『デジタルクリエイターになる!』

土岐小百合編・メタローグ刊
四六判・224ページ・ソフトカバー・定価:本体1,500円(税別)

 

 

◇デジタルカルチャーを担う8人のクリエイターからのメッセージ

 飯野賢治…オリジナリティーと作家性を追求するゲーム業界の風雲児

 岩井俊雄…日本を代表するインタラクティブアートの第一人者

 立花ハジメ…グラフィックデザイン、音楽と多才に活躍するデザイン界のカリスマ

 八谷和彦…愛玩メールソフト「ポストペット」の生みの親

 中村至男…「I.Q」のプランニングでブレイクしたアートディレクター

 佐藤直樹…元『ワイアード日本版』のアートディレクター

 伊藤ガビン…「パラッパラッパー」「ウンジャマ・ラミー」のゲームデザイナー

 江坂健…ホットワイアード・ジャパン編集長

 

◇サイバードラッグな未来社会/内田一成

◇デジタルコンテンツをめぐる変化/香取徹

◇デジタル進化年表

◇デジタルコンテスト一覧

◇スクールガイド

◇デジタル用語解説

 

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サイバードラッグな未来社会

Uchida Kazunari
内田一成

 

徹底した現実感が求められるゲーム制作

 僕はもともとはアウトドアや旅のレポートを書くライターの仕事を本職にしていた。ゲームにかかわるようになったのは、セガ・エンタープライゼズの鈴木裕さんと知り合いだったから。彼が「バーチャファイター」を作っているとき、一緒に中国に行き、風景や中国拳法の達人の動きなどを取材した。それがゲームの世界に足を踏み入れるきっかけとなった。

 最近のゲーム機には豊かな表現能力があって、微妙なディテールまで表現できるようになった。ハードのほうがどんどん進歩して、それに見合うソフトを制作しようということで、まったく違う分野の人がゲーム制作に係る傾向が強まってきた。ゲームばかりやって生きてきた人、いわゆるゲームプロパーだと、ハードの表現能力や、そのリアリティを十分に生かしきれないからだ。

今のゲーム制作には、徹底した現実感が求められる。たとえば格闘技ゲームでは、人を実際に殴ると相手にどのようなダメージが加わり、どう反応するかまで表現しなくてはならない。

二次元表現でカクカク動く、処理スピードが遅いゲームであればキャラクターの動きを適当に省略して済んでいたのだが、今は、微細なディテールの表現が必要になっている。そこで、モーションキャプチャーという、三次元的に体の各部の位置・動きを把握するデバイスを使い、体中にセンサーをつけてスタジオで格闘技のプロに動作してもらう。しかし寸止めだと、初速は実際に相手を殴ったり蹴ったりするスピードでも、ヒットする直前で遅くなり、それがはっきりと見えてしまう。そのため、そのままプログラムに置き換えてもまったくリアリティがない。だから、相手にしっかり防具をつけさせて、フルコンタクト状態で動いてもらい、その動作をゲームに取り入れる。

バーチャルリアリティ(仮想現実)は単なる「仮想」ではなく、リアルを必要とする。それをもとにして初めて、スーパーリアルというか、現実にはあり得ないことまで表現できることになる。つまり想像力と創造力が試される世界になっているといえる。

 

数百のNPCに無意味な台詞

 僕らが局外者としてゲームのシナリオを作るための打ち合わせに参加して感じるのは、ゲームプロパーは自分が知っているゲームでの経験則でしか発言しないし、それをもとにしてしか考えないということだ。

 ロールプレイング・ゲーム(RPG)では、プレイヤーが動かすことのできないノンプレイ・キャラクター(NPC)が必ず存在する。NPCは街の中のさまざまな場所にいて、主人公はそんな街を訪れ、NPCからヒントを得ながら一つひとつ謎を解いていかなければならない。

 そうするとプロパーたちは、そのNPCに片っ端から聞いて回るようなシナリオを書いてしまう。十人程度ならまだしも、下手すると数百人のNPC全員に台詞を持たせる。その台詞が、ものすごくチャチ(笑)。「こんにちは」「どうも、今日はいい天気ですね」「はい、そうですね」などという、まったく無駄で無意味な会話を延々と書く。あきれて「君は街を普通に歩いていて、すれ違う人全員に話しかけるわけ?」と尋ねと「ゲームというのはそういうもの」という答えが返ってくる。

 ところが、そんな無駄なディテールばかり追って肝心な部分が欠けている。どこに謎を配置し、どのようにたどらせていくかという、プレイヤーを惹きつける小説的手法にはまったくリアリティがない。ゲームのシナリオを書いている人の多くは、二十代半ばから三十歳代前半のいい大人にもかかわらず、普通の人が普通に生活していたらこうするだろうという一般的な共通認識が欠落している。

 

プロパーの作るゲームはリアルじゃな

 今までは、それでよかったのかもしれない。ゲームやデジタル世界のリアリティだけで生きているような人が作る、同類のプロパー向けのゲームでもきちんと流通していた。しかし、たとえば「I・Q」の中村至男さんや佐藤雅彦さんはゲーム業界の人ではないし、「パラッパラッパー」の松浦雅也さんは音楽業界の人。こうしたものが受けるのは、プロパーにしか通用しないものがすでに一般には受けないことの、ある種の証明ではないかと思う。

 ハードの豊かな表現力を使いこなし、能力を十二分に引きだせるのは業界外部の人ではないか。もちろん彼らにプログラミングはできないから、プログラマーに説明しなくてはならない。しかしそうした場で、こういう感情を表現したいなどと伝えるのが、かなり困難になっている。普通に生きている人であれば、人はどういう場合にどんなふうに悲しむかが素直に通じるが、それを微に入り細に入りレクチャーしなければならないということが起こっている。デジタルなゲームを作るのにアナログなインターフェースが非常に重要になってしまった(笑)。作り手側のゲームプロパーは毎日十時間もゲームに向かい、その中でしかリアリティが構成されていない。ゲームの世界が身につきすぎているというか、思考がその世界の構造と同じになっている人が多いのが現状だ。

 

ドラッグのサイバー化、デジタルのドラッグ化

 最近は、遺伝的アルゴリズムや、自動的に自らを再生成していくようなプログラム、複雑系の技術を生かしたAI(人工知能)、AL(人工生命)などが開発され、プログラム技術が非常に進歩している。コンピュータのプログラムというと、今までは、あらゆるケースを予測して、そのすべてに対応できるような緻密なプログラムが必要だと思われていた。映画「ジュラシック・パーク」では恐竜が群れをなして走り回り、その動きはきっちりプログラムされているかのように見える。ところがプログラミングされているのはごく簡単な基本命令だけで、あとはランダムに走らせるboidというプログラムが使われている。その映像は、現実の自然界もboidで動いているのではないかと思えるぐらい迫真的だ。

 また、人間の脳神経細胞をモデル化して知覚や認識をシミュレートする「ニューラル・ネットワーク」という人工知能システムや、映画「トータルリコール」のように脳とコンピュータを結んでしまうシステムが、デジタル環境の将来としてイメージされている。

 それらが有効に結びつけば、この人はこちらに行きたい、あの人はああいうことに関心を持っているなどということをコンピュータプログラムが感知し、望みの事物を自動生成していくことも可能になる。その人の現時点の思考や状態だけでなく、その先までも予測して、存在していなかったもの、あり得なかったものを自動生成していく。人の快楽・快感すらもコンピュータが勝手に判断して、AIがそれをどんどん作っていけば、快感は歯止めなくエスカレートするだろう。まさにサイバードラッグ、デジタルドラッグの誕生だ。しかも、脳に直接刺激を与えるわけだから、理論的には実際の五感、触感だろうが味覚だろうが嗅覚だろうが、それらと同じものを知覚するはずだ。そうなれば、現実とバーチャルの区別はまったく無意味になってしまう。

 こうした考えは、オカルティックな夢想と一笑に付されてしまうかもしれない。しかし、アメリカでは現に、複雑系のプログラムやAIなどが株価予想に応用されて非常に高い効果を上げている。また、リアルなゲームにはまって何時間も費やすと、平衡感覚が失われ、ゲームの画像がしばらく残像として見える状態に陥るといったことも起こっている。サイバードラッグは、それらの延長線上に存在している。

 

コンピュータゲームの危険なワナ?

サイバードラッグ、デジタルドラッグというテーマは、アメリカのティモシー・リアリーやジョン・リリーというドラッグ系の「教祖」たちが研究してきた。ティモシー・リアリーの晩年の研究はそうしたコンピュータサイエンスだけだったと言ってもよい。

アメリカと日本ではドラッグについての感覚がまるで違う。

アメリカはそれこそ本物のドラッグからデジタルドラッグへと明確な目的意識の下でシフトしていった。日本ではコンピュータゲームというと子供の遊び、あるいはパソコン=ビジネスマンの所有物という固定観念、先入観が根強く、コンピュータサイエンスの向こうにデジタルドラッグがあることを意識している人は非常に少ない。高をくくって安心していると非常に危険な事態を招くと思う。

 ゲームを筆頭としたデジタルコンテンツは、最先端のコンピュータサイエンスとその技術を応用して突っ走っている。たとえば、アメリカ兵器産業の大企業と技術提携したゲーム開発なども行われている。ある兵器産業企業は、とくにシミュレーション技術に長け、湾岸戦争の際にはイラクの町や砂漠の状況を3Dモデルで忠実に再現してシミュレーターに組み込み、それをもとに米空軍機はイラクを爆撃した。ゲームは、そうした技術とまさに結びついている、あるいはそのものといっても過言ではない。

「シムシティ」は、プレイヤーが市長になって町を作るゲームである。その町作りがうまくいかないと、自然災害や火事が起こって町は壊滅するが、そうした部分にAIが使われている。固定値のプログラムが設定されているのではなく、あるアクションに対してAIがある変動域、パラメータの範囲内で、独自にフィードバックするというように、反応がランダムになっている。ハードの処理スピードはどんどん速くなっているから、今「シムシティ」を作ると、より大がかりで緻密な町ができ、プレイヤーがその町の中にキャラクターとしてあたかも入ってしまったかのように等身大、実物大で見られる、すさまじくリアルな世界が構築されるに違いない。

ゲーム制作者は消費者を捕まえるため、企業論理に基づいて快感を歯止めなく刺激し続けることになる。「テレビゲームソフト倫理審査機構」といった、表現を規制する業界団体は存在するが、この快楽追求の流れ、サイバードラッグへという流れを押し戻すことはほとんど不可能に近いだろう。

 

社会全体のデジタル化のなかで

 ゲームに向かうのとパソコンに向かうのとでは、どこが違うのかと指摘されると、パソコンユーザーも十分にプロパー、ジャンキーだという気がする。ゲームと同様に、パソコンも結局はシミュレーションだ。モニタには機能や状態をグラフィック化したアイコンがあって、それをクリックして作業をする。パソコンがなければ文章を書けない、発想できないという人がいるが、僕も最近は十分そうなってきた。

 じつはゲームに限らず、社会全体がデジタル化、シミュレーション化している。そうなると、既存の考え方は現実に適用できない。感性や思考そのものがデジタル化、シミュレーション化の波に洗われている。グローバル経済はゲームそのものと言ってよい。まったく未知の事態が起きているのに、今までの経験則からどうこう言っても結局何もはじまらない。また、デジタルドラッグ、サイバードラッグは危険だ、危険だからここでやめようということはもはやできない。否応なく技術は進んでいくものであり、その流れを押し戻すことは反動だ。事実、AIなどの技術によって恩恵を被る人たちも大勢いるのだから。たとえば、視覚障害者がコンピュータの音声認識機能によって文章が作れるようになりつつあるが、それによって彼らの可能性は大きく広がる。

 

デジタル業界はドッグイヤー

 コンピュータサイエンスに関して、想像力を最大限に発揮することが大切だと思う。コンピュータサイエンスや、デジタルの世界ではドッグイヤーという言葉が使われる。寿命でいうと、人間の一年は犬にとっては七年に相当する。同様に、普通の世界が一年たったとき、デジタルの世界は七年分進んでいるということだ。実際ハードウェアの進歩からいうと、ドッグイヤーどころか、さらに加速度がついている。世界初の日本語ワープロが東芝から発売されたのが、つい二十年ほど前のことだ。それが今ではAIを使った音声認識にまで進んでいる。五年前どころか、二年前に現在の状況を想像した人がどれだけいるだろう。そこから類推すれば、そんなの夢物語だと言われていることが半年後に製品化される可能性は十分にある。

 しかしそうは言っても、前述したように、日本にはこれだけのスペックのハードがあるから、それを十分に使ったフルオリジナルのゲームを作ろうとしても、ゲーム業界の中だけで作ることは無理な状況にある。対照的なのはアメリカだ。アメリカ発のゲームで感動的なものは、すべてがオリジナルだ。たとえば「ミスト」は、雰囲気からきっちり構築した緻密な世界で、しっかりとしたバックボーンの存在をうかがわせる。さまざまな実生活体験から得たものをこういうふうに展開して表現したいという意図が明確にある。しかし、日本の若い人たちがゲームを作ると、このゲームのここ、あのゲームのあそこ、映画で見たあのシーンはカッコ良かったからと、ツギハギになりがちだ。悪い意味で既視感にとらわれるゲーム、人の血が通っているとは思えないゲームができあがる。

 日米の差異はインターネットに関しても際立っている。アメリカ人は、表現したいこと、それも非常に具体的かつ個性的なことがふつふつとあって、そこへインターネットというダイレクトに表現できるツールが出てきた、これを使わない手はないと考えて、すぐさまホームページ、WEBサイトを立ち上げる。ところが日本だと、ネットのこともホームページの作り方もよく知っているが、いざこれを使って表現するという段になると、何を表現したらいいのか分からないという人ばかり。ホームページを立ち上げても、せいぜい「私の絵日記」になってしまい(笑)、誰も見ないという結果になる。

 

デジタルだけでは何も生まれない

 デジタルメディアで何かしようと思ったら、自分のベースに何があるか、バックボーンとして何を積み上げてきたかという点が決定的に重要になると思う。デジタルツールを使えるだけで、あるいは業界に一歩踏み入っただけで、自分は最先端の業界にいると優越感を感じる人も多い。たしかに、メディアのあり方として、デジタルのほうがアナログな活字より上位ではないかという気分はわからなくもない。ただ、デジタルとアナログという分類は、もうナンセンスだという気がする。たとえば、デジタル世界によく適用されるフラクタルという概念は、リアス式海岸の海岸線を極限まで追っていけば一粒の砂になり、微細な直線の集まり、近似した形の集合になるというものだ。デジタルを細密化・微分化していけばアナログになるということ。デジタルだアナログだとすぐに区分けしたがるが、そんなことは無意味だ。デジタル分野で最先端を行く人ほど実体験を重んじる傾向にあるのはそういうことを体感しているからだと思う。メールを使わず、ゲームもあまりしないというデジタルクリエイターも多い。なかでも優秀なクリエイターは、自分で体験すること、人と直接会うことを非常に重んじている。

 ゲームをやりこむだけでは何も生まれない。デジタルの世界をクリエイトするには、その人のアナログな部分が問われてくる。実生活でもアナクロ、アナログと思われるような体験を深めることでバランスをとらなければならない。他人に敷かれたレール、既存のレールの上をただ漫然と歩んで行くのでは、オペレーターにはなれるだろうが、クリエイターにはなれない、ということを肝に銘じなくてはならない。

 

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