雨の日はね。言葉を交わしているんだよ。
言葉・・・?
樹木たちは晴れた日は黙っている。だから雨の日に言葉を交わすんだ。
・・・・・・
動物たちは雨の日は黙っている。
でも私達は話している・・・
・・・・・・
・・・・・・

ひとはね
とても話す事が下手な動物なんだ
だから雨の日も言葉を交わすんだよ

そして下手っていうことは
いつも上手になろうとして
一生懸命ってことなんだよ





(・・・・・・)
 気怠さ。眠気を感じる。開いていた文庫本を閉じ傍らに置く。黄緑色の背表紙にポップアート調の表
紙画。幾度も幾度も最後まで読み返した本。そしてこれからも何度も何度も読み返すだろう。何故?な
ぜならそれは彼女自身が決めた事だから。他の本を開くこともある。本を全く読まない日もある。それ
でも彼女はそのたった一冊の文庫本を持ち歩き、この部屋に帰り着くとチェストの上の決めた場所に置
くのだ。布切れでほこりを拭き取った後に。いつからだろう。この本が彼女の元に来た時から。それは
輝くような陽気のある休日。今日も休日。でも外は雨。
 そして彼女は独り。
(・・・・・・)
 その部屋はいつも眠りについているようだ。静謐、うつろい。かつてそこで動き続けていた時間が確
かにあった。だから廃墟は緩やかに流れる時間を手に入れることが出来る。部屋は夢見ている。もうそ
こに慌ただしい時間が巡ってくる事はないのだから。コンクリートの地肌が剥き出しになっている。壁
に何か装飾品がかけられている訳でもない。入口近くの流し台。台所に火を入れる事は稀だ。蛇口が緩
くなっているのか、数分間に一度水の雫が落ちる音がする。
 家具も少ない。小さなパイプのベッドに旧い形のチェスト。壁際に動いているのか止まっているのか
分からないような小型冷蔵庫がひとつ。その上に薬の袋と水の入ったグラス。包帯。チェストの上には
プラスティックの眼鏡ケースが一つ。これらのものたちも部屋と同じだった。眠りについている。見捨
てられた廃墟の中で見捨てられたものたちが静かに眠りにつく。
 彼女は同じ時間の中に生きている。静かにまどろみ流れてゆく時間。まるで部屋の中のものの一部で
あるようにそこにいる。無造作なショートカットの髪は淡いブルー。小柄で細身の身体付き。先天的な
体質か繊細過ぎる程に白い肌はともすると病的な印象さえ受け取ってしまう。端正な顔立ちの中で印象
的に輝く朱い瞳は今暫し傍らに置いた文庫本に向けられていた。ベッドに腰掛け両手を重ねるように膝
の上に置いている。彼女の通う中学校の制服のものである白のワイシャツを上に羽織り、下は何も付け
ていなかった。白く細い脚がシャツの裾から伸びている。
 ふと視線が緩やかに窓の外へと移る。今日の空は白い。雨雲は絵に描く時のような黒々とした表情を
見せる事は稀だ。ただ一面に白く覆われた雲から果てしなく水滴が降り注ぐ。終わりもなく始まりもな
い。朝目覚めた時から降り続いている雨、恐らく夜更け過ぎに止むのだろう。だから時間の感覚が溶け
るように無くなってゆく。ただ雨が降る。この取り壊し寸前の誰も棲み人のいない建物へと通ずる道に
はひと通りは全くない。誰もいない。何もない。今日はそうして終わる。
 風が少し出ているようだ。街路樹が揺れている。生き物のようだ、と感じる。晴れた日の風は葉を揺
らし通り過ぎてゆく。風は木々を通り過ぎてゆくだけだ。が、細かい雨混じりの風は木々に何かを伝え
る為に吹き抜ける。だから揺れる。天の水を受け取り風を次の場所へと送り出している。雨の日は植物
たちの日であるのかも知れない。だから、誰もいない。何もない。
(・・・少し眠る・・・今日は何もないから・・・)
 窓から目を離しゆっくりと身体を横たえてゆく。いつも夜に眠る向きとは逆の向き。別に構わない、
と思う。脚もベッドからはみ出したままだ。うたた寝程度、睡眠として眠るわけではない。学校にいる
時も眠気を感じた時には構わずうつ伏せて眠るようにしている。横向けの姿勢。両手を重ねて枕代わり
に頭の下にする。柔らかなシーツの感触。少しずつ輪郭をぼやけさせてゆく意識。
(・・・・・・)
 目を閉じる瞬間、すぐ目の前にある文庫本の残像が意識に残る。静かな暗闇。文庫本の印象が漂い続
ける。それは彼女を不思議に和ませる。イマージュとなったそれは拡がり、やがて彼女の意識を柔らか
く包んでゆく。感覚。それはよく知っている感触。何故・・・?彼女の心はいつでも無空の中で宙吊りに
なっている。が、柔らかく心地好い感覚が彼女を導く時がある。シンボル。文庫本はその象徴のような
もの。
(・・・何・・・この気持ち・・・)
(・・・・・・)
(・・・・・・)
(・・・でも・・・)
(・・・嫌じゃない・・・心地好い・・・)
 意識が緩やかに深淵へと降りてゆく。形は形でなくなり色は明確な境界線を無くしてゆく。「ある」
という言葉はなくなる。全てが「ある」と同時に「ない」世界。狭間。意識は拡がりやがて無へと帰っ
てゆく。遠ざかる意識、遠ざかる「私」。

だから

 それが誰であるのかは分からない。ひと、なのだろうか。それすらもはっきりとは分からない。ただ
ひとつの印象だけが伝わってくる。柔らかく包み込むような感覚。心地好い。それはあの文庫本と同じ
もの。でも何故、ひと、という印象を覚えたのだろう。何故ならそれは「笑って」いたから。笑顔。温
かく優しく降り注ぐ笑顔。それが微粒子の様に彼女を包み込む。そう、彼女はそれをよく知っている。
一番近くにいるひとの、いつもそばにいるひとの。


そして彼女は想う
いつかひとつになりたい、と




Rain




雨の日はね。言葉を交わしているんだよ。
言葉・・・?
樹木たちは晴れた日は黙っている。だから雨の日に言葉を交わすんだ。
・・・・・・
動物たちは雨の日は黙っている。
でも私達は話している・・・
・・・・・・
・・・・・・

ひとはね
とても話す事が下手な動物なんだ
だから雨の日も言葉を交わすんだよ

そして下手っていうことは
いつも上手になろうとして
一生懸命ってことなんだよ




 遠くから光が近付いてくる。それとはっきり分かるような光ではなく、「ここ」と「それ」の区別も
ない。ただ近付いてくる。気が付けば既にその光の中に入っている自分がある。光?それは単色の光で
はない。色・・・色の分化が緩やかに、しかし確実に進んでゆく。最初に薄いグリーン。樹の色。次に感
触が次第に近付いてくる。温もり。感じる、確かに。頬に温かさを。それは自分の手だという事が少し
ずつ分かってくる。自我の再生。私・・・私はここにいる。
(・・・・・・)
 ぼんやりと霞のかかったままの状態。それはよく知っている自分の感触。目覚めは決して良い方では
ないという事。身体の感覚を全て元の状態に戻すのに常人の倍以上の時間がかかる。典型的な低血圧の
特徴。だって、仕方がないもの・・・。今は完全に目が開いている。それでもまだ完全に目の前の光景を
受け取り切れてはいない。精神が身体に遅れを取っている。
(・・・・・・)
 それでも少しずつ心が形作られてきているようだ。ようやく目の前の光景が形ある物として把握出来
るようになってくる。窓。白い格子で区切られた両開きの窓。その向こう側に遠く続く風景。背の高い
草が一面に拡がっている。所々に並木。細い広葉樹の樹木。揺れている。葉全体を緩やかに震わせて。
風が出ているのだろう。晴れた日には遠くしかし澄み切った空気を通してはっきりと見える筈の山脈の
稜線。今日は霞んで殆ど見て取れない。仕方がない。雨の日だから。
(・・・・・・)
 雨、という言葉が頭の中に浮かんだことによって、緩やかに聴覚が帰ってくる。部屋の中、静寂。そ
れでも微かに降り続ける雨音が伝わってくる。いつ止むとも知れず。ゆっくりと頭を上げる。今まで横
向きだった光景が自然な状態に戻る。うつ伏せに眠っていた。そのまま目覚めたので横向きの風景だっ
たのだ。テーブルの上に重ねられた両の手。部屋の中はいつも一定の温度に保たれているので寝汗一つ
かいていない。
(・・・・・・?)
 最後に意識が緩やかに戻って来る。それと共に違和感のようなものが少しずつ湧き上がってくる。視
線を窓から自分自身の方へ向ける。それ程大きくない木製のテーブル。深みのある焦茶色。目覚めて最
初に入ってきたのはこの色だろう。眠りにつく前の記憶が徐々に蘇ってくる。確か部屋のベッドの上で
横になったのではなかったか。それが何故テーブルで目覚めるのだ。身体の感覚。柔らかな材質の椅子
に腰掛けている。座る?そもそも自分の部屋にテーブルなどあっただろうか。
(・・・・・・?)
 身体の感触。確かに変だ。視線を更に落とす。シンプルなデザインのグレーのワンピース。Tシャツ
の裾が長くなったもの、と言った方が相応しいだろう。こんな服持っていただろうか。ゆっくりと立ち
上がる。裾は膝の少し下まで降りた。細身の身体に程よくタイトしている。違和感は別として着心地が
良いという点では申し分ないものだった。
(・・・・・・?)
 立ち上がり次いでに部屋の中を見渡してみる。壁の色は殆ど白に近い薄目のグリーン。部屋はかなり
広い。一方の端に木製のドア。部屋のほぼ半分のところで縦に区切りがあり、ドアと反対側の方に清潔
そうなキッチンとカウンター。食器棚は木製のやや大きなもの。丁度自分が居眠りしていたテーブルか
らは背後の位置になる。テーブルを挟んで反対側に大きなフランス窓が二つ。白い格子で区切られてい
る。壁際には書物で埋められた大型の本棚。フル構成のオーディオ機器と木枠のスピーカー。窓の手前
にいささか場違いな古めかしい木造の安楽椅子。
(・・・ここはどこ・・・?)
 適材適所で必要なものだけがシンプルに置かれた部屋、という印象を受ける。が、それよりも問題は
自分自身の内面だった。眠りについた自分の部屋とは全くかけ離れた場所。全く見覚えのない場所。そ
んな場所で見知らぬ衣類を身に付けて目覚めたという事。分からない。疑問が頭の中でループ状に回転
している。
(・・・なぜ・・・ここにいるの・・・)
 不意にもう一つの不思議な感覚が心に生じてくる。見知らぬ場所。見知らぬ衣服。が、全く見覚えが
ない物たちに囲まれて何故か心は平静な状態を保っている。いや、平静というよりは寧ろ安心感を覚え
てさえいる。その感覚は次第に明確になってくる。何故これ程落ち着いているのか。何故?問うまでも
ない事、ここは自分の家だから。家?そう、知っている。確かに彼女はこの部屋の光景を知っていた。
隅から隅まで。自分で選んだ家具などもある。よく知っている光景。それと同時に初めての光景でもあ
る。混乱。ここが私の「家」・・・?
(・・・私の・・・私・・・?)
 ふと根源的な問いに達する。自分は一体誰なのだろう。眠りにつく前と目覚めた後、全く別の人間に
なってしまっているのだろうか。考え記憶を手繰り、少なくともその点では何一つ混乱がないという結
論に至る。私は私。別の人間になっているなどという事はない。名前だって思い出せる。綾波レイ。こ
の世に生を受けた時から変わらぬ自分の名前。
(・・・・・・?)
 観点を自分自身に移した事で徐々にその違和感が見えてきた。先程から何故か視点が少し高いような
気がしていた。気のせいだろうか、10センチ以上は高くなっているような気がする。視線を自分の手に
落とす。目覚めた時から感じていた。私の手、こんなに大きかった・・・?手だけではなく身体全体がひ
と回り大きくなったような気がする。それに加え何となく上半身が重い。胸部が以前よりも重く感じる
のだ。自分の胸を掴んでみる。弾力のある感触。第二次性徴で胸が膨らんでいたのは分かっていた。そ
れでもこんなに大きかっただろうか。驚いた事に胸の下着を着けていなかった。
(・・・・・・?)
 が、部屋の印象と同じように違和感を覚える一方でそれを全く自然な事として受け止めている自分が
ある。だって歳相応だもの。服のサイズも恐らくひと回り大きいのだろう。ふと思いついてキッチンへ
向かう。木製の食器棚は上半分がガラス。前に立ち少し距離をあけて自分の全身像を映してみた。髪形
は同じ、淡いブルーのショートカット。細身の身体付きも同じ。ただ少し丸みを帯びて、記憶の中の自
分よりも女性らしい身体の線が顕れている。
(・・・これが・・・私・・・?)
 身体的な特徴よりも顔付きに惹きつけられた。部分部分の輪郭がはっきりしている。にも関わらず、
自分の知っている自分の顔よりも柔らかな印象を覚えた。自分の顔は彫刻のようだ、といつも思ってい
た。が、ガラスに映る自分の顔は何も拒まず自然に流れるような緩やかな表情をしていた。それは確か
にひとの表情。安心に満ちた一人の女性の表情。知らず知らず引き込まれる。自分が全く知らない自分
の表情。それでいてよく知っている顔。
(・・・・・・?)
(・・・・・・?)
(・・・・・・?)
 ただじっとガラスに映る自分の顔を凝視する。時が過ぎる。
 見覚えのないものに囲まれる違和感と、それらを全て自然に既知のものとして受け止める想いが同居
した奇妙な感覚。
 静かな混乱。

 不意に遠くで物音。
 近付いてくる足音。

 振り返る。誰・・・?
 部屋の隅の木のドアがゆっくりと開く。

 背の高い男性。白い綿のシャツにベージュのカーキ。左手に2冊の古い書物。後ろ手でドアを閉めた
にも関わらず大きな音はたてない。慣れているのだ。やや長めの髪は茶味がかった黒色。変にくせはな
く真っ直ぐに伸びている。前髪が眉より若干下ぐらいだろうか。端正な顔付きは女性的なものさえ感じ
させる。繊細な優しさ、それが顔付きに顕れているのだ。その事を知っている。レイは知っている。何
故?また違和感。このひと誰・・・?
「ただいま。」
 滑らかな、それでいて低めの声。帰宅の言葉の後、微笑。その表情を目にした途端にひとつの感覚が
走る。優しく包み込むような感触。よく知っている感覚。初めて違和感が薄れ、心と身体が一つになっ
たように感じる。この笑顔、知ってる。確かに。そう、よく知っているひと。何故かその名前は出てこ
ない。それでも不安感はまったくない。分からない事ばかりだった。自分さえよく分からなかった。で
もこのひとの事はよく知っている。それだけは間違いない。
「・・・おかえりなさい・・・」
 その言葉は自然に自分の口から流れ出た。違和感は全くない、と言えば嘘になる。が、先程までの全
く分裂したような自我よりは遥かに近く感じる。彼のことはよく知っている。彼がここに帰って来たと
しても別に不自然ではないかも知れない。もう一つの感覚がそれを後押しするように付け加える。彼が
ここに帰って来ない方がおかしいもの・・・。
 ゆっくりと扉の前から部屋の中央へと歩いて来る。途中、先程までレイがうたた寝をしていた木製の
テーブルの上に持っていた書物を置いた。遠目にその背表紙の筆記体が見て取れる。洋書。綴りから推
測するにドイツ語の原書。別に不思議には思わない。それが彼の仕事だから。窓の前に立ち大きく伸び
をする彼の後姿を見つめる。何・・・この気持ち・・・?
「・・・雨、止まないわね・・・」
 また自然に流れ出る言葉。言ってしまってから改めて考える。自分はこんな無益な会話を誰かに振る
ような事をしていただろうか。が、その問いはすぐに「もう一つの感覚」によって封じられる。だって
話しかける相手が彼だもの・・・。それで不思議に心が落ち着く。そう、そうなのね。彼に話しかけてい
るんだもの・・・。
「うん、大変だったよ。お陰でびしょ濡れさ。」
 レイの方に振り返りながら軽い感じで言葉を返す。そして一寸間をあけて「車がね」と付け加えてま
た微笑。その表情が微妙な感触を与える。心の奥から湧き上がる想い。それが静かな衝動となって身体
全体に行き渡る。安心感。一言で言ってしまえばそう表現出来るだろうか。感じる。自分の表情が柔ら
かく和んでゆくのを。この感触、知らない・・・。それでも違和感はない。
「・・・バスタオル、置いておいたから・・・」
 疑問。自分の口から何げに流れ出た言葉に。バスタオルを何処かに用意した記憶などない。それ以前
に今ここにいる自分はシャワールームの場所さえ知らない。が、そうした妙な違和感はすぐに氷解して
いく。私、知ってる。確かに。彼が仕事から帰ると必ずシャワーを使う習慣を。だってもう随分と長く
そうしてきたもの・・・。バスタオルはいつもの場所に確かに置いておいた。脱衣する篭の中に。
「ありがとう。でも、考えてみると変なことだよね。外ではこんなに水が降り注いでいるのに敢えて家
の中で改めて水を浴びるなんて。いっその事このまま裸で外に出て雨を浴びてみようかな。」
 そう言ってまた笑う。先程よりも少し増した笑顔の度合。それに比例するように自分の中の安堵感の
ようなものが増してゆく。言いながら最初から外していた第2ボタンから下ののボタンを外し始めた彼
の姿を見て、少しばかり胸の高鳴りを感じる。同時に温度が増す顔面。何故そんな状態になるのだろう
か。把握しきれない心を持て余しながら言葉を投げる。
「・・・馬鹿な事言ってないで・・・早くシャワーを使ってきたら・・・?」
 わかったよ、と言葉を返し先程入って来た扉の方へ向かう。途中でボタンを全て外してしまったので
彼の上半身の一部が露出した。視界の中でそれを捉えながらより一層顔面の熱さが高まるのを感じる。
何・・・この気持ち・・・?軽やかな足取りで部屋から出てゆく。やはり扉を閉める音は、限りなく静かだっ
た。遠ざかる足音。まだ高鳴り続ける鼓動を感じながら、一体自分は何に対して動揺したのだろうと考
える。感覚の海を泳ぎ、先程垣間見た彼の身体をよく知っている自分を見付ける。いつも触れている。
そして彼も私の身体を全て知っている。それ以上はよく感じ取れない。
(・・・・・・)
 ひとが一人立ち去った後の静寂。ただぼんやりと意識が静まってゆくのを待ち続ける時間。ふとテー
ブルの上のものに目が止まる。彼の置いた洋書とは反対の位置。先程までレイが居眠りをしていた所に
置かれた数冊の文庫本。その一番上の表紙に目が止まる。あの本は・・・。気付くとテーブルに駆け寄っ
ている自分の姿があった。手に取ってまじまじと見る。特徴のあるポップアート調の絵がら。ここでも
遊離する意識ともう一つの感覚が寸分違わず一致する。
(・・・そう・・・大切な本・・・私の・・・)
 眠る前の記憶。朝目覚めると外は白い空。今日は雨。シャワーを浴びた後、昼下がりまで何度か繰り
返しこの本を読んでいた。ページを数枚めくってみる。見慣れた目次。既に物語一つ一つが頭に刻み込
まれている。私は私・・・。部屋の中の光景にはまだ奇妙な違和感が残る。が少なくとも二つ、確かに繋
がるものを見付けた。ひとつは彼、そしてもうひとつはこの本・・・。
(・・・・・・)
 手に取った本を閉じ、テーブルに残された他の文庫本に目を遣る。一冊は同じ作家の本。また少しず
つ感覚の分離が始まる。今まで一度も見た事のない表紙。が、それと同時によく知っている。今手にあ
る本とまでは行かないが、内容も大体覚えている。もう一冊は全く別の作家の作品。出版元は同じよう
だった。題名は「月と六ペンス」。こちらは本当に初めて見る物だった。それでも感覚は別の返答を返
してくる。ついこの間まで彼が読んでいた。今彼が興味を持っている事と主題が重なったのだ。食事の
時にとても楽しそうに本の話をする彼を見て、レイにしては少しばかり強引に借り受けたのはついこの
間の事だ。だって彼の好きなものは私の好きなものだもの・・・。
 好き・・・何・・・?その気持ちよく分からない・・・。
「・・・お茶・・・入れなきゃ・・・」
 言葉が漏れる。流れるように自然に口に出た。意識しなかった言葉に戸惑う意識と、ふと気付いたと
いう何気ない感覚を併せ持ったまま、身体はゆっくりとキッチンの方へ向かう。電子式のコンロ。水切
り台にそのまま置いておいたポットに水を注ぎ、コンロにかける。滑らかな自分の手つきにまた小さく
戸惑いを覚える。
(・・・家・・・私の・・・そして彼の・・・)
 目覚めた瞬間ほど強くはない。寧ろ、自分の中の自然な衝動を素直に受け止め始めている意識の姿が
そこにはあった。そう、知っている。彼は熱湯ではなく冷水のシャワーを使う。寒い日でも平気な顔を
して冷水を浴びる。体調を気遣って、程々に、と言葉をかけるがあまり気にする事はない。それならせ
めて、と思いシャワーの後に温かいものを用意する。カップを受け取り彼は笑う。ありがとう。その顔
が見たくてお茶を入れる。不思議。こんなに近くにいるのにまだ私はそんな気持ちを持っている。だっ
て嬉しく思う心があるんだもの。
 嬉しい・・・何・・・?その気持ちよく分からない・・・。

 遠くで物音
 静かな足音

 何故それ程静かに扉を閉められるのだろう、と不思議に思う時がある。優雅、という言葉はあまり当
て嵌まらない。それはあまり彼らしくない。キッチンの衝立から視線を向ける。濃紺のTシャツにイー
ジーパンツ。濡れた髪を指で軽くかき上げる。何気ない動作の一つ一つがレイの心を和ませる。私と彼
が共有する時間。そこにいるだけ。ただそれだけで安心する。
 湯気。食器棚からカップと受け皿を2組取り出す。焼き物の素朴な色が残る陶器のカップ。そう、私
は知っている。だって自分で選んだ物だもの。ふとガラスに映った自分の顔をまた見てしまう。微かな
変化が顕れている。先程よりも一層柔らかさを増した表情。眠りにつく前のまどろみにも似たうつろい
ゆく時間。微笑、なのかも知れない。違和感はもう姿を消していた。私の顔。綺麗、とは言えないと思
う。でも彼は好きだ、と言ってくれる。だから私も好きになろう、と思う。
 好き・・・何・・・?その気持ちよく分からない・・・。
「帰りに旅行代理店に寄って来たんだ。そろそろプランをちゃんとしておこう、と思ってね。」
 木の盆に載せたカップとソーサーを一つ彼の方に、もう一つ自分の座っていたところに置く。リビン
グに戻ってみるとテーブルに地図を広げて熱心にページを繰る姿があった。椅子の上にあぐら。レイが
向かいの椅子に腰を降ろすと、視線を上げ手元のカップに目を遣り、いつもありがとう、と言葉をかけ
てきた。笑顔。相槌のつもりで少し首を傾ける。今日もその言葉を聞くことが出来た。明日も明後日も
その次の日も・・・。いつまでもその言葉を聞きたい、と思う。
「最初はね、ご大層な場所ばかり薦められたんだ。南仏の別荘だとか西海岸のリゾートホテルだとか。
何か御要望はありますか、なんて聞かれたんで、ゴージャスなスイートも気の利いたバーも不夜城の遊
び場もいらない、ただ一日中海が見えて欲を言えば清潔なシャワーがある所がいいって答えたんだよ。
そうしたら担当の年配の男性は目を丸くして何て返したと思う?」
 テーブルの上の世界地図から目を上げて、少し上目遣いにレイの顔を覗き込む。悪戯好きの少年のよ
うな表情。肘をつき手を組み、その上に軽くあごを乗せた自然な姿勢の自分。表情を和ませながら少し
首を傾げてみる。私には見当もつかないわ・・・。ひとさし指を軽く立てて思わせぶりな表情を作る彼。
何故こんなに穏やかな心が広がっているの・・・?
「あなたエドワード・バーナードにでもなるつもりですか、だって。その一言ですっかりその担当の人
と打ち解けてね。モームの南海物のファンだったらしいよ、その人も。それであれこれと最適な場所を
探してくれて、最後にとって置きですからって薦めて下さったのがここなんだ。」
 そう言って地図の一点を指差す。少し顔を近付けて目を凝らしてみた。広大なアフリカ大陸。モザン
ビーク海峡を挟んで、自分達がいるこの国の領土とほぼ同じぐらいの大きさのマダガスカル。その北西
部、インド洋の真中に浮かぶ小さな島々からなる地域。小さな文字で「セイシェル」と記されている。
至近距離に赤道が走る、南国の孤島群だ。頭の中に果てしのない海の青色が広がってゆく。悠久の時間
と共に。
 海・・・見た事もない筈なのに・・・何故私はそれを知っているの・・・?
「一日中、泳いだり本を読んだり釣りをしたり。夜になったら夜風を浴びて眠りにつく。そう言った開
放的なコテージタイプのホテルが幾つかあるらしいんだ。そのうちの何件かに声をかけて貰うようにし
たよ。何だか僕の独断で進めちゃったけど、よかったかな・・・?」
 いつも夏にまとまったバカンスを取る、という決まりだった。その間は二人きりで過ごす、という事
も。もう随分と長い間続けてきたこと。前回も海辺の避暑地へ行く予定だった。が、出発間際にレイが
体調を崩し急遽中止になった。自分に対しての悔しさから、数日間ずっと落ち込んでいた事を覚えてい
る。仕方ないよ、と慰めてくれた彼の優しさが胸を痛めた。次こそは必ず海、という約束。どうせ行く
なら人が少なくて綺麗な海がいいよね。それから彼は海の物語などを好むようになった。
「・・・貴方に任せるわ・・・」
 受け取りようによっては冷たい感じさえする簡素な返答。でも、レイの心がそうでないという事を彼
はよく知っている。少し笑い、期待してて、と言葉をかける。その表情がまた心を和ませる。本当は場
所についてのこだわりは殆どない。彼と一緒に旅に出るという事自体が何より嬉しい。今度は体調に気
をつけよう、と思う。ふと頭に思い浮かべる。目の前に広がるブルーの澄み切った海。水平線の向こう
には何も見えず、ただ白い千切れ雲だけが所々浮かぶだけ。静かな時。刻まれない時間。
「少しばかり日焼けした方が健康的でいいもんだよ。それに僕は泳ぎ方を習わないとね。いい加減平泳
ぎだけだと退屈だから。」
 そう言って軽く片目をつむる。泳ぎの腕に関しては彼よりもレイの方が上手だ。特に誰かに型を習っ
たという訳でもないが、ごく自然に色々な泳ぎ方を身に付けていた。水の感触。水は心地好い。透明な
南国の海に二人漂う光景を頭に描いてみる。平泳ぎの方がいいのよ、海では・・・。A4版の地図を静か
に閉じ、彼は椅子から立ち上がる。振り返って背後のオーディオセットの方へ。
「今日は本当に静かだね。」
 足元の楽器を型取ったマガジンラックに地図を押し込み、代わりにインテリアの雑誌を手に取る。ア
ンプとCDプレーヤーの電源を入れ、そのまま再生のボタンを押す。暫しの沈黙の後、柔らかな弦楽の
音が部屋を包む。ここ暫く彼はこの音楽を好んで聴いていた。英国の作曲家ヴォーン・ウィリアムスの
管弦楽作品集。弦のアンサンブルが緩やかに持続してゆく。静かな時間の中にただ流れ続ける悠久の響
き。レイは彼ほど音楽に詳しい訳ではない。でもこの曲は静かで好ましい、と思う。
(・・・・・・)
 テーブルの飲みかけのティーカップを持ち、窓辺へゆく。彼の定位置。お気に入りの場所。窓辺に置
かれた安楽椅子は彼がアンティークの店で見付けてきたものだった。どうしても欲しくなってね、とい
う照れ混じりの笑顔を今でも思い出せる。椅子のすぐ後ろにあるチェストの上にカップを置き、椅子に
腰掛けて雑誌を開く。彼が一番くつろげる姿勢。微かに笑みを浮かべているような和みの表情。その姿
を見るのが何よりも好きだった。自然にレイの座る位置も決まる。彼の姿をいつでも視界に入れられる
テーブルの一辺。そこで手元の文庫本の一冊を開く。
(・・・・・・)
 静寂に包まれた時間。木枠のスピーカーから流れる柔らかな音楽。遠くから微かに響く絶え間ない雨
音。レイは手元の文庫本の文字をゆっくりと追いかけている。よく知っている物語。もう数えきれない
程読み返した一冊の本。それでも飽きるという気持ちは全く湧かなかった。初めてその本を手にした時
からもう随分と長い時が過ぎた今でも。
 目覚めた時から延々と続いていた奇妙な違和感は消えはしないものの、殆ど気にならないものになっ
ていた。自分が今ここにいること、彼がここにいること。自然に自分の中に生まれ出ずる感覚を信じれ
ばよいのだ、と思う。私と彼の家。そう、ここは帰り着く場所。自分が何よりも自分らしく生きている
空間だという事には違いないのだから。
 時々本から目を離し、窓辺の方を見てみる。安楽椅子に身を預けインテリア雑誌を眺める彼の姿。い
つからだろう、彼の背が伸び始めたのは。どうでもよい考えがゆっくりと頭の中を巡り、消える。何も
ない時間。雨の日の静かな空白。でもこうした時間は嫌いではない。晴れた日、彼は割に活発に動き回
る。そこそこに広い庭の手入れをしたり、車を洗ったり、近くの草原を散歩したり。窓辺の彼の椅子に
腰掛けて、そうした彼の姿を眺めるのもそれはそれで心地好いことだった。が、寧ろ彼と同じ空間を共
有出来る雨の日の時間の方がレイにとっては好ましかった。何もない時。でも彼と自分の存在で確かに
満たされている時間。
 何か面白いコメントでも見付けたのだろうか、彼の顔が少し笑う。そうした表情を見てまたレイの心
が優しく和んでゆく。再び手元の文庫本に目を落とす。こうした何もない時間がただ続いていくだけ、
それだけで十分だと思う。そう遥か昔、私が確かに望んでいた場所。望んでいた時間。それがこの家な
のかも知れない。ふと心に浮かんだそうした想いも水の流れのように徐々に流れ消え去る。気付くとま
た本の中の物語の世界に入り込んでいる自分の姿。

 雨の音。弦楽合奏。心模様。
 流れ去りまた生まれる。絶え間なく。

「風が出てるみたいだね。」
 どれ程時間が経ったのだろうか。不意に彼の声が響く。本の文字から目を離し、窓の方に目を向ける
と、いつの間にか雑誌を閉じて窓の外に目を遣っている彼の姿があった。外は相変らずの雨。雨足が強
くなる訳でもなく、弱まる気配も全くない。ただ淡々と細かい水滴を降らし続けている。白く霞んだ空
模様。その無表情さが時間の感覚を消し去ってゆくのだろう。遠くに見える木々が大きくゆっくりと揺
れている。それを見て風を感じたのだ。
「・・・そうね・・・まるで樹が動物みたい・・・」
 相槌。先程何気なく感じたことをそのまま口にしていた。ふと自分はこれ程「感じる」力を持ってい
ただろうか、と考える。何故?先程の寝起きの違和感が原因だろうか、今日は遥か昔の自分の感覚が随
分と近く感じられる、と思う。ひとを感じることを知らなかった自分。心を感じることを知らなかった
自分。遠い日の少女の姿・・・。
「・・・雨の日はね、言葉を交わしているんだよ。」
「・・・言葉・・・?」
 暫しの沈黙の後、不意に窓の外を見たままの姿勢で彼が言葉を洩らす。静かな口調。やや低めで柔ら
かい彼の声のトーンは、容姿よりもずっと大人びている。断片的な言葉。自然な感じで問い返している
自分の姿があった。
「樹木たちは晴れた日は黙っている。だから雨の日に言葉を交わすんだ。」
(・・・・・・)
 知っている。レイと二人でいる時だけ、思い出したように詩的な表現をする彼。誰にも見せたことの
ない隠れた一面。そうした姿が不思議にレイの心を安心させる。私達が共有してきた時間。そしてこれ
からもずっと続く時間・・・。
「動物たちは雨の日は黙っている。」
「・・・でも私達は話している・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 窓の外、スローモーション映像のようにゆっくりと揺れ続ける木々の姿。言葉を交わしている、とい
う彼の感覚が自分のもののように伝わってくる。そして彼が何を想い何を伝えようとしているのかも。
静かな時間の中、静かな言葉達が緩やかに泳いでゆく。
「ひとはね・・・。」
 ゆっくりと言葉を紡いでゆく。導く、教える、という言い方は今の自分達にはそぐわないものだと思
う。互いが感じている事を確かめ合うように言葉を交わす。一緒になった日から変わらない。それが望
みだったから。
「とても話す事が下手な動物なんだ。だから雨の日も言葉を交わすんだよ。」
 長い時、彼と自分は多くの想いを伝え合ってきた。言葉は、あまりに少なかったと思う。それでも今
自分達がここにいるという事。それは全てを語り尽くしている。遠い少年の日に彼が出した答。そして
流れていった悠久の時間。その中で知り、伝え合った事。そうした日々があったから彼は今躊躇いなく
言葉を発しているのだろう。ひとが互いに知り合いたいと思う事の大切さを。
「そして下手っていうことは、いつも上手になろうとして一生懸命ってことなんだよ。」
 そこまで言葉を繋げて、初めてレイの方を振り返る。それが例え僕と君の間であってもね、と付け加
えて照れたような顔で笑った。何故かその表情がとても彼らしいと感じる。遥か昔から変わらぬ想い。
自分の表情が柔らかく和むのを感じる。多分、笑っている、と思う。そして不意に心に奇妙な感覚が生
じる。今の一連の会話を前に何処かで耳にした覚えがある。そんな事はあり得ない、という事は分かっ
ている。が、あまりにもはっきりとした感覚。そう、つい先程。あまりにも近い感覚。暗闇であると同
時に光でもあったあの狭間の時間の中で・・・。
「・・・今の言葉、記憶にあるわ・・・」
 レイの言葉に一瞬彼が驚きの表情を見せる。え、何処で?無理もない事だ。自分自身でもはっきりと
した記憶ではない。それでいて確かに覚えはある。その出所すら分かっていないのに感覚だけが生きて
いるのだ。そんなレイの思いを知らずに頭を捻る彼の姿。前に同じことを言ったかな?少し可笑しくて
表情を緩ませる。ごめんなさい、あなたには覚えがない筈だもの・・・。
「・・・夢の中で聞いたような気がするの・・・だから知ってるように感じたの・・・」
 なぞなぞの答を教えるように言葉を繋ぐ。それを聞いてやっと彼の表情が柔らかくなる。なんだ、そ
ういう事なんだ。笑顔で頭を掻く。そうした仕種も彼らしい、と思う。先程まで閉じていた雑誌を開き
ながら軽い口調で言葉を返す。
「いわゆる“既視感”というやつだね。それとも綾波には予知能力があるのかな?」
 少しおどけたような彼の口調が可笑しくて、レイも少し声を出して笑う。それと共に何気ない彼の言
葉の中の一部にふと気を止める。
「・・・随分と久し振りだわ・・・貴方が私をそう呼ぶの・・・」
 レイの言葉を受けて、彼が一瞬考えるような表情を作る。自分が発した言葉に以前の呼び方が折り込
まれていたという事。そう言えばそうだね、と返し微笑んだまま雑誌に目を落とす。先程までの静寂が
徐々に戻って来る。レイも手元の文庫本に視線を落とす。彼にとってはいつまでも私は私なのね・・・。
悪い意味ではなく、何となくそんな事をぼんやりと想う。
 遠い雨音、満たされた静謐。日常の中では延々と会話が続く訳ではない。それぞれが自身の事に集中
し静けさだけが流れゆく時間が再び部屋を司る。それでも互いに自分だけの世界を作っているという訳
ではない。私と彼が共有する時間。そして外では雨が降り続いている。時間は無くなり、「今」は永遠
と等価になる。ただそこにいるだけ。それだけでいい・・・。

 雨の音。弦楽合奏。心模様。
 流れ去りまた生まれる。絶え間なく

 ふと視線を感じる。それと共に雨の音とは別の微かな物音。何かが擦れるような。それらは皆窓辺の
方から来ている。不思議に思い、本から目を離して顔を向ける。先程とは違う彼の姿勢。つい数分前に
見た時にはまだ雑誌を眺めていたが、今はそれはチェストの上に置かれている。安楽椅子の上に膝を立
てて座っている。不自然な格好に思えるが、彼が行っている作業を見るとあるいは妥当な姿勢なのだろ
う。いつの間に持ってきたのか、愛用のB4版のスケッチブック。
(・・・・・・)
 彼は弦楽の演奏もするし、絵も嗜む。楽器の方は小さい頃からやってるのに上手くならないし、大人
になって始めた絵は元々センスがないから、と彼は言うが、両方とも一定のレベルを越えているのは確
かだ。純粋にレイは彼のそうした特技を尊敬する。自分にはとても出来ないことだから。だから彼が取
り組む姿を見て満足している。周りで囃し立てるとかえって意気消沈してしまう彼の性格はよく分かっ
ているから、自分の方から彼に絵や演奏の披露を望んだりはしない。彼が気の向くままにそうした事
を始め出したら、今日は運がいい、と思うようにしている。
(・・・何を描いているの・・・?)
 何かを擦るような音は鉛筆の音だった。用いるものはいつも決まっている。鉛筆とパステルと水彩。
油彩や版画やCGなんかもやってみたけど、あまり合わないみたいだから、と苦笑いする彼。素朴な味
わいで家の周りの風景などを描いた絵を見せてもらう度に、確かにそうかも知れない、と思う。無駄な
線を消したりするのが嫌いなので、明確に描いてゆく事を一義とするものは不得手なのだろう。
(・・・・・・)
 立てた膝にスケッチブックを立て掛けて4Bの鉛筆を走らせている。デッサン画程度の簡単なものな
のだろう。消しゴムは滅多に使わない。一旦書き込んだ線は最後まで大事に使ってゆく。そういったと
ころに彼の性格がよく顕れている、と思う。ふと興味が湧いてくる。文庫本を閉じて気付かれぬように
静かに立ち上がる。雨で外に出られない時、彼はよく絵を描いたり楽器を取り出したりする。だからレ
イが雨の日を好んでいる、という事もある。
(・・・・・・)
 音を立てないように静かに彼の方へ近付いてゆく。意識して気配を殺す必要はない。昔から自分はそ
ういう点に於いては秀でている、という事を知っているから。別に相手に気付かれずに背後に回るのが
能力であるとは思っていないが。椅子に座る姿を後ろから見下ろす。全体的に細身の身体だが意外に肩
幅は広い。また僅かに顔の温度が上がる。何故彼の身体に注意を払うと動揺するのだろう・・・?
「・・・あ・・・」
 心の中だけで呟いたつもりだったが、声に出てしまったようだった。微かに身体が反応し、すぐさま
背後のレイの方に振り返る。なんだ、見てたんだ・・・。笑みを浮かべながら僅かに身をずらして後ろか
ら絵が見易いようにする。自信満々に見せる訳ではない、というところがまた彼らしいと思う。やや太
めの線でラフに描かれた人物画。上半身の胸から上だけが描かれている。胸像画というのだろうか。
「・・・私・・・?」
 そうだよ。軽く頷く。珍しい事だと思う。彼は人物を描くことは少ない。それ以上にレイを描くこと
は本当に稀だ。長い間一緒にいてレイを描いたのは一度か二度ぐらいだったと思う。それも、見せて欲
しい、と言わなければ目にすることさえ出来なかっただろう。鉛筆画に水彩で色のつけられたとても端
正な絵だった覚えがある。正直、鏡で見る自分の姿よりもずっと綺麗だと思った。
“ひとをね、綺麗に描く自信がないんだ”
 何故すぐ近くにいる自分をあまり描かないのか、どうしても気になってある時尋ねてみた時がある。
その時彼はそう言った。私は気にしないわ。そう言ったレイに彼が笑顔で返した。
“違うよ、君は綺麗だから綺麗に描きたいんだ”
 何も言えずに顔を赤らめて黙ってしまった自分の姿があった。それから一度ぐらい描いてくれた事は
あったが、あまり納得しなかったのか遂に見せてはくれなかった。
「・・・珍しいわね・・・」
 そんな事を覚えているのかそうでないのか、何でもないような感じで微笑。今日は何となくそんな気
分になったんだよ。改めて見てみる。決して人物画が不得手という訳ではないという事が良く分かる。
まだ大雑把な線の集まりだったが、既に絵の中からその人物の魅力のようなものが伝わってくる。
(・・・・・・?)
 だからその違いにはすぐに気付いた。自分の胸像画。よく知っている自分の姿。が、それは今の自分
の姿とはかけ離れている。描かれている顔立ちもやや幼い。胸像なので服も書き込まれているが、それ
は今のレイの服装とは大きく違っている。ふと目覚めた時の違和感がまた徐々に戻って来る。今度は今
確かに自分の中にある感覚が、あの時遊離していた感覚に対して違和感を覚えるといった感じだった。
彫刻のような自分の表情。スケッチブックに書き込まれている彼女はまだ知らない。邂逅の苦しみを、
痛みを、そして限りない喜びを。
(・・・・・・)
 描き表されたかつての自分の姿。孤独な少女は未だ自分で選び進むことを知らないでいる。彼女が苦
しみと悲しみの果てに見付けだしたたった一つの道。それが正しいとも間違いであるとも誰にも分から
ぬ道。神は存在しない。罪も罰も無い。彼女はひとである事を選び、望み、信じ続けた。そして自分は
今ここにいる。正しい、正しくないの領域ではない。私がここにいるという事。それだけが真実なのだ
から。
「・・・女性の若々しい頃の姿を描くなんて趣味が良くないわ・・・」
 少し怒ったような表情を作ってみせる。無論、それが本気でないという事ぐらい彼は承知している。
苦笑いを作りながら頭を掻く。その仕種が可笑しくて小さく吹き出す。うーん、自分を弁護するようだ
けどね、と言葉をかける。鉛筆で額を軽く叩きながら喋る彼の姿はやはりユーモラスだ。
「最初は見たそのままを描こうと思ったんだけど、途中でなんだか気が変わってきてね。気が付いたら
初めて出会った頃の君の姿になっていたんだよ。自分でもよく分からない心境の変化だけどね。でも、
この頃の姿の印象が強いっていうのはあるよ、やっぱり。」
 言葉を受けながら、それはそうかも知れない、と思う。あの時間は特別な時間だったから。それに加
えて即物的にこの姿に接した時間が長かったという事もあるのだろう、と思う。そこまで考えて思考を
止めることにした。考えても意味のないことだから。
「でも、厳密に言うと少し違うかな。初めて出会った時の君は包帯でグルグル巻きだったから。」
 そう言って彼は悪戯っぽく笑った。つられてレイも笑う。彼はあまり過去のことを覚えていないよう
で実は細かく覚えていたりする。初めて出会った瞬間。記憶の海の中を泳いでゆく。あの場所から全て
が始まった。そう、そして私は今ここにいる。
「・・・貴方は今にも泣き出しそうな顔をしていたわ・・・」
 負けじと返してみる。言葉を受けて彼がいささかばつの悪い笑みを浮かべる。薮をつついて蛇を出し
ちゃったなあ。その表情が可笑しくてまた少し笑う。そう、微かな記憶の中確かにその感触を覚えてい
る。細身の身体の少年。それでも必死に私の身体を抱きかかえていた。自分の身体の薬品のものとは違
う彼の匂い。水の匂い。
「ほら、絵のモデルがいつまでも油を売ってちゃだめだよ。所定の位置についてないと。」
 照れ隠しの表情を作りながらふざけたように追い払うような手振り。笑顔でそれに応じる。テーブル
の方に歩み寄りながら、いつから自分はこんなに自然に笑うことが出来るようになったのだろう、と考
える。気付いたら。それが妥当な答えだと思う。彼との時間は刻めるようなものではないから。
「・・・モデル代、高くつくから・・・」
 椅子に腰掛けながら軽く彼に手を振る。よーし、すごいの描くからね。そう言って再びスケッチブッ
クに鉛筆を走らせ始める。その姿を見届けてレイも文庫本の栞の紐を上げる。幾度も読み返した一冊の
本。温かい気持ちが心を満たしてゆく。今先程の会話と、本の記憶と。
 そしてまた静寂が戻って来る。忘れかけていた遠い雨音がまた微かに響いてくる。時に波のように訪
れる短い会話のうねり。そして大半の時間を埋めてゆく静謐の空間。雨の日の一日はこうして過ぎるの
だろう。窓の外、木々は今も互いの言葉を交わしている。天の水を浴びて。命を吹き返したように。
 そして窓辺には彼がいる。それでいい、と思う。

 雨の音。弦楽合奏。心模様。
 流れ去りまた生まれる。絶え間なく

(・・・・・・)
 視界の中で文字が遠ざかる。薄れぼやけてやがて霞んだように消えてゆく。ふと我に返りゆっくりと
手にしていた本を閉じる。部屋の中を見渡す。緩やかな気怠さ。少しだけ世界が狭くなったような感覚
がぼんやりと浮かぶ。温もり。身体の温度だけではない。意識の温もり。瞼が少しずつ降りてくる。決
して不快ではない。寧ろ心地好い感覚。眠気。
(・・・つい先程眠ったばかりなのに・・・)
 視線を窓辺へ向ける。変わらぬ姿勢の彼。静かにそれでも熱中して鉛筆を動かしている。何かに集中
する彼はいい表情をしている、と思う。それを見るのは私の望み。私の喜び。眠気でやや意識が散漫に
なっている。不意に窓辺の彼が顔を上げる。目が合ったので一応伝えておこう、と思う。
「・・・ごめんなさい・・・少し眠ってもいい・・・?」
 半分眠ったような自分の顔は一体どんな感じなのだろう、と思う。言葉を受けて彼が少し笑う。変わ
らぬ彼の笑顔。それに出会いたくて、それを見ていたくて私はここに辿り着いたのだろう。温もりが身
体を包む。心地好い・・・。
「うん、いいよ。僕はずっとここにいるから。」
 ずっとここにいるから、という彼の言葉が何度も心の中を流れてゆく。そう、彼がずっといるもの。
そんなことを考えているうちに眠気がより一層進んでくる。まだ。もう一つ、大事なことを伝えておか
ないといけないから。
「・・・もし長く寝てしまっていたら夕方には起こして・・・夕食、作らないといけないから・・・」
 レイの言葉を受けて彼がまた少し笑う。本当に私、どんな顔しているの・・・?恥ずかしいという感覚
は既に遠い所に行ってしまっていた。ただ伝えるべき事だけを伝えたい、という思い。夕食は私が作る
んだもの・・・。
「いいよ、夕食ぐらい。僕が作っておくよ。」
「・・・だめ・・・夕食は私が作るの・・・」
 麻痺しかかっている意識の中でそれでも言葉だけは返す。だってあなた任せにすると、私はいつまで
経っても上手にならないもの・・・。繋げた言葉は確かに伝わったのかどうか分からない。ただ遠くから
彼の言葉が伝わってくる。きっと聞こえたのだろう、と思う。既にうつ伏せの姿勢になっていた。
「分かった。それじゃ、君の寝顔を一枚描いたら起こしてあげるよ。おやすみ。」
「・・・ありがとう・・・」
 テーブルに両手を重ねて顔は横向き。だって彼が描く時に困るもの・・・。薄れゆく意識と視界の中で
彼の優しげな笑顔だけが微かに見て取れる。それがイマージュとなって遊離してゆく意識の中に拡がっ
てゆく。包まれる感触。温かい闇がゆっくりと訪れる。そう、私は独りじゃないから。ずっと彼が側に
いてくれるから・・・。言葉が輪郭を無くし何処までも拡がってゆく。
 意識が静かに降りてゆく感覚。そして光とも闇とも区別のつかない領域で緩やかに拡がり始める。私
の心。私。感覚が解き放たれ全てが無であると同時に有となる。その中でひとつの想いだけが延々と流
れ続けていた。温もり。感覚ではなく印象。それは優しく笑っている。私は見守られて眠りにつく。と
ても大切なひと、愛しているひと。細かな光の粒となったその印象がどこまでも拡がり続ける意識をよ
り大きく包み込む。そう、それは私が望んだこと・・・。

 貴方に見守られて眠りにつくこと
 貴方がいつもそばにいてくれること

 そして


 柔らかな暗闇






 遠くから光が近付いてくる。それとはっきり分かるような光ではなく、「ここ」と「それ」の区別も
ない。ただ近付いてくる。気が付けば既にその光の中に入っている自分がある。光?それは単色の光で
はない。色・・・色の分化が緩やかに、しかし確実に進んでゆく。最初に眠い灰色。次に感触が次第に近
付いてくる。温もり。感じる、確かに。頬に温かさを。それは自分の手だという事が少しずつ分かって
くる。自我の再生。私・・・私はここにいる。
(・・・・・・)
 ぼんやりと霞のかかったままの状態。それはよく知っている自分の感触。目覚めは決して良い方では
ないという事。身体の感覚を全て元の状態に戻すのに常人の倍以上の時間がかかる。典型的な低血圧の
特徴。だって、仕方がないもの・・・。今は完全に目が開いている。それでもまだ完全に目の前の光景を
受け取り切れてはいない。精神が身体に遅れを取っている。
(・・・・・・)
 それでも少しずつ心が形作られてきているようだ。ようやく目の前の光景が形ある物として把握出来
るようになってくる。壁。コンクリート地そのままのくすんだ色の壁。そのやや上の方にアルミサッシ
の小さな窓。窓の外に見える風景。数年前に周囲の建物が取り壊された後、再開発作業は休止している
ようだった。雑草が一面に拡がっている。道路脇に並木。細い広葉樹の樹木。揺れている。葉全体を緩
やかに震わせて。風が出ているのだろう。晴れた日には遠くしかし澄み切った空気を通してはっきりと
見える筈の山脈の稜線。今日は霞んで殆ど見て取れない。仕方がない。雨の日だから。
(・・・・・・)
 雨、という言葉が頭の中に浮かんだことによって、緩やかに聴覚が帰ってくる。部屋の中、静寂。そ
れでも微かに降り続ける雨音が伝わってくる。いつ止むとも知れず。ゆっくりと頭を上げる。今まで横
向きだった光景が自然な状態に戻る。いつの間にかベッドの上に全身を横たえて眠っていた。シーツの
上に重ねられた両の手。今日はいつもよりも気温が低いので寝汗一つかいていない。
(・・・・・・?)
 最後に意識が緩やかに戻って来る。それと共に違和感のようなものが少しずつ湧き上がってくる。視
線を窓から自分自身の方へ向ける。小さなパイプのベッド。簡素だが清潔さは保っている。眠りにつく
前の記憶が徐々に蘇ってくる。確か、部屋のテーブルにうつ伏せになったのではなかったか。それが何
故ベッドで目覚めるのだ。身体の感覚。決して柔らかいとは言えないベッドの感触。そもそもリビング
にベッドなどあっただろうか。
(・・・・・・?)
 上半身を上げ部屋の中を見渡す。それ程広くはない。コンクリートが剥き出しになった床と壁。一方
の壁に小型冷蔵庫。その上に載せられた薬の袋と包帯。ベッドの向こう側に古い型のチェスト。プラス
ティックの眼鏡ケース。部屋の出入口がそのまま簡素なキッチンに繋がっている。手前のドアの向こう
側には恐らくユニットバス。そう、知っている。この部屋の事は全て・・・。
(・・・・・・!)
 不意に意識が急接近する。濡れた窓を拭き取るようにまどろんだ意識が鮮明さを取り戻す。目の前に
広がる光景から流れ込んでくる様々な記号。それが意識に覚醒を促す。部屋。組織より貸し与えられて
いる部屋。何も変わる事はない。一方で意識の領域では奇妙な混乱。眠りの世界の中から受け継いだ何
かが意識の覚醒との不整合に苦しんでいる。現実感。圧倒的な感覚が何かを押し潰す。
(・・・彼は何処・・・?)
 消えゆく何かが渾身の力でたった一つの問を発する。それと共に意識の中に残っていた奇妙な感覚が
静かに去ってゆく。目覚めた瞬間に確かに自分の中に生きていた感覚が散り、果ててゆく。もうそれを
思い起こすことも出来ない。それは一体何だったのだろう。ただ心の中に言葉のかけらが残るだけだっ
た。彼は何処・・・?「彼」とは誰のことだろう・・・?
(・・・・・・)
(・・・・・・)
(・・・夢・・・?)
 次第に確かな現実感を取り戻してゆく頭の中で、書物などにあった知識の断片を寄せ集める。覚醒と
共に遠ざかっていった感覚、それは夢の感覚ではないだろうか。レイは今までに眠りの中で夢を見た事
は一度もない。ふとした夢想、白昼夢のような幻想に出会うことはある。が、感覚そのものが全く別の
ものになってしまうという経験はない。目覚めた瞬間の違和感。それは夢の感覚の強さを物語っている
のではないか、と思う。
(・・・・・・)
(・・・彼・・・「彼」なんていない・・・)
(・・・・・・)
(・・・だってここに住んでいるのは私独りだけだもの・・・)
 夢を見ていた、その事自体は正しいと考える。確かに現実ではない何らかの感覚が意識に残っている
から。が、それが何であるのかは全く思い出せない。時間的にはつい数分前の事であるのに記憶が全く
ない。否、「無い」という表現は正しくないかも知れない。ある事は確かであるのに引き出すことが出
来ない、という言い方が相応しい。
(・・・・・・)
(・・・何・・・この気持ち・・・?)
(・・・・・・)
(・・・分からない・・・上手く言えない・・・)
(・・・・・・)
(・・・ない・・・)
(・・・何かが・・・ない・・・)
(・・・・・・)
 たった一つだけ残った言葉。“彼は何処・・・?”それが何を意味しているのかも分からない。夢の世
界で自分の近くにいた人物なのかも知れない。それが現実の世界ではいない。当然の事だ。別に何でも
ないようなこと。例え現実の世界で自分の近くにいる人間が消えたとしても同じように感じるだろう。
それなのに奇妙な感覚が心にぶら下がり続けている。空虚感。ある筈のものが無くなってしまったよう
な虚しい想い。こんな感覚は知らない。何故・・・?
(・・・・・・)
(・・・分からない・・・)
(・・・・・・)
(・・・わからない・・・)
 ふと視線を降ろす。ベッドの上。たたまれたシーツ。眠る前と全く変わってはいない。いつも眠る向
きとは逆に寝てしまった事。脚はベッドからはみ出したままう眠りについたが、いつの間にかベッドに
全身をのせてしまっていた事。別に不自然ではない。壁向きで眠ったのに窓向きで目覚めたこと。寝返
りを打ったのだろう。手元に置かれている文庫本。眠る前に手に取っていたものだ。そのすぐ側に置か
れている紙束。小さな紙片・・・。不意に思考がそこで止まる。
(・・・・・・?)
(・・・これは・・・何・・・?)
 ゆっくりと手を延ばし引き寄せる。藁半紙の束。ぼやけている眼を手の甲で擦り、改めて視線を向け
る。ゴシック体の文字。“夏期休暇予定表”。自分の通う学校の行事予定表だという事が分かる。が、
頭の中の疑問符はより大きくなる。こんなプリントを目にしたのは初めてだ。少なくとも、学校で受け
取った記憶は全く無い。何よりも眠る前にこんなものが視界に入っていただろうか。疑問を残したまま
もう一つの小さな紙片を手に取る。短い文。見覚えのある手書きの文字。

綾波へ
 金曜日に夏休みの予定表が配られました。金、土曜と時間帯の異なる単体試験だったので
預かったプリントを渡せませんでした。届けに来たのですが眠ってるようなので置いて帰り
ます。また明日学校で。
                                         碇
 余計な事だけど、寝る時ぐらい鍵をかけた方がいいよ

(・・・・・・)
 暫しその紙片を凝視していた。「碇」という名を持つ人物は自分の周りに二人いる。が、文面から見
てそのどちらかという事は明確だった。紙片の内容でようやく疑問が氷解する。眠っている間に彼がこ
こへ来たのだ。そして眠るレイを起こさないようにとプリントをベッドに置き、メモを置いて帰路につ
いたのだろう。何となくその場を頭の中に思い浮かべる。ベッドに横たわり眠りにつく自分。静かな仕
種でそれを見守る細身の少年・・・。

“うん、いいよ。僕はずっとここにいるから。”

(・・・・・・!)
 その言葉は何処から発せられたのだろう。確かに瞬間心の中に響いた。自分の中から?聞いた事もな
い言葉。が、それと同時に確かにその言葉には覚えがある。いつ、何処で?記憶のページを繰っても何
も出てこない。封じられた領域、無意識の感覚。自分が知らない自分の領域からその言葉は生じた。不
意に奇妙な感覚が訪れる。忘却の彼方に去っていったものとレイのよく知っている人物の印象が寸分違
わず一致したような感覚。誰・・・?それは分からない。閉ざされたものだから。が、今感じたものは確
かに正しい、と感じる。不思議な感覚。でも不快ではない。
(・・・・・・)
(・・・「彼」・・・?)
(・・・・・・)
(・・・碇くん・・・?)
(・・・・・・)
 部屋の中、独り。ただ手元の紙片を凝視し続ける自分の姿がある。静寂。思い出したように耳に入っ
て来る遠い雨音。勢いを増すわけでもなく消え入るわけでもない。ただ降り続ける。彼は何処・・・?未
だ頭の中に響き続けるひとつの言葉。「彼」は。そう、いたのかも知れない。もう一つの感覚が生きて
いた領域では。記憶はない。それが何処であるのかも分からない。ただ。
(・・・・・・)
(・・・家・・・)
(・・・・・・)
(・・・家・・・?)
 言葉の断片だけが意識の中に埋もれている。家。住居、ひとが住む場所。言葉の意味は知っている。
が、そこにはより多くのものが託されていた筈だった。消え去った感覚は確かにそれを知っていた。今
は何も分からない。私は。レイは考える。何か大切な事を忘れてしまったのかも知れない。僅かに残る
残響。いえ、という響き。不思議に気を和ませるような。
 静かな混乱を心に抱いたまま、ふと窓の外に目を向ける。降り続ける細かい雨。天から降り注ぐ水滴
たち。白一色の淡い空の下で時間はその輪郭を緩やかに溶かしてゆく。この廃墟を囲む道には誰一人い
ない。そう、誰もいない。そして止まった時間の中で何も起きずにただ今日一日が終わる。その筈だっ
た。今日は雨の日だから。
 街路樹が揺れている。風に吹かれて。晴れた日には見せる事のない姿。そう、まるで・・・。

“言葉を交わしているんだよ”

 不意にまたひとつの言葉が頭の中に響く。が、今度はもう驚きはしない。そう、そういう事なのかも
知れない。揺れる木々を凝視しながら考えを巡らせる。消えた訳ではない。届かなくなっただけ。だか
らふとした瞬間に蘇る。全てを知ることは出来ない。それでも自分の中の何かが覚えている。言葉の意
味がおぼろげに染み渡ってくる。雨の日は動物たちが眠る日。雨の日は木々が言葉を交わす日。そんな
雨の日にこの見捨てられた住居を訪れた少年。言葉を伝える為にここへ来た碇くん・・・。

“とても話す事が下手なんだ”

 想いを伝えるもの。言葉。“鍵をかけた方がいいよ”。メモの一文を何度も頭の中で繰り返す。伝え
ようとする想い。例えそれがどれ程小さいものであっても。他の動物たちが沈黙の中で静かに眠りにつ
く雨の日に。少年が一人言葉を届けに来た、という事。何故・・・?問は必要ない。それは既に私の中に
あるのだから。そして。おぼろげに何かを知り始めている自分がいる。「家」「彼」。そう。きっと同
じ道の果てにあるのだから・・・。

「・・・上手になりたいと思うこと・・・一生懸命に望むこと・・・」

 最後の一言は自分で口に出してみた。静寂の空間。言葉が緩やかに溶けてゆく。確かに自分の中にあ
る言葉。閉ざされた、でも。レイは知っている。いつかまた自分の元に帰ってくる言葉。想いを伝える
ということ。ひとはとても苦手。でもそれを懸命に望む。雨の日も。風の日も。何故・・・?その答えは
言葉ではない。いつの日か出会うだろう、その場所。
(・・・・・・)
(・・・家・・・)
(・・・それは帰りつくところ・・・)
(・・・・・・)
(・・・それは満ち足りた場所・・・)
(・・・・・・)
(・・・家・・・私の・・・)
 窓から目線を外す。手元の紙片。ベッドの上に静かに置き、代わりにすぐ側の文庫本を手に取る。何
故か感じる安堵の心。不思議な温もり。手に取ったまま心の中で一つの事を考える。言葉。言葉は交わ
すもの。言葉を交わし、ひとは互いに伝え合ってゆく。近付いてゆく。それはとても長い道であるのか
も知れない。雨の日に言葉を交わし合っても未だ遠いひとの心であるから。それ程にひとは伝え合う事
が苦手であるのだから。それでも歩み続けるだろう。望み信じて。そう、その長い旅の果てにいつかあ
の場所に辿り着くために。家。知っている、でも今は閉ざされている静かなあの時間に・・・。
(・・・・・・)
(・・・言葉・・・言葉は交わすもの・・・)
(・・・・・・)
(・・・だから・・・)
(・・・・・・)
(・・・明日・・・碇くんに話しかけてみる・・・)
(・・・・・・)
(・・・雨でも・・・風でも・・・)
(・・・・・・)
(・・・・・・)
(・・・何故・・・?)
(・・・・・・)
(・・・・・・)
(・・・始まり・・・まだ小さな始まり・・・)
(・・・・・・)
(・・・でも・・・いつかあの場所へ・・・)
(・・・望みなのね・・・)
(・・・そう・・・私の望み・・・)
(・・・家・・・)
(・・・家・・・私の・・・)
(・・・家・・・彼の・・・)
(・・・・・・)
(・・・・・・)
(・・・そう・・・私と彼の・・・家・・・)


 手元の文庫本を開く。もう幾度も読んだので内容は殆ど覚えている。それでも飽きるような気持ちは
全くない。透明になった心の中に物語が緩やかに入り込んでくる。眠る前と同じ姿勢。ベッドに腰掛け
て視線を落とす。ふと遠くから雨音が微かに響いてくる。降り続ける雨。静寂の中、ただ時間だけが輪
郭を無くしてゆく。白い乳白色の無表情な空。天の水がいつ終わるとも知らず降り注ぎ、木々たちが緩
やかに、それでも絶え間なく揺れ続ける。


 何もない。誰もいない。
 今日はそうして終わる。








雨の日はね。言葉を交わしているんだよ。
言葉・・・?
樹木たちは晴れた日は黙っている。だから雨の日に言葉を交わすんだ。
・・・・・・
動物たちは雨の日は黙っている。
でも私達は話している・・・
・・・・・・
・・・・・・

ひとはね
とても話す事が下手な動物なんだ
だから雨の日も言葉を交わすんだよ

そして下手っていうことは
いつも上手になろうとして
一生懸命ってことなんだよ










to Contents


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です

Written by "Kame" for "Ayanamic Illusions".



名作『Holiday』で有名なKameさんから作品をいただきました!
そぼ降る雨の中、独り眠りにつくレイ。
そして目覚めた時目にする、幻想的な光景。
それは彼女の未来を暗示しているのでしょうか?
再びの眠りの後、レイは現在へと回帰し……
しかし、本当はどちらが夢で、どちらが現実なのか?
“夢は現実の続き、そして現実は夢の終わり”――――

Written by Kame thanx!
感想をKameさん<hb27sh91@db3.so-net.ne.jp>へ……


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