虚礼廃止

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 虚礼廃止と称して、年賀状、暑中見舞い、歳暮、中元の廃止を主張する者がいる。派手な葬式や結婚披露宴を批判する者がいる。オレから見れば、ガキの屁理屈だが、理屈を装うと屁理屈でも意見とやら呼ばれて、結構支持者が集まる。

 この社会は、怪しげなお約束事によって、かろうじて成り立っている。怪しげなお約束事が必要なのは、我々が、嘘つきで、猜疑心や欲望といった、正しくも立派でもない感情を持っているからである。そういう感情を持つ方が悪いというのは勝手だが、ほとんどの人間が持っているのだから仕方ない。

 もし、自己中心的な我々が、何かのはずみで感謝の気持ちを持っても、心そのものは見せられるはずもない。口に出しても、ふだんから、嘘もつけば悪口も並べているから、信用されない。それでも、手間と金をかければ、感謝の心はともかく、その手間と金だけは、本物である。感謝の心など届かなくても、はがきと品物は確実に相手に届く。どうせ人の心など移ろいやすく、当てにもならず、忖度(そんたく)しても詮無い。それならば、感謝の心は問わず、歳暮中元、時候の挨拶状、いずれ形で済まそうというのが大人の知恵というものである。祝いの心、弔いの心を、手間とお金で表すのも、また然り。

 私の祖母は、季節になると、幼い私の手を引いて歳暮や中元を届けた。どうして届けるのかと問う私に、日頃の感謝の気持ち云々とは答えなかった。ただ、「物を貰って怒る人間はいない。」と言った。それ程学のある人ではなかったが、人間というものをよく知っていた。 

 暑中見舞いに年賀状、中元歳暮、結婚式に葬式、どれも、多くは虚礼である。しかし、お約束事で成り立っているこの世の中で、虚礼を廃止などしたら、社会そのものが崩壊する。