公私の別を弁(わきま)える

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 放送局のマイクやカメラに向かって、何事かを語れば、それは、公的な場での発言である。たとえ、収録が個人の居宅で行われても、収録に立ち会う人間が少数でも、それは公的な場での発言である。収録された内容が、テレビやラジオを通じて、何万、何十万という人に伝えられるのだから、当然である。

 公的な場での発言である以上、マイクやカメラに向かう場合には、語ってはならないことがある。いかにそれが本心であろうとも、である。この国は、内心の自由を保証するから、現実には、思想警察の真似事をする団体があったとしても、内心何を考えようと自由なことは言うまでもない。しかし、公的な場での発言は、不特定多数の聴衆を前提とする以上、自ら抑制すべきである。

 具体例を、阪神淡路大震災の特集番組に採る。番組中、仮設住宅の入居者が、何人か発言していた。曰く

「交通の便の良い公営住宅に入居したい。以前住んでいたところに近い公営住宅に移りたい(大体、こういう人は、以前、生活の便の良いところに住んでいた)。」

 これが、仮設入居者の本音であることは、十分に理解できる。否、言われなくても判っている。彼らと同じ状況に置かれれば、私も同じ事を考えるに違いない。しかし、だからこそ、公的な場では、無用の発言、してはならぬ発言なのである。

 欲深きは人の常である。だが、全ての人が、欲深き本心を公的な場で発言すれば、それは、収拾のつかない混乱を産むばかりである。別に、地震の被災者でなくても、家賃の安い公営住宅に住めるものならば住みたい。同じ公営住宅に住むならば、交通の便の良いところに住みたい。被災者が交通の便の良いところに住みたいならば、母子寮、老人ホーム、養護施設の入所者も交通の便の良いところに替わりたいに違いない。仮設住宅の入居者が、「交通、生活の便」を言い募れば、やがて、仮設入居者ならざる人も、同様の発言を始めるだろう。そうすれば、結局は、交通、生活の便の良いところの奪い合いが待っているだけである。

 残念ながら、交通の便の良いところは、需要を満たすほど、充分にはない。もし、仮に、交通の便の良いところを、すべて、公営住宅をはじめとする公的施設が占有してしまえば、今度は、多少の不便を我慢して、自力で郊外に家を買った人が黙ってはいない。公営住宅入居の条件である所得制限を撤廃して、納税者に利益を還元するように主張し始める。

 結局のところ、仮設住宅の入居者が、マスコミを相手に発言したことは、他者の欲望を刺激したり、反感を買うだけである。公的な場での発言に抑制が必要な理由は、ここにある。本心は、聞き取り調査や、アンケートに答えるときに開陳すればよいのである。

 もちろん、仮設住宅に住む多くの者は、公的な発言であることを弁えて発言したに違いない。仮設住宅の入居者がそれ程のバカ揃いだとは思えない。おそらくは、マスコミが、公私を弁(わきま)えた意見は、編集作業の過程で抹殺し、公私の別を弁えぬ愚か者の言ばかりを、ただ単に、本音と言うだけで放送したに違いない。

 何かあると、マスコミは、「マスコミに登場して、正々堂々と本当のことを語れ」という。しかし、公私の別を弁えるものは、そのような行為がどれほどの愚行か、よく承知している。気づいていないのは、マスコミばかりだ。いや、ひょっとすると、その方が商売になるから、気づいていながら、本音を語れと、マイクを突きつけるのかもしれない。そう言えば、テレビ局で不祥事のあったとき、テレビで観た経営者の発言は、公私の別を弁えた当たり障りのないものだった。