親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写



 この御文どものやう、くはしくみ候ふ。また、さては慈信が法文のやうゆゑに、常陸・下野の人人、念仏申させたまひ候ふことの、としごろうけたまはりたるやうには、みなかはりあうておはしますときこえ候ふ。かへすがへすこころうくあさましくおぼえ候ふ。としごろ往生を一定と仰せられ候ふ人人、慈信とおなじやうに、そらごとをみな候ひけるを、としごろふかくたのみまゐらせて候ひけること、かへすがへすあさましう候ふ。

 そのゆゑは、往生の信心と申すことは、一念も疑ふことの候はぬをこそ、往生一定とはおもひて候へ。光明寺の和尚(善導)の信のやうををしへさせたまひ候ふには、「まことの信を定められてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがことなりと仰せらるとも、一念も疑あるべからず」とこそうけたまはりて候へば、そのやうをこそ、としごろ申して候ふに、慈信ほどのものの申すことに、常陸・下野の念仏者の、みな御こころどものうかれて、はては、さしもたしかなる証文を、ちからを尽して数あまた書きてまゐらせて候へば、それをみなすてあうておはしまし候ふときこえ候へば、ともかくも申すにおよばず候ふ。

 まづ慈信が申し候ふ法文のやう、名目をもきかず。いはんやならひたることも候はねば、慈信にひそかにをしふべきやうも候はず。また夜も昼も慈信一人に、人にはかくして法文をしへたること候はず。もしこのこと、慈信に申しながら、そらごとをも申しかくして、人にもしらせずしてをしへたること候はば、三宝を本として三界の諸天善神・四海の竜神八部・閻魔王界の神祇冥道の罰を、親鸞が身にことごとくかぶり候ふべし。

 自今以後は、慈信におきては、子の義おもひきりて候ふなり。世間のことにも、不可思議のそらごと、申すかぎりなきことどもを、申しひろめて候へば、出世のみにあらず、世間のことにおきても、おそろしき申しごとども数かぎりなく候ふなり。

なかにも、この法文のやうきき候ふに、こころもおよばぬ申しごとにて候ふ。つやつや親鸞が身には、ききもせず、ならはぬことにて候ふ。かへすがへすあさましう、こころうく候ふ。弥陀の本願をすてまゐらせて候ふことに、人人のつきて、親鸞をもそらごと申したるものになして候ふ。こころうく、うたてきことに候ふ。

 おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふらんこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。

 また、『真宗の聞書』、性信房の書かせたまひたるは、すこしもこれに申して候ふやうにたがはず候へば、うれしう候ふ。『真宗の聞書』一帖はこれにとどめおきて候ふ。

 また哀愍房とかやの、いまだみもせず候ふ。また文一度もまゐらせたることもなし。くによりも文たびたることもなし。親鸞が文を得たると申し候ふなるは、おそろしきことなり。この『唯信鈔』かきたるやう、あさましう候へば、火にやき候ふべし。かへすがへすこころうく候ふ。この文を人人にもみせさせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。
 五月二十九日      親鸞
 性信房御返事

 なほなほよくよく念仏者達の信心は一定と候ひしことは、みな御そらごとどもにて候ひけり。これほどに第十八の願をすてまゐらせあうて候ふ人人の御ことばをたのみまゐらせて、としごろ候ひけるこそ、あさましう候ふ。この文をかくさるべきことならねば、よくよく人人にみせまうしたまふべし。

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