坊主の読経

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 掲示板で受けた質問のうち、回答が長くなりそうなものは、こちらへ移す。今回は、坊主の読経について。意味不明の読経を聞かされるのは、耐え難い。現代風にできないのかという質問。

 実は、本願寺教団をはじめ、多くの既成仏教教団は、聞いている者が理解可能な、現代語表記に近い読経形式を持っている。しかし、現在のところ、普及していない。私自身、あまり好きではないから、よほど求められなければ、この形式に従わない。以下、現代的法要形式が普及しない理由を考えてみる。

1)儀式

 まず、儀式の一部として、読経を考える。そもそも、儀式は、毎日の生活とは異質であるから儀式たりうる。我々は、日々、自分なりに世界を理解し、時には目的を持って、時には怠惰に流されながら暮らしている。それは、我々の生活の大部分ではあるが、すべてではない。運命、神仏、大いなる力。如何に呼ぶかは、人それぞれではあるが、日常生活に収まりきらないなにものかを予感する。そういう非日常的な世界と繋がるために、儀式は存在する。繋がらないまでも意識するために存在する。したがって、安易に儀式を日常生活に引き寄せることは、儀式の意味を減ずることになる。(こう書くと難しいが、解りやすく言えば、あまりに今風の儀式では、ありがたくないのである。)

 もちろん、あらゆる儀式は、いずれかの時代に作られたものである。しかし、安易に形式を変更しないからこそ、儀式として意義がある。古い儀式を執行すれば、人々は、今から三百年、四百年前の人々と、同じ音を聞き、同じ振る舞いを見る。同じなればこそ、彼我の違いを知り、数百年の時間の経過に思いを致すことが出来るのである。近代という時代もまた、悠久の時の流れの一区切りに過ぎないと知れるのである。

 ただ、いたずらに守旧を続けて法事に参加するものが減少するようでは、本末転倒である。よって、最近、浄土真宗では、年忌、法事の読経時間は、かなり短縮されてきている。私が子供の頃、地方都市では、最長5時間程度の読経時間も珍しくなかった。現在は、一時間以内が殆どである。よって、全く時代を無視しようとしているわけではない。時代に追いつこうと無理をしていないだけのことである。

2)経典と教義

 漢文音読みの読経を続けるのは、経典と教義の複雑な関係にもよる。各宗派は、根拠となる経典と、それに基づく教義を持っている。(賽の河原保育所よもやま話の部屋第三話参照)例えば浄土真宗の場合、根拠となる経典は、浄土三部経と呼ばれる三つの経典である。しかし、この三部経典を単純に現代語に訳して読んでも、浄土真宗の教義は浮かび上がって来ない。正直に言えば、浄土三部経を素直に読めば、浄土宗に近いだろう。浄土真宗は、浄土三部経に、親鸞独特の解釈を加えて、初めて成立する。浄土宗が、浄土真宗を指して、親鸞教と呼ぶのは、このような事情による。したがって、浄土三部経を現代語で読めば、浄土真宗の教義が、浄土宗と混同される虞(おそれ)がある。これまた、漢文音読みを続けるゆえんである。(浄土宗と浄土真宗の関係については、本稿の趣旨を外れるので、別の機会に譲る。)

 実際、漢文を読める者が、経典の一部を読んで、浄土真宗を誤解する例がある。のみならず、坊主の説教にも、浄土宗と混同するものがある。親鸞は、法然の浄土教団に向けられた批判に答えるべく、実に四十年間、教行信証を執筆し続けた。本願寺教団(西)は、江戸時代に、教団を二分する教義論争を経験している。浄土真宗は、教義が誤解されることを、何よりも危惧するのである。

3)坊主の怠惰

 読経が漢文棒読みに偏るのは、坊主の怠惰に負うところが大きい。実は、漢文棒読みの読経だけが、読経ではない。本願寺教団には、西洋音楽とは別の意味で美しい節回しを持ったお経が多数存在する。これまた、意味不明かも知れないが、それはドイツ歌曲を聴くのと同じ。旋律が美しければ、聞くに堪える。しかし、今日、これをあげられる坊主が殆どいない。むしろ、私は、これを憂慮する。

4)最後に

 漢文の棒読みを聞かされるて苦痛なのは、必ずしも、意味不明だからではない。学校の入学式、卒業式、入社式。内容は、近代的ゆえ理解可能だが、苦痛であること、屡々(しばしば)である。およそ、自分が意義を認められないものは、何によらず苦痛なものである。

 なれば、読経の間、一切の動きを封じられて、座することは、全く無意味か。否である。思い起こしてみるが良い。読経の間、浮かんでは消える想念は、殆どが、見事なまでに煩悩である。凡人が、日常生活を離れて落ち着いた状態で、これほどまでにあからさまに自らの煩悩と向き合う機会は他にない。

 禅宗では、心が動けば体が動くと言う。よって、目指すは、煩悩に揺らぐことなき不動の心、不動の禅である。浄土真宗は、それほど立派な目標は掲げないが、煩悩に揺らぐ己の心は自覚するべきである。意味不明の読経に付き合うことには、己の煩悩と向き合うという、隠された意味がある。

 繰り返しになるが、何事によらず、理屈を付けなければ納得しないのは、現代人の悪弊である。私は、これに妥協して、説明を試みるが、本来は、「格別の不具合がなければ、これまでそうしてきたことは、この後もそのようにしていけば良い」と考えている。たっての希望がなければ、昔ながらの読経を、私が続ける所以である。

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