西郷 四郎 (2)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 西郷四郎が講道館を去った理由は定かでないが、かねて中国大陸に憧れ、大陸へ渡ることを目指したとする説、あるいは、養子先である西郷家との問題とする説が有力である。

 まずは、中国大陸への夢捨てやらずという説。
 何時の頃からかは知らぬが、西郷四郎は、宮崎滔天(とうてん 本名宮崎虎蔵)と交流があった。宮崎滔天(1871-1922)は、熊本県荒井の郷士出身で、中国革命運動の協力者だった。明治三十年(1897)、孫文と出会い、明治三十二年(1899)には、孫文とともにフィリピン独立戦争を助け、翌年には孫文の恵州蜂起を援助した。蜂起失敗後、一時革命運動の戦列をはなれて浪花節語りとなって生計の途を講ずる。この間に自伝「三十三年之夢」を書いて革命家孫文を世に紹介した。
 明治三十八年(1905)、宮崎滔天は、孫文と黄興とを提携させて中国同盟会の成立をうながした。同会機関誌「民報」の発行所は、宮崎滔天の自宅にあったという。黄興は、日本に留学して軍事学を修め、後に、中華民国臨時政府では陸軍総長となった人物である。
 辛亥革命後,大総統袁世凱は、宮崎滔天の功労に報いるために、中国米の輸出権を与えようとしたが、宮崎滔天は、これを拒否し、孫文、黄興と、終生、友人関係を貫いた。

 余談ながら、社会運動家(弁護士)宮崎竜介(1892-1971)は、宮崎滔天の長男である。東大在学中に新人会(社会改造運動団体)を結成し,「解放」の編集に当たる。新人会からは、政治家、学者のみならず、大宅壮一、中野重治などの文人も輩出している。のち弁護士開業。1921年、柳原白蓮と結婚する。
 柳原白蓮(1885-1967)は、本名をY子(あきこ)といい、藤原北家の流れを汲む柳原前光(さきみつ)伯爵の次女で、叔母の愛子(なるこ)は、大正天皇の生母である。白蓮は、請われて、九州の石炭王伊藤伝衛門に嫁ぎ、筑紫の女王と呼ばれるほど豪華奢侈な生活をしていたが、若き社会運動家宮崎竜介と恋に落ち、遂に結婚し、世情を騒がせた。
 宮崎竜介は、昭和十二年(1937)七月,近衛文麿らの密使として訪中をはかるが神戸で逮捕されている。戦後は社会党結成準備に加わるが公職を追放される。所謂、レッドパージ(赤狩り=左翼追放)である。

 この宮崎滔天と交友関係のあった西郷四郎が、明治二十三年、「支那渡航意見書」を残して講道館を去る。中国大陸への夢捨て難く、講道館を去ったと言われる所以である。

 次に、養家西郷家との問題。西郷四郎の養親西郷頼母(1830-1903)は、会津藩家老として、藩主松平容保(かたもり)を助けて、戊辰戦争を戦い、一族二十一人を失った。函館戦争に参加し、敗北。幽閉された後、謹申学舎を開き、都々古別神社宮司を経て、日光東照宮副宮司となる。宮司は、かつての主君、松平容保であった。この時、西郷四郎を養子とするのである。
 西郷頼母は、戦国時代から会津藩に伝わる御式内(おしきうち)の達人であった。御式内は、殿中護身武芸で、歴代藩主が継承し、家老、重臣、小姓など、奥勤めをする僅かな武士のみ修得を許された。会津出身の西郷四郎もまた、この御式内を修めていた。彼が、入門して僅かの歳月で、講道館を代表する柔道家になれたのは、御式内の基礎があったからである。当然、彼が得意とした山嵐も、御式内の影響を受けていただろう。
 同時に、彼が西郷家の養子になったのも、御式内の後継者と目されてのことであろう。西郷頼母は、明治維新後、保科近悳と改名している。単に家名を存続させるのみなれば、自らが捨てた西郷の名を、養子に継がせる必要はなかったはずである。

 しかし、西郷四郎は、御式内の後継者たるべき身でありながら、講道館で頭角を現し、四天王の名を冠されるまでになる。西郷頼母との関係は、気まずいものになっていったに違いない。西郷四郎が、講道館を去った理由に、西郷家との関係が取り沙汰される所以である。

 なお、西郷四郎という後継者を失った御式内は、西郷頼母から、会津のお抱え力士の家に生まれた武田惣角に、大東流柔術として伝えられることになる。この武田惣角の弟子が植芝盛平であり、植芝の弟子が富木謙治である。今日、合気道と名乗る各流派は、この三名のいずれかを始祖と仰いでいる。すなわち、御式内こそは、今日の合気道の源流である。
 面白いのは、富木謙治である。富木謙治は、十歳の頃から柔道に親しみ、早稲田大学柔道部を経て、植芝門下に入り、戦後は、講道館に出入りしながら、それまでは型の修得のみであった合気道に、柔道同様の乱取り(自由練習)を考案し、競技としての合気道を制定している。これこそは、講道館柔道と御式内を共に修得した西郷四郎の歩むべき道だったはずである。

 講道館を辞した西郷四郎は、長崎に赴き、「東洋日の出新聞」の創刊に携わり、同紙の記者となる。社長の鈴木天眼(1867-1926)は、西郷四郎と同郷で、これ以前、明治三十一年(1898)、「九州日の出新聞」を創刊していた。日露開戦にあたり積極大陸進出論を唱え、明治四十一年(1908)には、長崎県選出の衆議院議員になり、辛亥革命の正当性を主張し、非干渉を唱えた。

 この鈴木天眼の下で、西郷四郎は、新聞記者として大陸に渡るが、再び、歴史の表舞台に登場することはない。晩年はリュウマチを患い、尾道に移り住んで、大正十一年十二月二十三日、逝去する。享年、五十七歳。彼が光芒を放ったのは、二十歳前後の、数年間でしかない。
 西郷四郎に先立つこと十七日、東京で宮崎滔天が亡くなっている。この年、林芙美子が、青雲の志を抱いて、尾道を去った。そして、西郷四郎の娘幸子が、尾道高等女学校に入学している。

 西郷四郎の銅像の傍らに、講道館館長嘉納履正の筆による「西郷四郎逝去の地」の石碑が建っている。石碑の裏には、

西郷四郎
 講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム 其ノ得意ノ技ニ於テハ 幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ 不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク エン惜ニ堪エズ 依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績を表ス

     大正十二年一月十四日

         講道館師範   嘉納治五郎

と刻まれている。

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