博打によせて

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 最近、不愉快なテレビコマーシャルがある。競艇、競馬、競輪、宝くじのコマーシャルである。不愉快なテレビ番組は、そのチャンネルを選ばなければ良い。しかし、スポットと呼ばれる十五秒、三十秒のコマーシャルは、いつ、どのチャンネルに出現するか不明で、避けようがない。おかげで、ただでさえ短かったテレビ視聴時間は、更に短くなった。

 そもそも、競輪、競馬、競艇、宝くじ、これらは、皆、博打である。決して誉められたことではない。理屈と膏薬はどこにでも付くから、博打ではないという理屈を付けたい人は、付けるが良い。しかし、いかなる理屈をつけようと、博打は博打。馬券、車券、船券、宝くじを買うだけで、場合によっては、配当ゼロ、場合によっては、百倍以上の配当がある事実は変わらない。普通は、これを、博打(ギャンブル)と呼ぶ。競輪、競馬などは、国が法律で許しているというだけで、中身は、ヤクザの丁半博打や手本引きと違うところがない。胴元(主宰者)は必ず儲かり、幸運な一部の参加者以外は儲からない仕掛けになっている。

 私は、かつて博打打ちに憧れ、真似事をした時期があるから、博打を否定しない。しかし、元来、誰のものでもない電波を、国の認可あるがゆえに独占使用する放送会社が、博打の広告を流して良いとは思わぬ。現代の広告は、明らかに、新たな需要創出を狙っている。博打など、誉められたことではないのだから、新たな需要を生み出す必要など無い。よって、博打の広告など無用なのである。

 宝くじなど、庶民のささやかな夢だと言うなら、言うが良い。しかし、実際は、順序が逆で、そういうケチな夢しか持てぬから、いつまで経っても、庶民から抜け出せないのだ。バカマスコミのせいで、感覚が麻痺しているやもしれぬが、庶民という言葉は蔑称である。大きな顔をして、自分を庶民と称するものではない。私は、残念ながら、事実として、結果として、庶民だが、自分が庶民であることを良しとはしない。坊主が庶民であるなど、考えるだにおぞましい。
 仮に、宝くじが庶民のささやかな夢だとしても、庶民のささやかな夢を、テレビコマーシャルで増殖させる必要は無かろう。テレビコマーシャルなど無用である。

 博打にまつわる不愉快は、コマーシャルに留まらぬ。更なる不愉快は、警察が、博打の上がりをピンハネせんとしていることだ。最近、パチンコ屋では、現金で玉を買わず、カードを介在する。例えば千円でカードを買って、これで遊ぶという仕掛けである。パチンコ屋は、売れたカードの代金を支払って、出玉相当の金をカード会社から受け取る。表向きは、脱税の絶えないパチンコ店の収入を完全に捕捉するのが目的である。しかし、実態は、警察がこのカード会社に一枚噛んでいる。カード会社に警察OBを送り込み、警察の共済組合までが、経営に参加している。これが、博打の上がりのピンハネでなくて、何であるか。

 実は、以前から、警察は、パチンコを食い物にしていた。パチンコ台(機械)は、射倖性(イチかバチか)が高くならないよう、出玉率が制限されている。この、パチンコ台の検査機関は、長く、警察OBの天下り先である。これだけでは足らず、浅ましいかな、カードを通じて、更なる甘い汁を吸おうという魂胆である。
 ただ、愉快なことに、最近、カード偽造団が横行して、カード会社にほとんど儲けが無いという。カード偽造では、個々のパチンコ屋は全く損をしない。損をするのは、偽造カードを使われたカード会社ばかりである。博打の上前をハネようなどと浅ましいことを考えた報いである。呵々大笑せずに何とする。もし、偽造団にして、これを読むものがあったら、今後ともの、健闘を祈る。今や、諸君こそが、反権力闘争の旗手である。

 最後の不愉快は、サッカーくじという名の、新手の博打である。スポーツ振興財源とかで、こともあろうに、文部省が所轄官庁になるという。元来、天下り先も少なく、利権に乏しい文部官僚共には、垂涎の的だろうが、よだれを垂らして博打に色目を使うなど、正気の沙汰ではない。既に、権力あって権威のかけらなき文部省が、権威どころか、侮蔑の対象になる道を選ぶつもりらしい。
 繰り返して言うが、博打など、決して誉められたことではない。それを承知で、博打の胴元におさまって、なお、子供の教育を云々するつもりか。かかるさもしい根性ゆえ、戦後公教育は、ここまで腐ったと、思い知るべきである。

 博打の場所代、もしくは、参加料を寺銭という。役人共が、博打の上前をハネ、胴元になるなら、寺でも博打をやらせろ。江戸時代には、寺や神社が勧進元になって、富くじを売った。売り上げは、多く、寺社の修繕費に充てられた。決して、前例のないことではない。もちろん、文化庁が胴元になるのだけは、願い下げである。

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