親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


三十四

 ある人のいはく
往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまゐらせ候ひぬれば同一なり。このゆゑに不審なし。このゆゑに、はじめてまた信・不信を論じ尋ねまうすべきにあらずとなり。このゆゑに他力なり、義なきがなかの義となり。ただ無明なることおほはるる煩悩ばかりとなり。恐恐謹言。
   十一月一日    専信上

 仰せ候ふところの往生の業因は、真実信心をうるとき摂取不捨にあづかるとおもへば、かならずかならず如来の誓願に住すと、悲願にみえたり。「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」(大経・上)と誓ひたまへり。正定聚に信心の人は住したまへりとおぼしめし候ひなば、行者のはからひのなきゆゑに、義なきを義とすと他力をば申すなり。善とも悪とも、浄とも穢とも、行者のはからひなき身とならせたまひて候へばこそ、義なきを義とすとは申すことにて候へ。

 十七の願に「わがなをとなへられん」と誓ひたまひて、十八の願に、「信心まことならば、もし生れずは仏に成らじ」と誓ひたまへり。十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願(第十一願)はせんなく候ふべきか。補処の弥勒におなじ位に信心の人はならせたまふゆゑに、摂取不捨とは定められて候へ。

このゆゑに、他力と申すは行者のはからひのちりばかりもいらぬなり。かるがゆゑに義なきを義とすと申すなり。このほかにまた申すべきことなし、ただ仏にまかせまゐらせたまへと、大師聖人(源空)のみことにて候へ。
  十一月十八日     親鸞
 専信御坊 御報

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