刑法改正

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 現在の刑法典は、明治41年(1907年)に施行された。以後、改正されること10回以上。しかし、変更は、条文の加除と表記に止まり、基本的な改正は、94年間、一度も行われていない。しかし、改正の動きがなかったわけではない。1974年、政府の法制審議会は、刑法の改革を目指して改正刑法草案を作成した。私が、まだ、法学部の学生だった頃である。 

 現行の刑法典には、多くの不備がある。それを、学説と判例が、数十年かかって補ってきた。改正刑法草案には、その成果が盛り込まれていた。
 例えば、覚せい剤その他の薬物によって、犯行当時、心神喪失状態(善悪を判断する能力がない状態)であっても、それが自分でまねいたものである場合は、罪を問うと明文化した(第17条)。これは、現行刑法典にはない条文で、長年、刑法学者が主張してきたものである。
 他にも、犯罪を繰り返すものについて、不定期刑(刑期を定めない刑)を規定するなど、60余年間の判例・学説を踏まえた内容であった。
 それにもかかわらず、改正刑法草案は、国会に上程されず、棚上げ、もしくは、お蔵入りになってしまった。多くの反対意見に押し潰されたのである。 

 改正刑法草案で、特に反対意見が多かったのは、新たに加えられた保安処分であった。保安処分は、裁判所が、刑の代わりに言い渡す処分である。 

 保安処分が言い渡されるのは、
1)禁固以上の刑にあたる行為を行った
2)精神障害や薬物濫用によって、犯行当時、責任能力のないという理由で、無罪や不起訴になった
3)そのまま放置すれば、再犯の可能性がある
4)保安上必要がある
という条件を満たした場合である。
 保安処分には、精神障害の場合の治療処分、薬物中毒の場合の禁絶処分がある。両処分、共に、保安施設に収容される。
 治療処分は、治療・看護を行う。治療処分は3年が基本で、裁判所が、最長4年まで延長を決定できる。但し、再び重大な犯罪を犯すおそれがある場合は、それ以上の延長も可能である。禁絶処分は、薬物の習癖を除く。禁絶処分は、1年が基本で、裁判所が、最長2年まで延長を決定できる。
 保安処分では、仮退所が可能である。仮退所・退所をした場合は、2年間の療護観察が待っている。療護観察期間に問題がなければ、保安処分は終了する。但し、必要があれば、再収容される。 

 以上が、改正刑法草案で定められた保安処分の概要である。表にすると、以下のようになる。 

   治療処分  禁絶処分 
 目的  治療・看護  薬物使用の習癖を除く 
 期間  3年 2年ごとに2回の延長が可能  1年 2回の延長が可能 
 期間の例外  重大な犯罪の再犯可能性が高いとき   
 退所 仮退所  あり  あり 
 療護観察期間  2年  2年 
 再収容  あり  あり 

 保安処分で、反対派が危惧したのは、この制度が悪用される可能性だった。実際、この草案が起草された当時、ロシア(旧ソビエト)では、時の権力者にとって不都合な人間を、精神病患者に仕立て上げ、精神病院に収容して、社会から隔離していた。宗主国の実態を知っていた左翼政党としては、容易に承認できなかったに違いない。また、自由主義的な立場からも、障碍者の人権を配慮して、反対意見が多かった。 

 日本の民主主義は、現代ですら、この状態である。1970年代は、更に怪しかった。油断すれば、戦前の亡霊が、復活しそうな雰囲気があった。あの当時、この改正草案が見送られたのは、やむを得ないことだったかもしれない。当時、私自身、この法案に反対ではなかったが、反対派の危惧には、共感するものがあった。 

 かくして、刑法改正は見送られたが、その結果、精神医療と司法の現場に、問題が生じた。 

 精神医療の現場について言えば、現在、自傷他害のおそれのある精神障害者については、精神衛生福祉法による措置入院(強制入院)制度が利用されている。この制度の欠点は、
1)入退院の決定を医師のみが行うこと
2)退院後、通院しなくなった者の治療を継続できないこと
3)大多数の犯罪と無縁な精神病患者と同一施設に収容すること
である。
1)について
 入退院の基準は、自傷他害のおそれの有無である。そのような社会に対する影響の有無を、医師のみで決定するというのは、医師に過剰な負担を強いる。医師は、病気の専門家であって、社会的見地から患者を処遇する訓練を受けていないのが普通である。退院は、医師1名で決定できることになっているから、特に負担が大きい。
2)について
 近年、医学の発達により、精神病は、完治しないまでも、薬でかなり症状が緩和される。医師としては、この時点で入院継続の必要がなくなったと判断せざるを得ない。以後は、通院治療で充分である。しかし、当然のことながら、病院や医師には、通院を強制する権限はない。グループホームへの入所など、通院継続のために必要な処置を講じてきてはいるが、強制力がない以上、効果には限界がある。犯罪を犯す精神病患者が、この様な治療中断者であることが多いことを考慮すれば、この不備は大きい。
3)について
 精神病患者の大多数は、一般人に比べて、気力、体力が低下している。自傷の可能性はあっても他害の可能性は低い。このような患者と、一般人も手こずる精神病患者を同一施設に収容すれば、病院管理に多くの困難が生じるのは当然である。 

 司法の現場で言えば、裁判所が、精神鑑定の結果を超えて、責任能力を認めるようになった。特に、被告が覚せい剤などの薬物濫用者である場合、裁判所は、かなり広く責任能力を認めて、有罪判決を言い渡している。
 理由は簡単、そうしなければ、国民が納得しないからである。覚せい剤を使用することすら犯罪である。それを使用して是非弁別能力を失い、更なる犯罪を犯した者が、無罪や不起訴では、いかにも均衡を失する。これでは、人を殺して無罪になりたければ、まず、覚せい剤中毒になれば良いことになる。
 法治国家にとって、国民が司法に対する信頼を失うことは、致命傷になる。裁判所が、精神鑑定の専門家でないにもかかわらず、精神鑑定の結果を超えた判断を行うのは、現状では、ある程度、致し方ない。 

  刑法改正が見送られてから、四半世紀が過ぎた。日本も変わり、私も変わった。国民の四分の一も入れ替わった。当時生まれていなかった者、子供だった者も、相当数が、既に選挙権を持つ。当時とは異なる視点から、もう一度、改正刑法草案を見直してみるのも悪くないだろう。 

 改正刑法草案は、今でも、六法全書に記載されている。六法全書ほど大部でないダイジェスト版の六法にも記載されている。全文を入手するのは、それほど困難ではない。一度、目を通していただきたいものである。 

<改正刑法草案 抜粋> 

第15章 保安処分 

第97条(保安処分の種類・言渡) 

1)保安処分は、次の2種とし、裁判所がその言渡をする。 

1.治療処分 

2.禁絶処分 

2)保安処分は、有罪の裁判又は第16条第1項(責任能力)に定める事由による無罪の裁判とともに、これを言い渡す。但し、保安処分の要件が存在するときは、行為者に対して訴追がない場合においても、独立の手続きでその言渡をすることができる。 

第98条(治療処分) 

精神の障害により、第16条第1項(責任能力)に規定する能力のない者又はその能力の著しく低い者が、禁固以上の刑にあたる行為をした場合において、治療及び看護を加えなければ将来再び禁固以上の刑にあたる行為をするおそれがあり、保安上必要があると認められるときは、治療処分に付する旨の言渡をすることができる。 

第99条(保安施設への収容) 

治療処分に付せられた者は、保安施設に収容し、治療及び看護のために必要な処置を行なう。 

第100条(施設収容の期間) 

1)治療処分による収容の期間は、3年とする。但し、裁判所は、必要があると認めるときは、2年ごとにこれを更新することができる。 

2)前項但し書きの規定による収容期間の更新は、2回を限度とする。但し、死刑又は無期もしくは短期2年以上の懲役にあたる行為をするおそれが顕著な者については、この限りでない。 

第101条(禁絶処分) 

過度に飲酒し又は麻薬、覚せい剤その他の薬物を使用する習癖のある者が、その習癖のため禁固以上の刑にあたる行為をした場合において、その習癖を除かなければ将来再び禁固以上の刑にあたる行為をするおそれがあり、保安上必要があると認められるときは、禁絶処分に付する旨の言渡をすることができる。 

第102条(保安施設への収容) 

禁絶処分に付せられた者は、保安施設に収容し、飲酒又は薬物使用の習癖を除くために必要な処置を行う。 

第103条(施設収容の期間) 

禁絶処分による収容の期間は、1年とする。但し、裁判所は、必要があると認めるときは、2回に限りこれを更新することができる。 

第104条(仮退所) 

保安施設に収容された者は、何時でも、行政官庁の処分によって、仮に退所させることができる。 

第105条(退所) 

保安施設に収容された者について、第100条又は、第103条の規定による期間が経過したときは、これを退所させなければならない。 

第106条(療護観察及び再収容) 

1)前2条の規定により、仮退所を許された者又は退所した者は、これを療護観察に付する。療護観察の期間は、2年とする。 

2)仮退所を許されて療護観察に付せられた者について、再収容を必要とする状況があるときは、行政官庁は、これを再び保安施設に収容することができる。 

3)前項の規定による再収容の期間は、第100条又は第103条の規定によって定められた期間から仮退所前の収容期間を控除した期間とする。但し、これらの規定による更新を妨げない。 

第107条(保安処分の終了) 

1)療護観察に付せられた者について、保安処分を執行する必要がなくなったときは、行政官庁の処分によって、保安処分の執行を終わったものとすることができる。 

2)仮退所を許されて療護観察に付せられた者が、再び保安施設に収容されることなく、療護観察の期間を経過したときは、保安処分の執行を終わったものとする。退所後、療護観察に付せられた者が、療護観察の期間を経過したときも、同じである。 

以下 4条省略 

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