今更の酒鬼薔薇(2)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

2)朝日新聞について

 私には、「今更の酒鬼薔薇(1)」の記事が掲載された日に、マスコミが大量にまき散らしてきたゴミの中から、この記事を拾い出す能力がなかった。記事の重要性に気がついたのは、10月の末日である。極悪寺の法要(報恩講)の準備に忙しかったというのは、聞き苦しい言い訳でしかない。

 しかし、世の中には、頭の良い奴がいる。ただ今、インターネットで不買運動を食らっている正義の味方、朝日新聞である。神戸新聞、読売新聞は、掲載された「要旨」の内容が同一だから、発表通りに掲載したと考えて良い。しかし、独り朝日新聞だけは、上記引用の内、赤文字の部分を削除して掲載した。削除したのは、少年の精神鑑定を引用した部分2カ所と、被害者女児の両親の感情を引用した部分である。もちろん、削除したことについて説明はない。

 なぜ、削除したか。ゲスの勘ぐりと笑われるのを承知で言う。

 かねて、朝日新聞は、文部省主導による管理教育を批判してきた。国家によって被疑者扱いされる者を、弱者としてきた。よって、今回の事件も、この論調に納めたいと願ったのではないか。だから、納められないまでも、朝日新聞の論調を障碍する上記の赤字部分を削除したのではないのか。

 先に、インターネットで朝日新聞の不買運動が行われていると書いた。理由は、酒鬼薔薇の実名を公開したホームページのプロバイダーに圧力をかけたことによる。実際に、プロバイダーと朝日新聞記者との間に、どの様なやりとりがあったかは、不明である。案外、真相は、表現の自由を守る使命感のかけらもない拝金主義プロバイダーが、朝日新聞の取材に怖じ気づいて、過剰反応しただけかもしれない。よって、私自身は、この運動に組みしない。しかし、朝日新聞も自戒した方がよい。一営利企業が、安っぽい使命感に燃えて、弱い者の味方、正義の味方ヅラする欺瞞を、世間は疎ましいと思い始めているのだから。

 つまり、朝日新聞の不買運動は、安っぽい使命感に燃えた企業と、使命感のかけらもない企業の間の、些細な行き違いから始まったというのが、やぶにらみ珍宝院法伝の結論である。(私自身は、消費税導入の時から、新聞は、一切定期購読していない。時々、駅の売店で買うだけであるから、不買運動の先駆者かもしれない。檀家へお参りに行ったときに読ませて貰ってはいるが。ケッケッケ)

3)加害者と被害者の人権

 加害者の人権については、少年法の規定を含めて、多くの議論がなされた。マスコミに登場する者は、多く、「少年の更生する可能性」を理由にして、実名報道を避けることを主張した。これが正論であることを承知で、敢えて異議を唱える。

 酒鬼薔薇が更生するかしないかは、何人にも判らない。ならば、彼らの主張は、丁半バクチで丁が出ると言い募るようなものである。丁半バクチならば、丁が出なければ、賭けた金を弁償させれば済む。しかし、酒鬼薔薇が少年院退院後、再び殺人を犯しても、彼らには償えない。否、償う気すらないままに、「少年の更正」を言うのである。

 繰り返すが、彼らの主張は正論である。しかし、正義を語る者は、自らが傷つくことを覚悟しなければならない。その覚悟もなく正論を並べるのは、口舌の徒(口先だけの人間)である。加害者の人権保護に限らない。差別解消、弱者救済。マスコミは、常に、自らが傷つく覚悟もなく正義を振り回す。

> 我ら凡夫は、新聞社やテレビ局に就職できるほど優秀ではないが、正義を語れば傷つくことは知っている。自分がその傷に耐えられるほど立派でもなく、正義のために戦い続けられるほど強くないことも知っている。だからこそ、我が身かわいさに、少年の更生を疑い、差別を容認し、弱者を見捨てるのである。自分の卑しさ弱さに目をつぶるのである。それでそれは辛いもの。だからこそ、自ら傷つくこともないままに正義を語る者の心底を疑うのである。

 被害者の人権については、神戸新聞に掲載された、以下の一文を引用する。金槌で殴り殺された少女の母親の手記である。文章を書くプロが、元の原稿に手を入れたような気もする。だが、本人が異議を唱えていない以上、これが本人の手記である。汚物に群がる銀バエのごとく、神戸に集まったマスコミの姿が描写されている。被害者の思いについては、これ以外に、何も言うことはない。もって、瞑すべし。

 仕事の帰り、木もれ日のこぼれる、赤い遊歩道にさしかかると、私はしみじみ「ここは、なんていい所なんやろ。本当に私は幸せやなあ…。優しい夫と、素直でかわいい子供たち、楽しい友人たち、そして大好きな仕事。どうか、この幸せがいつまでも続きますように」と思ったものでした。特に小学校の前に来ると、「彩花ちゃん、頑張って勉強してるかな」と校舎を見上げながら歩いていました。あの、魔の3月16日が来るまでは…。
 本当に不運としか言いようのない、あの少年との出会いがあるなどと、だれが想像したでしょう。
 あの日、娘はお友達と公園で待ちあわせていました。私が買物にでかける直前まで、一緒にピアノを弾いていました。今思えば「お母さん、もう1回ひこう! お母さんの好きな曲をひいたげる」などと、いつも以上に、何回も何回も弾いてくれたのは、その直後に訪れる悲しい残虐な事件で、私達とお別れするということを、暗示していたのでしょうか。
 買物に行こうと誘ったのですが、お友達と1時に約束しているからということで、私は1時までに帰るつもりで出掛けました。
 「カギは中から彩花がしめてあげる。行ってらっしゃい」との明るい声が最後の言葉でした。
 どうやらその後、約束時間が変更になったようです。待ち合わせ場所の公園も普段あまり行かない所なのですが、そこで待っている時に、あの少年が「手を洗う場所を知らないか?」と声をかけ、「学校にならありますよ」と答えた娘に、道案内させたのです。
 たまたま、その日は小学校でカーニバルが開催されており、門が開いているのを娘も、少年も、知っていたのではないでしょうか。犯行メモにより、真相が明らかになるにつれ、少年に対して今まで以上に、決して許すことの出来ない怒りがこみあげてきました。それとともに、親切心から道を教えた娘が、とても不憫(ふびん)で涙がとまりませんでした。
 道を尋ねられても、それが遠い所や、車に乗って教えてほしい、などと言われていれば、日ごろから私が言い聞かせていましたので、軽率なことをする子ではなかったので、決して、案内したりしなかったと断言できます。娘のいた公園と小学校とは、ほんの目と鼻の先で歩いてもすぐの所でした。きっと、少年の手が本当に汚れていると思って親切に教えたのでしょう。
 私達家族は、あの少年のことを本当に知りません。もちろん、娘も初対面であることは間違いないと思います。しかし、娘の顔を見、言葉を交わしながら、実験と称して殺害してしまうという、人間としてあるまじき行為を、絶対許せません。
 どうしても、少年に問い掛けてみたいことがあります。「あなたにも兄弟がいたはずで、その子達をどう見ていたのですか。自分の身内は人間で他人<特に子供>は物や野菜としか見ていなかったのですか。あなたの兄弟が、淳くんや、彩花のようにひどいことをされたら、どんな気持ちになる?」と。
 この事件の容疑者が成人であれば、厳刑に処されるのは間違いないと思います。それなのに少年ということで、少年法に保護されるという不条理をどう納得すればいいのでしょうか。
 少年には未来があり、立派に更生して社会復帰が出来るから、などと言われますが、それならば、明るい未来が待っていたうちの娘はどうなるのでしょうか。
 きっと、もっともっと生きて色々なことがしたかったでしょう。色々な所に行きたかったでしょう。私達と一緒に楽しく暮らしたかったでしょう。お友達ともいっぱい遊びたかったでしょう。そんなことを考えると不憫さがこみあげ悔しくてたまりません。
 そして、今ごろになって「殺意はなかった」と、言っているそうですが、どの程度の衝撃で、人が死に至るかという実験の根底には、明らかに殺意があると思えるし、家を出る時すでに2つの凶器を所持していることも、それを物語っているのではないでしょうか。
 少し生前の彩花の話をさせて下さい。
 親の私が言うのも変ですが、本当に心根の優しい、性格の可愛い子供でした。活発でしたが愛くるしい笑顔で、私達の心を和ませてくれる子でした。エピソードは数え切れないほどあります。
 例えば死にかけのスズメを拾って帰り、一生懸命世話をしたり、ある時はソロバン塾の帰り道、お友達と自転車を交換し、誤ってその子が転倒し、娘の自転車のカゴが壊れかけました。先方のお母さんからおわびの電話をいただいた時も、そのお友達に「○○さん、何も気にしなくていいよ。全然大丈夫やから心配しなくていいよ」と、言っているのを聞いた時、私の方が教えられました。
 また、私が息子をしかりつけていると、「お母さんそんなに怒ったら、お兄ちゃんがかわいそうや」と言い、思わず「そうやね」と、気持ちが和むこともありました。
 そして、かなり前の話ですが、近くの派出所から電話があり、「彩花ちゃんが、手袋を拾って届けてくれました。帰ったらほめてやって下さい」とのことでした。娘が帰ってきて「いいことしたね」と、ほめてやると「だって手袋落とした人が困っているし、落とされた手袋もかわいそうやし」という返事がかえってきました。何だか、気持ちがほのぼのとして、あたたかくなったのを、今でも覚えています。
 このような優しさが仇(あだ)になり、今回のような凶悪な事件にまきこまれたのは、とても残念で悲しいけれど、常々「困っている人を見たら助けてあげようね、人には優しくしようね、自分がされていやなことは人にはせんとこね」と、教えてきたのは、このような結果になっても間違っていなかったと、強く確信しています。
 夫とも、彩花らしい最期だったねと、泣きました。
 少年のご両親にどうしてもお聞きしたいのは、「人を思いやるとか、人の嫌がることはしないようにという、基本的な人間教育<心の教育>」を、どんな風にされていたのかという点です。
 最後に、この事件を通して今までのマスコミに対する認識を改めざるを得ない出来事がありました。
 霊安室を一歩出たとたん、まわりを囲まれあちこちから「今のお気持ちは?」とマイクを向けられました。最愛の娘を亡くしこれ以上の悲しみがない時に、「悲しい、つらい、苦しい」、これ以外にどんな言葉があるでしょうか。
 告別式を終え静かに冥福を祈る間もなく、昼夜を問わずマスコミ関係者が押し寄せて来ました。また、ある時は、登校する息子を待ち伏せて取材をしたり、ご近所の方に私どもの勤務先や、その日の行動を聞いたり、深夜にインターホンを押し、こちらが応対しないとドアをたたくという非常識な記者もいました。息子は登校したくても、出来ない時がありました。本当に精神的苦痛を味わいました。
 そして、私達だけでなくご近所の方にも迷惑をかけ、本当に申し訳ない思いでいたことなどをわかっていただけますでしょうか。私達は芸能人ではありません。平凡な市民です。しかも被害者です。
 静かで穏やかな生活を、だれにも侵す権利はないはずです。「悲しみに追い打ちをかけるようなことはしないでほしい」。ただ、それだけだったのです。
 全てのマスコミが非常識だとはいいません。誠意のある人もいましたが、ただ、やみくもに取材するのではなく、もう少し常識ある大人として、節度を持って行動してほしいし、これからも「読者や視聴者の心にひびくような心ある報道を!」と、願ってやみません。