04/12/25

 ぼくにとって海は、自然の怖さを見せつける恐ろしいものであり、同時にとても懐かしい、思い浮かべるだけで心が安らぐものだ。

 ぼくが生まれ育った鹿島灘の海は、黒潮と親潮が沖合いでぶつかり、その渦が遮るもののない広大な砂浜に押し寄せる。波は浅瀬に乗ったところで波頭から砕け、砂浜にものすごい圧力で叩きつける。そして、叩きつけた波はそのままの勢いで、今度は激しい引き潮となって沖へ駆け戻っていく。

 そんな波の荒さに加え、渦を巻いた親潮が「冷水海」となって岸近くまでやってきて、そこに嵌ると、周囲から10度以上も低い水温に心臓が瞬時に止められ、あり地獄に落ちた獲物のように、引きずり込まれ、そのまま引き潮によって沖までさらわれてしまう……。

 夏の海では、この海の「生理」を知らない者が、開放的な気分で海に飛び込んで、瞬時に藻屑となって消えてしまうという事故がひっきりなしに起こる。そんな犠牲者が潮の向きでたまたま岸に打ち上げられると、それは無残に膨らんで人の姿はとどめていない。たまたま、夏の朝に波打ち際を歩いていてそんな躯を何体か発見したこともあった。

 そんな恐ろしい海の側で育ったせいで、泳ぎはからっきしできないし、水を見るだけで怖い。

 だけど、不思議に海が好きなのはどうしてだろう。

 ちょうど今時分、真冬の夜には、海から直線で5kmほど離れた実家では、波が砕けて打ち寄せる凄絶とでも形容したら良さそうな冷たく硬い音が張りつめた空気を震わせて伝わってくる。身震いしそうな冷たく硬い音なのに、何故かその音を聴くとほっとして気持ちが安らぐ。

 そしてとりわけ、冬の誰もいない海が好きだった。

 ところが、そんな人を拒絶するような海が、今ではだいぶ様子が変わっている。海の荒々しさは昔と同じなのだけれど、そこには一年中、ウェットスーツを来てロングボードに乗ったサーファーが浮かぶようになった。

 気まぐれな波に翻弄されて、ほとんどのサーファーはなかなか旨いタイミングで波頭を捕まえることはできないけれど、彼らはウェットスーツに身を守られているおかげで冷水海によって瞬時に心臓を止められてしまうこともなく、かえって水温の急な変化に気を引き締められて、海を実感しているようだ。

 ぼくは、さすがに四十の手習いでこれからロングボードを始めようという気持ちはないが、この幼い頃から畏れを抱いていた海に波乗り用のシーカヤックで臨んだらどんなに面白いだろうと想像してしまう。

 というのも、この数年の間にシーカヤックで海に浮かぶ機会が何度かあって、ぼくの海に対する先入観が変わって、自分のテリトリーというか守備範囲のフィールドとして「海」がかなり身近に意識されるようになったせいもあるだろう。

 先日は、四国の里山でGPSを使ったクエストイベントを行ったが、その事前の準備で山に登って見下ろした瀬戸内海にシーカヤックで漕ぎ出してみたいと切実に思った。

 イベントの後、台風のような嵐が通り過ぎて、瀬戸内にしては珍しく荒れた海を見て、故郷の鹿島灘の海とサーフカヤックで戯れる自分の姿を想像した。

 ほんとうは、ぼくは海が好きだったのかもしれない。

 

―― uchida

 

 

 

04/12/21
1ヶ月雑感

11月某日
 エンデューロバイクの試乗と雑誌の対談を兼ねて訪れた入間川の河原で、空一面に広がるうろこ雲に見とれる。成層圏に近い高層に浮かぶうろこ雲は、ただの青空よりも視覚的に空の奥行きを増して、地球の丸みを実感させる。
 ふと、「天蓋」という言葉が思い浮かぶ。
 青空を見上げていたのでは実感できない空気の層が地球を覆っていて、ぼくたち生物を守ってくれている。もしオゾン層や電離層といったものが人間の目に見えたら、それを損なうような環境破壊に邁進しただろうか?

11月某日
 冒険ライダーの風間深志さんが主催する「地球元気村」の幹事会に呼ばれ、オブザーバーのような形で出席する。
 アウトドアブームのときには、有名人が顔を揃えて、「みんなで一緒に自然の中で遊ぼうぜ!」と呼びかけるだけでたくさんのお客さんが来たが、いまはもっと奥深いテーマ性が必要だ。
 全国各地の「地球元気村」は規模が小さくなり、リピーターもほとんどこない。そんな中で成功しているのは、パラグライダースクールを運営するアウトフィッターが中心になって、「お客さんが満足できるアウトドア体験」を売りにした岡山県大佐町と、「外部の人間に来てもらわなくてもいい。我々は自分たちの土地の良さを再認識するのだ」と「外」ではなく「内」に対象を求めて自分たちのためにイベントを企画した高知県由岐町のケース。
 「どうしたら人を呼べるのか」という営利主体の発想では、もう人は寄りつかない。
 林野庁の役人がゲストとして、ドイツの「森林レクリエーション」を日本に導入するために活動していると、レクチャー。オリジナルの発想ゼロ、とぼけた箱モノ行政……居並ぶ各地の自治体の関係者は、「林野庁版グリーンピアじゃないか」とけんもほろろ。呆れるばかりの中央官庁のバカさ加減。

12月某日
 四国・野遊び屋とのジョイント企画「GPSで遊ぼう in 四国」を開催。前日に神戸で野遊び屋の吉川氏、神薗さんと待ち合わせ、車で出発したとたん背後からドカン……オカマを掘られる。
 イベント当日は生憎の空模様だったが、20人近い人に参加していただき、GPSという新しいツールを使ったトレジャーハンティングを存分に楽しんでもらった。昔、SEGAでゲーム開発の仕事をしていたときに、「いつかバーチャルで完結するのではなく、リアルワールドとミックスして楽しめるゲームを企画したい」と思ったが、その一つの形がはっきりと見えた。
 追突事故で始まった四国行きは、なんと、帰りは冬の嵐による飛行機の欠航というオチがついた。もっとも、そのおかげで、野遊び屋の面々と、いろいろな企画の話を詰めることができた。

12月某日
 帰京するやいなや、雑誌の年末進行の嵐に巻き込まれて、連日締め切りに追われる。WEBサイトのリニューアルやアウトドアグッズのインプレッションなど進めようと思っていたのだが、雪かき仕事に忙殺される……これをしないと路頭に迷うことになるので、忙しいことはありがたいのだが、どうしていつも自分の試みを実行しようとするときに、それを阻止するかのように雪かき仕事攻めになるのか?

12月某日
 このところ、立て続けに「内田さんて、生活感ないよね」と、面と向かって言われる。先日の四国行きでも、野遊び屋の面々に同じことを言われて笑われたが、じつは、学生時代からよく言われつづけてきた。
 あまり身辺のことに関心がなくて、遠くばかり見ているせいだろうか? 祖母はいつも「狐を馬に乗せたようなことばかり言ってるよ、この子は」と、笑っていた。赤城の山に怪しげな鉱物を探して分け入ったという山師の娘だった祖母は、ぼくが山師の血をしっかり受け継いでいると感じていたのかもしれない。

12月某日
 神戸の「Finetrack」から新製品のベースレイヤー(アンダーウェア)「フラッドラッシュ・スキン」とミッドウェア(インナーウェア)「ブリーズラップ」、「ツエルト」が届く。いずれも、まったく新しい発想の防水透湿素材を用いたプロダクツで、久々にアウトドアシーンに革命をもたらす製品。
 四国のイベントに参加してくださり、その後、忘年会で朝までアウトドア談義で盛り上がったFinetrack金山社長と上野氏の心意気がそのまま形になったもの。やはりアウトドアギアは、しっかりと自分がフィールドを堪能する人間が手がけなければいけない。
 フィールドを熟知して、さらに堪能するためにどんなギアが必要なのか、その機能を追及したギアには説得力がある。
 この冬は、Finetrackのウェアを身にまとい、ツェルトを持ってフィールドにどんどん繰り出すつもり。とりあえずは、来月下旬の八ヶ岳スノーシューツアーで活用。

12月某日
 野遊び屋吉川氏と神薗さんが上京し、一緒にGARMIN-GPSの正規代理店「いいよねっと」さんに挨拶に行く。正規代理店といっても、ただ製品を輸入しているのではなく、GPSの日本語化と日本地図の搭載をプロデュースする「GARMIN日本版」の仕掛け人。
 いいよねっとの社長、真鍋さんもプロダクツに思い入れをもって、納得する製品を生み出す職人気質の人。10月の若狭のイベントでも今月の四国のイベントでもお世話になり、個人的には「ツーリングマップル」の取材や、各種二輪媒体でのツーリング取材、「レイラインハンティング」などで、とてもお世話になっている。
 実用的な日本地図が実装されずに世界標準から外れてしまっていたGPSを世界レベル以上の「日本版GPS」として実現して、今、アウトドアの世界に急速に普及させつつある。
 ここでも新製品のカラー版GPS「MAP60CS-J」を披露してもらう。
 今まで、ぼくはトレッキングやレイラインハンティング用にeTrexVista-Jとツーリング・車戴用にGPS-V-Jと使い分けてきたが、これからはMAP60CS-J一つに統合することに。
 いいよねっとでは、これから日本版「ジオキャッシング」などもプロデュースしていく予定とのことで、足並みを揃えて、いろいろ面白いイベントを開催していくつもりだ。

 といった感じで、なにやら慌しく過ぎてしまった一月だったが、振り返ってみると、うれしい出会いもたくさんあったし、後になって笑えるトラブルも薬味のようにあって、充実した時間を過ごしてこれた。人と相対してコミュニケートするのはやはり大切だ。

−1ヶ月で読んだ本−
「ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か」E・ゴールドラット (著), 三本木 亮 (翻訳)
「ザ・ゴール 2 ― 思考プロセス」
「チェンジ・ザ・ルール!」
「クリティカルチェーン―なぜ、プロジェクトは予定どおりに進まないのか?」
 なんと、今まで興味対象外だった経営工学モノにどっぷりはまる。
「ジョン・ミューア・トレイルを行く―バックパッキング340キロ」加藤 則芳 (著)
 遊歩大全の世界をやっぱり体験しなければ……。
「無名」沢木耕太郎(著)
 父親の死をじっくりと看取ってあげながら、その人生について思いを巡らす沢木耕太郎が羨ましい。ぼくは、あっけなく、なにも語らずに逝ってしまった父親を思い出した。

 

―― uchida

 

 

 

04/11/19
ピュアな精神

 昨日、パタゴニアが主催する「バンフ映画祭」を観た。

 カナダ・アルバータ州のバンフで毎年開かれるアウトドアに関わる内容の作品を公募してコンテストする映画祭。そのうちの話題作を集めて、全世界を回っている。

 1930年代から60年代にかけてのヒマラヤ、カラコルム挑戦の記録。ホワイトウォーターカヌー、エクストリームスキーの息を飲む映像。中国チベット自治区からまともな教育を受けるためにヒマラヤを越えて亡命していく子供たちの記録。1993年にヨセミテで死んだソロクライマー、Derek Herseyのドキュメンタリー。そして、ロッククライミングが大好きな不思議な犬のショートフィルム。

 大自然と向かい合うそれぞれの人間(動物??)は、みな立場も気持ちも違うけれど、共通しているのは、「未知」への憧れと希望だ。

 初期の高所登山は、すべてが未知の領域だった。ルート偵察と工作、高所医学、そして異文化に生きる人間どうしのコミュニケーション……。チベットを逃れる子供たちは、二度と両親と会えないことを知りつつ、自分の命を掛けて峠を越える。それをサポートするダライ・ラマの亡命政権は、そのままチベット自治区に留まっていては教育を受ける機会の無い子供たちに教育を受ける機会を与え、チベット人の意識をしっかりと確立することで未来の独立を実現しようとしている。

 ホワイトウォーターカヌーやエクストリームスキーのフリークたちは、脳天気にゲレンデを駆け下り、危うく命を落としそうになりながらも、「今のは、マジ、やばかったゼ」と笑い飛ばす。

 Derek Herseyは、色褪せたフィルムの中で、目もくらむような岩壁にロープもなしにたった一人でとりついて、舞うように登って行く。そして、登頂後のインタビューに「心でリズムを刻みながら登るんだ」と乱杭歯を見せて高らかに笑う。

 みんな、ただひたすらに人生を攻撃的に生きている。何かを抱え込んで、後生大事に守ろうとしている奴などいない。自分の全てを一瞬に掛けている。

 そんな人間たちの姿を見ているうちに、胸が熱くなってしまった。自分もかつては小賢しいことはなにも考えず、ひたすら山に登っていたのではなかったか? 昔の自分のピュアな意識が蘇ってきて、今のつまらないものを抱え込みすぎた自分が恥ずかしくなった。あの頃の自分が、今の自分に出会ったら、まちがいなく軽蔑するだろう。

 いつ、自分は人生の「宝」ともいえるそんなピュアな心を捨ててしまったのか……。このフィルムに焼きつけられた人間たちのように、またひたむきでピュアな心性を取り戻せるだろうか……。

 Derek Herseyがヨセミテで墜落死した後、クライミング仲間が初めて彼の部屋を訪れると、そこには擦り切れたマットが敷かれた古いベッドと、ボロボロの服が数枚あっただけだったそうだ。

 Derek Herseyの最高に幸せだった人生を思うと、目頭が熱くなった。

 

―― uchida

 

 

 

04/11/17
夕焼け

 夕方、MTBで多摩川沿いのサイクリングロードを走っていて、富士山に沈んでいく夕陽に出くわす。思わず、見とれてしまう。

 山頂の中心からはやや左にずれたところにゆっくり沈んでいく太陽を見ていると、まず、地球の自転速度の意外な速さに驚いてしまう。真丸の太陽が山入端にさしかかってからとっぷりと落ちるまでほんの5分ほど。そのスピードで自分の足元が動いているのかと思うと、めまいがしそうだ。

 富士山の向こうに日が隠れても、まだ地平線に没したわけではないので、空の色に変化はない。そのまましばらく眺めていると、次第に空が色づいてきて、はるか高い成層圏近くにある絹層雲が金糸を流したように鮮やかに染まる。そして、その背景の空は見事な茜。

 今日の空はその茜が滲むように広がっていって、全天がオーロラのように輝いた。絹層雲は悪天候の前触れだけれど、天気が安定している時よりも、こうした変化を前にした刹那のほうが断然美しい。

 ふと、変化をすることは大切なこと、自然にとっても人にとっても必要なことだと思った。そんなことは元々わかっているはずなのだが、こういう光景を前にすると、あらためて新鮮な気持ちでそう思う。

 富士山にかかる太陽を目前にしたとき、カメラをもっていないことを、ぼくが持っている旧式の携帯電話にはカメラ機能がないのが残念に思った。だが、すぐにそんなものを持っていなくて良かったと思いを変えた。

 こういう光景は、お手軽に写真になど撮るものではない。

 ファインダーを覗いてせっかくの広がりがある光景を狭めてしまっりたりせず、あらゆる感覚を開いて丸ごと「体験」として味わうべきなのだ。

 

―― uchida

 

 

 

04/11/11
自殺

 従兄弟が死んだ。自殺だった。

 ぼくより4歳年下の彼は来年40歳になるはずだった。

 子供の頃に一緒に遊んだ記憶はあるが、最後に会ったのはもう30年も前のことで、その後はたまに親戚の話から消息を知るだけだった。

 数年前、ぼくの父親の23回忌に叔父と会ったとき、従兄弟がぼくのことをとても懐かしんでくれていると聞かされた。定職にも着かず、勝手気ままな人生を送っているぼくに対して、彼は大学を出ると銀行に就職し、さらに市役所に転職し、結婚して子供を二人授かり、堅実な人生を歩んでいた。「一成さんは逞しく生きてていいなぁ。憧れだよ。ってあいつは常々言ってるんだよ」。ちょうどその頃、ぼくは自分が危うく命を落としかけて『中年の危機』を脱したばかりで、従兄弟がそんなふうにぼくを見ていると知って、複雑な気持ちになった。

 あのとき、あるいはその後に何かの機会で従兄弟と直接対面していたら、ぼくは彼に、自分が向かえた危機のことを話せたかもしれない。

 ちょうど40歳を迎える頃、ぼくも生きる気力を失っていた。

 このコラムでも当時少し触れたが、あらゆることがうまく行かず、人に翻弄され、自分の立場や気持ちを理解してくれる人間もおらず、生きる上での目標も張りあいも失っていた。

 ぼくの場合は、天邪鬼だから自殺など考えなかったけれど、生きることへの執着というか欲求が完全になくなっていて、何をするにも「これで死ねれば本望だ」とばかりに、そうとうに無茶をした。そんな中で、自爆ともいえるようなオートバイ事故を起こし、死にかけることでようやく我に返った。

 事故の怪我がある程度癒えて、実家に顔を出したとき、「あの事故は、鬱陶しいこの世からすっきりおさらばしたくて自分で引き起こしたことかもしれない」なんて物騒なことをぼくが言うと、テーブル越しに座っていた母が急に真顔になって、「お父さんもね、40歳くらいのときに、しきりに疲れた疲れたと言って、元気がなくてね。この人は自殺するんじゃないかって思ったことがあったよ」と、遠い思い出を語った。

 その母の話から、ぼくは幼いときのある光景を思い出した。いつもなら、父はまだ布団の中でまどろんでいるぼくの手をつかんで「行ってくるぞ」と握手して、すぐに足音を響かせて出勤していくのに、握手に続く足音がしない。それが気になって幼いぼくは目がさめてしまった。そして、布団を抜け出して玄関に行くと、そこに大きな背中を丸めて座っている父の姿があった。その背中から立ち上る寂しげな雰囲気に声もかけられずただじっと見ていると、父は、大きくため息をついてようやく腰を持ち上げ、うつむいたまま振り返りもせず出かけていった。

 だれでも「中年の危機」といったものはあるだろうが、もしかしたら、ぼくの父方の家系では、かなり深刻なものとしてそれがおとずれるのではないかと、そのとき、母の言葉と自分の思い出の中の父の姿を重ね合わせて思った。

 同じ家系の血が流れているだけに、従兄弟と直接会って話をしたら、彼が中年の危機を乗り越える役に立ったのではないか……。

 死の状況が状況だけに、従兄弟については断片的な話しか伝わってこない。仕事のことで行き詰まり、家庭も彼に安らぎを与えるというよりは追い詰める場になってしまったらしい。責任感が人一倍強い彼は、自分の窮状を誰にも相談せず、一人で抱え込み、自分を八方塞がりに追い込んでしまった。

 それにしても、残された子供が不憫だ。そして、穏やかで家族思いの叔父の顔を思い浮かべると胸が詰まってしまう。叔父は、ノンキャリアから叩き上げで上級公務員になり、模範的な父親として子供たちを立派に育てあげた。現役を引退してからも民間で仕事を続けて家族を守り、最近になってようやくリタイアし、好きな神社仏閣めぐりをしながら、孫の成長を優しく見守りはじめたところだった。

 いまさら何を言っても仕方がないが、せめて、従兄弟の魂が現実で味わった苦しさや辛さを忘れて安らかに成仏することを願う。

 

―― uchida

 

 

 

04/11/06
若狭不老不死伝説

 ちょうど一週間前、10月30、31日は、ぼくが運営しているもう一つのサイト「レイラインハンティング」で呼びかけた若狭ツアーを行った。

 レイチェル・カーソンが「センスオブワンダー」で、自然界の営みの不思議を知ることが人生を豊かにしてくれることを説いたが、そこには、目に見える自然だけではなく「感じる」自然、SuperNatureに触れてそれに畏怖する喜びも含まれていた。

 古の人たちは常に自然とともにあり、人智を越えたその息吹の中に信仰を見出したり、あるいは物語を生み出してきた。

 自然破壊が進み、SuperNatureの息吹どころか当たり前の自然の姿すらほとんど見ることができなくなってしまった今、ぼくは、古の人たちが残してくれた物語やその足跡を手がかりに、彼らが感じていたSuperNatureの息吹を感じなおすことが、人と自然が再び共生できるようになるための一つの方法ではないかと思っている。

 その実践の一つがレイラインハンティングなのだが、長く個人的な実践を続けてきて、そろそろ自分の手法をWEBや活字を通して「知識」として知ってもらうだけではなく、自らが実践してSuperNatureを感じ、古の人の気持ちを追体験してもらうような機会を設けるべきではないかと感じた。その最初の試みが、「若狭不老不死伝説」ツアーだった。

 御神島、常神半島、神子……神という言葉と神秘的な伝説、そして幻想的な風景が広がる。三方石観世音、瓜割滝、鵜の瀬……いずれも聖水が湧き出す場所であり、不老不死の妙薬を求めた空海の足跡が残る。人魚の肉を食べて不老不死となってしまった少女の悲しい伝説「八百比丘尼」。さらには、御神島−平安京−平城京−藤原京−熊野と結ぶレイラインの頂点という位置。奈良東大寺二月堂の「お水取り」の儀式に繋がる鵜の瀬「神宮寺」の「お水送り」。秦の始皇帝の命を受け、大陸から渡来した徐福が残した足跡。

 空海、八百比丘尼、徐福の三者は「不老不死」というキーワードとともに、その足跡がここ若狭で交錯する。さらに、他にもこの地にまつわる伝説は数多い。

 実際に若狭の土地に立ち、空海や八百比丘尼や徐福がどんな気持ちで若狭の風景を眺めたのかを想像しながら、実際の風景に重ね合わせる。そして、水を飲み、風に吹かれ、生き物や木々や波の音に聴き入る。

 そんな時間に身を委ねると、自分の中で確実に変化するものがある。

 天気予報では100%の降水確率が告げられていた日曜日。ツアーの間中、穏やかな陽射しがぼくたちを見守ってくれていた。

―― uchida

 

 

 

04/11/05
MTB改街乗りバイク

 慌しい秋……とでも形容したらいいのだろうか。前回書いた台風の後にまた台風がやってきて、さらには新潟の地震、イラクの人質殺害事件、アメリカ大統領選挙、次々にやって来る事態に対する対応に社会が汲々とさせられている。

 マクロレベルがそうなら個人的なレベルでも、ルーティンのことに加えて予定外の出来事が起こって、その対応に迫られて汲々とする秋だった。

 こういうときバランスを取るのは無機物に向かうに限る。10月の下旬に、ふと思い立ちずっと雨ざらしにして腐りかけていたMTBのレストアをはじめた。タイヤ、ホイールを外し、ギアやらワイヤーやらを磨き、破れかけたグリップを外して新しいものに付け替え、サドルも補修して、さらにはタイヤやチューブを新しいものにして……。

 同じモデルでサイズ違いのMTBが二台あるのだが、この二台を徹底的に整備して乗れるようにした。タイヤは街乗りしやすいようにセミスリックにしたが、ブロックタイヤと比べると摩擦抵抗が少なくて、滑るように舗装路を走っていける。

 ブロックタイヤを履かせていた以前の仕様だと、跨る前にコースをあらかじめ決めて、跨ったら、向かう先は多摩川の河原ばかりだったが、街乗り仕様にしてからは、街で用を足すときのほとんどはMTBに跨り、また気分転換にフラッと当てもなくMTBに跨って出かけるようになった。

 乗るものにそれなりの心構えや緊張感を持たせる乗り物もいいけれど、こういう気軽な乗り物もいいなとあらためて思う。なんといっても、気の向くままに街を走って、身近で今まで出会わなかった風景に出会えるようになって、世界が広がった……というか今までのっぺりしていて表情を感じられなかった自分の周りの世界に微妙な襞やら彩りが感じられるようになったのがうれしい。

 そもそもMTBをいじろうと思ったキッカケは、ソーシャルネットワークで知り合った人が最近流行のスポーティなフォールディングバイク(折りたたみ自転車)で、本格的なサイクリングを楽しんでいたかと思ったら、簡単に折りたたんで電車に積み込んで移動し、そのまま街乗りをする新しい輪行の形を実践していて、その姿に自転車本来の自由さを感じたからだ。

 いずれは彼のように軽くてスタイリッシュなフォールディングバイクで、旅と街乗りを合わせた輪行をしてみたいが、今のところはMTB改のシティサイクルで街を流すだけで十分満足している。

 さて、郵便局で用を足して、駅前のマクドナルドで朝食食べて、図書館に用意されている予約本を取りにいこうかな。もちろん、自転車で。

 

―― uchida

 

 

 

04/10/15
晩秋の台風

 ようやく秋の長雨も一息ついたようで、今日は清々しい陽射しの一日だった。

 だが、風はもう冬の気配を含んでいて、油断していると体の芯まで冷えてしまう。昼間の陽射しの暖かさの記憶のままに、夜、薄着でバイクに乗ったら凍えてしまった。

 日もどんどん短くなっている。それなのに、また台風だ。

 そろそろ二十四節季の「霜降」。季節はもう晩秋といってもいい。いよいよ異常気象も極まって……と、このところ常套句となった言葉を継ごうとして、「そういえば」と思い出した。

 10月19日はぼくの父親の命日だが、今から25年前の10月19日も台風が関東を直撃して通り抜けていった。

 父親が危篤との知らせを前日に受け、ぼくはその日最終の夜行電車に飛び乗ってなんとか病院に辿り着いた。すでに父は意識がなく、医者は、「このニ、三日が峠です」と言った。

 夜の病室はとても静かだった。それが、外が白み始めると同時に風雨が強くなり、昼を過ぎる頃には強風に引きちぎられた木々の枝葉と大波のような雨が窓に叩きつけ、建物が揺れるほどだった。ちょうどそのピークのとき、突然、父は意識を取り戻した。そして、「どうしておまえがここにいるんだ。早く東京へ帰れ」と、やけにはっきり言って、病室から出て行けとでも言うように手を伸ばした。

 そして、また突然、伸ばした手がパタンとベッドの上に落ち、こと切れてしまった。父が息を引き取ると同時に、風雨は止み、嘘のような青空が覗いて、眩しい光が病室に射しこんだ。

 霊柩車に父親の亡骸を納めて、入院したときと同じ道を辿って帰宅する途中、息を飲むような夕焼けに前方の空が染まった。

 当時中学2年生だった妹は、嵐のせいで病室に駆けつけられなかった。幼馴染に体を支えられるようにして待っていた妹に、ぼくは、「親父、死んじゃったよ」と、ただ一言だけ告げた。大のお父さん子で、テニス部のエースで、気丈だった妹は、真っ黒に日焼けした顔をクシャクシャにし、声を殺して嗚咽した。そのとき、家の周りを秋の虫が埋め尽くしているのではないかと思うほどの鳴き声が満ちた。

 あまりにも突然で、悲しすぎて、父親の死をそのまま受け入れることができなかったせいだろうか。病院での父親の最期の様子ははっきり覚えているけれど、それは現実感に乏しく、映画のスクリーンの上の出来事のようだった。ところが、あの日の風や光や空の色や音は、妙にリアリティを持っている。

 25年前の晩秋のあの日は、たしかに大きく強い台風がやってきていた。 

 

―― uchida

 

 

 

04/10/06
誤算

 夕方、多摩川縁へジョギングに出かける。

 素晴らしい夕焼け。稲城大橋の上から西を眺めると、オレンジ色の空に奥武蔵、奥多摩、富士山、大山と連なるスカイラインがはっきりとして、真冬の澄んだ空気の中に佇んでいるようだった。

 それにしても、今日の晴れ間は誤算だった。昨日までの気象庁の予報は、今日は終日関東から東北にかけて雨で、多いところでは100mm以上降るとされていた。昨日までの天気図を見る限りでは、当然、そうなりそうだった。

 ところが、昨日の夜、雨が止んで表で秋の虫の声が響きはじめて、「変だぞ」と思った。雨の中休みの間に、ここぞとばかりに一斉に鳴き始める鳴き方ではなくて、ゆったりのんびり、間延びしたように鳴く秋虫の声は、そのまま天気が回復していくことを予感させるものだった。

 そして、今朝起きてみれば、眩しい青空。

 「しまった!」と、思わず声を上げてしまった。今日出かければよかった。虫の声に確かな天候回復の兆しを感じ取っていながら、臨機応変に出かける準備をしなかった自分が情けなかった。

 昨日、このコラムに書いたように、停滞を余儀なくされて、感覚が……感覚に連動した意志が鈍っていたのだ。これだから、文明生活は怖い。アウトドアに身を置いているいつもの自分だったら、虫の声の中に明確に天気の変化を感じ取って、次の行動に備えていたはずだ。

 天気が良いほうに外れるのはいい。だけど、逆に、天候が急に悪化したとしたら、事前に気配を読み取れなければ……気配を読み取って行動に移していなければ、アウトドアでは悲劇的を招くことになる。インドア生活を続けて、せっかく研ぎ澄ましてきた感覚が鈍ってしまうのは、何より怖い。

 夕方、ジョギングの途中で素晴らしい夕焼け空を仰ぐと、刷毛でなぞったような高層雲が、この晴れ間は長くないことを告げていた。

 明日の夕方、身延山から富士山を拝めるかどうかは微妙なところだ。明日は早起きして、出かけよう。

 

―― uchida

 

 

 

04/10/05
停滞

 先月、23日に秋分の日の太陽を追いかけるツーリングをする予定が、当日は曇りで見送り、その後、晴れ間を待っているうちに台風がやってきてたりして、ようやくその取材ができたのが一週間後の10月1日。一日では必要な写真が撮りきれず、追加取材の必要があるのだが、また雨続き……7日がほんの少し晴れ間が見えそうなので、出かけるつもりだが、秋分からはだいぶ経ってしまった。

 天気待ちしている間は、ただ漫然と過ごしていたのではなく、デスクワークが溜まっていたからちょうど良かったのだが、ずっとアパートの部屋にこもっているせいで、身も心も鈍ってしまった。

 朝目覚めて寝袋から這い出すと、まずブラインドを開けて表を眺める。路面が濡れているのを確認して、「今日も缶詰か……」と、憂鬱になる。

 前夜のパスタソースの残りかチャーハンの残りを温め、野菜を適当に切って炒めて、朝食。サイフォンでコーヒーを淹れて、マグカップに注いで、原稿書きやら資料調べをする。

 昼は、雨が降っていたら外にでるのはおっくうなので、冷蔵庫を漁って適当なもので昼食。雨が上がっていたらコンビに弁当を買いに……。午後は、打ち合わせがあるときは、バイクか電車で出かけていき、帰りにどこかでコーヒーを飲みながら読書。

 帰宅すると、また冷蔵庫にあるもので適当な料理を作り、サイフォンでコーヒーを淹れて、それをすすりながら仕事の続き。いい加減疲れたところで、テレビを見るか本を読みながら焼酎かウイスキー。

 前回、「表に出て自然と触れ合おう!」なんてことを書きながら、思い切り矛盾した状態。お天道様の都合とはいえ、こんな独房生活は、さすがに不健康だ。……早く、晴れてくれないものか。

 エジプトで開催されていた「ファラオラリー」で、オーストリアのメーカーKTMワークスのエースライダー、リシャール・サンクが事故死した。

 1999年と2000年のパリダカをBMWのマシンで制覇し、2003年はKTMで優勝、今、もっとも乗れているエンデューロライダーだった。レースにはリスクが付きものだとはいえ、他を圧倒するセンスでミスのない走りをするレーサーが命を落とすのは、運命の皮肉としか言いようがない。F1のアイルトン・セナが衝撃的な事故死を遂げたのと同じだ。

 KTMはサンクの喪に服するため、ファラオラリーからチームを撤退させた。 

 リシャール・サンクに合掌。

 

―― uchida

 

 

 

04/09/27
「自然」と会話できる人

 また不穏な動きの台風が日本列島をうかがっている。

 23日の秋分の日に、太平洋から登った太陽を追いかけて富士山の麓まで辿るツーリングを予定していたのだけれど、本州に居座る前線のせいで伸び伸びになって、まだ出発できずにいる。このままでは、太平洋から登る朝日は真東からどんどん南にずれていってしまう……。

 週末にはなんとか晴れ間が出そうな予報だったが、今度は台風が針路を変えて、本州縦断コースへ向かっている。こうなると、晴れ間を期待するどころか、前線が刺激されてますます天気が悪くなりそうだ。

 足止めを食っているうちに溜まったデスクワークを片付けようと、この数日は部屋にこもってPCに向かい合っていた。夏に取材したデータ原稿の直しやら、企画の整理とともに、プライベートな日記(ここに公開しているものではなくて、あくまで私的な誰にも読ませないもの)を一ヵ月半もサボっていたので、遠い記憶を手繰りながら書きつける。

 どんなに前のことでも、自分が動いていてその時間が体験として身体に刻み込まれていることは、じつに克明に思い出すことができる。この夏は、けっこう旅をしたから、一ヵ月半の時間の大半は、自分がどこで何をしていて、どんなことを感じていたのかすぐに思い出すことができた。だが、そんなアクティヴな時間の記憶が鮮明なのに対して、その隙間に埋もれてしまった時間は、なかなか記憶の底から浮かび上がってこない。

 それを無理やり思い出そうとすると、なぜか不愉快な場面ばかりが浮かび上がってくる。楽しいことより辛いことや苦しいことのほうが深く記憶に刻みつけられているということなのか、それとも、本当の自分は卑屈で執念深い人間なのか、思い出そうとすればするほど、嫌な場面や言葉ばかりが鮮明になって、気持ちまでネガティヴになってくる。

 だが、そんなことを日記に書きつけて、読み直してみると、いつのまにか嫌な気分が晴れて、「明るいほうへ向かって進んでいけばいいや」という気になる。たぶん、埋もれていたネガティヴな感情を日記という形で表出させて自覚せずにおいたら、それが澱のように溜まっていって、そのうち健全な精神の流れを堰きとめてしまうだろう。

 感情というのは、誰にでも当たり前にあるものだけれど、それを剥き出しのまま人にぶつけてしまっては、後に必ず遺恨を残す。今の世の中は、相手の立場や事情を考えずに、ズケズケと自分の感情を発露してしまうのが良い事とされているけれど、ぼくはそれがいいことだとは思わない。「素直」というのは、感情をストレートに出すことではなくて、人のことを思いやりつつ、節度を持って自分を表現できることだ。そこを吐き違えている人が多い。

 感情を剥き出しにする人は、常に自分に関心が向いている利己的な人間だ。自分を客観化することができず、常に自分が気持ち良いように、人も自分に関心を持って、傅いてくれないと我慢できない。

 ぼくが一ヵ月半分の日記を書いていて思ったのは、自然や大地と向き合っている人は、けして自分の感情を剥き出しにしたりしないということだ。彼等の関心は、自分になどなく、常に外側にある。自分をとりまく世界のほうが主役で、その外的な世界をより深く理解するため、より克明に探索するために、いつでも勇気を持って自分を変えていける。

 人間関係の中で嫌な思いをしても、そういう人たちとの出会いがすべて埋め合わせしてくれる。そして、何よりぼく自身も自然や大地と対峙し、その声に耳を傾けることで前進していく勇気と意欲が湧いてくる。

 

―― uchida

 

 

 

04/09/15
焦点

 前回のコラムから気がつけば早や半月。その日その日にあったことや考えたことをここに書きつけようと何度も試みたのだけれど、どうにも焦点が定まらなかった。

 外の世界では、凄惨なロシアの人質事件があり、得体のしれない地震や浅間山の噴火、台風の来襲があり、アメリカでは9.11から3周年のレクイエムがあり、北朝鮮の謎の爆発や国内の陰惨な事件がいくつもあった。

 自分のことでは、旅の記録をまとめ、茨城の母校(高校)で職業別講義なるものの講師を務め、レイラインツアーの企画やテレビ番組の企画についてmailで何度かやり取りした。

 自分の外側で起きたことについて書いてみようか、それとも自分の些細な体験について触れてみようかなんて逡巡しているうちに、どれもうまく捕えきれないままに、時間が過ぎてしまった。

 今日、久しぶりに神保町をぶらぶらと歩き、書店を覗くと、村上春樹の新作が平積みになっていた。パラパラとめくってみたが、なぜか食指が動かない。その代わりに、「ノルウェイの森」だったか「羊を巡る冒険」だったかの中でしきりに出てきた「高度資本主義、高度情報化社会」という言葉が、ふと思い浮かんだ。

 もしかしたら、村上春樹は「高度資本主義」という言葉は使ったかもしれないが「高度情報化社会」というフレーズは使わなかったかもしれない。本来なら、書棚を探ってどうなのか確かめてみるべきところだけれど、結局、村上春樹はきっかけに過ぎないのだから、そこまでする必要もないと思って、村上春樹の書棚へ行きかけた足を止めた。

 その後、「高度資本主義、高度情報化社会」という言葉が、ハエのようにまとわりついて離れなくなった。

 モノと貨幣、価値と貨幣の等価交換ではなくて、経済という幻想がさらなる幻想を呼び起こして肥大化していく高度資本主義。同じように情報が情報を呼んで肥大化していき、しまいにはこれも幻想と変わりなくなってしまう高度情報化社会。そんなものに、汲々とする空しさを感じながら、実際のところ自分は具体的なモノ、価値あるモノを生み出すことができず、単に幻想の肥大化に荷担しているだけではないか?

 そんなふうに思うと、せっかく何事かに焦点を結びかけた意識がまた弛緩してしまう。

 

―― uchida

 

 

 

04/09/01

 この夏は、よく旅をした。

 といっても、ほとんどが仕事絡みで、自由気ままというわけではなく、それぞれにテーマもスケジュールも決まっていたもので、厳密には「旅」ではなく「取材」なのだけれど、「ここではないどこかへ=from here to there」という行動と感覚は、まさに旅のそれだった。

 7月の下旬にはこのコラムでも紹介した高原巡り。8月の初旬は編集者と二人で盛岡を基点に鹿角、十和田、八戸と巡った。盛岡では地元でミニコミ誌を編集している人と会い、話をしているうちに共通の知り合いがいることがわかった。鹿角では地元の素朴な祭りに出会った。

 東北から戻って、翌日には木曽へ向かった。諏訪から高遠、伊那と経由して木曽へ抜ける、いつものオートバイでの取材ルートを通って木曽へ。「培倶人」という雑誌の取材で、モデルの女性と編集者、カメラマンとぼくの四人。普段のツーリング取材では混雑するところは嫌いなので、観光地は素通りしてしまうのだが、この取材では奈良井の宿に泊まって、野麦峠やら御嶽山を巡った。

 奈良井では、お盆の間は宿も土産物屋も店を閉じて、宿場は帰省した家族とお盆帰りした先祖たちだけのものになるのだという。宿場の中心にある宿は、ちょうどそのお盆前の最後の営業日で、夜には宿の前で帰省した若衆たちが、ちょっと物悲しいお囃子の練習を始めた。鹿角の祭りでもそう思ったが、祭りは本来、その土地に根ざしたもの。土地の魂とそれに育まれた土地の人たちのもの。よそ者が見物したりするものではない。土地の魂をしっかり感じられ、土地の人と心を一つにできる者だけが、その祭りを覆うゲニウスロキの懐へ入れてもらうことができると。

 木曽から戻ると、無性に、自分も自分を育んでくれた土地の魂と先祖の霊と交感したくなり、お盆の最後の日に実家へ帰省した。ちょうどお盆送りに間に合い、先祖を墓まで送った。昔は、平日で父や母はお盆送りをできないので、ぼくと祖母が近所の辻まで、ナスで作ったウマやお盆飾りを持って行って、そこで線香を焚いて送りをしたものだった。その祖母が送られる側になってからもう14年。「春のお彼岸やお盆には、きちんとご先祖様を招いて感謝しなければダメなんだよ」と、線香の煙の中で手を合わせながら言った祖母の言葉が、今更ながら心に沁みた。

 ようやく曾孫を祖母の霊に会わせることができて、祖母はどう感じていたか....。

 久しぶりの帰省から戻ると、今度はまた毎年恒例のツーリング取材にキャンプ道具を持って出かけた。つい先日訪れた木曽をかすめて開田高原から飛騨高山へ。さらに富山から若狭を回って、台風に追われるように戻ってきた。

 富山の雨晴海岸では、ぼくがキャンプしているところへOBTのメーリングリストの古参メンバーであるtakadoさんが駆けつけてくれて、ミニオフ会。富山近辺の山の話やtakadoさんのお孫さんとぼくの息子の話などで盛り上がった。

 若狭では、三方の湖上館PAMCOにご厄介になり、館主の田辺さんとスタッフの坂口さんと夜中まで若狭の魅力をどうしたらいろいろな人に伝えられるかといったことを話し合った。PAMCOでは、この夏に「あそぼーや」という企画をスタートさせた。その中でシーカヤックツアーは好評で、毎日のように目の前の水月湖や常神半島沿いの素晴らしく水の澄んだ海岸を案内したそうだ。

 マリンスポーツがオフシーズンになったら、今度は、ぼくが「レイライン」のほうで展開している神話・伝説とミステリーを繋ぐツアーをPAMCOを拠点に行おうということになった。

 若狭を後にして山間に入ると、台風の余波で押し寄せた積雲が谷間にたまっていて、ところどころで強い雨に打たれた。空を見上げ、雲の動きを読み、記憶の中にある地形と照らし合わせて、なるべく雨に出会わないようにとコースを選んで、東へ。

 峠を一つ越えると手前では激しい吹き降りだったものが、こちらでは、ぽっかりと開いた雲の隙間から夏の陽射しが差し込んで、路面も乾いている。山岳地帯を抜けて岐阜の平野に出ると、そこは雨の気配も感じられない晴天....昔、北アルプスや八ヶ岳に夢中になって通っている頃、雲の只中の稜線で雨と風に打たれて、真夏なのに凍えていたのに、麓に下りるとカラッと晴れていて、白馬や清里を闊歩する観光客の姿に唖然としたものだが、そんなことをふと思い出した。

 「どこかからここへ=form there to here」。本来の日常の場に戻ってくると、なんだか居心地が悪いというか、自分にとってしっくりとこない環境に違和感を覚える。今年に入ってからなんとなく西行という人が気にかかり始めている。自分が選んで出かけた先に、西行の足跡が残っていることが多く、その漂泊の姿が自分の姿にだぶって見えたりする。

 旅をして戻ってくると、いつも台湾で会ったラマ僧が言っていた言葉が自分にのしかかるように響いてくる。「あなたは、常に動いていなければいけない人間です。留まったとたんにあなたはあなたでなくなり、朽ち果ててしまう....」。"from here to there"....うまく事が進んでいれば、秋には、中央アジアへ旅立っていたはずなのだが。

 一人でその中央アジアか南米にでも行ってみようかな。そこには西行の足跡はないけれど、西行の「気分」と共通する土地の「魂」は、きっとあるはずだから。

 

―― uchida

 

 

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