飛騨の名工 谷口与鹿(たにぐちよろく)余話  はじめに 高山祭
(すべての屋台キチと鳴く虫の愛好家にお礼します。)

谷口与鹿(よろく) (1822〜1864)

 大工の谷口家の次男として誕生。東照宮の彫刻を担当した中川吉兵衛を師匠とした。 

 29歳で高山を後にするまで、全青春を高山祭の屋台に燃焼させ「飛騨の名工」と呼びならわされてい

る。代表作は恵比須台、麒麟台、琴高台などの屋台彫刻にみられる。

 私にとって長い間の疑問だった谷口与鹿のことでわかったことがあったので数回に分けてお話しようと

思います。

 30数年前、岐阜に住んでいた私は北アルプスに通うかたわら、飛騨・高山へ立ち寄ることが多くあった。

 当時この地方を知るテキストに山本茂実さんの飛騨三部作があり「あゝ、野麦峠」「喜作新道」と共に

「高山祭」が愛読書となりました。

 その中には飛騨の山奥に「小京都」と呼ばれる町があること、その町が春・秋の「高山祭」を行うこと、

その祭が日本三大美祭に数えられていることなどを知りました。

 屋台は屋台キチと呼ばれる旦那衆や町衆によって支えられ、「動く陽明門」とも呼ばれています。

 絵画や工芸、織物、金銀細工などで飾られていますが、特に林業が盛んな土地柄で「彫刻」に

見るべきものが多く、その中でも「谷口与鹿」の彫刻は優れたものが多いのです。

 次回はその作品のことを少し述べます。