瑞穂の国始末記

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 当山極悪寺は、境内に保育所を併設する。名は、「社会福祉法人 賽の河原(さいのかわら)保育所」(名前の由来については、この文章の最後に付記)。認可を受けたまっとうな保育所である。およそ長と名の付く役職は嫌いなので、私は、平理事ということになっている。

 この保育所には、様々なものが無償で送られてくる。おいしいのは、カルピス。何せ、かつては、「初恋の味」をキャッチコピーにしていた飲み物である。これは、子供の数を会社に知らせると、送られてくるので、子供のおやつにしている。怪しげな新商品ならば、子供に飲ませたりしないが、天下のカルピスならば、問題はなかろう。

 トヨタからは、交通安全教育の絵本が送られてくる。こういう地道な活動は、大いに評価されるべきだから、敢えて社名を挙げて、書いておく。

 さて、このトヨタの絵本と似て非なるものが、最近、賽の河原保育所に送られてきた。食糧庁と、財団法人米穀協会連名による、「ごはんがいちばん」という絵本である。いわく、既に2回の配布で、好評だったから、第3弾を送るとのこと。普通の神経の持ち主ならば、物を貰えば、社交辞令で相手の喜びそうな礼のひとつも言う。それを好評だと錯誤するのは、バカの所業である。ところで、揚げ足取りをさせてもらえば、第3弾というのは、3番目の弾(たま)という意味か。何が哀しくて、賽の河原保育所が、食糧庁から、弾を3発も撃ち込まれにゃならんのだ。食糧庁というのは、農林省の食糧管理事務所が独立してできた役所で、防衛庁とは違うはずである。

 今は死語になってしまった言葉に、「噴飯もの」がある。あまりにおかしくて、食べている飯を噴きだしてしまうというほどの意味である。この絵本がまさにそれ。

 主人公のいちろうくんは、残したり、こぼしたりと、ご飯の食べ方が悪い。要するに親の躾(しつけ)が悪いのだが、絵本は「元気いっぱいだ」からという。読み進めれば、なるほどバカな親で、「そんな食べ方をしているとご飯の神様が怒って、ご飯が食べられなくなる」などとのたまう。死んだ祖母から、米という文字を分解して、「米は八十八と書く。八十八人の手を経て、ここまで来たのだから、粗末にしてはならない」という話は聞いたことがあるが、ご飯の神様など、聞いたことがない。第一、いたずらに神様の数を増やされるのは、神祇不拝(神様を拝まない)を旨とする当流に迷惑である。

 そもそも、ご飯を綺麗に食べなければならない理由などない。強いて理由を挙げれば、長く米が貴重品であったこの国特有の文化だとしか言いようがない。かつて、「太り過ぎて不健康になるよりも、残す方がよい。」そうレストランで言われて、絶句した覚えがあるが、なるほど、反論できるほどの理由はないのである。「我に食されずんば、再びいずれの地にてか芽吹き、実を結んだであろう命を、我がために奪うがゆえに」と、仏教的に説明すれば、できぬこともないが、キリスト教徒は頷くまい。文化とは、そういうものなのである。何もかも理屈をつけなければ収まらない心情は、近代主義の悪しき所産でしかない。

 絵本の話に戻る。いちろうくんの態度を改めさせるために、ご飯が集まって、いちろうくんがご飯の大切さを知るまで、姿を隠すことに衆議一決する。あらゆるところからご飯が姿を消し、いちろうくんはパン食で抵抗を試みる。しかし、ご飯の神様が、夢の中で、いちろうくんに、おいしいご飯料理について語るに及んで、いちろうくんは、神様に謝る。神様は、ご飯に出てくるように言う。かくて、めでたしめでたし。まあ、こういう顛末である。ご飯の神様を、食糧庁のお役人様に置き換えると、食糧庁の下心が見えてくる。浅ましいことこの上ない。

 それにしても、いつから、食糧庁は、米を食えと教育する役所になったのか。ちなみに、この絵本の担当は、米流通消費対策室である。私は、字面通りの大飯食いであるが、役所から、何を食えと指示されたくもないし、そういうことに税金を使ってもらいたいとも思っていない。民間企業のトヨタが絵本を配るのとは、意味が違う。

 もし、こういう絵本が、農協や、全国米穀協会の手で、米剰りの始まる頃に作られたというなら、私も評価したかもしれない。しかし、今頃になって、それも食糧庁がこういう絵本を送るなど、遅きに失した愚行である。

 第2次大戦後、全米小麦協会は、食糧危機に喘ぐ日本で、広範な宣伝活動を行った。宣伝カーを用意し、これに、簡単な厨房を組み込み、調理師や栄養士を乗せて、パン食普及に尽力したのである。戦後の一時期、パンを食べると頭が良くなるというデマが、まことしやかに語られたのは、この宣伝活動の賜(たまもの)である。しかるに、農林省、食糧庁は、米不足から米剰りへという時代の変化に対応できず、米を商品として売る工夫をしてこなかった。農協、全国米穀協会もまた同じ。

 更に、不愉快なことに、この絵本、文部省初等中等教育局視学官と幼稚園課教科調査官という物々しい肩書きの役人が、助言指導に当たっている。絵本の奥付に、そう書いてあるのだから、間違いない。食糧庁にすれば、学校や幼稚園に配るから、文部省に仁義を切ったつもりなのだろう。しかしながら、よく考えてみれば、学校給食を通じて、パン食の普及に手を貸したのは、他ならぬ文部省である。米不足もあったが、炊飯、食器洗いの設備と手間を惜しんで、パン食を是としてきたではないか。それとも、アメリカから、幾ばくかお裾分けがあってのパン食だったのか。いずれにせよ、学校の米飯給食は、農林省から頼まれて、余った米の始末のために始めたはずである。それを今頃になって、米食推奨絵本の助言指導とは聞いてあきれる。もっとも、私の食べた給食には、膾(なます)に脱脂粉乳に、まずいパンという取り合わせもあったから、文部省の罪は、日本の食文化を破壊したことかもしれない。

 ともあれ、かくして、瑞穂の国の米消費量は、戦後一貫して低下し、食文化は破壊されてきたのである。この絵本は、理事の権限で、廃品回収に出すつもりである。

賽の河原 さいのかわら

子どもが死後行き,苦を受けると信じられた,冥土の三途(さんず)の川のほとりの河原。子どもは石を積み塔を作ろうとするが,大鬼がきてこれをこわし,地蔵菩薩が子どもを救う。塞の神(道祖神)信仰と地蔵信仰の中世以来の習合とみられ,仏典には典拠がない。

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