季節は夏。

 そう、夏よ。

 夏と言えば……





 ここは私たちがいつも利用してるデパートの夏物売場。
 今日は私とアスカとヒカリの3人で仲良く楽しくショッピング。
 何を買うかといえば、それはもう、夏ですから……

「アスカァ、こんなのどうかなぁ?」

 ヒカリが適当なのを一つ選んでアスカに意見を聞いた。
 うーん、それはヒカリらしい選択だけど……アスカが何て言うか予想つきそうね。

「ちょっと地味すぎるんじゃない?」

 あはは、当たった当たった。やっぱりね。
 ヒカリもアスカがそう答えるのわかってるはずなのに。
 でもヒカリって、ほんとアスカを頼りにしてるわよね。
 買い物の時はいつもアスカに意見聞いてるもの。
 さて、私は自分の分を、っと。

「ヒカリにはね……こんなのどう?」
「ええっ……それは、ちょっと……」
「何言ってんのよ、最近は中学生でもこれくらいが当たり前なの!」

 うーん、そのデザインは私はいいと思うけど、ヒカリは遠慮するんじゃない? きっと。
 アスカもわかってってて言うんだから、まったく。
 ま、こういうコミュニケーションを楽しんでるのかしらね、二人して。
 まるで姉妹みたい。

「アスカは、何でも似合うからいいけど……それに、私と違って……」
「だーいじょうぶよ、ヒカリにも似合うって」
「で、でも……私はちょっと自信が……」
「それに、これくらいでないと、鈴原のやつ、見てくれないわよ」
「なっ……!」

 あー、出たわね、伝家の宝刀が。
 うーん、ヒカリにはその言葉は効くだろうなぁ。
 で、ヒカリの反応もいつもどおり、と。

「な、何言ってるのよ、アスカ! 私は別にそんなつもりじゃ……」
「でも、あいつに見せたい気持ちもあるんでしょ?」
「そ、それは、少しは……えっ!? あっ、そうじゃなくて!」

 うふふ、言うに落ちず、語るに落ちるってやつよね。
 でも、ヒカリと鈴原君って、ほんとにどうなってんのかしら?
 ヒカリのその辺はアスカにさえ言ってないようだし、うーん、気になるわね。

「ほーら、やっぱりぃ……ね、これにしよ。それとも、こっちの方が少し大人しいかな?」
「こ、これでも、ちょっと派手よ……せめて、これくらいの色なら……」
「あ、じゃ、きーまりっ! ヒカリはこれね!」
「えっ? ちょ、ちょっと、待って、色はいいけど、これってデザインが……」
「あー、ダメダメ、もう決めたの! さ、今度はあたしのを選ぶ番よ。どれにしよっかなー」
「アスカァ、そんなぁ……」

 ほーら、こうなると思った。
 でも、それって確かに結構ヒカリに似合ってるかも。
 デザインの大胆さをおとなしめの色でカバーしてるからいいと思うな。
 私は……どうしようかな。ま、適当でいいや、今日のところは……うふふ。
 アスカはどんなの選ぼうとしてるのかしら?
 ま、碇くんに見せたいのを選ぶんだろうけどね。
 それなら私だって……



 夏色乙女




「んー、やっぱり、こんなもんかな?」

 そう言いながらアスカが取り出したのは、カッティングのラインも大胆なセパレートの水着。
 基本色は赤。縁取りはオレンジ。紐もオレンジ……そう、紐なのよ!
 それに、異常なまでの面積の小ささ。
 な、何て大胆な……

「ア、アスカ、それはちょっと、大胆すぎるんじゃない?」

 そう言った私とヒカリの声は思わずユニゾンしてしまった。どもり方から息継ぎまで。
 ヒカリなんて、顔まで赤くしてる。自分が着るわけじゃないのに……
 アスカが眺めてる水着に比べれば、ヒカリの抱きしめてるのなんて1万倍はおとなしいわよね。
 ヒカリのはダークブルーのワンピースで、サイドに白いストライプ入り。単なる競泳用って感じだもの。
 ただし、後ろから見ればわりあい背中の開き具合が大きいんだけど……

「そう? 私のスタイルを持ってすれば、これくらいじゃないと似合わないと思うけど」

 アスカはそう言ってその水着をキープしたまま、他の水着を探し始めた。
 私とヒカリは顔を見合わせて、ため息をついてしまった。

(アスカの言葉、単なる自惚れじゃないもんねー……)

 私たちはアイコンタクトでそう会話する。
 うーん、久々にヒカリと通じ合っちゃったわ。
 そうなのよ。私たちとアスカじゃ、スタイルが違いすぎる……
 私が転校してきた頃は3人とも背丈がほどんど一緒だったのに、今じゃアスカに5センチも差を付けられてる。
 5センチよ、5センチ。同じ育ち盛りなのに、どうしてこんなにも成長の度合いが違うのか……
 いや、確かに私は食事については不摂生してるのは認めるけどね。

 それにしても、うーん……
 当然、背丈じゃだけじゃなくって、スタイルも、ねぇ……
 有り体に言えば、スリーサイズよ。
 私とヒカリは平均的な中学3年生を地で行くサイズなのに、アスカだけはどう見たって高校生なんだから。
 選んでる水着だって、私たちよりは1サイズも2サイズも上……

「セパレートタイプって、あんまり多くないわねー」

 そんなこと言いながらアスカは水着を物色している。
 そりゃそうよ。いくら何でも中高生ごときが着る水着にセパレートが多いわけないじゃない。
 ……と思った私の考えは間違っていた。
 どうも今年はセパレートが流行りみたい……
 置いてある水着の半分くらいはセパレートだった。
 アスカの言葉の意味は『サイズが合うのが』多くないってことね。

「これと、これと……あ、これもいいかも……」

 独り言を言いながら水着を選んでいるアスカ。
 その横にくっついて行っていちいち顔を赤らめてるヒカリ。
 そして、アスカより2サイズ小さい水着を探している私……
 うーん、明日からはいっぱい牛乳を飲もう。

「これとこれか、どっちかよねー」

 気に入ったのを4、5着取り出してためつすがめつしていたアスカは、どうやら2つに絞ったみたい。
 最初に選んだ超大胆水着は候補から外れたようね。
 それでも2つとも結構露出度の高い水着だわ……

「レイはどんなのにするの?」

 2つの水着を見比べながらしばらく考え込んでたアスカが、私に向かって訊いてきた。
 ん? そんなに私の選ぶのが気になる?
 そうじゃないか。考えるのを一旦中断して、頭の中の整理をしようってことよね。
 私のを参考にしようとかそんなんじゃないみたい。

「私? 私はねー……こんなのがいいかなーと思って」

 そう言って私が取り出したのは、ごくごく普通のワンピースタイプ。
 ヒカリのよりまだ少しおとなしいくらいかな。
 あ、ヒカリがなんか困ったみたいな顔をしてる。
 私のより大胆なのはいやなのかもね。

「ふーん、わりあい、オーソドックスなのが好きなのね」

 アスカは自分のを選ぶのを完全に中断して、私の方を見ながらそう言った。
 あれ、私がこういうの選んじゃ不自然?

「うーん、まあね。私はそんなにスタイルがいいわけじゃないし」
「それにしても、それはあまりにもおとなしすぎるんじゃない?」
「そう? そうかもしれない……」

 アスカ、自分だけ大胆すぎるのがいやなのかしら。
 まあ、ヒカリが目で訴えてることもあるし、ここはもう少し派手なのを選びますか。
 どうせ着ていくのはこれじゃないんだし。

「じゃ、これなんかは……」
「まだまだね」

 何がまだまだなの?

「これくらいかしら」
「あんた、自分の肌の色と合わせようとしてる?」

 はいはい、やっぱりいい加減に選んでるのがわかっちゃったみたいね。
 しょうがない、予備としてまともなのを選んでおきましょうか。
 明日じゃなくても着る機会はあるかもしれないし。

「こんなのはどうでしょう?」

 私は直感的に気に入ったのを一つ取り出してアスカとヒカリにお伺いを立ててみた。

「あら、いいんじゃない? ねえ、ヒカリ」
「そ、そうね。綾波さんなら、似合うかも……」
「そっかな、じゃあ、これにしよっと」

 結局、ヒカリより少し大胆になってしまった。
 前から見るとワンピース、後ろから見るとセパレート。
 いわゆる、モノキニっていうのよね。
 ちょっとラインがきわどすぎるかしら?
 まあ、いいや。予備なんだし。

「で、アスカは、どっちにするの?」
「どっちがいいかしらねー。ヒカリはどう思う?」
「わ、私は、こういうのよくわからないから……」

 だから、ヒカリが着るんじゃないのに、どうして赤くなってるのかしら。
 そう言えばアスカが私に意見を求めてくれたことはない……
 まだヒカリほど信用されてないのかもね。

「迷ってるなら2つとも買えば?」
「今日はそんなにお金持ってないんだってば」

 うーん、私の意見は一瞬で却下されてしまった。
 ま、気の済むまで悩んで下さい。完璧主義のアスカさん。
 それにしても、真剣な眼差し……。
 全く、誰のための水着なんだか。
 そうしてじっと考え込んでるアスカに、ヒカリが声をかける。

「試着してみたら?」
「いい。サイズはぴったりのはずだから」
「じゃなくて、着てみて鏡で自分で見てみるとか……」
「うーん……」

 結局、アスカはヒカリの意見を聞き入れて、試着してから買うことになった。
 試着室で着替えてから、ヒカリに意見を求める。
 私も覗かせてもらったけど、どっちも大胆だった……


 
「シンジー、起きなさい」

 どこかで誰かが僕を呼ぶ。
 遠い微かな記憶をたぐり寄せて僕は考える。
 ……今日は休み。今は夏休み。学校はない。ゆっくり寝てられるはず……
 それにこの声はアスカの声じゃない。
 だから叩き起こされることもない……

「シンジー、起きなさい」

 また、声がする。僕は少しずつ意識を取り戻す。
 そう、母さんが僕を呼ぶ声がする。
 何だよ、人がせっかく気持ちよく寝てるのに……
 夏休みなんだから、遅くまで寝かしてくれたっていいじゃないか。

「起きなさい、シンジ、もうお昼よ」

 また母さんの声……へ? 昼?
 僕は枕元に置いてあった時計を見た。
 ……ほんとだ、もう12時前だ……
 道理でお腹が減ったと思った。
 でも、まだ眠い……

「起きなさい、アスカちゃんが来てるわよ」

 あーあ、つい母さんが部屋の中にまで入ってきた。
 こうなったら起きるしかないよな。
 でも、どうしてアスカが来てるんだろう。

「……どうしてアスカが来てるの?」

 僕は母さんにきいてみた。

「約束してたんじゃないの?」

 母さんはそう言ったままベッドの横にじっと立っている。
 僕が二度寝(実際には三度寝)しないように見張ってるんだな。
 でも、約束なんかしたっけ……
 憶えてない。
 だいたい、昨日の晩遅くまでうちでテレビゲームして僕を寝不足にしたのはアスカじゃないか……

「とにかく、起きなさい。朝もお昼も食べないつもり?」
「う……わかったよ……」

 僕はそう言いながらベッドの上に起き上がった。
 そして眠い目をこすりながら考える。
 約束……約束……思い出せないな……
 だいたい、夏休みに入ってから単調な生活してるから、日付とか曜日とかの感覚が無くなってるんだ。
 母さんが出ていったので、とりあえずパジャマを脱いでTシャツと短パンに着替える。
 だめだ、まだ思い出せない……

 リビングに出ると、アスカが椅子に座ってた。
 タンクトップにジョギングパンツ。昨日と色違い……というか、毎日色違いだ。
 たくさん持ってるよなぁ、同じような服……
 ……でも、どうしてかき氷なんて食べてるんだ?

「あ、アスカ、おはよ」
「おはよじゃないわよ、バカシンジ! いつまで寝てるつもり?」

 アスカは氷イチゴを食べながら僕にいつもの台詞を言った。

「しょうがないだろ、昨日アスカが遅くまで……」
「なーによ、12時には帰ったじゃない。あんた、それから何時間寝てんのよ」
「…………」

 まあ、そう言えばそうだ。
 あれから風呂に入って、寝たのは1時くらいだったから、10時間以上寝てることになる。
 それなのに、どうしてこんなに眠たいんだ……

「で、今日は何?」
「何って……あんたバカァ!? 今日はプールに行く約束してたじゃない!」

 アスカは持っていたスプーンで僕の方をびしっと指しながら言った。
 僕は反射的に思わず顔を引いてしまう。

「へ? あ、あれ、今日だった?」
「あー、もう、昨日帰りがけにも言ったでしょ! 寝惚けてたんじゃないの? あんた!」
「…………」

 そう言えばそうかも……
 いや、昨日の晩はテレビゲームでアスカにこてんぱんにされて、僕もムキになって何度も挑戦しちゃって……
 でも、11時過ぎからは目が痛くなるし、疲れて眠くなってくるしで、アスカが帰る頃には半分寝てたような気もする。
 だから、昨日の晩のことはよく憶えてない……
 トウジたちとプールの約束したのも昨日のはずなのに、どうして忘れちゃってるんだろ。
 あ、昨日電話取ったのも昼前に起きて寝惚けてた時だった……

「とにかく、ご飯食べるなら早くしなさいよ。もうすぐ約束の時間なんだから」
「あ、うん……でも、どうして早く来てるの?」
「あんたがまだ寝てるといけないと思ったからよっ!」
「う……」

 僕の行動パターンはアスカに全て読まれてるのか……
 それでも、アスカのおかげで遅刻しないんだから、感謝するべきなんだろうか。

「でも、これからすぐプールに行くんだったら、あまり食べない方がいいんじゃない?」

 母さんがそう言いながら僕の前にアイスコーヒーとメロンパンを置いてくれた。
 そうか、母さんにも読まれてるんだった。

「そうだ、シンジ、お前はすぐに腹を壊すからな。軽めにしておけ」

 ……父さんにまで。
 え? どうして父さんがいるの?
 今日は夏休みだけど、平日のはず……
 よく見れば、父さんもかき氷を食べてる。しかも練乳がけ……
 しかし、うちにかき氷器なんてあったっけ?
 だいぶ昔にはあったけど、あれは古くなって捨てたような……

「シンジも食べる?」

 ペンギンの形をした手動の氷かきで氷をシャリシャリと削りながら母さんが言った。
 こんなの、初めて見るような気がするけど。いったい、どうしたんだろう。買ったのかな。

「ああ、これ、デパートの福引きで当たったのよ」

 僕のいぶかしげな目線に気付いたのか、母さんが言った。
 買い物……昨日かな。でも、昨日なら帰ってきたとき言うだろうし……

「いつ?」
「今日よ。朝から父さんと買い物に行ってたの。シンジが寝てる間にね」

 じゃあ、父さんは今日は買い物のために休んだんだろうか。
 それにしても、練乳はともかく、氷イチゴのシロップなんてどこにあったんだ。
 これも買ってきたのか?

「食べないの?」

 涼しそうなガラスの器をかき氷でいっぱいにしながら母さんが言った。
 スプーンを突き刺して、僕の方に差し出そうとしている。

「いい。帰って来てからにするよ」

 起き抜けにかき氷なんて食べる気がしない……
 そりゃ、頭はしゃきっとするだろうけど。

「あら、そう」

 母さんはそう言うと、冷蔵庫からコーヒー用のガムシロップを出してきて、かき氷にかけてシャクシャクと音を立てて食べ始めた。
 僕が朝食を食べている横で、3人がかき氷を食べるというおかしな光景になってしまった……

「あー、おいしかった。おばさま、ごちそうさま」
「はーい、おそまつさま。また食べに来てね」
「じゃ、今日、帰りにも寄っていいですか?」
「どうぞどうぞ」
「やったー、お小遣い浮いちゃった」

 帰りに寄るも何も、毎日のようにうちに来ては入り浸ってるくせに……

「シンジ、食べ終わった? そろそろ行くわよ」
「あ、うん」
「用意はできてるの?」
「たぶん……」

 よく憶えてないけど、昨日の晩、寝惚けながら準備したような気がする。
 洗面所に行って顔を洗い、歯を磨いてから部屋に戻ってキョロキョロと辺りを見回すと、机の上にちゃんと袋に入れて置いてあった。
 良かった、これまで忘れてたらまたアスカに怒鳴られるところだった。
 それを持ってリビングに出ると、アスカがもう玄関でサンダルを履いているところだった。
 慌てて追いかける。

「じゃ、おばさま、おじさま、行ってきまーす」
「行ってきます……」
「はい、行ってらっしゃい。気を付けてね」

 マンションのエレベータを降りると、僕とアスカは自転車に乗って待ち合わせの場所に向かった。
 今日も暑い。いいプール日和になりそうだ……


 その時、子供たちの出ていった後の碇家のリビングでは、

「ユイ」
「はい?」
「お代わり」

 山盛りのかき氷を食べながら額を押さえるこの家の主人の姿があったという。



「あ、碇君とアスカだ、おーい!」

 向こうから自転車に乗った碇君とアスカがやってきた。
 私が声をかけると、おしゃべりしていたヒカリと鈴原君と相田君が振り返る。
 アスカが私たちに気付いて自転車のベルを鳴らした。

「なんや、時間ぎりぎりかいな。学校に行っとる時と一緒やのう」

 私たちのところまで来て自転車を止めた碇君に鈴原君が言った。
 まあ、早く来たんだからそんなことを言う資格はあるけどね。

「ごめん、ちょっと寝坊して……」
「いーじゃない、遅れたわけじゃないんだし」

 碇君が謝りかけたら、アスカが遮ってそう言った。
 確かに、着いた瞬間が約束の時間ぴったりだったんだけど。

「しかしやな、惣流、普通は約束の時間よりも早めに来るもんやで」
「そう言うあんたはいつ来たのよ」
「12分前や」
「…………」

 アスカは唖然としている。
 そうなのよねー、私もびっくりしたもの。
 学校に来るのだって、鈴原君は碇君やアスカのほんの少し前に来てるだけ。たまに遅刻するくらいなのに。
 でも、ヒカリとほんの少しの時間差で来たところが気になってるのよ、さっきから。
 私が思うに、もしかして……

「そ、それはともかく、全員揃ってるんでしょ? ……あれ、ヒカリ、ノゾミちゃんは?」

 動揺から立ち直って、ぐるっと見回して人数を数えてたアスカが、一人足りないのに気付いて言った。
 暇だから一緒に行こうってヒカリが誘って一緒に行くことになってたんだけどね。
 私はもう理由を聞いたけど、ヒカリに説明してもらうことにしよう。

「あ、えっとね、クラスの友達と行くことになっちゃったの。ごめんね」
「ううん、いーのよ。それならそれで」
「そうなんだ、残念だね」
「うん、残念だ。ほんと、残念だ」

 アスカと碇君に続いて、相田君がそう言った。
 さっきヒカリに聞いたときからずっと残念がってる。
 そんなにノゾミちゃんに会いたかったのかしら。
 今年中学に上がったばかりだけど、結構可愛いって学校で評判になってるらしいし、まさか……
 ……違うわよね、きっと。
 またビデオやカメラで撮って売りさばくつもりなんだわ。
 今日はビデオしか持ってないみたいだけど。

「じゃ、そう言うことで、そろそろ行きましょうか」
「そうね。行きましょ、みんな」

 私とアスカの言葉でみんなが一斉に自転車に乗った。
 ちなみに、この集合場所は私のマンションの前。
 プールに一番近いのもあるけど、私が遅刻するのを防止するのが一番の目的らしい。
 これが否定できないのよね。現に今日だって、ヒカリが約束の15分前に来たときにはまだ寝てたんだし……



「遅いのぉ、いつまで着替えとんのや、全く」
「まあ、そういうなよ。俺たちが着替えるの早いんだからさ。服の下に着て来ただけだし」
「そやかて、シンジは着て来んかったから着替えたやないかい」
「ま、女の着替えは時間がかかるのさ」
「着替えだけやのうて、ようしゃべるから時間がかかるんや」

 トウジとケンスケがそんな会話をしていた。
 僕らは更衣室の出口付近で、女の子たちが出てくるのを待っているところだった。
 今日、僕らが来ているのは市営プール。これがかなり広い。
 50mが2面、25mが4面、流れるプールが1面に、子供用の変形プールが3面。それにウォータースライダーまである。
 たくさん人が来てるけど、そのあまりの広さにほとんど混んでないように見える。

 しかも、料金が安い。大人300円、中高生が200円、子供が100円。
 ロッカーも温水シャワーもドライヤーも無料だし、食堂の値段も格安だし、至れり尽くせりだ。
 そして第3新東京市にはこんな市営プールが4つもあるからすごい。
 でも、トウジが昔住んでた大阪の方にもこんなプールがあるらしい。
 『真似しよったんや』。トウジはそう言っていた。

「しかし、ケンスケもなんでこんなところまで来てビデオなんか構えとるんや」
「決まってるだろ。惣流と綾波と委員長のスリーショットを撮るために決まってるじゃないか」
「お前は全然進歩せんのー。また惣流に怒られるで」
「でも、去年は怒られなかったぜ」
「そやったかいな」
「案外、見せたいんじゃないのか、水着は。それに綾波はこういうのはフリーパスだしな。委員長はどうかしらないけど」
「そや。なんで委員長まで撮るんや」

 トウジがそう訊いたとき、ビデオカメラのファインダーを覗いていたケンスケが顔を上げた。
 そして僕たちの方にくるりと振り返る。
 眼鏡が光っていて目が見えない。いつもの怪しい表情だ。

「トウジにはまだ言ってなかったかな」
「何をや?」

 ケンスケが眼鏡を指で押し上げた。
 そして不敵な笑みが顔に浮かぶ。
 しかし、どうしてケンスケってこんなに怪しいんだろう……

「最近、委員長の人気が上がってきてるんだ。写真の売り上げは前年比倍増なんだぜ」
「ほ、ほんまかいな。な、なんでや?」

 少しうろたえているトウジに、ケンスケがニヤリと笑いながら言った。
 一瞬、父さんを思い出してしまった。どうしてなんだ……

「さあな。ま、トウジも自分で考えてみれば」

 ケンスケは再びファインダーを覗き始めた。
 トウジは腕を組んだまま首を傾げて宙を眺めている。
 ほんとに考えてるんだろうか。

 考え込むトウジを後目に、ケンスケはカメラを構えたままだ。
 プールの監視員が変な顔をしてケンスケを見ている。
 そりゃそうだよ。どっから見ても怪しい奴だ。僕だってそう思う。
 しかし、僕はある事情によりケンスケの撮影をやめさせることができない……
 僕は黙ってそばのベンチに腰掛けていた。

 でも、ケンスケが言ったこと、ほんとかな。
 委員長の人気が上がってるって。
 何かあったのかな? 別に前と変わらないように見えるけど。
 委員長が気にしてるそばかすが消えたわけでもないし、うーん……

「おっ待たせー!」

 綾波の声だ。
 待つこと10分。やっとみんな更衣室から出てきた。
 綾波の後ろにアスカ、その後ろに委員長。
 委員長はアスカの陰に隠れるようにしてる。どうしたんだろ。
 しかし、みんなまだTシャツとかを上に着てる。
 綾波なんて、着て来たパーカーそのままだ。
 これから泳ぐっていうのに……

「おー、やっと出てきよった……なんやなんや、まだ服着とるやないかい」

 トウジが仁王立ちになったまま腕を組んで言った。
 その言葉にアスカがいち早く反応する。

「ちゃんと着替えてるわよ。上に羽織ってるだけじゃない」
「泳がへんのか?」
「泳ぐわよ」
「ほな、なんでそんなもん着とるんや」
「今から脱ぐのよっ!」

 アスカはそう言うと、着ていたTシャツを脱ぎにかかった。
 手をクロスさせて裾をつかみ、ばあっと上にまくり上げる。

「ぬおっ!」
「よしっ!」
「…………」

 トウジは驚きの声をあげ、ケンスケは喜び勇んでビデオを回し、僕はあっけにとられて声を失った。
 アスカ……それの水着はいくら何でも……



 男の子たちの見てる前で上着を脱いで水着になる、というのはアスカが言い出したこと。
 そりゃ、アスカはそういうの好きだろうけど、私やヒカリを巻き込まなくてもいいじゃない。
 でも、今回ばかりは私もこれを受けて立つことにした。
 何たって、我に秘策あり、だもんね。
 着替えてるところをアスカに見られないように、初めから下に着てきたんだから。

「へっへーん! どんなもんよっ!」
「ぐあ……何じゃあ、その水着は……」
「いいっ! いいぞっ! これは売れる!」
「…………」

 アスカはTシャツを脱ぎ捨てると空中に放り投げた。
 Tシャツはそばにあったデッキチェアの上にふわっと舞い落ちる。うーん、ナイスコントロールね。
 それから頭を振って自慢の長い髪の毛をさらっと翻す。
 それを見た男の子たちの反応は、三者三様だった。

 アスカの水着はセパレート。トップは赤と白のストライプで、前をジッパーで止めるようになっている。
 しかも、アスカがナイスバディなものだから、胸元には谷間が……うう、羨ましいわ。
 ボトムは急角度のハイレグだし、うーん、これは男の子たちには刺激がきつすぎるんじゃないかしら?
 碇君なんて、口を開けたまま呆然としちゃってるもの。

 ……それどころじゃないわね。
 私たちの周りの男の人がみんなアスカを見てる。
 ほとんどの人は碇君と同じようにポカンとしちゃって……
 あらら、監視員までこっちに目が釘付けだぁ。
 誰か溺れたらどうすんだろ……

「ほらほら、ヒカリも」
「わ、私はやっぱりちょっと……」
「まったもー、何のために水着買ったのよっ!」
「ア、アスカ、そんなにひっぱらないで……」

 アスカはヒカリのTシャツの裾を持って引っ張り上げようとする。
 ヒカリは両手でTシャツを押さえていたけど、アスカがしつこく引っ張るものだから渋々脱ぎ始めた。
 ま、しょうがないわよね。Tシャツのままプールに入るわけにいかないし。

「おー、これはこれは……」
「い、いいんちょ、そらぁ……」
「…………」

 うーん、ヒカリの水着はアスカのより相当地味なんだけど、やっぱりヒカリがハイレグ着てるっていうのがねー。
 いつもどおりスイミングキャップをかぶってるのが何だけど。
 相田君は喜んでビデオ回してるし……おー、鈴原君が照れてるのって、初めて見たわ。
 あらあら、ヒカリも同じように照れちゃって。事前に知らせてたんじゃなかったの?
 碇君は相変わらずね、もう表情が無くなってる。恥ずかしいのかな、こういうの。

「さあ、次はレイの番よ」

 ニコニコしながら男の子たちの反応をうかがっている私にアスカが言った。
 わかってますって。この時のために一昨日一人でこっそり買ってきた水着だもの。
 私はパーカーのジッパーを下ろすと、両手で前を大きく広げた!

「じゃーん!」
「ああっ!」
「いっ」
「う……」
「えーっ!」
「おお!」

 うふふ、この時のアスカの驚いた顔と言ったら、見物だったわ。
 この勝負、私の勝ちね!

「レ、レイ! 何よそれ! 昨日買ったのと違うじゃない!」
「だって、昨日のは家で着てみたらサイズが合わなかったんだもーん!」
「だからって、そんなのありぃ!?」
「こ、これはまた何とも強烈な水着やの……」
「綾波さん……すごい……」
「よくやった、綾波! 偉いぞ!」
「えへへ、どう? 碇君、似合ってる?」
「いや、その……」

 あらあら、碇君、真っ赤になっちゃって。
 やっぱりビキニの魅力は偉大だわ!



「しかし、驚いたのぉ、あの3人の水着には」

 売店のカウンターの前でトウジが言った。
 一時間ばかり泳いでから休憩することになり、僕らはジュースを買いに来ていた。
 みんなで買いに来ればいいのに、アスカが僕たちを買いに行かせたんだ。
 そして自分たちはプールサイドのデッキチェアに寝そべっている。
 相変わらず人使いが荒いよな、全く。
 憶えた注文を忘れないために僕がしゃべらないでいると、ケンスケがそれに答えた。

「そうそう。惣流の水着は予想の範囲だったけど、綾波のにはびっくりさせられたな」
「ほんまほんま。あんなえげつない水着を着るやつとは思わんかったな」

 トウジは腕を組んで目をつぶりながら、一人で何度も頷いている。
 自称硬派の割に、いつも水泳の時間に女の子の水着を見てはしゃいでいるトウジの言うことかな。
 今日だって、女の子の水着を見るのを楽しみにしてたくせに。
 しかし、確かに綾波の水着は強烈だったな……
 ビキニだし、しかもあんなに面積が小さいのを着てくるなんて……

「シンジもそう思うやろ、あれは」
「えっ、あっ、うん」

 注文を全部終えた僕に、トウジがそう言った。
 僕は思わずしどろもどろになってしまった。
 な、何をこんなに動揺してるんだろ。たかが水着くらいで……
 そう、たかが水着じゃないか。……でも、あれはなぁ……
 ほとんど下着というか、何というか……

「何や、センセ、ぼやっとして……綾波の水着姿でも思い出しとったんかいな」

 げっ、どうしてわかったんだ……

「ち、違うよ、そんな……」
「隠さんでもええて。どや、しっかり見といたか? 綾波の胸とか、太股とか、ふくらはぎとか」
「べ、別にそんなつもりじゃ……」
「よく言うよ、口開いて見てたくせに」

 ケ、ケンスケ、ビデオ撮ってたんじゃなかったのか?
 どうして僕の方まで見てるんだ……

「しかし、いい絵が撮れたなー。惣流も綾波も、それに委員長も」

 自分で頼んだレモンスカッシュを受け取りながらケンスケが言った。
 トウジもアイスコーヒー2つを受け取りながら言う。

「しかし、委員長まであんなもん着てくるとは……」
「何だよ、トウジ、うれしくないのか?」
「な、なんでうれしがらないかんのや。ワシは水着見に来たんとちゃうんやで」

 僕にはあんなこと言っておいて、自分はこれだから、トウジって……

「そういうことにしておくよ。しかし、一言くらい何か言ってやれば良かったのに」
「何をや?」
「褒めてあげるとかさ」
「な、なんでワシが委員長の水着を褒めないかんのや……」
「……トウジってほんと、素直じゃないよな。なあ、シンジ?」
「あ、う、うん」

 どうも頭の中が綾波の水着姿に支配されてるらしい。
 さっきから何を言われても上の空だ。
 水着……黒っぽい水着、綾波の白い肌によく合ってたな……
 でも、どうしてあんな水着を着てきたんだろう……
 綾波はもっと大人しいのを着てくると思ってたのに……

「シンジ、持てるのか?」
「え、な、何が?」

 ケンスケの声に慌てて振り返ると、二人はジュースを持ってもうプールの方に戻りかけていた。
 頭が混乱している僕に向かってケンスケが言った。

「だから、ジュースだよ、ジュース。3つも持てるのか?」
「え? あ……」

 僕は慌ててカウンターの方に向き直った。
 目の前には大きなジュースの紙コップが3つ、並べられていた。
 こんなに大きくて一つ150円なんだから、格安だよな。いや、そうじゃなくて。
 一つずつ両手に持って、その間にもう一つを……
 何とか持てそうだけど、落としたらまずいな……

「1つ持ってやろうか?」
「あ、うん、頼むよ」
「どっちを持つ?」
「へ?」

 僕の方に戻ってきてくれたケンスケは、例の不敵な笑いを浮かべていた。
 どっちをって……何のこと?

「惣流のジュースと、綾波のジュース、どっちを持って欲しい?」
「どっちって……」

 確かに、綾波もアスカも僕に頼んだ。
 だから僕が注文したし、僕が持っていくことになるんだろうけど……
 さて、どっちを持ってもらうか……
 でも、そんなに悩むようなことじゃ……
 いやでも、アスカは僕が持っていかないとうるさいだろうし、綾波のも持っていきたいし、うーん……

 …………

 ……よし。

「決まったか?」
「うん」
「どっちだ?」
「僕の分」



 休憩のはずだったけど、私は何となく水に触れていたくて、一人でプールに入っていた。

「うん……いい気持ち……」

 私は水の上に仰向けでぷかぷかと浮いていた。
 25mプールの水は冷たかった。
 プールは半分だけコースロープで仕切られていて、4つほどコースが作られている。
 そこでは競泳の練習をしているらしい人が何人かいた。
 行きと帰りのレーンを決めて、みんなずっと泳ぎ続けている。
 残り半分にいるのは私とあと4〜5人だけだった。

 息を大きく吸って、身体を捻ってうつ伏せにして、それから水の中に潜る。
 潜水……昔は得意だったけど、今はあまり息が続かない。
 運動不足だからかな……余分なお肉が付かないように、これからは運動しなきゃ。
 ダイエットすると胸が落ちちゃうって言うし、これ以上小さくなったらたまらないわ。
 やっぱり碇君だって、ないよりはある方が好きよね、きっと。うん。

「ぷあ……」

 プールの底に描かれたラインどおりに泳いでいって、端まで行き着くと、タッチをしてから水の上に顔を上げる。
 それから大きく深呼吸した。
 少し……苦しい。昔は潜ったまま25mくらい泳げたのに。
 ちょっと疲れた。

 プールの底を蹴り、プールサイドの方に向かって泳ぎ出す。仰向けだと、少し楽。
 足でパシャパシャと水を蹴り、手でゆっくりと水をかいて少しずつ進んでいく。
 プールサイドの壁にコン、と頭がぶつかったところで腰を沈めて、それから立ち上がった。
 良かった、方向はぴったり。
 プールサイドから上がるハシゴのところにちょうど来ていた。
 上がりかけたところで、斜めになったハシゴの手すりにもたれて一休み……

 濡れた髪から滴が垂れていく。水着からも。
 この水着……上は黒と白のストライプ、下は黒一色。
 身体にぴったりフィットしてる。ほとんど下着みたい。
 やっぱり少し恥ずかしかった。アスカみたいに堂々と見せてられない。
 碇君は、どう思ったかな、私の水着……



「ただいまー、ジュース買ってきたよー」

 僕らが戻ってきたとき、アスカはデッキチェアにうつ伏せになっていた。サングラスなんてかけて。
 改めて見ると、アスカの肌は他の人より白い。綾波はもっと白いけど。
 それにアスカはほとんど日焼けしない。こうして太陽の光を浴びていても、2〜3日肌が赤くなってるだけで、すぐに白く戻ってしまう。不思議なものだ。
 委員長はアスカの横のチェアで体育座りしていた。肩からバスタオルを掛けて身体を隠している。

「アスカ、オレンジジュースだったよね。はい、これ」
「ん、ありがと、シンジ」

 アスカは僕から紙コップを受け取ると、ストローで一口ジュースを飲んだ。

「あの、お金……」
「あ、後で払うわ」
「…………」

 アスカがこう言ったときは用心しなきゃいけない。
 今はこう言ってるけど、帰ってからお金を請求したら、おごっといてよとか何とか言われるんだ。
 まあいいか、この夏休みはあまりお金使ってないし……
 綾波の分も、僕のおごりにしようかな。

「いいんちょ、何でもええ言うたから、アイスコーヒーにしといたで」
「あ、ありがと、鈴原……」

 ケンスケはトウジが委員長に紙コップを渡すところをビデオに録っていた。
 ……僕のジュースは? ケンスケは自分のしか持ってない。
 あ、あったあった、テーブルの上か。
 綾波にもジュース渡さなきゃ。
 あれ? 綾波は……

「アスカ、綾波は?」
「んー? あ、一人で泳いで来るって、あっちの方に」

 アスカが首を上げてその方向を目で指し示した。
 どのプールかよくわからないけど、向こうの2つのうちの一つだろう。

「そうなんだ……呼んできた方がいいかな?」
「すぐに帰ってくるって言ってたわよ」
「でも、ジュースの氷、溶けちゃうし……」

 僕がそう言うと、アスカが僕を横目で見た。
 そのままジュースを飲んでいる。
 ……どうしてそんな目で見るんだ?

「……ま、シンジにはそんなこと無理か」

 アスカがそうつぶやいたのが聞こえた。

「え? 何が?」
「早く呼んできてあげたら」

 僕は何のことかわからなかったので聞き返したが、アスカはまた顔を下げてそれに答えなかった。
 何なんだろうな、全く。
 僕はテーブルの上に置かれた自分のジュースを持つと、一口飲みながらアスカが目で示したプールの方へと歩いていった。

 手前の方のプールはわりあい人がたくさん入っている。
 ここから探すのは難しそうだ。
 空色という決定的な目印があるにはあるんだけれど。
 でも、向こうの方にはほとんど誰もいない。
 コースの中で練習してる人とかだけで……

 いや、違った。いた。綾波が。
 目印の空色がはっきりとわかった。
 プールから上がろうとしてるところかな。
 足でもつったんだろうか。
 僕はプールの方に小走りで寄っていくと、綾波に声をかけようとした。

「あや……」

 しかし、僕の声は途中で止まった。足も止まってしまった。
 綾波はどうやら足がつったとかじゃないみたいだ。
 ただ、プールサイドのハシゴにもたれかかっていた。

 でも、あれ……綾波だよな……水着も同じだし……

 その時の綾波は何というか、いつもの綾波からは想像もできない、けだるい表情だった。
 まるで別人みたいだ。どうしちゃったんだろ、いったい……
 でも……なんか……こういう表情って……

 ……

 ……綺麗だ……



「あの……綾波……」

 手すりにもたれながら、あらぬ方向を見つめてぼーっと考え事をしていた私は、恐る恐るという感じでかけられた声で急に我に返った。
 え? この声、碇君?
 私が顔を上げると、少し離れたところに碇君が立って私の方を見ていた。
 ……どうしてそんなに離れてるのかしら。

「あ、碇君、うん、どしたの」

 私は笑顔になってそう言いながら、プールから上がった。
 碇君はまだ近付いてこようとしない。本当にどうしたのかしら。

「あ、あの、ジュース買ってきたから……」
「あ、うん、ありがと、碇君」

 私はそう言ってニコッと微笑んだんだけど、碇君は私の方を見ているようで見ていない。
 ……ははあ、そういうことですか。
 ま、いいか。私もジロジロ見られるのは恥ずかしいし。
 碇君だって、別に悪い印象持ってるようじゃないみたいだしね。
 私はととっと碇君の方に駆け寄ると、近い方の左手から紙コップを受け取った。
 ストローに口を付けて一口飲んでみる。
 休憩している間に体が温まっていたので、冷たいジュースが喉に気持ちよかった。

「あ、あれ、それ……」
「ん? 何?」

 私がジュースを飲んでいるのを見て、碇君がパチパチと瞬きした。
 どうしたのかしら。自分の持ってる紙コップと私のを見比べて……

「そっち、僕の……」

 あ、こっちの紙コップじゃなかったの?
 でも、私が頼んだのもレモンジュースだから飲んじゃった。

「あー、ごめーん。じゃ、そっち飲んでいいから。同じレモンジュースでしょ、ね」
「いや、でも……僕、それ、飲んだから……」
「いいわよ、ちょっとくらい少なくても」
「…………」

 ……どうして黙ってるのかしら。
 多いからいやなんて、変よね。私ならさっさと取っちゃうけど。
 自分が最初に飲んだのがそんなに愛着があるのかしら。
 それとも、けっこうたくさん飲んだから悪いと思ったとか?
 そんなことないわよ、この量ならきっと一口くらいしか飲んで……

 ……え?

 これ、飲んだ……って……碇君が……

(ああーっ!! じゃあ、これって、ひょっとして……)

 そうか、そういうこと……
 私と、碇君が……
 だから、碇君、ちょっと、赤くなって……
 ううっ、意識したら私も何だか……
 ああ、何か、顔が熱くなってきた……

「あ、あの……ごめんね……」
「いや、その……」

 私は思わず謝ってしまった。別に、悪いことしたわけじゃないのに。
 碇君も思わず口ごもってしまう。
 な、何か微妙な雰囲気……
 あー、こういう時って、どうしたらいいんだろ。
 私から話しかけられない……

「あ、あの……一人で泳いでたの?」

 碇君はもう一つのジュースに口も付けず、目を逸らしながらそんなことを訊いてきた。
 私は努めて明るい声で答えるしかなかった。

「う、うん、ちょっとね、考え事してて」
「あ、じゃあ、邪魔だったかな」
「ううん、そんなことないよ。そろそろ戻ろうと思ってたところだし」

 碇君がすまなそうに言ったので、私は慌てて手を振りながら応えた。
 でも碇君は相変わらず私の方を見ていない。
 ……そんなにショックだったのかしら? 私と……したのが。

「あの、じゃあ、みんなのところに戻ろうよ」
「あ、うん、そうね」

 私がそう答えると碇君はすっと振り返ってみんなの方に向かって歩き出した。
 私は黙って後からついていく。
 あー、びっくりした。まさか碇君と『間接』しちゃうなんて……
 でも、これって……何となく、うれしい……

「おー、戻って来よった」

 歩いてきた私たちの姿を見て、鈴原君がそう言った。
 手にビーチボールを持ってる。
 あ、なんかやるんだ。

「ごめーん、ちょっとね、向こうで一人で泳いでて」
「いや、別にかまへん。一休みしたら、みんなでプールの中でバレーボールでもしよかと思っただけや」

 鈴原君はビーチボールをポンポンとドリブルしながらそう言った。
 ふむふむ、男子対女子でもやろうってのかしら。
 でも、女子チームにはアスカがいるからいい勝負ね。

「あ、それなら、あっちのプールが空いてていいわよ。水、冷たいけど」

 私はさっきまでいたプールの方を指差しながら言った。
 競泳用に冷たくしてあるから、一般の人はあまり入らないのよ。

「そらよさそうやな。ほな、ジュース飲んだらやろか」

 その言葉に、私も碇君もビクッとしてしまった。
 幸いなことに、こういうのに目ざといアスカは見ていなかった。
 鈴原君と相田君なら気付かないわよね、きっと……

「は、早く飲んだ方がいい?」

 でも思わずどもってしまう。

「まあ、ゆっくりせいや。惣流も委員長もまだ全部飲んどらんし」

 あら、そうなの。
 アスカはデッキチェアに仰向けになってジュースを飲んでる。
 足を組んで、サングラスなんかして、まるでリゾート気分ね。
 後はヤシの木でもあれば完璧だったかしら。
 ヒカリは……あらあら、そんなに縮こまっちゃって。
 そんなにその水着って恥ずかしい? それなら私とアスカはどうなるのよ。

 それはともかく、私はさっきのことを甚だしく意識しながらも、ゆっくりとジュースを飲み干した。
 碇君は……別に私の飲んだジュースってわけじゃないのに、チビチビ飲んでた。
 やっぱり意識してるのかなぁ?



 ジュースを飲み終わって、みんなで空いてるプールの方に移動。
 でも私たちが入ったら、急に人が増えたみたい。
 うーん、アスカ目当てのギャラリーかしら。困ったものね。
 それからみんなでプールの中で楽しくバレーボール。
 しかし……相田君、こんな時までビデオ撮らなくてもいいじゃない。
 何か期待してるのかしら?
 もちろん、私はバレーボールの前に水着の肩紐をしっかりと結び直すのは忘れなかった。



 たっぷりと遊び終わって、更衣室に戻った私は重大なことに気が付いた。

「あちゃ……やっちゃったみたいねー」

 ロッカーを開けて、ビニールの手提げ袋からポーチを取り出したときにそれは発覚した。
 あーあ、行く前に家で水着に着替えて、鏡の前でポーズなんかとってたから忘れちゃったんだわ。
 しょうがないなぁ……

「んー? レイ、どしたの?」

 着替え中のアスカが私の呟きが聞こえたのか、こっちの方を見て言った。
 で、でも、アスカ……いくら自信があるからって、全然隠さないのはちょっと……
 ヒカリなんて、バスタオルで身体をぐるぐる巻きにして着替えてるのに。

「あははー、忘れ物……」
「何、下着?」
「そう」
「家から着てくるからよ」
「うう、その通りです」

 手提げの中に入ってるのは財布とバスタオルと小さなポーチ。
 そのポーチに入れてきたはずなんだけど……
 最初は水着を入れてて、やっぱり水着を着ていくことにして、着替えた後で入れるのを忘れたのかしら。
 寝起きだったからやっぱりぼけてたのかも……
 昔からプール行くときは下着をよく忘れたのよねー。全然直ってないのね。

「しょうがないんじゃない。水着の上から服着とけば」

 早くも着替え終わったアスカが髪の毛の水分をタオルで取りながらそう言った。
 ヒカリはまだ着替えるのに悪戦苦闘している。
 学校の水泳の授業の時も、こうして苦労してるのよね。
 私といい勝負なんだから、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。
 まあ、アスカみたいに堂々としなさいってわけじゃないけど……

「はあ、そうします」

 そうよね、それしかないもの。
 まさか、下に何も着けずに服を着るわけには……
 しょうがない、できる限り水着の水分を取ろう。
 私はタオルで水着を挟むようにして水気を吸い取ることにした。
 うーん、この水着、やっぱり失敗だったのかなぁ?
 碇君はあまり見てくれなかったし……



 着替え終わった私たちが外に出ると、男の子たちが待っていた。
 あー、鈴原君も相田君もちゃんと着替え持ってきてる。
 来るときは水着にTシャツだったから、帰りも水着着て帰るのかと思ってたのに……
 やっぱり着替えを忘れたのは私だけなんだわ、とほほ。

「さーて、これからどないしよかいな」

 みんなの自転車が揃ったところで、鈴原君がそう言った。
 なるほど、これから別のところに遊びに行くつもりだったのね。まだ夕方だし。
 私は……これじゃ無理だなぁ。水着の上にパーカーとジョギパンだもの。
 このまま遊びに行ったんじゃ風邪引いちゃう。
 だいたい、ジョギパンが水着の形に濡れて恥ずかしいじゃない。

「なんか食いに行くか? かき氷とか」
「おお、ええなぁ、それは」

 かき氷か……いいな、私も食べたい。
 私はみぞれがいいんだけど……
 このままでは置いて行かれてしまう……まずいわね。

「かき氷なら、あたし、パス」

 あれ? アスカ、どうしたのかしら。
 かき氷は好きなはずなのに……
 こないだ一緒に食べに行ったときは、氷イチゴの一番大きいのを食べてたじゃない。
 ちなみに、ヒカリは宇治金時が好きなのよね。

「なんや、あったかいもんが食いたいんか?」
「そういうわけじゃないの。かき氷はシンジの家で食べさせてもらえるから」

 えー、そうなんだー。
 いいなー、私も食べたい……
 ん? 何か音がする。ベルのような……携帯電話かしら。
 みんなが一斉に鞄を探り始めた。
 ありゃ、持ってないのは私だけか……

「はい、もしもし、碇ですけど」

 あ、結局碇君だったのね。

「あ、母さん? 何? ……うん、今ちょうどプールから上がったところだけど……え? どうして? ……いいからって、そんな……あ」

 碇君が呆然とした顔で携帯電話の方を見てる。
 電話の相手はおばさまよね。
 何だか、一方的に話して切っちゃったみたいだけど。

「何だったの、シンジ」

 携帯を鞄に入れてる碇君にアスカが聞いた。
 何だったのかしら。私も気になるわ。

「何だか知らないけど、みんなでうちに来いって」
「みんなって?」 「うん、ここにいるみんな」
「なんや、何か食わしてもらえるんかいな。シンジのとこの料理はうまいからのぅ」
「す、鈴原、何言ってるのよ……」

 ヒカリが鈴原君のことをそう言ってたしなめた。
 いや、私も一瞬、そんな想像をしちゃったんだけど……
 だって、あのおばさまならやりかねないもの。

「ま、まあ、食いもんのことはとにかく、呼ばれてるんやったら行こか」

 鈴原君が自転車にまたがりながらそう言った。
 みんなも自転車に乗って、今にも出発しそう。
 ああ、私はどうしよう?

「あのー……私、家に戻らなきゃいけないんだけど」

 私がそう言うと、みんなが一斉に私の方を見た。

「え? 綾波、来られないの?」
「ううん、そういうわけじゃなくて……ちょっとね」

 碇君の問いかけに、私はそう言ってちらっとアスカの方を見た。
 あ、別にアスカに説明して欲しかったわけじゃないんだけど。

「ああ、レイったら、着替え持ってくるの忘れたんだって」
「そうなんだ」

 アスカの言葉に碇君はそう言っただけだけど、なぜか鈴原君が過剰に反応した。

「なんや! ほな、その服の下は何も着とらんのかいな!」
「え? いや、その……」
「そんなわけないでしょっ、バカッ! 水着よ、水着!」
「鈴原、何言ってるのよ!」

 あの……アスカやヒカリがそんなに怒る必要ないと思うんだけど……
 ん? 碇君が赤くなってる。何か想像した?

「と、とにかく、レイは着替えて後から来なさい」
「へいへい」
「じゃ、行きましょ」

 そして私たちは碇君の家に向かった。
 途中、私だけは自分の家に戻って着替え。
 うーん、最後の最後に詰めを誤ったかなー。
 それから私はみんなの後を追って碇君の家に向かった。

 そこで聞かされた話は、驚くべきものだった。



「海?」

 母さんがいきなり話を切り出した後で、アスカが驚いた声をあげた。
 それから僕の顔を見る。僕だって初めて聞いたよ、そんな話。
 帰って来たらリビングに6人分のかき氷が用意してあったから、まさかこれをみんなに食べさせるのが目的かと思ったら、違った。
 僕らがかき氷を食べるのを見ながら、母さんがいきなりみんなで海に行こうと言いだしたんだ。
 僕が何も言わないので、アスカがまた母さんに聞いた。

「いつですか?」
「今度の土曜から1泊なんだけど、どうかしら。皆さんの都合によっては変えることもできるけど」
「あたしは大丈夫ですけど……みんなは?」

 アスカが場をすっかり仕切ってしまっている。
 ま、いつものことかな。
 どうせ僕にはそんな能力ないし。

「ワシは別に何も用事はありまへんけど」
「私は……夏休みはお弁当作らなくていいから、大丈夫です」
「相田は?」
「どこの海です?」

 アスカの問いかけにケンスケが眼鏡を指で押し上げながら言った。
 どうしてどこの海かなんて訊くんだろう。何かあるのかな……

「新湘南よ。新横須賀のすぐ近く」
「行きます!」

 母さんが答えると、ケンスケが間髪入れずに言った。
 眼鏡をキラリときらめかせながら。
 なるほど、そう言うことか……

「いやあ、都合がいいなぁ。その日は夜中に空母が寄港するんだ。これは楽しみになってきたぞ」

 ケンスケはそんなことを言いながら一人浮かれていた。
 まさか夜中に単独行動する気なのか……

「レイは?」
「私はいつだって暇だもん」

 そうだよな、一人暮らしなんだし。

「そういうわけで、全員都合がいいようです、おばさま」

 僕の都合は誰も聞いてくれないのか……まあ、どうせ暇だけど。

「あらそう、良かったわ。じゃ、朝9時にうちの前に集合でいいかしら?」
「車で行くんですか?」
「ううん、電車で行くわ。泊まるのも泳ぐのも駅のすぐ近くだし」
「そう、じゃ、みんな、遅れないでね」
「小遣いはなんぼほど持っていったらえんですか?」
「あら、そんなの要らないわよ。みんなうちで出すから」
「えー、いいんですか?」
「いいのいいの、福引きで当たった旅行だし、パックで海の家の利用券も付いてるんだから」
「おお、大名旅行ですね」
「じゃあ、持っていくのは着替えと水着くらいですか?」
「そうね、遊ぶ物くらいは持ってきた方がいいかしら。トランプとか」
「どんなところに泊まれるんです? 民宿とか?」
「ううん、リゾートホテルよ。結構いいところみたいだけど」
「うわー、何だか楽しそう!」

 ……僕以外のみんなが盛り上がってる。
 何だか、僕が別の家の子供みたいだ……



「海かぁ、久しぶりだなー」

 家に帰って来た私は、ベッドに寝ころびながら大きな声で独り言を言った。
 小さいときは両親によく連れていってもらったけど……
 引っ越しが多くなってから、ちっとも行ってないな。
 もう何年行ってないのかしら。小学校1年の時の記憶はあるから8年くらい?
 あれは、楽しかったな……

 そうそう、感傷に浸ってる場合じゃないわ。
 今度はどんな水着持っていくか考えなきゃ。
 今日のは、半分成功で半分失敗。
 インパクトは大きかったみたいだけど、私のことほとんど見てくれなかったもの。
 もう少しおとなしめの水着が必要ね。もう少しだけ……
 またアスカやヒカリに隠れて買いに行かなきゃ。
 それに今度はお泊まりだし、頑張ろう! ……って、何を?



- To Be Continued? -







おまけ



 その夜、息子が部屋に引き上げた後の碇家のリビングでは、

「海なんて、2年ぶりね」
「ああ」
「去年は出張や実験が多くて行けませんでしたからね」
「そうだな」
「でも、ラッキーだわ、福引きで2つも家族旅行が当たるなんて」
「君は運がいいからな」
「ええ、まあ。それはそうと、私も水着買わなきゃ。前のはだいぶ古いし」
「……君も泳ぐのか?」
「あら、いけません?」
「……いや……」
「どんなのがいいかしら。レイちゃんみたいなビキニなんて、派手すぎるかしらね」
「…………」

 赤くなった顔を新聞で隠しているこの家の主人の姿があったという。



- Fin -







おまけ2



「へくちゅん!」

 あー、やっぱり風邪引いたのかしら。
 それとも誰かが噂してるのかな?
 私はお風呂に入りながらそんなことを考えていた。
 それはそうと、今日、プールで視線を感じたような気がしたんだけど、あれは気のせいかな?
 単に水着が大胆だったから見られてるように思っただけかしら……



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions