蓮如上人御文章(御文) 三帖

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


三帖の一 其名ばかり

 そもそも、当流において、その名ばかりをかけん(やから)も、またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、あひかまへて、今日よりして、他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、報土(ほうど)往生を決定せしむべきなり。それ一流の安心をとるといふも、なにのやうもなく、ただ一すぢに阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるばかりなり。

しかれども、この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世(さんぜ)の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法(ほうぼう)闡提(せんだい)の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。

これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。

しかるに弥陀如来には、すでに摂取と光明といふ二つのことわりをもつて、衆生をば済度(さいど)したまふなり。まづこの光明に宿善の機のありて照らされぬれば、つもるところの業障の罪みな消えぬるなり。さて摂取といふはいかなるこころぞといへば、この光明の縁にあひたてまつれば、罪障ことごとく消滅するによりて、やがて衆生をこの光明のうちにをさめおかるるによりて、摂取とは申すなり。このゆゑに、阿弥陀仏には摂取と光明との二つをもつて肝要とせらるるなりときこえたり。

されば一念帰命の信心の定まるといふも、この摂取の光明にあひたてまつる時剋をさして、信心の定まるとは申すなり。しかれば南無阿弥陀仏といへる行体は、すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、この六字にあらはしたまへる御すがたなりと、いまこそよくはしられて、いよいよありがたくたふとくおぼえはんべれ。

さてこの信心決定のうへには、ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にかうぶりたることをのみよろこびおもひたてまつりて、その報謝のためには、ねてもさめても念仏を申すべきばかりなり。それこそまことに仏恩報尽のつとめなるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明六、七月十四日 これを書く。]


三帖の二 如説修行

 それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。しかるに末代このごろの衆生は、機根(きこん)最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。

ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟(しゆい)し、永劫(ようごう)があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚(しょうがく)ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代(まつだい)今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。

つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに(おさ)めおきたまひて、さて一期(いちご)のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。

かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山(あめやま)にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明六年八月五日 これを書く。]


三帖の三 性光門徒

 この方河尻(かわじり)性光門徒の面面において、仏法の信心のこころえはいかやうなるらん。まことにもつてこころもとなし。しかりといへども、いま当流一義のこころをくはしく沙汰すべし。おのおの耳をそばだててこれをききて、このおもむきをもつて本とおもひて、今度の極楽の往生を治定すべきものなり。

それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。

さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり。

ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのやうもなく、弥陀をよく信ずるこころだにもひとつに定まれば、やすく浄土へはまゐるべきなり。このほかには、わづらはしき秘事といひて、ほとけをも拝まぬものはいたづらものなりとおもふべし。

これによりて阿弥陀如来の他力本願と申すは、すでに末代今の時の罪ふかき機を本としてすくひたまふがゆゑに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や、あら、ありがたの釈迦如来の金言や。仰ぐべし、信ずべし。しかれば、いふところのごとくこころえたらん人人は、これまことに当流の信心を決定したる念仏行者のすがたなるべし。

さてこのうへには一期のあひだ申す念仏のこころは、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへるところの雨山の御恩を報じたてまつらんがための念仏なりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明六年八月六日 これを書く。]


三帖の四 大聖世尊

 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、(しょう) あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆(だいば) にいたるまで、のがれがたきは無常なり。

しかればまれにも受けがたきは人身(にんじん)、あひがたきは仏法なり。たまたま仏法にあふことを得たりといふとも、自力修行の門は、末代なれば、今の時は出離生死のみちはかなひがたきあひだ、弥陀如来の本願にあひたてまつらずはいたづらごとなり。しかるにいますでにわれら弘願(ぐがん)の一法にあふことを得たり。このゆゑに、ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。

しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。

しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行(ぞうぎょう)雑善(ぞうぜん)をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。

これをすなはち弥陀如来の摂取の光益(こうやく)にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益(せいやく)ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿弥陀如来の光明(こうみょう)のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期(いちご)のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。あら、たふとや、あら、ありがたの阿弥陀如来や。

かやうの雨山の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞや。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声にとなへて、その恩徳をふかく報尽申すばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明六年八月十八日]


三帖の五 諸仏悲願

 そもそも、諸仏の悲願に弥陀の本願のすぐれましましたる、そのいはれをくはしくたづぬるに、すでに十方の諸仏と申すは、いたりて罪ふかき衆生と、五障(ごしょう)三従(さんしょう)の女人をばたすけたまはざるなり。このゆゑに諸仏の願に阿弥陀仏の本願はすぐれたりと申すなり。

さて弥陀如来の超世の大願はいかなる()の衆生をすくひましますぞと申せば、十悪・五逆の罪人も五障・三従の女人(にょにん)にいたるまでも、みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら、極楽へ引接せんとのたまへる他力の大誓願力なり。

これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとやうにたのみ、なにとやうに機をもちて、かの弥陀をばたのみまゐらすべきぞや。そのいはれをくはしくしめしたまふべし。そのをしへのごとく信心をとりて、弥陀をも信じ、極楽をもねがひ、念仏をも申すべきなり。

 答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。京・田舎のあひだにおいて、浄土宗の流義まちまちにわかれたり。しかれどもそれを是非するにはあらず、ただわが開山(親鸞)の一流相伝のおもむきを申しひらくべし。それ、解脱の耳をすまして渇仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにききて、信心歓喜(かんぎ)のおもひをなすべし。

それ在家止住(しじゅう)のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。

さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。

この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。「摂取不捨」といふは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへるこころなり。

さればこの南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまへる支証のために、御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。

かくのごとくこころえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。あら、ありがたや、たふとやとおもひて、このうへには、はやひとたび弥陀如来にたすけられまゐらせつるのちなれば、御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、この念仏をば仏恩報謝の称名ともいひ、また信のうへの称名とも申しはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明六年九月六日 これを書く。]


三帖の六 唯能常称

 それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命(きみょう)と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。

されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照(へんじょう)の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また発願(ほつがん)回向のこころなり。これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。

このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、「信心歓喜」といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。

このゆゑに弥陀如来の五劫兆載(ちょうさい)永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。されば『和讃』(正像末和讃・五一)にいはく、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相(おうそう)回向の利益には 還相回向に回入せり」といへるはこのこころなり。

また「正信偈」にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住坐臥時処諸縁をきらはず、仏恩報尽のためにただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明六年十月二十日 これを書く。]


三帖の七 彼此三業(ひしさんごう)

 そもそも、親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころは、ひとへにこれ末代濁世(じょくせ)の在家無智の輩において、なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもつて本とをしへたまへり。しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人(ぐにん)五障(ごしょう)三従(さんしょう)の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。

しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。

そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。

しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業(さんごう)と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導(ぜんどう)和尚(かしょう)は「彼此三業不相捨離」(定善義(じょうぜんぎ))と釈したまへるも、このこころなり。

されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもつてその疑あるべからず。あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。

このうへには、ひたすら弥陀如来の御恩のふかきことをのみおもひたてまつりて、つねに報謝の念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明七年二月二十三日]


三帖の八 当国他国十劫邪義

 そもそも、このごろ当国他国のあひだにおいて、当流安心のおもむき、ことのほか相違して、みな人ごとにわれはよく心得たりと思ひて、さらに法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。これまことにあさましき執心なり。すみやかにこの心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへらんにことならんものか。

このゆゑにその信心の相違したる詞にいはく、「それ、弥陀如来はすでに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを、いまにわすれず疑はざるがすなはち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこころえなり。

これによりて、当流安心のそのすがたをあらはさば、すなはち南無阿弥陀仏の体をよくこころうるをもつて、他力信心をえたるとはいふなり。されば「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり」(玄義分)といへり。

その意いかんぞなれば、阿弥陀如来の因中においてわれら凡夫の往生の行を定めたまふとき、凡夫のなすところの回向(えこう)は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたへましますなり。かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいはれあるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり、また発願回向のこころなり。

このいはれなるがゆゑに、南無と帰命する衆生をかならず摂取して捨てたまはざるがゆゑに、南無阿弥陀仏とは申すなり。これすなはち一念帰命の他力信心を獲得する平生業成の念仏行者といへるはこのことなりとしるべし。

かくのごとくこころえたらん人人は、いよいよ弥陀如来の御恩徳の深遠なることを信知して、行住坐臥に称名念仏すべし。これすなはち「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といへる文のこころなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明七 二月二十五日]


三帖の九 御命日

 そもそも、今日は鸞聖人(親鸞)の御命日として、かならず報恩謝徳のこころざしをはこばざる人、これすくなし。しかれどもかの諸人のうへにおいて、あひこころうべきおもむきは、もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心の輩は、今日にかぎりてあながちに出仕をいたし、この講中の座敷をふさぐをもつて真宗の肝要とばかりおもはん人は、いかでかわが聖人の御意にはあひかなひがたし。しかりといへども、わが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請にも出仕をいたしてもよろしかるべきか。

されば毎月二十八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもはん輩においては、あひかまへて、日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあひかなふべけれ。また自身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。

これすなはち、まことに「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(礼讃)といふ釈文のこころにも符合せるものなり。

それ、聖人御入滅はすでに一百余歳を経といへども、かたじけなくも目前において真影を拝したてまつる。また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承(そうじょう)血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。

これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善(しゅくぜん)のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。しかるにいま本願の一道にあひがたくして、まれに無上の本願にあふことを得たり。まことによろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。たふとむべし、信ずべし。

これによりて年月日ごろわがこころのわろき迷心をひるがへして、たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にあひかなふべし。これしかしながら今日、聖人の報恩謝徳の御こころざしにもあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明七年五月二十八日 これを書く。]


三帖の十 神明六カ条

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後(こうご)この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。

一 神社をかろしむることあるべからず。
一 諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一 諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一 守護・地頭を疎略にすべからず。
一 国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一 当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。

 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観(しかん))といへるはこのこころなり。

されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。

それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁(ごうえん)なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍(むげ)の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。

このうへになほこころうべきやうは、まことにありがたき阿弥陀如来の広大の御恩なりとおもひて、その仏恩報謝のためには、ねてもおきてもただ南無阿弥陀仏とばかりとなふべきなり。

さればこのほかには、また後生(ごしょう)のためとては、なにの不足ありてか、相伝もなきしらぬえせ法門をいひて、ひとをもまどはし、あまつさへ法流をもけがさんこと、まことにあさましき次第にあらずや。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明七年七月十五日]


三帖の十一 毎年不闕

 そもそも、今月二十八日は開山聖人(親鸞)御正忌として、毎年不闕にかの知恩報徳の御仏事においては、あらゆる国郡そのほかいかなる卑劣の輩までも、その御恩をしらざるものはまことに木石にことならんものか。

これについて愚老、この四五箇年のあひだは、なにとなく北陸の山海のかたほとりに居住すといへども、はからざるにいまに存命せしめ、この当国にこえ、はじめて今年、聖人御正忌の報恩講にあひたてまつる条、まことにもつて不可思議の宿縁、よろこびてもなほよろこぶべきものか。

しかれば自国他国より来集の諸人において、まづ開山聖人の定めおかれし御掟のむねをよく存知すべし。その御ことばにいはく、「たとひ牛盗人とはよばるとも、仏法者・後世者(ごせしゃ)とみゆるやうに振舞ふべからず。また外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねんごろに仰せ定めおかれしところに、

近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ、結句本寺よりの成敗と号して人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実あさましき次第にあらずや。

これによりて、今月二十八日の御正忌七日の報恩講中において、わろき心中のとほりを改悔懺悔して、おのおの正義におもむかずは、たとひこの七日の報恩講中において、足手をはこび、人まねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもつてなにの所詮もあるべからざるものなり。

されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ。この道理をよくよくこころえて足手をもはこび、聖人をもおもんじたてまつらん人こそ、真実に冥慮にもあひかなひ、また別しては、当月御正忌の報恩謝徳の懇志にもふかくあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明七年十一月二十一日 これを書く。]


三帖の十二 宿善有無

 そもそも、いにしへ近年このごろのあひだに、諸国在在所所において、随分、仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。

そのゆゑをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは仏法の根源をよく知り顔の体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁の端、障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつて、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。

これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆(さんだん)せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、第一に_慢のこころにあらずや。

かくのごときの心中をもつて、諸方の門徒中を経回して聖教をよみ、あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ虚言をかまへ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとしてよき仏法者、また聖教よみとはいふべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなほなげくべきはただこの一事なり。これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知(ぞんち)すべきものなり。

 それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発(かいほつ)の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。

ことにまづ王法をもつて本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこころをもつて当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明八年正月二十七日]


三帖の十三 夫当流門徒中

 それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法(おうぼう)を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、

また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行(ぞうぎょう)雑善(ぞうぜん)にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。

かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁(ごうえん)のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文明八年七月十八日]

ホームページへ戻る