美 人

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 かつて、あるテレビ番組に、ハーバードビジネススクールに在籍する学生(といっても大半は30才前後)が夫婦で20組ほど登場した。このビジネススクール、欧米の経済界のエリートを養成する最難関の学校で、学生の国籍も欧米先進各国に及んでいる。

 この番組を視る限り、エリート学生の奥さんは、ほとんどが美人だった。人間は平等だというが、それは電車賃や選挙権の話、生まれながらの才能や器量にまでは及ばないことを思い知らされた。そして、才能や器量の差は、後の人生に少なからぬ影響を与えるということも。

 そういえば、昔、母と叔母の女学校の卒業写真を見たときのこと。美人とおぼしき写真の主が、どこへお嫁に行ったか尋ねたとき、やはり、美人は、社会的経済的に恵まれた人のところへ嫁いでいた。

 しかし、世の中には、優れた才能や器量を認めたがらない人がいる。彼らは、「人間は平等なのだから、才能や器量の優れている人間は、その分、普通の人より欠点も多いはずだ」と考える。人間の平等を証明するという大義の下、嫉妬の炎を燃やしながら、世の才能ある人、美男美女の、欠点探しアラ探しに熱中する。そして、自分より優れた人や、美しい人をあしざまに言うことで、自分と同じところまで引きずりおろして、安堵する。

 テレビのワイドショーが、エリートと美人の絡んだ事件を好んで取り上げるのも、こういう嫉妬深い人がいるからだろう。