再び葬式について

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 世間、我々を葬連(そうれん=葬式)坊主と非難する。しかし、葬式以外に寺を訪ねぬ自分達のことは言わない。葬式のあり方を非難するのもまた同じ。先に、葬儀屋を決めて、葬儀屋に坊主を紹介してもらえば、葬儀屋が主導するのは当然である。それを顧みず、日々、生きることに現(うつつ)を抜かし、身内に死なれ、慌てて葬儀屋を探し、その言うなりになっている自分達のことは言わない。

 かつては、村や町内が葬式を取り仕切ったから、葬儀屋などなくても済んだ。今でも、地方都市や農村では、近所の人が集まって葬式を出す。葬儀屋はあるが、あくまでも手伝いである。それぞれの地域に暗黙の了解があるから、祭壇が派手になることはない。坊主も檀家の懐具合など百も承知だから、無理は言わない。寺檀関係に限らず、相互信頼は、長い付き合いの間に生まれる。逆に言えば、葬式が歪んでいるのは、大都市圏の人間関係の希薄な地域である。煩わしい人間関係から解放されて、生命保険に加入するとき以外には、自分の死を考えることもなく、気楽に生きてきたツケを、人生の最後に払っているに過ぎない。自業自得である。葬儀屋に、ケツの毛羽まで抜かれるが良い。

 極悪寺では、「身内が死んだら、まず寺へ連絡」を原則とする。寺と檀家との付き合いは長期が原則だが、葬儀屋と客とは、一時である。長く付き合わねばならない相手に無理を言うほど、坊主はバカではない。遺族の希望を聞いた上で、適当な葬儀屋と話をする。遺族の意向を無視した営業をすれば、極悪寺の名に恥じぬ通夜の法話が待っている。自慢するわけではないが、私は、誉めるのは下手だが、罵るのは得意だから、こういうときの法話はおもしろいと好評である。おかげで、一部の葬儀屋からは、ゲジゲジの如くに嫌われている。しかし、世の中、良くしたもので、私の考えに同調してくれる良心的な葬儀屋も結構ある。おかげで、極悪寺でも葬式はできることになっている。

 反対に、葬儀屋から仕事をもらっている寺もある。こういう寺の坊主は、葬儀屋の飼い犬だから、遺族に尻尾を振ったりはしない。寺によっては、葬儀屋にバックマージンを渡している。この話は、葬儀屋のアルバイトに金を握らせて聞き出したのだから、間違いない。そして、こういう寺がある以上、敷衍して、寺が悪く言われるのは致し方ない。それは、甘んじて受けなければならない非難である。本来ならば、こういう寺を指導するのが本山の仕事のはずだが、経済構造がそれを許さない。他宗は知らず、浄土真宗の本山は、末寺からの上納金を当てにして運営されている。無駄な坊主を抱える本山にとって、商売上手な末寺からの上納金はありがたい。極悪寺の如き貧乏寺ばかりでは、宗派は成り立たない。宗教教団といえども、資本主義の原則には逆らえないのである。

 定住することの少ない都市生活者が、新たな共同体を作ることは不可能に近い。作ろうと試みる者もあるが、消極的な者、反対する者もあり、現在までのところ、ほとんど成功していない。したがって、最善の策とは言わぬまでも、葬式の問題を解決するには、生前に、信頼できる寺を探しておくしかない。繰り返して言うが、現在、読者諸氏が見聞する葬式は、坊主が書いた絵図によるものではない。葬儀屋の所産である。

追記 2002年1月11日

 葬儀屋と坊主が連(つる)んでいると書いたが、2002年1月9日の毎日新聞朝刊トップ(関西版)で、「ベルコ」の実態が暴かれていた。ベルコが坊主に葬儀を紹介し、お布施の2割から5割をピンハネしていたとある。
 笑わせるのは、坊主の談話で、「施主は気の毒だ」などと、ぬかしていた。それならば、辞めればいいのである。さんざん、葬儀屋と連んでおいて、今更、心苦しいなど、片腹痛い。

 私自身、ベルコに、してやられたことがある。ある家(分家)にお参りに行っていたのだが、ある時、その本家が葬式を出すことになった。既に、年忌などで顔なじみであった故、当初は、私が葬儀を執行することになっていた。ところが、ベルコの会館を使用することにしたら、ベルコの紹介する坊主でなければ受け付けないと言う。
 檀家が板挟みになるのは心苦しいので私は引いたが、葬儀の後、その坊主は、満中陰までのお参りにすら来なかった。結局、私が、今でも、その家にお参りに行っている。

 おそらく、この時の坊主も、2割から5割のバックマージンを、ベルコに支払っていたのだろう。もちろん、この時の坊主と寺の名前は知っている。もし、私に逆らえば、その時は、ここで、ベルコと連んだバカ坊主として、大々的に公表してやるつもりである。

 

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