狐逝く

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 猛暑の夏が過ぎ、ようやく涼しさを感じられるようになった10月はじめの朝、一匹の狐が極悪寺の境内で死んだ。家人が見つけたときには、まだ死後硬直が解けず、四肢が強ばった状態だった。この半年ほど、境内に狐が出没していた。本堂外縁に足跡を残し糞を残し、幾度か目撃されていた。おそらくは、その狐だろう。

 かつて極悪寺は大阪郊外の山間に位置したが、戦後の住宅開発で山野は切り開かれ、周囲に生息する野生生物は激減の一途をたどった。それでも、私が寺を継いだ頃には、まだ造成途上の地域もあり、夜間、番犬の散歩を兼ねて放置された造成地で遊んだ。時折、遠くを狐が走り、先代の柴犬も今の紀州犬もこれを追いかけた。柴犬は速度で狐に劣った。紀州犬は、充分に速く狐との間合いを詰めたが、狐が長い尾を利用した旧旋回をする度に引き離され、最後は狐に低灌木の下を潜られて取り逃がした。

 犬が狐を見つけられないときは、狐が犬を挑発した。ケーンと鳴いて、わざと犬に発見され、追いかけられるのを楽しんでいる風情だった。なぜ、あえて危険を招くようなことをするのか、今以て不明だが、こういう狐の不思議な習性が、狐に纏わる様々な話を生み出したのかもしれぬ。  しかし、長い不況を脱し再び住宅建築が伸びるに及んで、狐の最後の住処にも集合住宅が建設されることになった。木が伐採され地面が削られ、狐は行き場を失った。境内で狐が目撃されるようになったのは、丁度、造成の始まった頃である。

 残された糞を見る限り、柿などの果実の種や昆虫を食べて飢えを凌いでいるようだった。肉食を主とする狐の餌としてはあまりにも貧相である。人間が生活圏を奪った見返りとして餌付けすることも考えたが、野生動物に対する自己満足とお為ごかしのように思えて実行できなかった。罠で捕まえて飼育することも考えたが、自由を奪うこともできなかった。私にできることは、この狐と共生だけだった。恨みも不満もなく足跡を拭き、糞を片づけ続けることだけだった。

 住み慣れた地を離れられず、最後は御仏の傍で息絶えた不器用な狐を、これも何かの縁と、寺の境内の片隅に埋葬した。そこは先代の柴犬を含めて、歴代の番犬が埋葬されている場所であり、年老いた今の番犬も埋葬されるはずの一画である。

 やがて、完成する集合住宅にも、多くの人が引っ越してくるに違いない。彼らは皆、自らを無辜の民だと信じて疑わぬだろうが、それは思い違いでしかない。もし、その集合住宅で不幸が続いたら、私はこの狐の話をして、祟りだと言ってやりたい誘惑にかられている。