親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


十三

 畏まりて申し候ふ。
 『大無量寿経』(下)に「信心歓喜」と候ふ。

『華厳経』を引きて『浄土和讃』(九四)にも、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」と仰せられて候ふに、専修の人のなかに、ある人こころえちがへて候ふやらん、信心よろこぶ人を如来とひとしと同行達ののたまふは自力なり、真言にかたよりたりと申し候ふなるは、人のうへを知るべきに候はねども申し候ふ。

 また、「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずに入る 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ」(同・五九)と候ふ。「滅度をさとらしむ」と候ふは、この度この身の終り候はんとき、真実信心の行者の心、報土にいたり候ひなば、寿命無量を体として、光明無量の徳用はなれたまはざれば、如来の心光に一味なり。このゆゑ、「大信心は仏性なり、仏性はすなはち如来なり」と仰せられて候ふやらん。これは十一・二・三の御誓とこころえられ候ふ。

罪悪のわれらがためにおこしたまへる大悲の御誓の目出たくあはれにましますうれしさ、こころもおよばれず、ことばもたえて申しつくしがたきこと、かぎりなく候ふ。無始曠劫よりこのかた、過去遠遠に恒沙の諸仏の出世の所にて大菩提心おこすといへども、自力かなはず、二尊の御方便にもよほされまゐらせて、雑行雑修・自力疑心のおもひなし。

無碍光如来の摂取不捨の御あはれみのゆゑに、疑心なくよろこびまゐらせて、一念までの往生定まりて、誓願不思議とこころえ候ひなんには、聞き見候ふにあかぬ浄土の聖教も、知識にあひまゐらせんとおもはんことも、摂取不捨も、信も、念仏も、人のためとおぼえられ候ふ。

 いま師主の御教のゆゑ、心をぬきて御こころむきをうかがひ候ふによりて、願意をさとり、直道をもとめえて、まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度一念聞名にいたるまで、うれしさ御恩のいたり、そのうへ『弥陀経義集』におろおろあきらかにおぼえられ候ふ。

しかるに世間のそうそうにまぎれて、一時もしくは二時、三時おこたるといへども、昼夜にわすれず、御あはれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住座臥に時所の不浄をもきらはず、一向に金剛の信心ばかりにて、仏恩のふかさ、師主の恩徳のうれしさ、報謝のためにただ御名をとなふるばかりにて、日の所作とせず。

このやうひがさまにか候ふらん。一期の大事、ただこれにすぎたるはなし。しかるべくは、よくよくこまかに仰せを蒙り候はんとて、わづかにおもふばかりを記して申しあげ候ふ。

 さては、京にひさしく候ひしに、そうそうにのみ候ひて、こころしづかにおぼえず候ひしことのなげかれ候ひて、わざといかにしてもまかりのぼりて、こころしづかに、せめては五日、御所に候はばやとねがひ候ふなり。噫、かうまで申し候ふも御恩のちからなり。
  進上聖人(親鸞)の御所へ
     蓮位御坊申させたまへ
   十月十日 慶信上(花押)

 追つて申しあげ候ふ。
 念仏申し候ふ人人のなかに、南無阿弥陀仏ととなへ候ふひまには、無碍光如来ととなへまゐらせ候ふ人も候ふ。これをききて、ある人の申し候ふなる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへまゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申し候ふなる、このやういかが候ふべき。

 南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふなるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。帰命は南無なり、無碍光仏は光明なり、智慧なり、この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたちをしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんとて、世親菩薩(天親)御ちからを尽してあらはしたまへるなり。このほかのことは、少少文字をなほしてまゐらせ候ふなり。

 この御文のやう、くはしく申しあげて候ふ。すべてこの御文のやう、たがはず候ふと仰せ候ふなり。ただし、「一念するに往生定まりて誓願不思議とこころえ候ふ」と仰せ候ふをぞ、よきやうには候へども、一念にとどまるところあしく候ふとて、御文のそばに御自筆をもつて、あしく候ふよしを入れさせおはしまして候ふ。

蓮位にかく入れよと仰せをかぶりて候へども、御自筆はつよき証拠におぼしめされ候ひぬとおぼえ候ふあひだ、をりふし御咳病にて御わづらひにわたらせたまひ候へども、申して候ふなり。

 またのぼりて候ひし人人、くにに論じまうすとて、あるいは弥勒とひとしと申し候ふ人人候ふよしを申し候ひしかば、しるし仰せられて候ふ文の候ふ。しるしてまゐらせ候ふなり。御覧あるべく候ふ。

また弥勒とひとしと候ふは、弥勒は等覚の分なり、これは因位の分なり、これは十四・十五の月の円満したまふが、すでに八日・九日の月のいまだ円満したまはぬほどを申し候ふなり。これは自力修行のやうなり。われらは信心決定の凡夫、位〔は〕正定聚の位なり。これは因位なり、これ等覚の分なり。かれは自力なり、これは他力なり。自他のかはりこそ候へども、因位の位はひとしといふなり。

また弥勒の妙覚のさとりはおそく、われらが滅度にいたることは疾く候はんずるなり。かれは五十六億七千万歳のあかつきを期し、これはちくまくをへだつるほどなり。かれは漸・頓のなかの頓、これは頓のなかの頓なり。

滅度といふは妙覚なり。曇鸞の『註』(論註・下)にいはく、「樹あり、好堅樹といふ。この木、地の底に百年わだかまりゐて、生ふるとき一日に百丈生ひ候ふ」(意)なるぞ。この木、地の底に百年候ふは、われらが娑婆世界に候ひて、正定聚の位に住する分なり、一日に百丈生ひ候ふなるは、滅度にいたる分なり、これにたとへて候ふなり。これは他力のやうなり。松の生長するは、としごとに寸をすぎず。これはおそし、自力修行のやうなり。

 また如来とひとしといふは、煩悩成就の凡夫、仏の心光に照らされまゐらせて信心歓喜す。信心歓喜するゆゑに正定聚の数に住す。信心といふは智なり。この智は、他力の光明に摂取せられまゐらせぬるゆゑにうるところの智なり。仏の光明も智なり。かるがゆゑに、おなじといふなり。おなじといふは、信心をひとしといふなり。

歓喜地といふは、信心を歓喜するなり。わが信心を歓喜するゆゑにおなじといふなり。くはしく御自筆にしるされて候ふを、書き写してまゐらせ候ふ。

 また南無阿弥陀仏と申し、また無碍光如来ととなへ候ふ御不審も、くはしく自筆に御消息のそばにあそばして候ふなり。かるがゆゑに、それよりの御文をまゐらせ候ふ。あるいは阿弥陀といひ、あるいは無碍光と申し、御名異なりといへども心は一つなり。阿弥陀といふは梵語なり、これには無量寿ともいふ、無碍光とも申し候ふ。梵・漢異なりといへども、心おなじく候ふなり。

 そもそも覚信坊のこと、ことにあはれにおぼえ、またたふとくもおぼえ候ふ。そのゆゑは、信心たがはずしてをはられて候ふ。また、たびたび信心存知のやう、いかやうにかとたびたび申し候ひしかば、当時まではたがふべくも候はず。いよいよ信心のやうはつよく存ずるよし候ひき。

のぼり候ひしに、くにをたちて、ひといちと申ししとき、病みいだして候ひしかども、同行たちは帰れなんど申し候ひしかども、「死するほどのことならば、帰るとも死し、とどまるとも死し候はんず。また病はやみ候はば、帰るともやみ、とどまるともやみ候はんず。おなじくは、みもとにてこそをはり候はば、をはり候はめと存じてまゐりて候ふなり」と、御ものがたり候ひしなり。

この御信心まことにめでたくおぼえ候ふ。善導和尚の釈(散善義)の二河の譬喩におもひあはせられて、よにめでたく存じ、うらやましく候ふなり。をはりのとき、南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来ととなへられて、手をくみてしづかにをはられて候ひしなり。

またおくれさきだつためしは、あはれになげかしくおぼしめされ候ふとも、さきだちて滅度にいたり候ひぬれば、かならず最初引接のちかひをおこして、結縁・眷属・朋友をみちびくことにて候ふなれば、しかるべくおなじ法文の門に入りて候へば、蓮位もたのもしくおぼえ候ふ。

また、親となり、子となるも、先世のちぎりと申し候へば、たのもしくおぼしめさるべく候ふなり。このあはれさたふとさ、申しつくしがたく候へばとどめ候ひぬ。いかにしてか、みづからこのことを申し候ふべきや、くはしくはなほなほ申し候ふべく候ふ。

この文のやうを御まへにてあしくもや候ふとて、よみあげて候へば、「これにすぐべくも候はず、めでたく候ふ」と仰せをかぶりて候ふなり。ことに覚信坊のところに、御涙をながさせたまひて候ふなり。よにあはれにおもはせたまひて候ふなり。
 十月二十九日      蓮位
 慶信御坊へ



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