四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし。
五月二十八日(花押)
覚信御房御返事
専信坊、京ちかくなられて候ふこそ、たのもしうおぼえ候へ。また、御こころざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ。
「建長八歳丙辰五月二十八日
親鸞聖人御返事」