陰謀説にご用心

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 インターネットも含めて、世の中には、数多(あまた)の陰謀説がある。ユダヤ、フリーメイソン、CIAなど、枚挙に遑(いとま)がない。最近では、宮崎勤、酒鬼薔薇犯人説を陰謀だとする向きもある。

 私は、この世界に陰謀が存在することを否定しない。しかし、安易な陰謀説は愚者の結論である。

 私の知る限り、陰謀説を唱える者は、多く、陰謀を巡らせる立場にない。陰謀を行うには、権力と財力、そして知力が必要である。残念ながら、陰謀説を唱える者は、知力には優れるが、肝心の権力とも財力とも無縁である。権力や財力のない者を侮るのではない。権力や財力に無縁の者に、陰謀は判らぬと言うだけである。

 権力を持たぬ者は、被害者意識が先行することはあっても、権力者の心を知らない。知らぬが故に、陰謀説成立の可能性があると、それだけで、声高に陰謀説を唱える。しかし、よく考えてみて欲しい。基本的に、権力者に陰謀は必要ない。陰謀を巡らせることなく、堂々と自らの利益を追求できるのが、権力者の権力者たる所以(ゆえん)である。陰謀など、労多くして益少ないことを、権力者は知っている。しかも、一度(ひとたび)陰謀が露見すれば、その権力を失う危険がある。それほどの危険を冒してまで、陰謀を巡らせる愚を、権力者が知らぬはずもない。権力者は、常にその地位を脅かす者を意識している。イラクのフセイン大統領のように、政治権力、財力、知力を備えた者でさえ、安易に陰謀は巡らせない。陰謀が露見すれば、部下の信用を失い、ひいては自分の権力を危うくするからである。

 財力を持たぬ者ほど、金さえあれば、何事も可能だと思い込む傾向がある。これが、また、安易な陰謀説を生む土壌になってる。しかし、金持ちと付き合ってみれば判ることだが、実は、金持ちほど、金で解決できる事柄の限界を、良く知っている。金を使いながら試行錯誤する結果、自ずから、限界を知るのである。更に、金を持たぬ者は、他者に金を渡すことの難しさを知らない。スーパーマーケットかコンビニで、買い物の代金を支払った経験しかないからである。相手の心に負担をかけずに金を渡すことの難しささえ知らない。ましてや、不正の金を渡す難しさなど、想像もできまい。不正の動かぬ証拠を相手に差し出すのである。相手の心を読み誤れば、受け取りを拒否されて、たちどころに犯罪者になる可能性がある。受け取ったと見せて、犯罪の証拠を握って、脅迫に転ずる者もある。貧乏人が有り金の全てを失っても貧乏人のままだから、さしたる痛痒は感じない。しかし、金持ちが有り金の全てを失うことは、悲惨以外の何ものでもない。真に財力のあるものは、これまた、陰謀の危険性を熟知している。

 正直に言えば、私自身、何々の陰謀と聞けば、それだけで心くすぐられた時代があった。しかし、陰謀をよくする者を身近で見るに及んで、陰謀は、労多くして益少なく、危険を伴うものであると知らされた。権力も財力も、信用が無ければ続かない。信用を維持しながら、陰謀を巡らせることは、至難の業に近い。それでも陰謀を巡らせるのは、よほど追いつめられた事情がある場合に限られる。ところが、追いつめられての陰謀は、充分に練り上げられていないが故に、今度は、露見する可能性が高い。したがって、陰謀には、自ずから限界がある。件(くだん)の陰謀氏は、その権力と財力からは想像できないほど、ささやかな陰謀しか巡らさない。氏が、自分の陰謀に足をすくわれない理由がそこにある。

 ところで、これは、言葉遊びのようだが、巷の凡夫凡婦にたやすく見破られるような陰謀は、そもそも、陰謀と呼ぶに値しないのではないか。陰謀は読んで字の如く、陰なるを旨とする。たやすく第三者に指摘されるようでは、もはや陰謀ではないのである。それでもなお、陰謀説を主張する者は、自分がどれほど裏社会に精通しているか、権力構造を熟知しているか、明らかにする必要がある。表に現れた僅かな情報を元に、陰謀説が成立する可能性を声高に叫ぶだけでは、無知を天下にさらすに等しい。

 陰謀の可能性と、実際の陰謀との間には、天地の開きがある。理論と現実の距離と言い換えても良い。多くの陰謀説は、その開きを意識することなく、展開されている。現実社会の複雑さを顧慮することなく、権力の中枢の実態を知ることもなく、展開されている。所詮、陰謀説などは、知的遊戯、もしくは、事実を探求する過程の仮説でしかない。大切なのは、安易な陰謀説に走ることではなく、地道に事実を積み重ねていくことであると知るべきである。