親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


二十

 無碍光如来の慈悲光明に摂取せられまゐらせ候ふゆゑ、名号をとなへつつ不退の位に入り定まり候ひなんには、この身のために摂取不捨をはじめてたづぬべきにはあらずとおぼえられて候ふ。

そのうへ『華厳経』に、「聞此法歓喜信心無疑者 速成無上道与諸如来等」と仰せられて候ふ。また第十七の願(大経・上意)に「十方無量の諸仏にほめとなへられん」と仰せられて候ふ。また願成就の文(大経・下)に、「十方恒沙の諸仏」と仰せられて候ふは、信心の人とこころえて候ふ。この人はすなはちこの世より如来とひとしとおぼえられ候ふ。このほかは凡夫のはからひをばもちゐず候ふなり。このやうをこまかに仰せかぶりたまふべく候ふ。恐恐謹言。
  二月十二日      浄信

 如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。

このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申すなり。

この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生してのちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すとは申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへば、仏とひとしとは申すことなり。

 また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。

このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐恐謹言。
         親鸞(花押)

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