いじめについて

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 

 いじめは面白い。何故かと問われても、人間には、そういう卑しい心があるのだとしか答えようがない。私自身は、いじめなどせぬが、それでも、飼い犬に餌をやるとき、余分にワンと鳴かせて面白がることはある。これとて、度が過ぎれば、立派ないじめになる。別に、深い理由があって、余分に鳴かせているわけではない。面白いから、そうしているに過ぎぬ。

  いじめが面白い以上、いじめは無くなるまい。面白いことを放棄するほど、人間は立派な生き物ではない。たとえ法律で禁止しても、博打が無くならぬのと同様である。それにも関わらず、世間は、いじめを無くすことに熱心である。いじめをなくすための教育を否定しないが、教育に過大な評価をするのはいかがなものか。世間のあらゆる所に、強者と弱者があり、人間が卑しい心を捨てられぬ以上、これから先も、いじめる者といじめられる者は後を絶つまい。

  いじめる側を教育することが困難であれば、次善の策は、いじめられぬように教育することである。問題の抜本的な解決にならぬのは百も承知だが、いじめの悲劇を無くすには、これしかない。
  いじめられたくなければ、原則はふたつ、一に、強者に軽んじられぬこと、二に、強者を怒らせぬことである。この原則は、いじめの問題に限らず、集団の中で、自分の人生を全うするために必要である。ところが、いつの頃からか、かかる至極当然のことを誰も教えなくなった。おかげで、最近、人の神経を逆なでにして、毫も反省しない若者が増えた。いじめたくなる者の気持ちが分からぬでもない。

  問題は障碍者である。彼らには、強者に軽んじられぬようにする術がない。障碍者を別枠で教育してきた所以である。最近では、このやり方の悪口を言うのが流行りだが、少なくとも、障碍者をいじめから保護するにはいいシステムだった。
  私の幼稚園時代、同じクラスに、軽い障害のある子供がいた。彼女は、明らかにいじめの対象になっていた。校庭の真ん中へ呼び出して、罵倒するのを、いじめとは呼ばない。いじめは、元来、表に現れないように行われる。教師も彼女を注意深く見守っていたが、いじめは現に存在した。大人になった今でも、あの頃の彼女を救うには、彼女を別枠へ移動することしかなかった思う。
  娘の通う中学校にも、障碍者がいる。単なる身体障碍ではないので、授業中に奇声を発して、教師の注意を自分の方にひこうとする。その結果、しばしば授業は中断し、彼は、手すきの先生に引き取られていく。他の子供は、多少の私語でも叱責されるから、この障碍者だけがやりたい放題であることに、少なからず不満を抱き始めている。障碍者が平等だというなら、障碍者も、せめて、授業中、静かにするくらいのルールは、守れというのが、彼らの主張である。障碍者を特別扱いしないという美名の下に鬱積した感情が、あらぬ方へ向けて爆発せぬことを願うのみである。  

  いじめは、大人の社会にも存在する。大人は、相手の欠点や不愉快を、直接には伝えない。伝えたところで、反省する者は少ないし、反省どころか、自分の考えとやらをまくし立てる者もいる。特に、人間は一人一人尊重されるなどと、根拠もない確信に満ちた人間が増えてからは、よけいに相手に欠点を伝えなくなった。サラリーマン小説を得意とした源氏鶏太は、昭和30年前後には、まだ、職場でとっくみあいの喧嘩を目撃することがあったという。
  昔のように、気に入らねば怒鳴りつけてでも改めさせることができなくなった以上、無自覚に人の神経を逆なでにする人間は、穏やかに排除するしかない。そういう意味では、いじめは、より洗練された手法である。日本も文明国の仲間入りができたと喜ぶべきか。
  ここ数年、不況を理由に、多くの企業でリストラされているが、中には、単に、経営者や上司にとって不愉快な社員が混じっていると想像している。それをいかように抗議してみても、結局、勝敗は、立場の強弱に帰着する。理不尽、不合理と言わば言え。相手の気持ちを変えられぬ以上、結果に違いはない。集団の中で、然るべき位置を占めようとすれば、それなりの生き方を心得るしかない。それが嫌ならば、群から外れるしかないこと、猿と同様である。

  私は、いじめを肯定しているわけではない。ただ、いじめがなくならないことを前提に、如何に身を処するかを語っているに過ぎない。断じて、いじめる者に与(くみ)しない。
  私自身、いじめられっ子だった。子供の頃からデブの泣き虫、加えて、50メートルを走りきるのに、14秒以上かかるのろまだった。しかも、学区の小学校ではなく、地方大学付属の小学校に通っていた。いじめるには、恰好の獲物である。下校途中で、その学区の小学校に通う連中に、からかわれるのみならず、石を投げられ、ランドセルを奪われ、口に砂を詰め込まれた。いじめられることの辛さ悲しさは身にしみている。いじめられて自殺する子供が後を絶たぬのも、宜なるかなである。
  いじめに傷ついた心は、容易に回復しない。結局、数年後、私は、私をいじめた連中を、すべて暴力で拉いだ。5年以上、怒りと屈辱を蓄積してきた者と、過去の所業などとうに忘れて、突然に襲われる者が戦えば、結果は明かである。愚かと言えば愚かだが、当時の私には、それしかなかった。今以て、私が、いじめに与(く)みしない所以である。

  最後に、ひとつ。ここまで、世間一般の用法に従って、「いじめ」という言葉を使ってきた。しかし、本来の「いじめ」は、「無視する、侮蔑した態度をとる」などから始まって、「持ち物に落書きする」など、軽微な犯罪程度までを指す言葉である。脅して金を巻き上げるのは恐喝、マットで巻いて殺すのは、傷害致死という立派な犯罪である。世間では、未成年であるという理由で、時に、犯罪までをいじめの範疇に入れているように思える。
  いじめと犯罪は峻別し、犯罪は犯罪として処理すべきである。いじめによる悲劇といわれるものは、多く、犯罪の被害である。学校は、犯罪者を教育する機関ではない。学校だけを治外法権にしておく理由はないし、教師が犯罪者教育まで負担する必要もあるまい。

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