法事について

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 極悪寺来山者から、浄土真宗には、死者の魂を安んずるという発想がないにも関わらず、なぜ、七日参りや年回法要(一周忌、三回忌など)を行うかと問われた。以下は、私のささやかな回答である。

 仰せの通り、浄土真宗には、死者の魂を安んずるという発想はありません。したがって、死者の魂を良いところへ送り込むために7日参りや、1周忌法要を行っているつもりもありません。

 実際の法事に参加して、あなたにそのような誤解を与えた坊主がいたのでしょうか。もしそうならば、次の機会には、厳しく追及して下さい。「死者の御霊鎮めの為の法事だ」と言うような坊主に出くわしたら、お茶を浴びせても構いません。しかし、観念的に、七日参り・年回法要=御霊鎮めだとお考えなら、それはあなたの思い込みだと申し上げなければなりません。

 ここだけの話ですが、かつて親戚(日蓮宗)の法事に、背広で参加したとき、旦那寺の住職が、説教の中で、「ご先祖様大事」「御霊鎮め」を繰り返すのを聞いたことがあります。お斎(法事の後の食事)の時に、くだんの住職に、私の身分を明かして、この点を尋ねると、「方便」を連発しながら、逃げ回りました。確かに、いるのです、こういう手合いが。

 七日参りはインドから継承された習慣、年回法要は、浄土真宗開闢以前に成立していた習慣ですから、浄土真宗は、これらの習慣の成立に何の関わりもありません。浄土真宗は、これら既存の習慣を利用しながら、教義の普及を謀ってきただけです。
 確かに、年回法要という習慣が、日本人の霊魂観と結びついて普及してきたという側面はあるでしょう。しかし、だからといって、浄土真宗が、七日参りや年回法要を、御霊鎮めのために行っていると断ずるのは早計です。私自身は、浄土真宗で、そのような法事に参加したことは一度もありませんし、そのような誤解を受けるような法事を行った覚えもありません。

 浄土真宗が、既に成立していた七日参りや、年回法要を利用したことは、現実的な選択として、必ずしも誤りではなかったと思います。実際、あなたの下にまで浄土真宗が届いているのは、それぞれの檀家が、家に仏壇を置き、年回法要を勤めながら、浄土真宗の寺を維持してきたからです。
 しかし、同時に、そのような戦略が、あなたをはじめとする多くの人々に、誤解を与えていることも確かです。それを改める必要があることは、本山も痛感しています。怠慢坊主にお茶を浴びせろと言うのは、このことです。

 私自身は、七日参りを、遺族のカウンセリングと、浄土真宗的なものの考え方を伝える好機だと思って、そのように利用してきました。

 年回法要については、宗教的な意味合いのみならず、社会生活上も意義があると考えています。結婚式を除けば、法事、葬式以外に親戚一同が会する機会はありません。葬式は緊急事態ですから、ゆっくりと親戚一同が会食歓談できるのは、年回法要だけです。これを、先祖供養の儀式と混同されると称して廃すれば、唯でさえ希薄な人間関係が、更に、希薄になるだけでしょう。せっかく縁あって、親戚縁戚となったものが、お互いの顔も名前も知らぬまま終わるというのは、寂しいと、少なくとも、私は思います。

 私は、以上のように考え、実践してきました。絶対に正しいなどと言うつもりは毛頭ありませんが、理想は忘れなかったつもりです。同時に、現実の習慣として定着しているものには、社会的な意義があるからこそ、存続しているのだと考えています。それは、先人達の知恵を尊重することでもあります。以前、言いたい放題にも書きましたように、 「自分の頭で理解できない」ことを、「無意味・無価値」と断じて、継承されてきた文物を廃するのは、近代主義の傲慢です。