親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


二十八

 文書きてまゐらせ候ふ。この文を、ひとびとにも読みてきかせたまふべし。
 遠江の尼御前の御こころにいれて御沙汰候ふらん、かへすがへすめでたくあはれにおぼえ候ふ。よくよく京よりよろこび申すよしを申したまふべし。

 信願坊が申すやう、かへすがへす不便のことなり。わるき身なればとて、ことさらにひがことを好みて、師のため善知識のためにあしきことを沙汰し、念仏のひとびとのためにとがとなるべきことをしらずは、仏恩をしらず、よくよくはからひたまふべし。

 また、ものにくるうて死にけんひとびとのことをもちて、信願坊がことを、よしあしと申すべきにはあらず。念仏するひとの死にやうも、身より病をするひとは、往生のやうを申すべからず。こころより病をするひとは天魔ともなり、地獄にもおつることにて候ふべし。こころよりおこる病と身よりおこる病とは、かはるべければ、こころよりおこりて死ぬるひとのことを、よくよく御はからひ候ふべし。

 信願坊が申すやうは、凡夫のならひなれば、わるきこそ本なればとて、おもふまじきことを好み、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことを申すべきやうに申され候ふこそ、信願坊が申しやうとはこころえず候ふ。往生にさはりなければとて、ひがことを好むべしとは申したること候はず。かへすがへす、こころえずおぼえ候ふ。

 詮ずるところ、ひがこと申さんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなり候はめ、すべてよろづの念仏者のさまたげとなるべしとはおぼえず候ふ。

 また念仏をとどめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなり候はめ。よろづの念仏するひとのとがとなるべしとはおぼえず候ふ。「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)と、まのあたり善導の御をしへ候ふぞかし。釈迦如来は「名無眼人、名無耳人」と説かせたまひて候ふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにても候ふらん。

それはかのひとをにくまずして、念仏をひとびと申してたすけんと、おもひあはせたまへとこそおぼえ候へ。あなかしこ、あなかしこ。
  九月二日       親鸞
 慈信坊 御返事

 入信坊・真浄坊・法信坊にもこの文を読みきかせたまふべし。かへすがへす不便のことに候ふ。性信坊には春のぼりて候ひしに、よくよく申して候ふ。くげどのにも、よくよくよろこび申したまふべし。このひとびとのひがことを申しあうて候へばとて、道理をば失はれ候はじとこそおぼえ候へ。世間の事にも、さることの候ふぞかし。領家・地頭・名主のひがことすればとて、百姓をまどはすことは候はぬぞかし。

仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとへたるには、「獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし」(梵網経・意)と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候ふなり。よくよくこころえたまふべし。なほなほ御文には申しつくすべくも候はず。

ホームページへ戻る