鉄人は、何故に峠を越えるのか

 鉄人・賀曽利の「峠越え」が、この号で最終回を迎える。23年に渡る連載の間に越えた峠は1021。それだけでも途方もない記録なのに、並行して世界ツーリングを何度もこなしているのだから、賀曽利さんは、まさに「鉄人」である。
 長い歴史を誇り、多くのファンを持つ「峠越え」が終わってしまうのは、熱心な一ファンとして、とても残念だ。そんな思いも込めて、今回は、賀曽利さんと一緒にツーリングして、夜はたき火を囲んで、「峠越え」にまつわる思い出などを語ってもらうことにした。

 

俺のバイクライフは「峠越え」から始まった
 俺がオートバイに乗り始めたのは、賀曽利さんが「峠越え」を始めて二年目にあたる21年前だ。最初に愛車としたのは、スズキのハスラー125で、これは、賀曽利さんの記事に影響された選択だった。
 当時、俺は、一人で自然の中に入っていける道具として、オートバイを考えていた。そこで、どんなマシンがいいかと、O誌を買って研究することにした。その中で、賀曽利さんの存在を知り、彼が過酷な世界ツーリングと「峠越え」の相棒として、ハスラー250を使っているのを見て、「俺を山に運んでくれるのは、こいつしかない!」と、ハスラーに決めたのだ。まだ免許とりたての俺は、250を操る自信はなくて125に落ち着いたのだが…。余談だが、当時のO誌は、新人編集者の風間深志さんが、「オフロード天国」をスタートさせ、林道ツーリングの世界を開拓しはじめていた時期でもあった。
 俺のまわりの連中はサンパチとかヨンフォアで夜の街道を突っ走るのが普通で、一人孤独に山を走る俺は、変人扱いされた。だけど、独自の道を行く賀曽利さんの生き方をO誌で観て、俺もこれでいいんだと、そんな外野の声はまったく気にならなかった。なにしろ、たった一人、オートバイでサハラ砂漠を越えたり、アジアハイウェイを走破したり、縦横無尽に世界中を駆け巡っていたライダーは、賀曽利さん以外にはいなかった。そして、今度は日本に目を向けて、「峠越え」というユニークな企画に邁進するその姿は、チャレンジャーとして光り輝いていたのだ(もちろん、今でも輝いているゾ)。
 俺は、賀曽利さんの後を追いかけるつもりはなかったが、O誌の記事ににじみ出る孤高のライダーとしてのその姿勢には心底共感して、賀曽利さんを手本にしてオートバイとつき合ってきた。
 それが、いつのまにか、賀曽利さんや風間さんと同じ世界で仕事するようになり、ときには一緒に取材するような立場になっているのだから、人生、何が起きるかわからない。

「峠越え」が、鉄人・賀曽利の新しい世界を拓く!
 賀曽利さんが「峠越え」の連載を始めたのは、三度に渡る世界ツーリングを終えた27歳のときだった。奢りという言葉からはもっとも遠い鉄人・賀曽利も、このときはまだ若く、世界中を隈なく回ったという自負から、「もう自分にとって未知の世界なんてありゃしない」と思い上がっていた。同時に、長年の夢を果たして、次の目標を見失ってもいた。そんなとき、世界ツーリングの記事を掲載したO誌との打ち合わせの中で、「峠越え」の案が浮上した。
 自信に満ち溢れた若い鉄人・賀曽利は、「狭い日本の峠なんて、一年もあれば全部走破してしまうさ」と、たかをくくった。
 だが、いざこの企画がスタートしてみると、予想もしない展開となった。
「海外というのは、案外平らなんですよ。海外をオートバイで走ると、途方もない平原を延々アクセル開けっ放しだったり、山道でも、延々登りが続いたかと思うと、今度は延々下りが続いたりする。単調なんですね。それが、日本は、山国だから、曲がりくねってアップダウンが多い。一つの峠を越えても、また次の峠がある。しかも、峠を境に、空気が変わったり、自然がガラッと変わる。それに、峠を挟んで、こっちの里と向こうの里では、習俗や文化がまったく違ったりするんですよね。それが、新鮮で、たちまち虜になりました」
 若き鉄人・賀曽利は、「峠越え」をはじめたことで、自分の故郷である日本の魅力にあらためて目覚めたのだという。そして、はじめは、高をくくって始めたこの企画に次第にのめりこんでいった。
 そういえば、俺にも同じような経験がある。しばらく海外の殺風景な自然の中に身を置いて日本に戻ってきて、自然が瑞々しい青さに溢れていることに感動し、素直に、この繊細な自然がかけがえのないものだと思えた。二十代の大半を海外の過酷な自然の中で過ごした賀曽利さんなら、その感動もひとしおだったろう。
 「峠越え」をきっかけに、30代の賀曽利さんは、主に日本に目を向けることになった。
 俺が、O誌を初めて手に取り、賀曽利さんの存在を知ったのは、ちょうどその頃だったわけだ。

後先考えずに、とにかくはじめてみることだ
 じつを言うと、賀曽利さんと俺の付き合いは、けっこう古い。
 オートバイライフの師ともいえるこの人に初めて会ったのは、もう15年近く前のことだ。そのとき俺は、晶文社から刊行された『オフロードライダー』という本の編集をしていて、賀曽利さんに直に話しを聞くことになったのだ。はじめて会った賀曽利さんは、じつに気さくで、ダイナミックでユニークな旅の話しをたくさんしてくれた。そのことで、俺はますます賀曽利さんのファンになった。
 この本では、他に、風間さんと先年惜しくも逝去された西野始さんを紹介した。三者三様の孤高のツーリングライダーの足跡と生ざまは、本を取りまとめていた俺自身にとって、たいへんな勉強になった。
 この本を編んだ頃は、ちょうど最初のオートバイブームの頃で、巷にはカタログ誌の体裁のオートバイ雑誌が溢れ、ニューモデルやスタイルばかりが取り上げられていた。
 オートバイに乗ることだけで不良のレッテルを貼られ、後ろ指さされながらも突っ張って乗っていた俺としては、急にぬるま湯に浸かったみたいで気分が悪かった。そんな中、三人の骨のある孤高のライダーの生きざまは、俺自身の生き方の指針となった。
 世間がどうあろうと、自分のいいと思うことを貫き通していけばいい。目標を立てて邁進すれば、自然と結果はついてくる。はっきり言葉に出すのではなく、彼らは、自らのいきざまで、そう語っていたのだ。
 実際、その後も、賀曽利さんはご存知の通りの活躍だし、風間さんは南北両極をオートバイで制覇するという快挙を成し遂げ、西野さんはビジネスの世界に転じて、アジア諸国に薬局チェーンを展開する実業家として成功した。そして、三人とも、そんな結果を自負することもなく、常に先を見続けている。
 賀曽利さんとは、その後、いくども一緒に取材させてもらったり、話しをさせてもらうようになった。
 賀曽利さんからは、ほんとにいろいろなことを教わったが、いちばん印象的なのは、ものごとは、後先のことなんて考えずに、とにかくやってみることが大切だということだ。
「峠越えをはじめた当初は、ほんとに何も考えてなかったんですよ。それが、回を重ねていくうちに、峠というものの持つ意味もわかってくるわけです」
 かつて、峠は、里人にとっては、異界へとつながる恐ろしい場所で、そこを越えて向こう側へ行くことは大冒険だった。だが、山武士や猟師、山人たちは、尾根筋を生活の道としていて、峠はただの通過点、鞍部にしかすぎない。峠で里人と山人が出合えば、里人にとって山人はまさに超人的な異人に見える。そこから、伝説が生まれる。だが、ときには、里のものと山のものとを交換するために、峠が使われ、それが次第に市に発展することもあった。
「峠ってね、ほんとに深いものがあるんですよ。そういったことを知ると、さて、次の峠はどんなところで、どんな歴史があるんだろうと、興味がどんどん湧いてくるんですね」
 賀曽利さんは、はじめから、そういう峠にまつわる文化的側面を意識していたわけではない。はじめは、やみくもに数をこなしていて、次第に、体で雰囲気を感じるようになり、それが興味をわきおこし、歴史をひも解くようになる。そして、歴史や文化についての理解が深まると、さらに興味の幅は広がり、どんどん知識の奥行きが増していく。
「峠越えをはじめたおかげでね、旅がずっと面白くなったんですよ。どんな動機でもいいんですよ。とにかく、やってみること。やってみないことには、なにも始まらないんだから」
 ほんとにそうだ、俺もつくづくそう思う。そして、あえて一言補足させてもらうとすれば、他人は当てにせず、なんでも一人でやってみろということだ。俺の好きな登山家で、やはり鉄人と形容されるラインホルト・メスナーという人がいる。彼は、こう言っている。
「大パーティで、細かい分業をこなしながら、スケジュール通りにエベレストに登るよりも、少年が遠くに見える山にあこがれ、一人でそれに立ち向かうほうが、より価値のある行為だと思う」
 少し横道に逸れたが、賀曽利さんは、「峠越え」を長年続けるうちに、最近、その峠が廃れつつあることを痛切に感じているという。
 どこも、九十九折の道で峠に登るのではなく、ショートカットでトンネルを貫く形になり、旧道の峠道が廃道になっているのだという。
 でも、そんなことですぐに悲観する鉄人・賀曽利ではない。
「でもね、トンネルでも結局同じなんですよ。トンネルの向こうとこっちでは、文化も空気も違う。その味わいもまたいいんです」
 トンネルはトンネルなりに楽しみ、だけど、峠越えもしぶとく続けていくとのこと。
「2000峠は、なんとしても達成しますよ。1000峠まで23年で、これから20年として、70歳。杖をついて、這ってだって登りますからね」
 70歳では、鉄人・賀曽利は、まだまだ杖なんかついていないだろう。
 賀曽利さんに負けずに、俺達も自分なりの「峠越え」をみつけなきゃな!


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