のモニターに映っているのに気付くと苦しみながら通信を切った。
………こんな顔、碇君に見せたくない!!
接続されているA10神経のせいで痛みが体に焼き付く。
次第に感覚が無くなり、レバーを握っている両手だけがはっきりしている。しかし、彼女はしがみついてでも倒れる訳には行かなかった。
ここで倒れたら、二度と碇君に会えない!!
「綾波っ!!」
シンジは自分の目の前で盾になっているレイに対し、何もできないのがこの上なくもどかしかった。零号機の後ろにいても、その熱がはっきりと伝わってくる。
モニターに表示されたSSTOの耐久時間は定期的な減り方をしていない。明らかに減り方が早いのだ。NERVの予想した数値より使徒の加粒子砲は強力だった。それに対し、第二射までの時間は律義なほど正確に秒数を刻む。
何で…何でこんなに早いんだよ!!もっとゆっくりにしてよっ!!
遅いんだよ!!はやくしてよ!!
彼の叫びは矛盾していたが、彼の願いは矛盾していない。シンジは、自分が発射スイッチを焦って押す衝動に耐えるのに、いつしか必死になっていた。
既に熱で両手にしか感覚の残っていないレイだったが、その両手にどろり、とした感覚を覚えた。
自分の腕を見ると何も無い。
それはSSTOの盾が溶けている感覚だった。もう耐久時間は残り3秒を切っている。
「碇君は………私が守るのっ!!守るって言ったらっ!!」
零号機は、光の中で盾が溶けきると、足を踏ん張り、両手を広げて初号機を守った。
「!!!!あ、綾波っ!!」
シンジはいよいよスイッチを押してしまう衝動に耐えられなくなったときに、彼の待ちわびていた時刻がやってきた。
第二射の準備が整い、再びモニターのセンサーに照準が合う。
今はその衝動に耐えようとせずに、シンジは渾身の力を込めてスイッチを押す。一瞬の間も空けずにポジトロンスナイパーライフルから閃光がほとばしった。それは一直線に第五使徒・ラミエルの中心を貫き、虚空の闇に消えた。
「やっ、やったあ!!」
崩れ落ちていく使徒の巨体をモニターに見ながら歓声に沸く仮発令所。
しかしシンジには先にやるべきことが残っていた。
シンジは初号機をつかって零号機からエントリープラグを強制射出させ、地上に置く。零号機の胸部部品は既にどろどろに溶けて原形をとどめていない。地上に置いたエンエントリープラグからはLCLが流れ出ていた。
なんて馬鹿だったんだ!!僕は!!
シンジの頭に先程のレイの言葉がよみがえる。
……ねえ、なんで碇君はエヴァにのってるの?
シンジは開けるのももどかしいと言わんばかりに乱暴にハッチを開き、大股でエントリープラグから出る。地上に降りると息も付かずに零号機のそれに向かって一直線に走っていく。
こんなに簡単な事がわからなかったなんて!!
シンジの目に、昼間の、そして、ついさっき月下で見た笑顔がよみがえる。
……そうねぇ…。強いて言えば…絆だから、かな?
シンジはレイのいるエントリープラグの入り口まで行くと、熱を帯びているハッチをためらわずに開けようとする。溶接してしまったハッチはなかなか開かない。プラグスーツと皮膚の、焦げ付くにおいがした。
「ぐうっ……。」
おかしいよ!!綾波がこんな目に遭わなくちゃいけないなんて!!
それでも無理矢理力を入れると、ゴトン、と言う音と共にハッチは開き、中からLCLが流れ出てきた。LCLの温度は上がっていて湯気を上げている。それが流れきるのも待たずにプラグに入ると、シートで、眠ったように座っているレイを見た。
ま、まさか…。
「あ、綾波っ!!」
レイは薄っぺらい、真っ白な意識の中で、自分の視界に何かがざわついているのを感じた。既に手足の感覚はなく、耳も良く聞こえない。眼も先程の照射でやられて、眩しくてなにがなんだかわからない。
…死んじゃったのかな…。わたし…。もうちょっと生きていたかったな。
「綾波!綾波っ!!」
…やりたいこと、たくさんあったのに…。
「綾波!!生きてるんだろ!!」
…エヴァのパイロットになって本当に良かったのかな…。
「頼む、返事してよ!!僕は綾波のこんな姿見たくないんだ!!」
…碇君に言いたい事もあったはずなのに…
「起きてよっ!!あやなみぃ…。」
…私を呼んでくれる人がいる…。誰?
「さっき約束したろ!?エヴァに乗る理由に答えるって!!」
…そう…碇君に…………碇君?…碇君!!
「碇君」のフレーズが頭に浮かび上がったときに、彼女はうっすらと意識を取り戻した。
「………碇君…わたし…?。」
「あ、あやなみぃっ…。」
シンジはレイが気がついたのを確認すると、顔を伏せる。その時、目前で顔を下に向けているシンジを、レイはようやくぼんやりと認識する事ができた。それでもシンジがなぜ下を向いているのかがわからなかったのだが、シンジの顔から自分の腿の辺りに上からぽつりと落ちてくる冷たさを覚えると、ぱちっと目を開けて、シンジの反応に答える事ができた。
「いっ、碇君!?わ、わたし無事だし、ちょっと目も眩しいけど、ちゃんと碇君見えてるし、少し耳も遠くなってる気がするけど、碇君の声聞こえるし、体の感覚も鈍いけど、碇君いるのわかるし、ほ、ほら、何よりこうやってしゃべってるんだから」
ガバッ
「………その……泣く事……無いんじゃないかなぁ……。」
本当は強く励ますつもりだったレイだが、途中でシートに座っているレイの腰にシンジが抱き着いてしまったので…。最後まで強い口調で言えなかった。シンジは抱き着いたままレイのおなかに顔を押し当てる様にして泣いている。レイの耳にも鳴咽しているシンジの声が聞こえる。
レイは男の子に抱き着かれた事など無かったのだが、腰に回っているシンジの腕と、おなかの上にあるシンジの頭の温もりと、少しの涙の冷たさは、彼女にとってとても安らぎを感じるものだった。何よりも、シンジが自分をこんなにも心配してくれた事がうれしかった。
だから、
思わず彼女の眼からも涙が零れた。
シンジはそのままレイに抱き着いて泣いていたが、頭に水滴の冷たい感触を覚えると、泣くのを止めて顔を上げ、レイの方を見る。いつも綺麗な赤色の瞳だったが、泣いているレイの目は普段よりももっと赤くなっていた。
「綾波…あのさ…」
「うん…」
「僕はエヴァに乗る理由なんて分からなかったけど…」
「うん…。」
「今日、少しわかったんだ。」
「うん…。教えて。」
「うん…。僕も…実は何も無かったんだ、ここに来るまで。で、初めはエヴァに乗ってれば、確かに僕を必要としてくれる人がいたから乗ってたんだ。」
「うん…。」
話し続けるシンジの頬に、レイの涙が通った。冷やりとしたが、シンジは自分の前でレイが泣いてくれているのがうれしくて、その頬をぬぐわなかった。レイはシンジの後頭部を抱きかかえながらその言葉にうなずいた。
「でも…。わかったんだ。綾波が危険な目にあって、やっと。自己満足かもしれないけど…僕がエヴァに乗れば、僕の大事な人を、自分で守る事ができるから…。だから…。」
「うん、うん。」
レイはうなずいたつもりだったが、泣きながら言ったその声はうわずっていて…はっきりとしなかった。
「…だから、綾波…。」
「うん…?…な、なあに?…」
この言葉もほとんど言葉になっていなかった。しかしシンジにとっては、レイが聞いてくれている、と言うのさえわかればそれで十分だった。
「綾波には…危険な事…して欲しくないんだ…。」
「うん…。」
「綾波がいてくれれば……」
「………」
レイはもう言葉を発する事ができなかった。
「ぼくも…頑張れるような気がするから…。」
「グスッ…うっ、うっ…あっ、ありがとう…っ…いかり…くんっ…ヒック……」
その言葉を聞くと、感情が抑えきれなくなって、レイは余計に泣いてしまった。素のままの自分をこんなにも心配してくれている人がいる。こんなにも必要としてくれる人がいる。それはレイが求めてやまないものだったから。
シンジは、自分の前でレイが安心して泣いてくれているのはうれしかったのだが、泣かせるつもりではなかったので、少し焦ってしまった。だから、言葉を続けた。
「な、泣かないでよ、綾波…。そんなつもりで言ったんじゃないんだから…。こういうときは…その…」
「ヒック…こういうときは…?」
「笑えば…いいと思うよ…。」
「うんっ…。」
レイは答えると、
涙でぐしゃぐしゃになった顔を、
つとめて明るく、
笑顔に変えた。
それは泣き笑いだったけれど、
その日にシンジが見た笑顔の中で、
最高の笑顔だった。
………ありがとう、………わたしの大切な………。……………。
Fin