調律の終わったピアノの鍵盤に触れる。 ぽーん、と綺麗な音が響いた。 調律のときのピアノの音に惹かれて、触れたがピアノに触れるのは久しぶりだ。椅子の高さを調節して、腕をのばして、和音を鳴らしてみる。 聞きなれた、オーストリアの音より、硬い音。 『あなたのピアノは、あなたそのものですね。』 呆れた声が聞こえた気がして、苦笑する。 久しぶりでも、指を動かしてみると意外に覚えているもので、簡単な練習曲なら何曲か、弾くことができた。…まあ、オーストリアがここにいたら、そんなもの弾いたとは言いません、と怒られそうだが。 もう一曲くらい、と思って、ふと頭の中を流れたメロディは、本来ならば歌い手がいなければ成り立たない歌。 …まあ、いいか。歌詞も声も、耳に残っている。 歌っていたのは、イタリア。そのときピアノを弾いていたのは、オーストリアだったけれど。 こっそり、その後練習していたのは、誰も知らないはずだ。誰もいないときに、弾いていたのだから。誰の前でも、イタリアの前でさえ弾く勇気はなかったが。 優しく、明るく歌うイタリアの声が、本当に楽しそうで、つい、弾きたくなってしまったのだ。 手を置いて、記憶のなかから譜面を呼び出してくる。 カンタービレ、歌うように、なんてどうやって弾けっていうんだ、と思い悩んだことなんかまで思い出してしまって、息を吐いた。 とん、と最初の鍵盤を鳴らせば、あとは、指が覚えているもので。 短い前奏部分を奏で、歌いはじめの部分を弾き出すと、記憶の中、ではなく、現実で歌声が聞こえた。 驚いて手を止める。 「…やめないでよ〜。」 そう言いながらグランドピアノの向こう側から姿を現したのは、他でもない。 「イタリア…。」 「ドーイーツー!」 がちゃん、とリビングのドアを開けるが、そこには誰もいなかった。 「…あれ…?」 ドイツー?と首をかしげると、ピアノの音が聞こえてくることに気がついた。 「ヴェ?」 オーストリアさん、は今いないはず。だって、さっき外であった。今からハンガリーさんとデートだって。あなたはまたドイツの家ですか、たまにはちゃんと仕事をしなさい、と怒られたのに。 そう思いながら、歩いて、ピアノの部屋に行ってみる。 聞こえる音が、だんだん大きくなってくる。それにともなって、なんとなく、誰が弾いてるのか予想がついてきた。 少し、硬い、音。だけれど、綺麗な音。オーストリアさんは、眉を寄せて聞くんだろうけど。なんだか、真面目な、生真面目な音。彼の性格がそのまま出た音。 ピアノの部屋について、こそお、と音をできるだけ立てないようドアを開いてみる。 ピアノに向かう、金髪のオールバック。 (…やっぱり。ドイツだ。) こそっと入って、ピアノの陰に隠れる。 響いてくる音は、全然複雑じゃなくて、むしろ簡単で、習い始めの子供が弾くような練習曲だ。 (…ドイツのピアノ聞くの、はじめて、だ。) ちょっとわくわくしながら、耳を傾ける。 弾けるのは、知っていた。オーストリアさんに教えられていたことも。でも、何度せがんでも、聞かせてくれることはなかった。 音が止む。そっと伺うと、ドイツは、はあ、と息を吐いて。 また奏でられ始めた曲に、あ、これ知ってる、と思う前に、声が出ていた。 慌てて口をふさぐけれど、ときすでに遅し。 ピアノの音は止んで、ああ、残念だ、と思いながら、ピアノの陰から顔を出す。 「やめないでよ〜。」 「…イタリア…。」 そう呟いたドイツの顔には、しまった、と書いてあった。 「ねえドイツ、聞かせてよ、お願い〜!」 「…嫌だ。」 イタリアに腕にしがみつかれても、ドイツはピアノを片付けるのをやめなかった。耳が赤い。下手なピアノを聞かれたのが、しかもそれがイタリアなのが、かなり恥ずかしかったのだ。 「ドーイーツーっ!」 それでも、イタリアも諦めない。だって、この機会を逃したら、ドイツのピアノを聞けるのはいつになることか。それどころか二度と聞けないかもしれない。 「っ、そんなにピアノが聞きたいならオーストリアに弾いてもらえ!」 「オーストリアさんのじゃなくてドイツのが聞きたいの!」 お願い、ドイツ。 そう、涙目で言われて、ドイツが勝てるはずもなく。 「…下手だぞ。」 「そんなことないよ。それに、俺ドイツの音好きだよ。」 ドイツが椅子に座りなおすと、イタリアはうれしそうににこにこ笑って。 「…リクエストは?」 「さっきの曲がいいな。歌いたい。」 そう言われて、ドイツは一瞬止まって。それから、苦笑した。 もし、うまく弾けるようになったら、イタリアに歌ってもらおうか。 そんな、小さな目標を掲げて、結局できなかったのは、遠い昔のこと。 「何?何かおかしい?」 「…いや。」 そして、流れ出す音色は、優しく甘く、響いて。 戻る . すきすきすき あふれる気持ちをあなたに全部伝えられたら、この苦しさも少しはましになるのかなぁ? 「ドイツ〜」 ぎゅう、と抱きついて、名前を呼ぶ。 「何だ?」 「呼んだだけ〜」 そうか、と笑って、本に目を落としたままだけど、頭を撫でてくれた。 うれしくなって微笑む。 好きって気持ちはこうやって溢れて、いつのまにか違う形に変わっていく。好きじゃ足りない。愛しい?それはそうだけど、それだけじゃ足りない。くるくるいろんな姿を見せる気持ち。言葉で表すなら、えーと。 ぎゅむ、と強くしがみついた。どうしたんだイタリア。髪を撫でてくれる。さっきまではうれしかったのに、ほらまた。形を変える心。本なんかみないで。俺だけ見ててよ! キスして。言えば、額に軽く。そんなんじゃなくて、もっと恋人みたいなキスがいい!でも、そういう可愛いキスも好きだから、いっぱいいっぱいして! ああでも、こんなこと言ってもドイツ困るかな?困らせたくないな。でも困った顔も好きだから見たい! くるくる変わる心は、ただ、一つのことを考えるだけのもの。そう、この感じを言葉にするなら。 「ドイツ」 「ん?」 「…ううん、呼んだだけ」 そう言うと、彼はそうか、と微笑んだ。 戻る . ざああ、と雨音が二人を追い立てる。 「うひゃああ!」 「っ、本格的に降ってきたな…走れ、イタリア!」 「走ってるよお!」 ばしゃばしゃと水を跳ね上げ、徐々につよくなる雨の中を傘も差さずに走る。 やっとのことで辿り着いた我が家に、ばたん、とドアを閉めたことで遠のいた雨音にはあ、とため息。 「あーあ、びしょぬれ…。」 そう言ったイタリアが頭からかぶっていたドイツの上着をはずす。店を出る前にかぶせられたものだが、あまり意味がないくらいにずぶぬれだった。 はあ、と息を吐いてドイツを見上げる。 「ついてないな…。」 濡れて、乱れた髪をかきあげる動作。ため息。 思わず、唾を飲んだ。 「?イタリア?」 「う、ヴェ!?」 「どうした?」 顔が赤いが。と手が伸びてくる。 「まさか熱が。」 「!ち、違うから!大丈夫だから!」 あわあわと顔の前で手を振って、お、俺タオルとってくる!と家の中に逃げ込んだ。 これ以上ドイツの前にいたら、心臓が壊れてしまいそうだった。雨で冷えたはずの顔が熱い。 「〜〜っもう!」 ドイツかっこよすぎ、と、まふ、と取り出したタオルに顔をうずめた。 戻る . どいつー、と間延びした声が聞こえた。 「何だ。」 視線をやらずに尋ねる。メガネを押し上げ、資料を見る。まだ仕事中だ。 「見て見ておそろいー」 は?と顔を上げると、同じくメガネをかけたイタリアがいて。 「…おまえ、目悪かったか?」 「視力はいいよ!2.0くらい!」 はいはい、と聞き流すが、もしかしたら本当にそれくらいあるのかもしれない。 遠くにいる敵でも見分けて、逃げ出してしまうのだから。 あと、どれだけ遠くにいても、俺を見分けて抱きついてくる。……イタリアは、愛の力だとかなんだとか言っていたが。 じゃあそのメガネはなんだ、と尋ねると、伊達だよー似合う?似合う?と楽しげな表情。 俺は、軽く近視だから、時折メガネをかけるが、おしゃれで伊達メガネをかけるという感覚はよくわからない。いや、似合ってはいるが。 「…邪魔だと思うんだが。」 呟いて、机の上に体を乗り出していたイタリアの頭を引き寄せる。 「ヴェ、」 口が触れる…少し手前で、メガネ同士がぶつかった。ほらな。そう呟いて、後頭部に回していた手を離す。 「だから、別にかける必要は…イタリア?」 彼は黙ったままメガネをはずして、机の上に身を乗り出して、俺のメガネまで取り上げ、顔を近づけてきた。 もう一度呼ぶと、真剣な瞳。 「はずしたから、キスして。」 「…はいはい。」 やれやれとため息をついた。別にキスが嫌なわけではない。 ただ、キスだけで終わらないのが問題なだけで。 また仕事がはかどらない。その事実にため息をついて、愛しい恋人を引き寄せ、口付けた。 戻る |