恋愛について

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 都々逸(どどいつ)に、「恋に憧(こ)がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす」というのがある。しかし、近頃は、鳴く蝉ばかりが増えて喧しい。鳴かぬ蛍は、今も生息しているのか。

 仏教に従えば、恋愛感情など煩悩の源である。煩悩は、「汚れた心」、「苦しむ心」という意味のサンスクリット語を語源とする。転じて、心を汚し人を苦しめる心の働きをいう。経典は、様々な煩悩を語るが、特に、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(無知)の三つを、人の心を汚し毒する三大煩悩(三毒)とする。

 実際、恋に落ちた者は、往々、三毒に蝕まれる。相手を独占したいと願い、情欲に溺れる。約束を違(たが)えたと不実を怒る。自分の描く理想を相手に押しつけて、相手の欠点を見ようとせぬ。挙げ句、数え切れぬ苦悩を背負い込み、時には、破滅への道さえ、ひた走る。傷害、殺人、放火など、凶悪犯罪の動機は、多く、金と女(男)である。

 ただ、そういう恋に、救いがあるとすれば、愛するが故に、相手のために、自分を犠牲にしようとする心を伴うことだろう。
 かつて、村松梢風は、五代目尾上菊五郎の養子尾上菊之助をモデルに、「残菊物語」を書いた。菊之助の芸を思ん計って身を引く女の物語である。ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」は、逆に、友情のために身を引く男の物語だった。演歌もまた、多く、秘めたる恋や身を引く男女を唄った。

 しかし、今日、残菊物語を知る者は少ない。インターネット上には、長谷川一夫が演じた映画の紹介がある程度。演歌も衰退し、演歌のCD売上は、CDの総売上の数パーセントに過ぎないと聞く。シラノにしても、赤鼻であったという設定さえ、知らぬ者がいよう。シラノを知る者は、先年公開された、「いとしのロクサーヌ」という映画を観た人くらいだろう。

 身を引く恋、忍ぶ恋が上等だと言うのではない。そういう恋もあって良いと言うだけのことである。
 そもそも、恋愛感情など、三年もすれば褪める。三年は、個人的経験に基づくが、一定期間を経過すれば、あらゆる感情が褪めるのは、動かしがたい事実である。恋愛感情も、悲しみも怒りも変わるところはない。
 現代人は、悲しみや怒りにまかせて行動することには慎重でありながら、どういう訳か、恋愛感情だけは特別視して、これに素直に従うことを良しとする。

 三十歳を過ぎて、十七歳の少年を夫にした女、執拗なストーカー。彼らは、共に、自分の行動を、「好きだから、愛しているから」正当だと考えているに違いない。彼らほど極端ではないにしろ、今日、多くの人間が、恋愛感情を理由にすれば、大抵のことが正当化されると考えている。恋愛など、悲しみや怒りと同様、一時の感情であるにも拘わらず、である。

 ロミオとジュリエットは、引き裂かれたからこそ、永遠の愛を生きることができたのである。もし、めでたく両家が和解して、二人が結婚していれば、蜜月はせいぜい三年であった。

「ちょっと、ロミオ。あんた、少しは、お酒を控えたらどうなの。」
「仕方がないだろう。付き合いなんだから。」
「付き合いは良いけれど、それほど飲まなくても良いでしょう。子供が産まれて、やりくりが大変なんだから。」
「やりくりが大変なのは、お前も無駄遣いするからだ。ウチはそれほど貧乏な家じゃないぞ。」
「私が、いつ、無駄遣いしたというの。あなたのお酒に比べれば、可愛いものよ。」
(ロミオ独白)
「結婚前には、少しくらいならお酒を飲んでも良い、と言っていたのに。こんなことなら、あの時、少しくらいというのはどのくらいか、ちゃんと聞いておけば良かったなあ。」

 まあ、かかる次第で、当たらずとも遠からずだろう。

 今や、相手を思ん計って身を引くなどという発想は、風前の灯火。「道ならぬ恋」などという言葉は、死語と化した。嗚呼、鳴かぬ蛍は死滅したか。誰も彼もが、亭主(女房)の有無さえ省みず、蝉よろしく、「スーキ、スキスキスキ、スーキ、スキスキスキ」と、けたたましく鳴くばかりである。

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