一石二鳥(DM拒否運動)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 当山極悪寺の敷地内には、極悪寺、賽の河原保育所、塀尾家の3者が同居する。これに合わせて、郵便受けも、3つ用意してあるが、横着な郵便屋は、極悪寺と塀尾家の郵便物を、極悪寺の郵便受けに入れる。塀尾家の郵便受けが、2輪車に乗ったままでは入れにくい位置にあるせいだ。まあ、この程度のことは許そう。不愉快なのは、次の所業である。

 極悪寺宛、もしくは塀尾家宛の書留の場合、郵便屋は極悪寺玄関の呼び鈴を鳴らす。家人が出ないと、不在通知のはがきを置いて帰る。同一敷地内の保育所に人が居ることは判っているのだから、せめて、保育所に一声かけても良さそうなものだが、これをしない。これまでに、再三、「保育園に声をかける」ように申し入れたが、無視されている。そして、更なる不愉快は、月掛貯金の金を取りに来るときは、頼みもしないのに、保育園まで来ることである。郵便屋は、郵便配達が本業、貯金集めは、副業だろうに、最近の郵便屋は、副業に熱心である。

 かくて、新聞不買に続く「田作(ごまめ)の歯ぎしり」第2段の登場と相成る。標的は郵便事業。やり方は、こうである。

 配達された郵便物の内、開封する必要のないダイレクトメールを集める。この表に、「受領拒否」、「受領拒絶」、「受取拒否」などと書いて、傍らに三文判を押す。これを、ポストに投函するのである。郵便屋は、受取を拒否された郵便物を発信者に返送するしかない。これで、郵便屋は、片道の料金で往復の仕事をさせられることになる。名付けて、「ダイレクトメール受取拒否運動」。

 ダイレクトメールの発信者は、いずれどこかで名簿を入手して、それを元に発送している。「受領拒否」を続ければ、やがて、どこかで、ダイレクトメール受領拒否者名簿が作成される。そうすれば、ダイレクトメールの数は減少するに違いない。誰も、送って無駄なDMを送りはしない。現在、郵便物の相当数は、ダイレクトメールである。これが減少すれば、郵便屋の仕事も減少する。それでなくても、最近、郵便屋は、宅配業者に書籍小包などの仕事を奪われている。これに追い打ちをかけようというのである。

 このダイレクトメール拒否運動、大半のダイレクトメールがゴミ箱へ直行する事を考えれば、実は、省資源、ゴミ減らしにも役立つ。官公庁、会社、病院、学校などで実施すれば、効果は絶大。民営化を逃げ切り、書留配達の手抜きをし、預金集めに奔走する、不愉快極まりない郵政省に一泡吹かせて、更に、省資源、ゴミ減らしに貢献する、一石二鳥の妙案なのである。商売の邪魔をするなと言われそうだが、これからの商売、無用のゴミを出してまではやれないと心得るべきである。

 国によっては、あらかじめダイレクトメールの配達を拒否できるところもあるという。日本の場合は、郵政省が、金欲しさに、ダイレクトメール配達の可否を問わない。それならば、我々一人一人が、ダイレクトメール拒否運動をすればいいのである。「郵便物の配達をしない」などと、郵政省が言えば、宅配業者を喜ばせるだけである。

 当極悪寺では、既に、これを実行している。賛同者の増えんことを願うや切である。

 最後に、いささか煩雑になるが、ダイレクトメール拒否運動の法的根拠を挙げておく。興味のない人は、読み飛ばしていただいて結構である。

 郵便配達は、発信者と郵政省との契約である。発信者は、郵便配達を依頼し、切手購入(料金別納)という形で代金を前払する。他方、契約相手方の郵政省は、代金を受領して、宛名住所へ郵便物を配達する。つまり、郵便を配達するというのは、受取人とは無関係の契約である。したがって、郵便物を受け取るか否かは、受取人が決定できる。確かに、我々は郵便受けを設置しているが、全ての郵便物を受け取るという意思表示をしたわけではない。郵便物受け取りの義務は存在しないのである。もし、郵政省が、郵便受けの設置をもって、郵政省の配達するすべての郵便物の受取の意思表示だと主張するならば、郵便受けに、「全ての郵便物を受け取るつもりはない」と、書いておけばいい。

 郵便物を受取人が受け取った時点で、その郵便物は、受取人の所有物になる。しかし、受取を拒否すれば、郵便物の所有権は、発信者に留まる。発信者の所有するダイレクトメールを、郵政省は勝手に処分できない。よって、発信者に返送するか、発信者の許可を得て処分するしかない。ゴミ出しは、郵政省の仕事である。