話せばわかるか

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 1932年5月15日の日曜日、午後5時半頃、三上卓中尉ら海軍将校4名と,士官候補生5名が首相官邸に車で乗りつけ,時の首相犬養毅を襲った。休養中の犬養は、
「話せばわかる。」
と制したが,山岸宏中尉は、
「問答無用。撃て。」
と叫んで、黒岩勇予備役少尉と三上中尉がピストルで犬養を撃ち,犬養は午後11時26分絶命した。世に言う、五・一五事件である。

 話せばわかるかと問われれば、私は、この事件を例に引いて、そうとばかりは言えぬ、と答える。当時、犬養は、中国との関係悪化を懼れて満州進出に反対していた。満州へ出ていけば、既得権益を侵される欧米列強の反発は必至。他方、若手将校達は、満州進出、貧農救済を目指していた。当時の犬養に、貧農救済の妙案はない。さりとて、若手将校達に、欧米列強の動向を察知するだけの能力はなかった。かかる両者に、話し合いの成立する可能性はない。まして、話せば判るはずもなかった。まあ、今の私から観れば、双方、いい気なものだとしか言いようがない。

 ところが、戦後、この事件は、軍国主義者の暴力的政治介入だということにされ、政治家の無能は言わず、軍人ばかりが責められることになった。社会主義革命は、暴力的であっても肯定的に語られたのに、である。平和国家ニッポンの誕生である。
 犬養の孫娘は、悲劇の宰相の子孫であることを最大限に利用しながら、評論家面(づら)してマスコミに登場した。他方、若手将校の親類縁者は、肩身の狭い思いをして、一生を終わった。若手将校の親戚にして、マスコミに登場する者が少なかったのは、一に、マスコミの時代への迎合。二に、若手将校の親戚に、それほどの力を蓄える余裕がなかったことに尽きる。彼らの多くは、貧しい農家の二男三男であった。

 何はともあれ、世は、「話せばわかる」時代になった。おかげで、説明会に公聴会、学級会に懇談会と、話し合い全盛である。私は自分が変人だと承知しているから、この手の会合は欠席と決めている。私の思うところがわかる者は、出席者の中に一人いれば上等、二人いれば万々歳である。たとえ委曲を尽くしても、それ以上に増えるとは思わぬから、もし、出席しても、発言することはない。

 「話せばわかる」と言うには、まず第一に、話す本人が、何を言いたいのか、わかっていなければならない。
言わずもがなのことではあるが、実は、この自覚のない者が甚だ多い。この手合いは、どこかで聞きかじった怪しい知識と勝手な思い込みを繋ぎ合わせて話しているだけだから、本当は、自分が何を話しているのか、よくわかっていない。こういう輩は、罵倒するか避けるのが定石である。ところが、世の中には、そうもいかない職業もある。知りたければ、ここからリンクするサポートセンターの秘密を覗いてみるが良い。たかがコンピューターの操作についてさえ、自分が何を話しているかわからない輩が多いと知れる。話題が、社会、経済、人生に及べば、この手の輩が増えることは必定である。

 この手の輩と衝突するのを厭うて、我がホームページは最低山極悪寺と号する。最低極悪と看板を掲げたホームページへわざわざやってきて、珍宝院釈法伝と名乗る男を相手に、ゴタクを並べる馬鹿もあるまい。気に入らなければ、かかる怪しいホームページを覗いた自分の不明を恥じて、黙って去るだろう。そう踏んでの命名である。実際には、それでもゴタクを並べたメールが時々やってくるから、「話せばわかる」時代は、面倒である。

 「話せばわかる」と言うには、第二に、聞き手の側に、呼応するものがなければならない。奇妙に聞こえるかも知れないが、話せばわかるのは、聞き手が既に、9割方わかっているからである。言葉にならず、心中にもやもやしたものが、相手の言葉に刺激されて相貌を顕わすとき、わかったと思うのである。逆に、相手と共有できるものがなければ、いかに話しても、わからぬものである。嚆矢として、サポートセンターの秘密を挙げる。基本的な知識すら共有できない者同志が、わかりあえるはずがない。わからぬならば、わからぬままにしておけば良さそうなものだが、臆病者は、そういう状態に堪えられない。そこで、無理にわかろうとして、自分の持ち合わせを勝手に繋ぎ合わせてわかった気になる。これは「勘違い」以外の何ものでもない。

 日本の民主主義を観るが良い。多数の横暴と騒ぎ、愚にもつかぬ思いつきを少数意見の尊重と称し、執拗に全員一致を目指す。これ即ち、江戸時代の寄り合いの域を出ていない。明治の日本人には、西欧型の民主主義がわからなかった。それでも民主主義を言われれば、自分達の持ち合わせで間に合わせるしかない。そこで、引っぱり出してきたのが、昔の寄り合いである。結果、今でも形骸化して退屈な会議ばかりが、延々と繰り返されている。
 村寄り合いの全員一致の前提には、「分(ぶん)」という考え方があった。それぞれが、自分の分を弁えて、言い過ぎに注意しながらものを言った。分を弁えない発言を繰り返すと、メンバーから外された。全員一致は、この分という考え方と併用されて、機能していた。それを、平等の名の下に、分という考え方だけ抹殺してしまったので、民主主義は、かくも醜悪な姿になった。聞く側の持ち合わせは、わかるための大切な要素なのである。

 「話せばわかる」と言うには、第三に、聞き手の側にわかろうという思いが必要である。五・一五事件の青年将校のように聞く耳を持たぬものには、何を話しても無駄である。おそらく、「話せばわかる」と言った犬養首相自身、血気に逸(はや)る将校達の顔を見て、心底では、無駄だと気づいていたに違いない。

 わかろうという思いを抱くのは良いが、質疑応答を通じてわかろうとするのは、やめるが良い。そういう形式でわかるのは、コンピューターの操作や確立された学問の世界等、限られた分野だけ。むしろ、質疑応答を繰り返せば、自分の中の持ち合わせを探して、勘違いを重ねる虞(おそれ)がある。
 大人はそれを知るから、一々、「なぜ」と問われても応えない。問われて応える義理もなし。しかるに、最近は、問われた者に、説明義務があると誤解する向きがある。最近では、マスコミまでが、あちらこちらで取材を拒否されるせいか、遠吠えよろしく、かく宣(のたま)う。なに、取材と称しても、所詮はマスコミのメシの種拾い、応える義理はないと、皆が気づいたまでのことである。

 もし、真実、わかりたいと願うなら、急いでわかろうとせぬことである。いずれ、わかる日が来るかもしれぬと思いなして、記憶に留めておくが良い。年を経て、知識と経験が備われば、はたと膝を打つこともあろう。生涯、わからぬままなら、それもまた良し。早わかりは、早とちりに通じると知るべきである。

 「話せばわかる」時代には、わからなければ、聞き捨てるのを常とする。それはそれで、また、良し。結果は我が身に降りかかるだけである。無明(むみょう=無智)こそは、諸々の苦の因(たね)だと、釈尊は語った。この言葉を信じるも信じないも、人それぞれである。

 ついでに言えば、世の中には、わかろうとしてはいけない関係もある。経営者と労働者、妻と愛人。彼らが、話してわかると思うのは、愚かを通り越して危険である。経営者の話がわかれば、労働者は、奴隷に堕するしかなく、労働者の話がわかれば、会社は潰れるしかない。妻にして、愛人の話がわかれば、妻はその座を去るしかなく、愛人にして、妻の話がわかれば、男と別れるしかない。たとえわかっても、わからぬ振りをして、重ねる話し合いも存在するのである。

 それにしても、この話、わかるものやら、わからぬものやら。

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