00/12/20
西野始さんの思い出
先日、打ち合わせで、半蔵門にある昭文社を訪ねた折りに、「とんちゃん」に案内されました。
ツーリング界の芭蕉・曾良コンビ(ライターの賀曽利さんと昭文社編集の桑原さん)が顔を合わせると、必ず出かけるという、まさに「場末」という言葉がぴったりくる居酒屋です。
半蔵門という都心にあるとは思えない煤けた店内は、忘年会シーズンたけなわだというのに、客がほとんどおらず、まともな暖房もないので、椅子に座っても、コートを脱ぐこともできません。薄暗くて、妙にがらんどうで、マスク姿の怪しいおばちゃんが二人、背を丸めて、ボソボソと働いています。
今、ぼくはインターネットというツールを使って、新しい表現手段を模索するような仕事をしていますが、「ドッグイヤー」と言われて、分秒単位でめまぐるしく変動する環境から、「とんちゃん」のような、時間の止まったような場所に来ると、なんだか心底ホッとしてしまいます。
「とんちゃん」の雰囲気が、それこそ40年も前から変わらないような感じがするせいでしょうか、ふと、昔のことを思い出しました。
もう15年前になりますが、ぼくは、「オフロードライダー」(晶文社)という単行本を編集しました。それは、個性の違う三人のオフロードライダーにインタビューして、それぞれの刺激的な生き方を浮き彫りにしてみようというものでした。
誰にも頼らず、自分の道を自分のイメージに従って進んで行く三人の男、彼らの歩んできた道と夢を直接聞くことができたのは、当時駆けだしのライターだったぼくにとって、とても貴重な体験でした。
賀曽利隆さんとは、今でこそ仕事でご一緒させていただいたりしていますが、ぼくがオフロードバイクに乗り、ツーリングをするようになったのは、賀曽利さんの最初の世界一周の記事やオートバイ誌で連載されていた「峠越え」の記事を読んだのがきっかけで、まさにぼくのバイクライフの師匠のような人です。
賀曽利さんは、20歳のときに肩に日の丸を縫いつけたウインドブレーカーを羽織って、スズキのハスラー250というバイクで日本を後にして以来、ずっと同じスタイル「生涯旅人」(賀曽利さんが、サインするときに、必ず色紙に書き入れる言葉)を続けられています。
未知なモノに邁進していくバイタリティは、若い頃にも増して膨らんでいくようで、そのパワーには、呆れる……いやいや、圧倒されると同時に、見習わなければといつも思わされます。
風間深志さんも、ぼくがオートバイに乗り始めた頃に、オートバイ誌で「オフロード天国」という斬新な企画を始められて(何しろ当時は暴走族華やかなりし頃で、オフロードバイクに乗るなんていうだけで変人扱いされてました)、やっぱり強い影響を受けた人です。
風間さんとも縁あって、後にいろいろと仕事をご一緒させていただいきました。風間さんは、あまり物事にこだわらないというか、「ノリ」にまかせて、どんどん先へ進んでいく人ですが、ただゴーイング・マイウェイというのでなく、とても周囲に対して細かい気遣いをされる優しい人でもあります。
バイクを通して自然と触れ合ううちに、自然と人間が共生することの意味を問い始め、「地球元気村」など、独特の活動を展開されています。
そして、「オフロードライダー」に登場してもらったもう一人の人物が、西野始さんでした。
彼は、賀曽利さんや風間さんのように、二輪の業界とは直接関係がなかったので、ほとんど知られてはいませんでしたが、ぼくにとっては、年齢が近かったということもあって、とても印象に残る人物でした。
4年に及ぶ世界一周ツーリングから帰国した彼に会いに、静岡まで行った日のことを今でもはっきり覚えています。
待ち合わせした静岡駅に近い喫茶店に、彼は、杖をついて片足を引きずりながらやってきました。「どうしたんですか?」と聞くと、「ハハハ、事故っちゃって……」と、日焼けした顔に白い歯を見せて、豪快に笑いました。
「旅をしている最中に、あるイギリス人に言われたんだけど……長い旅をしてきた奴は、国に帰った最初の一年でみんな事故ってるから気をつけろってね。で、そのフレーズがカッコよかったもんで、途中で会った日本人みんなに、帰ったら、一年は気をつけて乗れよ、なんて言ってたの。そしたら、何のことはない、自分がこれだもんね」。
……それから、彼は、相棒のXT500とともに旅をした世界中の話をしてくれました。
自分で描いた夢を実現するために、しっかりとそこへ辿りつくまでのビジョンを描いて、それを着実に実行し、旅に出たら、その世界を徹底的に楽しむ。同じような年齢なのに、こんなしっかりして豪快な人間もいるんだと、心底感激し、いっぺんで彼の人間性に惚れてしまいました。
インタビューの最後に、「今、憧れているのはやっぱりサハラ。あそこには、不可能があふれているからね。いちばんはっきりする。バイクにそれなりの装備をして行くでしょ。もちろんいろんなノウハウも詰めこんで。で、実際に行って死んじゃえば、それは、そいつの装備やノウハウが足りなかった証明。渡りきれれば、そいつは正解。そういうことがものすごくはっきりする。……また、資金を貯めて、二年後くらいには、サハラに行きたいね。でも、それが終われば、またその先へってことになるんだろうね。終わらないね、いつも地平線の夢を見るものね」と笑って言いました。
西野さんは、その後、サハラへは向かわず、シンガポールへ渡りました。
薬剤師の資格を持っていた彼は、窮屈な日本で仕事を始めることは選択せず、単身、シンガポールで薬局を始めたのです。
そして、そこを拠点に、東南アジア各地にビジネスを伸ばしていきました。バイクから離れたものの、ビジネスに、自分が向かう夢を見つけ、邁進していったのです。
ところが、突然の不幸に彼は見舞われてしまいました。1997年12月19日。インドネシアのスマトラ島南部で、乗客104人を載せたシルク航空機が墜落しました。西野始さんは、このとき遭難した104人の中の一人だったのです。享年40歳。あまりにも若すぎる死でした。
「とんちゃん」で酒を飲みながら、西野さんのことを思い出していたのが18日の深夜。なぜか、毎年、彼の命日が近づくと、まったく屈託のない彼の笑顔を思い出してしまうのです。
来月、ぼくは40歳になります。この15年、時代の波にもまれながら悪戦苦闘してきましたが、ぼくは、今になって、地平線の夢をよく見るようになりました。
――― uchida
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